第5章
「おい…」
「何♪」
早い…早すぎる。こいつ音速並に君子豹変…
…否、こいつ何も反省してない…実質、忘れてる…っつか、こいつ家に帰れ…
「名前、年齢、有態に吐け」
「「滝野奏、19歳、趣味、草むしり」
「いろいろ突っ込みたいが、俺は心身ともに限界だ、もういい」
野奏は19歳にしては幼く、発見された当初は十代前半と見られていた。
それから本人によると名前は滝野 奏ではなく滝 野奏だそうだ。因みに正しく区切る事に成功した人間は一人もいない。
「滝野 奏?」
「違う!滝 野奏」
そこにこだわるか。と、木島は言いたかったが、名前を間違われるのは結構腹立たしい。
「木島、本題」
もういい。俺の人生野となれ、山となれ。
「お前、家に帰ってくれ。」
「それ本題じゃないし」
「本題だ。お前が跡形もなく速やかに帰宅してくれる事が大本命だ。どこだ、家?」
「燃やされた」
「…誰に?」
仮説だが、海江田がこいつの家に放火し、その後西村田地下冷蔵庫から俺に電話してきたとしたらこいつが西村田を知っている理由も海江田を殺す動機としても十分だ。
「・・・」
「海江田全だと…思ってるだろ?」
十年前
「お母さん?仕事…かな?」
その日、野奏は当時看護師として殺人的なスケジュールで働いていた母の誕生日を祝ってやる気だった。得意…ではないが、 (極細)マフラーを編んでみた。
当時9歳だった野奏にとって母はたった一人の家族。多忙を極めていた母に文句ひとつ言わずに、モノを強請った思い出も野奏にはなかった。ただ、寒過ぎる冬は母の作った鍋料理で温まるのが野奏にとって最大の贅沢であり、幸せだと言える時間だった。
母の作る鍋には大根、人参、しめじ、鶏団子が入っていた。質素過ぎる鍋ではあったが野奏はどんな料亭の味にも勝ると絶賛していた。
金銭的に全く余裕のなかった野奏の母は誕生日や、クリスマスにケーキやプレゼントを野奏に買い与える事はしなかった。
それでも野奏は状況を把握していただろう、ただ、耐えていた。いつか、“普通”を望めると、信じて。
「野奏、いってきます」
それが最後だった。野奏の母は「ただいま」と言ってくれない。
その声は日が昇っても聞こえなかった。その日の夜、
野奏は母を探しに外に出た。冬の夜空、粉雪が散る中を必死に母を探した。母は絶対「ただいま」と言いに帰ってくる。「野奏、宿題やってる?」そう言って帰ってくる。野奏はそれだけを想像した。それ以外の事を想定すると視界が歪む。野奏は6時間歩いて、歩いて歩いた。だが、母を見つける事は出来なかった。もう家に帰っているだろう。
それは野奏の最後の希望だった。冷え切っている掌の微弱な熱で容易に溶かすことが出来る小さな雪の結晶だった。
しかし、その雪を溶かしたのは掌の熱ではなく、真冬の深夜に響くサイレンと、黒い煙と、大好きな母と暮らしていた自分の家が巨大な火に包まれてる地獄絵図だった。
「お母さん…
三日後鎮火され、全てを失った野奏、原因が放火だと聞かされ、
母は既に家にはいなかったと。母はアパートの家賃を十ヶ月滞納していたそうだ。野奏は思った。
捨てられた と。はじめて思った
“自分は犠牲になってきた、もう自分を思ってくれる人間はいない、自分はひとりなんだ”と。
「“犠牲になってきた”それが私の生きる原動力だった、私はそれから冬を耐えしのぐ方法だけを考えて生きてきた。寒さではなく、孤独に耐える術を。」
「だったら、何で海江田を?お前見てないんだろ?放火犯」
「確信はない。でも、海江田識一の名刺が見つかったって、全く燃えてない状態で」
「否、放火されたのに燃えてないってないだろ」
「後で誰かが置いたんだ…名詞だけ」
「は?誰かが置いたんだたら海江田嵌められただろ、百歩譲って海江田全の所持品落ちてたんなら分かるが、親父の名刺だろ?しかも鎮火された後は現場検証で警官が囲ってただろ」
「だったら、私はこの感情をどうしろって…!」
「どんな理由があろうとお前は海江田全からも“普通”を奪った、行こう。」
「情報絞り出したら警察に送る…か。いいよ、別に」
“別に”が海江田全を連想させる。
すまない。だが、お前は犯罪者だ。木島は野奏を警察に引き渡した。
野奏の「孤独に耐える術」は皮肉な事にこれから非常に役立つだろう。野奏はもう“普通”を望めないかもしれない。
「木島、家族、大事にしなよ」
「俺は、勘当された」
「そうか」
“何もかも知らなければ良かった”それぞれの、過去や、存在を。