キズを癒して
昔から人に恐れられてきた。怯えた目、眉を顰め、嫌悪する顔。それもこれも全部、このキズのせいで……。
イリューの顔にはキズがあった。生まれたばかりはキレイな顔。幼き頃、まだ物心つく前の赤ん坊にときの話だ。それはそれは目に入れても痛くないほどに愛されていたらしい。
けれどいつの間にか、そう気付いたら、顔に一つキズができていた。とても小さなキズだった。ゴミがついてるのかと見間違うぐらい小さく、目立たなかった。触れても取れず、少し肌の色が違うなにかとしか考えていなかった。深く考えなかったのはよくよく見ないと分からない程度の些細なことだったから。そのうち、元に戻ると楽観視していたから。
それが日に日に少しずつだが大きく広まっていった。キズというよりヒビと言った方が正しいのかもしれない。左の目の少し下のところあったそれは縦に伸びていった。痛みはなかった。触っても感触はなかった。ただ、ヒビ割れのようなキズが肌にあるだけだった。
左目を跨ぎ一本の線傷のようになった辺りから反応が変わっていった。両親の顔から笑顔が消え、触れることがなくなった。目を合わすことも減っていった。
成人を迎えた頃にはキズは身体の左半身の手足の指先まで伸びていた。なぜ左側だけなのかは分からない。境界線でもあるかのように中央で途切れていた。それはそれは歪なものだった。左は謎のキズに覆われ、右は傷一つないキレイな肌だった。そのせいで余計に異様に感じられる。
大きくなっていくキズに両親は怖がり、嘆き、避けるようになった。見る度に顔を強ばらせた彼らは次第に視界に入れないように存在を無視するようになった。その謙虚な反応は両親だけではない。街を歩くだけで彼を、彼の顔にあるキズを見て、眉を顰めて気味悪がる人が後を絶たない。遠巻きにヒソヒソと囁き合う。内容までは聞こえないけれど視線を向ければ逃げるように離れていく様に彼にとって良い内容ではないことは容易に察しがつく。大きな壁があるかのように彼の周りには人一人寄ってこなかった。
窓に映る自分の顔が嫌いだった。
そんなこんなで生まれてこの方、友人という者が出来たことない。家族からの愛情も早くに諦めた。他人に期待するだけ無駄だと諦めたのはいつの頃からだったろうか。両親の顔が引き攣るのを見ても胸が痛まなくなったのはいつからだっただろうか。心を殺して全てを仕方ないことだと諦めて、そして何も感じなくなったのはいつからだろうか。
まだ幼い、首までしかキズがなかった頃、街を歩いていたらいきなり頭に石を投げられたことがあった。突然のことに声が出なくて、でも痛みは本物で、視界の半分が赤く染まった。
「やい、バケモノ! お、お前なんて怖くねーぞ。このオレが成敗してやる」
後ろを振り返れば自分と同じ背丈の少年が三人。真ん中の少し太った子が指を突き刺していた。着丈に振舞っているけど声が震えているのは誤魔化しようがない。視線を向けただけでビクリと身体を大きく揺らす。他の二人は気弱な様子で、その子を止めようとしていた。僕を見る目は明らかに恐怖を物語っていた。怖いのなら初めからやらなきゃいいのに。
相手にする必要は感じなかった。いつも通り無視しようとした。どうせ怖がっているんだ。これ以上近付いてくることは無いとタカをくくっていた。でもその少年は僕の予想に反して僕に近づいた。伸ばせば手の届く距離。怖がっているくせに果敢に突っかかってくる。恐怖からか声が大きく、距離の近さ故に耳が痛い。それでも僕は反論一つしなかった。何も言わず目の前の少年を見ていた。何がしたいのか理解できなかっただけだった。どうしていいのか分からず途方に暮れていた。そんなイリューの気の迷いを少年が分かるはずもない。けれど無反応な態度がかえって彼に焦燥感を抱かせたらしい。
手が出た。殴られたのだ。その事実にイリューは驚いた。そして殴った張本人である少年もまた、自分の行動に驚き戸惑っていた。呆然として、けれどイリューの視線にハッとして戦慄く。後に引けなくなったのか、不安や恐怖を紛らわすかのように声をさらに大きくして何度も殴り続けた。
ぶつけられた頭が、殴られた頬が、腕が、肩がズキズキと痛む。それを周りは遠巻きに見ているだけだった。一緒にいた二人も慌てて止めようとしているけど強くはでない。
誰も助けてはくれなかった。
――痛い。
殴られる度に痛みが増していく。
――気持ち悪い。
グラグラと視界が揺れていく。
――うるさい。
少年の声も自分の心臓の音も頭に響く。
――鬱陶しい。
恐怖と優越感をない混ぜにして嗤いながら殴るコイツの態度が癇に障る。
――もういい。
もう、どうでもいいや。
心を閉ざした僕は考えるのをやめた。ただ本能のままに感情に従った。殴り返した。たった一発。それだけで少年は尻もちをつき涙を流した。赤ん坊のようにわんわんと泣き喚く。いいざまだと思った。
けれども怒られたのは僕だけだった。経緯を一部始終見ていた人は大勢いた。僕は傷だらけ血まで出ていて、対する少年は少し頬が赤く腫れているだけだ。傍から見ても被害者は一目瞭然だった。
僕が殴られても見て見ぬふり。誰も助けてくれなかった。なのに僕が一度、たった一発やり返しただけで周りは大慌て。みんなして僕を悪者扱いした。
不公平だ。僕が何をしたって言うんだ。ただキズがあるだけで同じ人間なのに。生きてるだけなのに、何もしてないのに、何も望んでいないのに、何も何も何も何も何も何も何も何も何も何も何も何も何も何も何も何も何も何も何も何も何も何も何も何も何も何も何も何も何も何も何も何も何も何も何も何も何も何も何も何も何も何も何も何も何も何も何も何も。
思えばあの時が初めてだったかもしれない。怒りを抱いたのは。感情を顕にしたのは。幼かったなとしみじみ思う。今では全てを諦めて死んだように生きる毎日だ。親から離れ、人を避けるために森に住んでいる。
楽しくはない。悲しみもない。嬉しいも悔しいも怒りもない。ただただ空虚だった。ぽっかりと空いた心には流れるものと留まるものも無い。
生きてるようで死んでるような日々を過ごす。時間だけが進んで行く。生きたいと思ったことはない。けれど、だからといって死にたいと思ったこともない。
やりたいことはない。思う気持ちもない。ただ人形のように空の青さだけ眺めていた。それになんの感情も伴わない。
「生きてるか?」
見上げた空に影が差す。空の青とは違う、けれど同じような青い瞳が僕を映す。その大きく開かれた瞳にとぼけた様な、でも感情のない僕の顔が映る。
――映る?
「わあ!」
「おお、生きてた」
状況を把握して僕は声を上げる。寝転ぶ僕の頭上から覗き込むその人はケラケラと笑っている。何が面白いんだ?
焦った。心臓がうるさいくらいにバクバクしている。久しぶりに、声を出した。
「死んでいるのかと思ったよ」
元気に笑いかける声は女性にしては低く男性にしては高かった。呼吸を落ち着かせて声の主を見やれば目を瞬く。
黄色いワンピースを着てツバの広い白の帽子を被った女性。帽子からはみ出た薄い黄色の髪は短く、やはり瞳は空のように青かった。何より目を引いたのはその体。服の上から筋肉が見えるほど鍛えられた肉体。何より露出している肌には無数のキズが見える。手も首周りも顔にだって。痛ましいようなキズ痕が幾つも幾つもあった。けれど、彼女は明るく笑っている。太陽のように明るく輝くように楽しそうに笑っていた。
瞬きも忘れて彼女を見ていた。見蕩れていた。
「私の顔になにかついているか?」
彼女が首を傾げたところで僕はハッと気を取り直す。
「死んでいると思ったのなら放っておいてくれ」
口から出たのは悪態。ぶっきらぼうで心配を無下にするような言葉を吐き捨てる。上ずりそうになる声を抑えようとして、声が低くなる。いや、元々の自分の声すら、忘れてしまった。
――緊張しているのか?
頭の中に浮かんだ疑問が胸にストンと落ちる。
そうだ、僕は緊張している、のか。あはは、情けないな。でも、そうか。緊張、しているんだ。
それは僕にとって大きな変化だった。感情の振れがあまりも狭く希薄で、忘れていた。自分には疎遠ものだと認識すらしていた。
「まあまあいいじゃないか。私はオルザガ。きみは?」
「……イリュー」
「イリュー、うん、良い名だな」
名前を聞かれたのは初めてだった。名前を褒められたのも初めてだ。それがこんなにも嬉しいことだというのを初めて知った。
「イリューはどうしてここにいるんだ?」
「別に……」
か、会話の仕方が分からない……!!
誰かと話すのは久しぶり、というか家族以外と話したことない。家族とだってこのキズが大きくなってからは口も開いていない。目すら、合わすことがなくなった。平然を装ってるが心中は嵐のように荒れていた。
声の出し方って間違ってないよな。他になにか言った方がいいのか? ああ、分からない。すごく逃げ出したい……!
こんなにまっすぐ見つめられるのすら慣れていない。逸らしたくなる気持ちをグッと抑える。
「私は、息抜きに散策しているところだ」
「こんな森の奥に一人で?」
「これでも騎士なんだ」
「騎士……」
「おかしいか? 女が騎士だなんて」
オルザガは苦笑しながら話す。他人の顔色を窺って生きてきたからすぐに分かった。似たような境遇というのももしかしたら後押ししたのかもしれない。
――言われ慣れているんだ。
だから諦めて、仕方ないって思うようにしているんだ。自分が守るために。或いは、心が折れないように。
「…………おかしいなんて、思わない。鍛えた身体もそのキズも、騎士として努力した証だろ。どんなに辛く険しい道だと理解してもそれでも騎士であることを選んだ信念を称賛はしても侮辱することは絶対にない。もっと自分に誇りを持っていい……と、思う」
何を熱くなっているんだ僕は……! こんな知ったような言葉、何様だ。今さっき会ったばかりの男に言われたって嬉しいどころか困らせるだけじゃないか……!
彼女を見ると俯いていた。唾の広い帽子のせいで顔は隠れて見ることが出来ない。
ああ、嫌だ。俯くな。顔が見えない。空よりもキレイな眼を、その瞳で僕だけを映して――
一歩、踏み出してハッとする。無意識だった。伸ばした左手を見やる。キズだらけの手。彼女のとは違い誇りも何もない呪いのようなキズ痕。目を伏せて、数歩後退る。左手を隠すように右手で押さえつける。
「ふっ、ふふふ、ふふ……」
「?」
どうしよう!?!? 怒ってる?! 怒ってるよ!
ああ、どうしよう。あんなに震えてる。きっと相当怒っているに違いない。騎士である彼女に殴られたら無事じゃすまないだろう。いやでも僕が言った言葉が悪かったから快く受けるべきか。それで彼女の鬱憤が晴れるなら ……いやでも痛いのは――
「ふふ、いやすまない笑ってしまって。そんなことを言われたのは初めてでな、つい嬉しくなってしまった」
セーフ!!!
良かった〜。怒ってるわけじゃなかったんだ。
ほっと安堵の息を吐いて、安心したという気持ちに気付いてピタリと固まる。瞬きを繰り返す。
――あっダメだ。これ以上はまずい。
「もうすぐ日が暮れる。暗くなる前に早く帰った方がいい」
それだけ言って背を向け彼女から逃げるように離れる。足早に急いて、次第には走りだした。呼吸は早々に乱れ胸が苦しい。後ろ髪を引かれる思いは、けれど決して振り帰りはしなかった。
――どうしてか、彼女のこととなると欲が出る。
初めて、誰かと会話したから?
初めて、人と目が合ったから?
初めて、他人に名前を呼ばれたから?
――それともオルザガだったから?
苦しくなるぐらい走ってあの場から離れた。振り返っても彼女の姿はない。胸に手を当てて乱れた呼吸を必死に整える。チラつく彼女の顔を、あの目が奪われるような美しい瞳を、頭をふって追い払う。
「もう、会うことは無い」
出会ったのは偶然で、それ以上でもそれ以下でもない。そう、これは奇跡のようなもの。また明日から、いつも通りに戻る。何も感じず何も成さない虚無な日々。そう、それでいいんだ。それが僕の日常なんだ。
胸が痛むのは走ったからで、この息苦しさも休んだ後にはなくなるものなんだ。
「なんで……」
「やあイリュー、探したよ」
次の日も、オルザガに出会った。昨日と違うのは馬に乗っていて、帯剣していて、騎士の装いだということだった。馬から降りて、笑顔で僕に近付いてくる。しかし顔に浮かぶ笑みは昨日とは打って変わって、その目は鋭く、まるで獲物を狙う狩人のようだった。
――帽子をしてないから顔がよく見える。
少し危ない気のある彼女に対し、頭の中ではそんな感想が真っ先に浮かんだ。
いや、違う。見とれてる場合じゃない。どうしてまたここにいるんだ!?!?
「帰ってから忘れ物をしてしまったと気付いたんだ」
「手伝う」
昨日の場所に行けば見つかるだろうか。装いからして仕事に行く前に来たのだろうか。それほどまでに大事なものなのだろう。
「ああいや大丈夫だ。もう、見つけたから」
見つけたの声が普段より低く、近くで響く。えっ、と思った頃には身体が謎の浮遊感に包まれた。
「?!?!?!」
「手荒な真似をしてすまない。しばらくは我慢していてくれ」
悪気のあるような声には聞こえない。上から落とされる音が振動とともに伝わる。近い距離にある顔は殊勝に笑み、視線に気付いたのか口角を上げたまま目を細める。
「え、え???」
抱えられてる。赤ん坊のように抱えられてる?!
筋肉があっても柔らかいんだな。いい匂いがする、というか顔が近い。
――ってそうじゃなくて!!
重くないのか!?
ああ、これも違う!
――どうして僕は抱えられてるんだ!?!?!?
抗議する前にまた浮遊感に襲われる。
「頼むぞウィーン。……こら、暴れると落ちるぞ? 怖かったら私にしがみついてもいいからな」
勝ち気な笑みを向けられる。か、かっこいい……!
ってだからそうじゃなくて!!
現在、馬に跨ったオルザガに横抱きされてる。森の中を駆けているらしく景色が速いスピードで流れていく。暴れると落ちるという脅し文句に僕は置物のように固まり微動だにしない。
別に口を動かすぐらいは問題ないのに、それすらしなかったのはやはり恐怖が勝ったからなのかもしれない。
――これは、もしかして……もしかすると誘拐ではないだろうか?!?!
こんな気味の悪い見目の僕を拐う理由が皆目見当もつかないけど。
つまりは僕、殺される?
「着いたぞ」
誰かの家の前で止まり、抱き抱えられたまま馬から降りる。そして地面に丁寧に降ろされる。足がようやく地面に触れる。がしかし、緊張と無駄力んでいたせいか足に力が入らず地面にへたり込む。恥ずかしさに顔が赤くなる。自覚しているから片手で顔を覆う。
「すまない、大丈夫か?」
「大丈夫。大丈夫だから見るな」
「そういう訳にはいかない」
いまだ地面に座りこんでいる僕の前にオルザガが膝をつく。顔を覆っている方の手を取られる。
「何を……っ!」
まっすぐ見つめられる。とても真剣な目に射抜かれる。
「イリュー、この家で私と一緒に暮らして欲しい」
「は、はい?」
「そうか! 嬉しいよ」
「いやっ、違っ、ちょ、ちょっと待って」
「けれどもすまない、私はもう職務に戻らなければならないんだ。ここら一帯は家と一緒にもらい受けているから好きにして構わない。出来るだけ早めに帰るからな、では行ってくる」
「だから、ちょっと待って……って言ってるのに」
こちらの話しは聞かず、捲し立てるように颯爽と馬に乗って置き去りにされた。誤解を解く暇すら与えられなかった。去り際に渡された鍵に見て、視線を家に映す。
イリューの記憶にある家とは似ても似つかない木で造られた家。けれどもどこか温かみのあるような家になんとも言えない気持ちになる。
……が、それとは別に引っかかる部分があった。なんならそちらの方が気になって仕方がない。
拐うように連れてこられたけれど、怖くて固まっていたけれど、思考は冷静な部分が残っていたようだ。ここは街から少し行ったところ、森の中に建てられている家。道中、湖が見えた。
……ここら一帯とは果たしてどこまでのことを言うのだろうか?
家の周りに柵は無い。境い目らしいロープも見ていない。
「まさかこの森全部が……? もらい受けたって誰から?」
否定しようにも、その疑問に答えられる人は、残念ながらこの場にいなかった。
騎士団訓練場
「おい、あの団長が笑ってるぞ。お前聞いてこいよ」
「嫌だよ怖い。そういうお前が行けよ」
「なんだ、まだ元気が有り余っているようだな」
「「ひえっ……」」
訓練後にコソコソと話し合っている団員たちを追加で扱く、もとい手合わせしたオルザガのもとに一人の男がやってきた。
「お疲れ様です団長。今日はだいぶご機嫌のようですが、なにか良いことでもありました?」
(ナイス副団長。さすが出来る男!!!)
「ああ、実は、私結婚するんだ」
「「「…………ええええええええーーーーーーーー!!!!!!!!」」」
照れたように放たれたオルザガの言葉に、少し間を置いてその場にいた団員全員が驚きの声を上げた。
「団長が、結婚!?」
「相手はどんな怪物だ?!?!」
「団長より強い人間ってこの世にいるのか?!」
疲れも吹っ飛ぶ程の衝撃の告白に疲労で突っ伏す者、座りこんでいた者らは一斉に起き上がる。口々に好き放題言ってくれる彼らにオルザガは先程の表情から一転して笑みを浮かべる。
「お前たちが私をどう思っているのかがよぉーく分かったよ」
その笑みは犯罪者も震えて逃げ出すほどに極悪で恐ろしかった。普段なら慄いて恐怖する彼らだったが結婚報告の衝撃には勝てなかったようだ。
「いつからそんな人が」
「どこのどいつすかその命知らず」
「なんで言ってくれなかったっすか、そんな面白い話」
「詳しく!」
次々と質問攻めする団員たちの勢いに珍しいことにオルザガが引いた。
「お前たちいい加減にしろ。団長が困っているじゃなかいか!」
副団長がオルザガとグイグイと攻め立てる団員たちの間に入って収めようとしてーー
「で、団長、相手とはいつどこで出会ってどうやって婚姻まで行きましたか?」
くるりと振り向いて押し掛ける。どうやら一番気になっていたのは副団長のようだ。
背後では団員たちがいつになくもの凄い速さで頷いているのが見える。
話すまで帰らせないぞという圧がビシバシ感じる。というか逃がさないように取り囲んでいる。そんな彼らを見て、もう少し訓練を厳しくしても問題無さそうだなと考えながら帽子を軽く被り直す。
「昨日森で出会って、今日出勤前に私から告白して了承を得た」
「だから今日は来るのが遅かったんすね」
「いやいやいやそこじゃないだろ!」
「え、昨日の今日で?!」
「しかも団長からだと……!?」
「一日で何があったんだ?」
「昨夜見かけた時はいつも通りだったぞ」
「もういいか? では私は帰る」
混乱中の団員たちを後目にさっさと帰宅するオルザガ。気付いたときにはもう居らず、その後も本人不在であれこれと騒ぎに騒いだ彼らの話を通りがかった城勤めの者が聞き、そこからさらに噂話として拡散された。そのスピードといったら、一夜にして城中の使用人はもちろんのこと、国中の貴族果ては国王の耳にも入ったほどだ。
……噂話に背びれ尾びれがついて伝わったのは言うまでもない。
あの『剣鬼』が惚れた死神がいると噂されていることをイリューは知らない。
オルザガが騎士団長で、国一の強さで、『剣鬼』の異名で呼ばれ、国内外問わず恐れられていることをイリューは知らない。
そもそも、あの言葉がプロポーズだったことすら、イリューは知らないことだった。