帝国の叡智が眠る場所
眼鏡が出来てから三日。今日は色々と調べものをしようと考え、城の蔵書室に行くことにした。もちろん、アンシラも一緒に。
もう体調も良くなったことだし、本当ならまずは今の身体能力——五歳児で鉄を曲げる程の力を内包しているこの体について、一番に確かめたかった。だけど、流石に病み上がり数日では許して貰えず、断念することに。まあ、一週間も寝込んだんだし、ストップが掛かるのも当然だろう。周囲にも心配かけただろうし、もう少しだけ安静にするべきかな。
けど、その間何もしないのもあれなので、折角なのでこうしてここに足を運ぶことにした。帝城の蔵書室はゲーム内でも重要な場所で、攻略に必要な知識が色々と眠っている。ただ場所が場所だけに、中々足を運べる機会が少なくて当時はほんの一部しか調べる事が出来なかった。兄こと攻略キャラが仲間にいればその枷は無いにしても、他でやることが多いから時間も無かったしね。
なので、こうして自由に見て回れるのは本当にありがたい。もしかしたら私が存在を知らないだけで、本当は有用な情報が幾つもあるだろうし。それに私が覚えているゲームの知識にもあやふやな部分はあるから、こうして調べることで忘れている何かを思い出すきっかけになるかもしれない。
そうして蔵書室に向かう私は、顔にある物を掛けている。黒を基調とした、シンプルに見えながらも、つるには細かい銀の意匠が施されたデザイン。そう、私にとって生まれて初めての眼鏡が。
いやぁ、実際に掛けると視界がまるで違う。何と言うか、別に色が分からなかった訳では無いのに視界一面が鮮やかに彩られ、世界そのものが広がったようにさえ感じた。前世で妹が眼鏡を無くして困っていた時があったけど、ようやくそれを本当の意味で理解できた。これは、手放せない。
値段に関しては聞いてないけど、結構するんだろうなぁ......。皇族だから問題ないんだろうけど、果たして幾らになるのか、怖くて聞けてない。記憶が戻ったせいか、お金に関してどこか小市民な考えをしてしまう自分がいる。
......ゲームではとんでもな金額、それこそ向こうのお金に直したら億単位で消費していたけどね。ちなみに全て必要経費、無駄な出費はほぼ無し。それでいて最終戦後にはそうして買った物をほぼ使い切っているんだから、敵の異常さが良く分かるというもの。......金策、大変だったなぁ。
っと、駄目だ駄目だ、ゲームの事を考えると意識が虚無に飛んでいく。こう、苦労した記憶が次々と連鎖して湧き上がってくるから......。なので今は考えない。今日は調べもの調べもの、と頭を切り替えたところで、目的地が見えてきた。
蔵書室——帝国の叡智が眠る部屋が。
「......流石、と言うべきかしら」
蔵書室に到着し、一歩中に足を踏み入れた私の口から、目の前の光景に感嘆のため息が漏れる。
入り口の大扉の先に広がるのは、開放的なエントランス。長く伸びる空間は吹き抜けとなっており、天井のステンドグラスから零れる柔らかな光が周囲を照らしている。エントランスには長机が幾つも並べられ、今も数人が利用している。
左右に並ぶのは、無数の本棚。そちらは本の日焼けを防ぐためか少し薄暗くなっていて、代わりにランタンのようなものが点々と宙に浮いている。本棚は左右共にさらに奥へと続くように伸びていて、暗さもあってそれがどこまで続いているかまでは把握できない。
そして吹き抜けの高さ分、五階はあるだろう階層すべてに、同じように本棚が並び立ち、その一つ一つに本がぎっしりと整列している。
そして正面奥。突き当たり奥の壁も本棚になっているけど、収められている本はたったの数冊のみ。そしてその壁の元には大きな机が一つ置かれていて、そこにこの蔵書室を管理する司書さんが座っている。
......ゲームでも見たことのある場所だけど、やっぱりこの目で見るのとでは全く違う。心地よい静寂に包まれた空間、微かに香る本の臭い、とても落ち着きがあって私は好きだ。流石は帝国が誇る蔵書室と言うべきかな。
っと、思わず見惚れてしまってた。ついついゆっくり見て回りたくなるけど、それはまたの機会にしておこう。......時間が出来たら、一日ここで過ごすのも有りかな。
調べもの、と一言で言うのは簡単だけど、この本の山から探すのは容易ではない。蔵書数は、確か百万冊は超えていた筈。本の区分ごとに書架は分かれているはずだけど、見て回るのには苦労する事間違いない。
けど、ここではそんな心配は必要ない。何故なら、ここにはあの人がいるから。
蔵書室を奥へと進んでいく。何人かいる利用者からは怪訝そうな目を向けられる。私がここを利用したことなんて一度も無かったのだから、驚くのも無理は無いけど。
けど、いちいち彼らを気にしていても仕方が無い。これからの行動を考えたら、どうせこれからあんな目を向けられることは間違いなく増える。だったら今の内に慣れておいた方がいい。
アンシラもいつもの鉄仮面で、全く気にしているようには見えないし。......いや、この子の場合は胆力が異常だからね。皇帝の執務室に蹴り入ることが出来る者なんて、帝国広しといえど他にいるとは思えない。
そんな事を考えているうちに私は蔵書室の最奥——カウンターへと辿り着く。そこに腰掛けているのは、一人の女性。凄い美人で、薄緑の髪を後ろで一つに束ねている。スーツに似た紺の制服を着ていて、何と言うか出来る秘書、って感じの見た目。けど少し垂れ下がる目端や柔らかい表情から、彼女の性格が漏れ出ている。
彼女はこの蔵書室を管理する司書さんだ。一見すればおっとりした女性としか思えないけど、彼女の実力を知る私からすると見事な偽装だと感心してしまう。いや、生来の性格でもあるのだろうけど。
「あら~、フィア殿下がこちらにいらっしゃるなんて珍しいですね~」
「......珍しいどころか、自分から足を運ぶのは初めてだと思うのだけど」
私がここに来たのはゲームでの事を除いたら初めて。以前の私はあまり本を読んではなかったし、精々授業で使う物をアンシラに取ってきてもらうくらいしか利用していなかったと思う。
「そうでしたね~、うっかりしてました~」
そんな風に答える司書さんの纏うぽわーんとした雰囲気に、こっちも気が抜けそうになる。こんな人に司書が勤まるのか、彼女の事を知らなければそう思うに違いない。......知っている私からすれば、そんな風に思える訳も無いけどね。
「それで~、何をお探しですか~」
「......そうね」
読もうと思っている本に関しては決まっている。それでもそう問われて、私は思わずそちらに視線を向けてしまう。司書さんもそれに気付いたのか、それを追うように後ろを振り向く。彼女の背後にある本棚に納められた、たった数冊の本を。
「流石に殿下でも~、これは駄目ですよ~」
「分かってるわよ。それに今の私じゃ読めたところで、それを活かせる土台がまるで出来て無いものね」
それでも見てしまったのは、それの価値がどれほどのものかを知っているから。それも、これから先でいつかは必ず必要になるというレベルで。
——スキルブック。ゲームではキャラが特殊な技能——スキルと呼ばれるものを獲得する手段の一つで、より高位のスキルを秘めている物程希少価値が高い。中にはたった一冊しかない物もあり、それらは手に入れる難易度が桁違いに高かった。そういうもの程、攻略に必須だったりするのだから腹立たしい。
そしてこの蔵書室最奥に納められたこれらもその内の一つ。これから先の事を考えたら、絶対に必要になる物だ。
とはいえ今は読めないし、たとえ読めたところで意味が無い。高位のスキルブックには一つ欠点があり、前提条件となるスキルが無くては肝心のスキルは習得できない仕様だった。中には、読んでからスキルの習得までに時間が掛かるものもあったくらいだ。
確か設定では、ゲームの都合上条件さえ満たしていればスキルを習得できるけど、本来それらは様々な技に関して記されただけの物でしかない、という話だった。だから前提となる知識や技術が無ければ、読めたところで意味が無いという訳だ。
中には前提スキルが隠された物もあって、知らずにそれを試して習得できなかった時もあった。しかもゲームでは使い切りアイテムだったから、スキルは習得できずに超希少アイテムだけ消失するという絶望。
「滅びゆく世界の聖乙女」には、そんな公式の罠が山盛りだった。本当、このゲームにはこまめなセーブは大事だとよく思い知らされた。大丈夫だろうと高を括っていたら、次の瞬間には絶望することが何回会ったか......。
ああ、セーブデータは複数に分けるのも忘れずに。でないと、取り返しのつかない事になるから、マジで。
ともかく、そういう訳でスキルブックに関しては今手に入れても意味が無い。というか、この世界ではこれらは貴重な技術や知識が記された書物、という扱いでスキルブックというのはゲーム要素だったのだろう。ここ数日で確かめた限り、スキルという概念はゲームじゃないこの世界に無いみたいだし。
これに関しては他も同じ。レベル、経験値、スキル、ステータスと言ったゲーム的要素は、現実となったここにはない。
ただアンシラからそれとなく聞き出した話から総合すると、この世界の住人の身体機能の成長速度は、向こうの世界とは比べ物にならないくらい幅が大きいみたい。それこそ、レベルアップしたかのように。一気に上がるという訳じゃないから厳密には違いそうだけど、ゲームと完全に異なる訳ではなさそうでホッとした。......もしそうでないなら、絶望でしか無かったから本当に良かった。
スキルに関しても、結局は学んで知識や技術を身に着けるという点では変わらない。むしろ本が失われる事が無いと考えればこうなった方が利点はある。......あの、無駄遣いで消えるスキルブックの悪夢が無くなるんだから。
っと、そんな事より本題。そういう訳で、今はこれらの本については読めないし、読むつもりも無い。まあ、少なくともこの司書さんがいる以上、本が無くなることはあり得ない。だって、彼女のそばが最も安全だからこそ、これらの本はこの本棚に納められているのだ。
なのでそれはいつの日か、読むに相応しい実力をつけてから、そしてそれを読む資格を得るまでお預け。今は調べものに来たのだから、そっちに集中しないとね。
「歴史、地理、魔族、魔法、これらに関する書物を幾つか見繕って貰える?」
そう伝えた時、後ろから驚きの声が聞こえてくる。ちらっと振り向けば、蔵書室内にいた者達の内何人かがこちらを盗み見ていた。どうやら話が聞こえていたみたい。
まあ、驚くのは仕方が無いか。いくら皇族とはいえ、五歳児が読む内容では無いしね。歴史や地理はともかく魔族に関する書物なんて読む方が変だろう。それに、少し前まで極度の人見知りだった私の変化も妙に移るに違いない。すぐ後ろに立つアンシラも、ここ数日で少しは慣れたみたいでもまだ私の変化に戸惑っているようだし。
......けど、唯一人。目の前にいる彼女だけは違う。
「......そ~ね~、今の殿下なら、これがいいかしらね~」
そう呟くと同時に、カウンターに現れる幾つもの本。十冊以上はあるそれらは、何の音も影も衝撃も無く、まるでそこに初めからあったかのように積み重なっている。そんなはずは無いのに、それらの本がどの棚から、どのように持ってこられたのか全く捉えることが出来なかった。この体の眼をもってしても、だ。
彼女の力を知っていたとは言え、あり得ない光景に息を呑む。いや、流石と言うか何と言うか。この蔵書室をたった一人で完璧に管理しているだけはある。
「返す場所はバラバラなので~、読み終わったらこちらに返しに来てくださいね~」
目の前であれだけの絶技を見せておきながら、司書さんに疲れの色は一切見えない。あれすら、彼女にとっては息をするのと対して変わらないものなのだろう。
......でも、良いものが見れた。これを完全に見切れるくらいの領域に至らなければ、とてもではないけど魔族の打倒など夢でしか無いのだから。
「......分かったわ、ありがとう」
「いえいえ~、蔵書室は静かにご利用くださいね~」
そのためには、今できる事をしないと。そう頭を切り替え、本を受け取って近くの長机に移る。まあ本に関しては、スッとアンシラが持って行ったけど。
席に着き、本を一冊手に取って開く。今取った本は魔族に関する考察が書かれた物。私にとって最大の障害に当たる存在を記したものだからか、無意識にこれを一番に手に取ってしまった。
書かれている内容は、魔族の生態や種、分布や弱点の考察など。中の文章の量から見るに、本と言うより研究資料と言うのが近いかも。結構細かい考察もなされている物もあるし、字も細かくびっしりと書かれている。とてもではないけど、五歳児に渡す本ではない。
まあ、私からすればこういう物の方が読みやすい。この世界の言語に関しては、記憶が戻る前の時点でマスターしているから問題ない。前世の記憶もあるから難しい単語なんかも問題無く読めるしね。
......それよりも、流石の洞察力というか、今の私に合った本というか。あの司書さん、前世の記憶とかは知らなくとも今の私ならこれを読めると判断して、これらを選んでくれたのだろう。さっきも私が注文した本の内容に眉一つ動かしてなかったし。
見たところ、他の本も似たようなものが多い。これは、予想以上に調べ物が捗るかも。
「それじゃ、私はしばらくここで本を読むから。長くなるけど、あなたはどうするの、アンシラ?」
「......ここで控えていますので」
いや、流石にそこで何時間も立たせたままにしたくは無いんだけど、私。
「ならこちらに座りなさい。何なら、他に本を持ってきて読んでても構わないわよ」
そう伝えても、顔には出て無くとも戸惑いがあるのか少しの間立ったままだったアンシラ。けど私だってずっと後ろに立たれたのでは気が散ると伝えれば、ようやく承諾して座ってくれた。
「......でしたら、姫様がお読みになっている内の一冊をお借りしても?」
「ええ、いいわよ」
そうして席に着いたアンシラは、積まれた本から歴史に関する物を一冊手に取った。題名からすると、魔族が侵攻してきてからの四百年に関する歴史書みたい。見た感じ今私が読んでいるのと似たような形式の書物らしい。予想以上に文字が多かったからか眉を顰めている。けど本を変えることはせず、彼女はそのまま読み始めた。
それじゃ、私も読むとしようかな。