なにに、恐怖する
転生してからここ数日、記憶の整理を付けながら考えていた。
——今の私は、一体何なんだろうって。
この体は、間違いなくフィアのもの。記憶だって失ったわけでは無い。だって、私は前世の記憶を思い出しただけで何かを無くしたわけじゃないから。
けど、その前世の記憶が、影響を与えたのも事実。幸いと言っていいかは分からないけど、前世での名前とかあやふやな部分が多いせいか、別人という意識はあまりない。けど、考え方とかは結構変わったかな。以前の私なら、魔族と戦おうと考えすらしなかっただろうし。
結論から言えば、私は間違いなくフィアだ。前世の記憶のせいで精神年齢は少し大人に近くなって、未来の可能性を知っているとしても、前世の別人だという事にはならない。
......そう、私はフィア。臆病で、怖がりな、フィア・ウル・ヴァクラだ。
「殿下!何か言う事があるのでは無いのですか!?」
そう怒鳴るレモラの声が、脳を揺さぶる。金切り声が辺りに響き、周囲の視線を集める。
言い返そうとした。こっちから言えることは幾らでもある。周囲に配慮しろとか、一応ではあるけど皇族の私に対し不敬だとか、今度会った時には今までの行動を咎め、散々にやり返してやろうとか色々と考えていたから。
なのに、それが全部吹っ飛んだ。頭が真っ白になって、上手く思考が出来ない。喉が枯れて、音が出てこない。
変わったと、そう思っていた。精神的には成長して、色んな知識も身に着けて、講師程度に怯えるはずがないと、高を括っていた。
けど、違う。現にこうして、私はレモラを前にして、何もすることが出来ない。彼女の悪意に、立ち向かう事が出来ずにいる。
そう、だって私はフィアだから。いくら前世の記憶が蘇ったって、それで性格が変わったとしたって、私はフィア。記憶も、体験も、何一つ消えたわけじゃない。
......怖がりで、臆病なフィアであることに、変わりは無い。
怖い。
体が、動かない。
父の時は、大丈夫だった。元々苦手に感じてはいても、実際は親馬鹿な一面もあると知っていたし、何より悪意を向けられることは無かったから。顔は怖くても、優しい人なのだと知っていたから恐怖を抱くことも無かった。
けどレモラは違う。彼女の声には、侮蔑が乗っている。口の端々には、嘲笑が浮かんでいる。その目には、愉悦が宿っている。
......ああ、覚えている。忘れるわけが無い。フィアとして生を受けて五年。記憶にある時間はそう長く無いけれど、散々悪意を受けてきたのだから。
彼女だけじゃない。同じような者達は何人もいた。声高々に罵倒してくる者。遠巻きにして、影より悪意をぶつけてくる者。何人も、何人も、何人も。
震える。
耐え、られない。
「殿下、聞いていらっしゃるのですか!?全く、あなたという人は!」
怒鳴り声に、言い返せない。正面から見返す事も、口を開くことも、何も。私にとって、最も怖いものがそこにある。
魔族の方が恐ろしい。そう考えようとしても、上手く行かない。だって、私は魔族に会ったことが無い。
いくらゲーム越しに見ていたって、あの怪物たちと何度も死闘を繰り広げていたって、所詮はゲーム。実際に相対し、殺し合いを演じた訳じゃない。......奴らの脅威を、身を以て経験したとは到底言えない。
転生後だってそう。私は皇族、ぬくぬくと帝城で育ったお姫様。魔族を見たことがあるない以前、そもそもその存在すら知らないはずなのだ。アンシラが、私が魔族の事を知っていたことに驚いていたように。
それに対し、悪意は散々触れてきた。私の五年の人生で触れてきたものでこれ以上に恐ろしいものは無く、その人格形成に大きく関わる程に。
そんなものより、恐ろしいものがあるだろうか? あると、言えるのか?
覚悟が、揺らぐ。滅びの結末を回避するのだと、そう決めた筈なのに。思考が、悪い方に転がり落ちていく。
そもそも、私はただの小娘。毒で死ぬことになる無様な姫が、事故で死んだ女の記憶を思い出しただけの。勇者だった過去がある訳でもなく、戦いの経験も、武器を振るったことも、血を浴びたことも、殺しの経験も無い、ただの小娘でしかない。
そんな奴に、何が出来る?何を、為せるというんだろうか?
悪意に、圧し潰されそうになる。恐怖に身を竦ませて、耐えられずに顔を逸らそうとして。
——アンシラの顔が、視界に入った。私の前に立ち、レモラから私を庇いながら、こちらを心配そうに見つめる彼女が。
ふと、ある一場面が頭に思い浮かぶ。あのゲームでの、フィアの最期。毒を飲んで倒れた私を抱える彼女の姿が。ゲームでのほんの一場面。スチルがあった訳でもない。だから見たことがあるはずもない。私にあるのは五歳までのフィアの記憶と、前世の記憶だけだから。
なのに、ありありと思い浮かぶ。普段の鉄面皮の影も無く、顔をグシャグシャにして、誰よりも泣き叫ぶアンシラの、悲壮な顔が。
——そして、その顔が前世の最期で見た、妹の顔と重なった。
「———あ」
そうだ。もっと怖いことを、私は知っている。
——大事な人達に、何も返す事が出来ずに死んでしまう恐怖を。大切な家族を、私のせいで悲しませてしまう事を。
思い出せ、何のために全てを引っ繰り返すと決めた?滅びの未来を覆す、二度目の生を無駄にしない、どうしてそう決意した?
それは、後悔。親孝行出来ずに、死んでしまったことの。私の後を追って、死を選ばせてしまったことの。
————何も為せずに、命を落とした事。前世だけでなく、未来の私にとっても受け入れられない、結末への後悔と生への渇望。
それをまた繰り返す事を、私は許せるか?それ以上に、怖いことがあるか?
「——ある訳がない」
そんなもの、存在するものか。
——枯れた喉から声が零れると同時に、体が軽くなる。
震えは、もう消えていた。
顔を上げる。アンシラを押しのけようとしながら、すぐ近くまで来ていたレモラに視線を向ける。
「......ふっ」
口から微かに笑いが零れた。それは、自分に向けた嘲笑。何を怖がっていたんだろう、私は。目の前にいるのは、皇妃という虎の威を借りた狐。血走らせた目も、喚き散らす耳障りな声も、何を怖がる必要があるというのか。
私の変化に最初に気付きたのは、もちろんアンシラだった。軽く目を見開き、その鉄面皮にほんの僅かな笑みを浮かべるとそっと横にずれた。私の様子がおかしいことに気付いて庇ってくれていたのだけど、今の私ならもう大丈夫だろうと判断してくれたみたい。
彼女に譲られた道を前に進み出る。周囲の者達も私の変化に気付いたみたいだけど、今は状況を見る事にしたようだ。
「......殿下?」
そして、レモラも何かおかしいと感じたのか、うるさい金切り声が止めて怪訝そうにこちらを見てくる。
さて、場も整ったことだし、鬱憤を晴らさせてもらうとしましょうか?
「——黙りなさい。先程からやかましい声を上げて、耳が痛くて敵わないわ」
その一言で、蔵書室が静寂に包まれた。誰もが、私の発した言葉に対して反応を示すことが出来ずにいた。例外は、アンシラや先程まで一緒に話していた者達ぐらいかな。そんな彼らも驚いた様子を隠せずにいるけど。
やがて言葉の意味が理解できたのか、レモラの顔が真っ赤に染まる。
「っ、何ですか、その態度は!?それが私に対する......」
「あなた程度に対する態度ならこれで正解でしょう、レモラ・フーリス子爵令嬢?」
レモラの言を聞く気も無いので、遮って話を続ける。当のレモラは、その顔をさらに真っ赤にさせた。それは遮られたからだけでは無く、未婚の事を弄られたのもあるだろうけど。令嬢と呼ぶことは、暗にこの人は未婚ですと告げているようなものになるから。
貴族女性で三十代半ばの未婚は中々いない。前世知識のある私からすればそこまで気にしなくてもいいとは思うのだけど、レモラにとっては隠しておきたかったことに違いない。だって額に青筋まで浮かび始めたし。
......まぁ、それを分かっていて弄ったんだけど。あまり褒められたことじゃないかもしれないけど、今まで散々色々言われてきたんだから、これぐらい別にいいだろう。
「あ、あなたという人は......!っ、どこまで人を馬鹿にすれば気が済むのですか!恥を知りなさい!!」
さらに声を荒げ、怒鳴りつけてくるレモラ。今までの私だったら、この声量に委縮されて何も出来なかった。彼女も、それを分かっているからこそ今までと同じようなやり方を繰り返すのだろう。無論、ムカついているのもあるのだろうけど。
けど、もうそれでどうにか出来る私と思わない事ね?
「——そっくりそのまま返すわ。恥を知れ、レモラ・フーリス」
「......え?殿、下?」
そこでようやく、レモラは私が今までと違う事に気付いたらしい。顔に、戸惑いが見て取れた。
「あなたがどう考えているか知らないけど、私はフィア・ウル・ヴァクラ。庶子とはいえ、れっきとした皇族の一員。それに対し、公共の場で、礼の一つも示さずに声を荒げる姿、とても見ていられるものじゃないわよ?」
そう、今回の彼女の行動は明らかに度が過ぎている。普段の授業はまだ個室で行われていたから言い訳の仕様もあったのだろうけど、今はそうじゃない。こんな公の場で、皇族の血を軽視するような発言。最悪、国家反逆罪と思われてもおかしくないだろう。
彼女もようやくその事に気付いたのか、顔色が赤から青へと変じていく。どうやら皇妃から許可を得ているからと調子に乗りすぎ、場を弁える事すら忘れていたようね。
......ちなみに、私もさっきまで気付いてなかった。考えれば当たり前の事なのに、どうやらそんな事にも気付けない程気が動転していたみたい。周りの人達が口を挟まなかったのも、こんな公共の場でやらかしたレモラの凶行に、呆気に取られていたのもあるのだろう。
「というか、そもそも公共の場とは関係なく皇族に対する態度ではないでしょう?普段の授業にしても、まるで役に立たない内容ばかりで無意味でしかない。どなたの方針かはともかく、教師としては落第としか言えないわよ?」
「っ、それは......」
「それは、何かしら?何か言いたいことがあるのかしら?間違った作法を教え、訳も無く怒鳴り、嘲笑う。これを教師として許す者がいるなら、私は正気を疑うのだけど?」
反論などさせない。今まで彼女がやってきたことを、白日の下にさらす。
そして、彼女も迂闊に口を開けない。下手に反論すれば、それがより状況を悪化させることになると気付いているから。彼女を教育係に指定したのは皇妃であることは、周知の事実。だって、皇族の教育は皇妃が取り仕切る事になっているから。
その状況で中途半端に言い訳してしまえば、皇妃を批判する事にもなりかねない。そうすれば、彼女は後ろ盾に見捨てられることになる。それだけは、何としても避けなくてはいけないだろう。
まあ、無言のままでも、何か隠してますと言っているのと同じだけどね。ほら、周囲の者達もレモラのあり得ない言動に冷ややかな視線を向けている。ここに来る者の多くは文官として仕える者ばかりで、まともな人が多いのもあるだろうけど。
結局のところ、こんな場所でやらかした時点で、彼女は最初から詰んでいるのだ。
「っ、わた、しは......」
顔を青白くさせ、震えるレモラ。さっきとは逆転した状況だけど、私は声を荒げることなく静かに告げる。
「——言いたいことがあるなら言いなさい、レモラ・フーリス。その全てを聞いたうえで、あなたを否定しましょう」




