講師の後悔、文官の決意
——レモラにとって、皇女フィアは都合のいい道具と同じだった。
宮廷での仕事は、色々とストレスを抱える事が多い。貴族として生まれながら、良い縁に恵まれずに三十代半ばを過ぎても未だ独身の彼女にとって、この職場は給料と同じくらい苦痛も多かった。
帝城で働く同年代の殆どは既婚者。彼女より立場の低い侍女達だって、十以上若くて結婚している者はザラにいる。
仕えている皇妃よりお茶会に呼ばれても、他の参加者は由緒ある家系の奥方ばかり。皆がそれぞれを「夫人」と呼ぶ中、彼女だけが「令嬢」のまま。
周囲にどんどん置いていかれ、行き遅れになるのはレモラにとって酷く屈辱的であった。
自身の欠点は、彼女とて理解している。容姿もそこまで優れているわけでも無く、性格も激情的。実家の子爵家も特質して良い点がある訳でもなく、繋がりを作ろうとも思えない土地。
そしてこの歳になってしまえば、もう結婚できる希望も無い。
彼女自身が学に恵まれていたことと縁があって、皇妃に仕える事が出来ている。だが、それは教師として優秀だからでは無く、フィアに当てるのに向いていると判断されたからでしかない。皇妃自身の子供達にはもっと向いている教師が当てられ、彼女が勉学や作法を見る事は一生無いだろう。
お役御免になれば、彼女は実家に帰ることになり、家業を支える事に従事する一生を送る事になるに違いなかった。
そんなレモラにとって、フィアは忌々しい存在だった。幼いながらも、既に容姿に美貌の片鱗が現れている。庶子とはいえ流れる血は皇族のもの。まさに将来安泰、これから先が不安でしかない彼女とはまるで違う事に、嫉妬を抱かずにはおれず。
そして、そんな皇女を虐げる行為は、レモラには何よりも心地よかった。
何もかもが劣る彼女が、上の存在を見下せることに愉悦を抱いた。
......いつしか、それが当たり前であると錯覚するほどに。自身が、皇妃の威光が無ければ何も出来ない事を、忘れてしまう程に。
その日の授業の延期の知らせに、レモラは苛立ちを抑えられなかった。既に一週間以上、療養のせいで間が空いていた。彼女にとって唯一のストレスの捌け口、それがフィアの講義の時間だったのに。
それをまた延期されたのだ。彼女には、もう我慢の限界だった。皇女のくせに、自身の講義を勝手に取りやめるとは何事だと、至福の時間を奪われたことが許せなかった。
——そして、見誤った。
レモラが間違えた点はは二つ。
一つは、自身が力を振るえるのは借り物の権威があってこそ。普段の講義を行っていたのは、隔離された部屋。代々皇族の教育を行ってきた場所で、防音などの設備も充実している。その場で、周囲の者に見られることが無いからこそ、自由に振る舞う事を許されていたことを彼女は忘れていた。
そしてもう一つ。彼女は知らなかった。
——今のフィアは、彼女が知る少女では無くなっていることに。
(なに、なんなのよ、これはっ......!?)
レモラは恐怖していた。目の前の、別人へと変貌したフィアへと。
先程までは、今までと変わりなかった。侍女の影で怯え、縮こまり、何も出来ないか弱い小娘。久しぶりという事もあり、彼女はため込んでいたものをこれでもかとぶちまけ、怒鳴りつけた。
冷静になれば、マズい行為だと馬鹿でも理解できる。公衆の面前での、皇族への不敬としか言えない行動。いくら皇妃の後ろ盾があっても、どうにか出来る範囲を超えている。
——だが、それよりもなによりも、レモラにとって恐ろしいのは目の前の存在だった。
その顔も、小柄な体も、何度も見たことがある。なのに、それが今の彼女にはまるで別物にしか見えなかった。
その瞳に怯えは無く、どこまでも冷え切っている。睨まれているわけでも無いのに、彼女の方が震えを抑えられなくなる。
いつも目を伏せ、下を俯いていた顔は、真っすぐレモラへと向けられている。先程まではか弱いものとしか見ていなかったのに、今の表情には弱さなど欠片も見られない。
年相応の小柄な、いやそれよりも幼く見えていた体躯。なのに今は自身よりもよほど大きいと錯覚しそうになるほどの威圧を感じる。
——レモラは、自分が獣の前に差し出された贄なのだと、そう自覚した。
(......これは、誰?誰なのよっ......!?)
そう自問しながら、彼女は思い出す。そう、目の前にいるのは、フィア・ウル・ヴァクラ。たとえ庶子だろうと、皇妃から嫌われていようと、この少女はれっきとした皇帝の血を引く者なのだという事を。
その体から放たれる威圧に、彼女は知らず内に後ずさる。それでも、何とか場を収めようと必死に頭を働かせる。そうしなければ、自身の先が無いと理解しているから。
そうして、何とか口を開こうとして。
「......私、はっ!?」
「——はい、うるさいので~、出てってくださいね~」
そんな気の抜けるような声が聞こえると同時に、彼女の視界が変化した。
——下に大地を見下ろす、数百m上空へと。
「............は?」
眼前の光景を理解できず、思考が停止する。だが、状況は彼女を待つことなく動く。僅かな滞空から、上空からのフリーフォールへと。
感じる暴風、近づく大地。そうしてようやくレモラは現状を受け入れ。
「ぎ、ぎぃやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?!?!?!?!?」
——ただ、絶叫を上げる事しか出来なかった。
「えっと......」
蔵書室は、沈黙と混乱に包まれていた。それも当然だろう。さっきまで目の前にいた筈のレモラが突然、影も形も無く消えてしまったのだから。
そして数秒後、外から聞こえてくる絶叫。それが誰の声なのかは、言わずとも理解できた。
私は、事の下手人に目を向ける。何が起きたのかを理解できずとも、誰がやったかは分かり切ったことだから。
「蔵書室では~、静かに、ですよ~」
当の本人——ここを管理する司書さんは、普段と同じ笑みで定位置に座っている。......彼女の言う通り、流石に騒がしかったから、しょうがない。言いたいことはもっとあったけど、ここの主は彼女なのだから。
それに、私が言い返せるようになるまで待ってくれていた節もあるし、レモラだけ折檻している辺り気を使ってくれたのだろう。......一番うるさかったのを追い出しただけかもしれないけど。
さて、そろそろここを出ないとね。流石に騒がしくし過ぎたし、このままここにいるのはよろしくない。
「騒がしくしてしまって、ごめんなさい。私もこれで出ていくから、もううるさくなることは無いと思うわ」
そう言って一礼し、私はこの場を去る準備に入る。蔵書室で遠巻きに見ていた者達も、急にレモラが消えたことで漂っていた妙な空気を振り払いながら、各々の作業に戻っていく。
そして私は、先程まで共に話していた文官たちに向き直った。
「無様な姿を見せて悪かったわね。今日は、これで解散しましょうか。けど、色々と助かったわ、ありがとう」
「......いえ、私達こそ申し訳ございません。あの失礼な者に対し、言いたい放題言わせてしまい......」
ベニタスが代表してそう答えると、他の者達も一斉に頭を下げてきた。そんなに気にしなくていいんだけどね。あそこまでやらかしていたんじゃ、呆気に取られて反応が遅れるのも当然だろうから。それに、たとえやらかしていたとしても皇妃に睨まれるかも知れない行動を避けるのは、別におかしなことじゃないし。
......手を出した司書さん?アレは別格。皇妃の権力でどうこう出来る存在じゃないから、彼女は。
けど、彼らに気にしなくても良いと私から言ったところで、あまり意味は無いだろう。だから、代わりにあるお願いをしておこうかな。
「だったら、後で私に非が無かったことを証言してくれると助かるわ。流石に無いとは思うけど、ね」
そう頼めば、彼らは一も二も無く頷いてくれた。私もあり得ないとは思っているけど、万が一私が悪いなんてされたら堪ったものじゃないし。皇妃があそこまでやらかしたレモラをまだ重用するとは考えにくいけど、念の為にね。
さて本を返そうか、と思ったらいつの間にか私の借りていた本が消えていた。アンシラが今の間に帰したのかとも思ったけど、首を振っているからどうやら違うみたい。
なら、そんな事が出来るのは一人しかいないわけで。奥のカウンターに目を向ければ、司書さんがニッコリ笑っている。どうやら、今の話の間に片付けてくれたらしい。礼を込めて会釈で返せば、手を振り返してくれた。
......色々と騒がしくしてしまったし、今度何か差し入れでも用意しようかな。後でアンシラに相談しないと。
「それじゃ、これで失礼するわね」
そうして、蔵書室を去ろうとした時だった。
「......フィア殿下、一つお伺いしてもよろしいでしょうか?」
ベニタスが、緊張した面持ちで声を掛けてきたのは。
振り返り、黙ったまま彼の言葉を促す。彼は少し緊張した様子を見せながら、口を開いた。
「今日の資料に関してです。魔法や地理、それに加えて魔族に関する物。失礼を承知で言わせていただきますが、今の御歳にそぐわないものばかり。本来でしたら、学ぶべきは礼儀作法の方が先でありましょうに」
「っ、それは」
アンシラが咄嗟に言い返そうとするのを、手で止める。けど彼女の行動を咎めるつもりは無い。ベニタスの言葉の裏を読むなら、彼はレモラの講義こそ優先すべきと言っているようにも取られかねないのだから。
ただ実際のところ、それが間違っているわけでも無い。教師が最低で内容も酷すぎるものだとは言え、今の私が学ぶべきは皇族として相応しい礼儀作法が第一なのは確かだから。
けど、今ベニタスが聞きたいのは、そこじゃないだろう。
「不快に思われるのは当然でしょう。しかし、どうかお聞かせいただきたいのです。それでもなお、あれらの資料を調べ、お読みになられていた。——それは、一体何故なのでしょうか?」
ベニタスが聞きたいのはそこ。私が何故あの資料を読もうとしていたのか、そこにある真意を、彼は知りたかったのだ。
「......そうね」
彼は、そして他の者達も、一言も発せずに私の答えを待っている。
誤魔化しようは、いくらでもあるだろう。理由なんて、それらしいものはひねり出せる。
けど、そうしようとは思わなかった。だって、別に私の目的は隠すべきことでも、恥ずべき行為でもないのだから。
「——魔王討伐。その為の下調べよ」
「「「っ!?!?」」」
その答えに、彼らが息を呑んだ。けどその反応を見ることはせずに、私はアンシラと蔵書室を後にした。
他の誰にどう思われても関係ない。もう、私はその道を進むと決めたのだから。
......ごめんなさい、見栄張りました。短い間とは言え良くしてくれた人たちだったから、その人たちに否定されたら少しくるものがあると思って、反応を見れませんでした。
「......逃げましたね、姫様」
「............うるさい」
そして、アンシラにはきっちり見抜かれてた。ああ、顔が熱い。
「......まぁ、いいわ。愚かだとなんと言われようと、私は私のやりたいようにするだけだもの」
ただ本音を言うなら、それに手を貸してほしい、と口にしたかった。折角上手くやれた人達だったからね。魔王を討つ為には、今のままじゃ何もかもが足らない。だから人手はいくらでも欲しい。
けど、流石に今日知りあった相手にそれを口にするのは憚られた。それに、普通なら荒唐無稽な子供の戯言だと思われるだろうしね。
内心でそう溜息をついていると、アンシラがポツリと呟いた。
「......気にしすぎだと思いますけどね」
「......何が?」
その言葉の意味が分からなくて聞き返したが、彼女は黙って微笑むだけだった。
フィアが去った後、彼らは動けずにいた。声を発することも出来ず、その場にただ立ち尽くしていた。
先程聞いた言葉が、耳から離れなかったから。
「......魔王の、討伐」
それは、人族の悲願そのもの。魔族による蹂躙が始まって四百年以上、ただひたすらに求める願い。
——同時に、それが夢物語だとも誰もが理解していた。
人族は、敗北に敗北を重ねるばかり。魔族の侵攻は勢いを増し、数十年前には、遂にこのシューツ大陸の半分近くが魔族の手に堕ちた。
対して、人族は魔王の前に辿り着いたのは四百年の歴史で唯一度だけ。それどころか、ここ二百年はクシェナ大陸に足を踏み入れる事すら出来ていない。
既に未来は詰んでいる、そんな声すら上がり始めている程に。
それでもまだ勝ち目はある、と奮起する者も少なくは無い。だがそのほとんどは現状を理解できていない阿呆か、理解していてもそれから現実逃避するばかり。
彼らだってそう。帝国にて文官を務める優秀な彼らは、人族が追い込まれている事を理解している。けれどその事実から必死に目を反らし、心のどこかで諦めていた。
——だが、フィアは違った。
子供の戯言だと、切り捨てることは出来なかった。たった二時間とはいえ、共に過ごせば十分分かる。今のフィアがあの歳とは思えない程賢い事も、......彼女がこの国の、世界の現状を理解していることも。
なのに、その声に諦観は微塵も感じられなかった。どれだけ劣勢か分かっていても、その事実を受け止めていながら、彼女はそれでも『魔王を討つ』と、そう言ってのけた。
——その先の未来を、確かに見据えている者の言葉だった。
彼らは、何も言えなかった。今何を口に出しても、酷く薄っぺらいものとなりそうだったから。
——だが彼らの目には、強い光が宿っていた。




