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7話

 やがて、東夷の海の水平線が見えてくると、陶華は南へと進路を変え、草原の道で僕を背中から降ろした。

 南西には山脈の稜線まで、長城がうねる様に続いている。

 僕は黒い外套の肩についていた黄砂を軽く払いながら言った。


「結局、北狄は不毛の砂漠ばかりでしたね」


「クソ下らない弱音は結構ですから、手筈通り南に向かいましょう。走ると却って目立つので、焦らなくていいです」


 そう言うと、陶華は布袋から頭巾を取り出して目深に被った。

 その姿に、僕は思わず胸が高鳴った。

 目が隠れることで薄く通った鼻筋と、細く麗しい唇が強調され、陶華はいつもに増して得も言われぬ艶美な色香を放っていた。

 心の内に思い描く彼女の美しい右目と、その瞳を僕だけが知っているという不思議な優越感で、頭が夢心地になる。


「じろじろと見ないでください」


 僕は慌てて目を逸らした。


「……ごめんなさい」


 陶華の声はほんの少しだけ気恥ずかしそうで、それが何だか嬉しかった。



 それから僕と陶華は、范夏国との国境の長城を右手に、遥かな草原の道を南へと歩いて行った。

 二日ほど歩いて長城が丘の向こうに隠れた頃、西から流れる大河と、その枝分かれした支流に寄り添うような田園風景が広がった。

 一度野営を挟みながらも歩き続けると、ついに大河に辿り着いた。


 荷物を満載した行商船が行き交う大河は、海かと見紛う程の河端だ。目先まで近付いても、濁った流れの向こうに対岸が見える気配はなかった。


「買い物した後、この辺りに泊まっていきましょうか」


 大河沿いの道には、干し煉瓦造りの店が連なっており、人通りも多い。

 これだけ栄えている町なら宿もきっとあるだろう。

 僕は陶華に促され、質屋で身に着けていた翡翠の腕輪を売って刀銭を受け取り、路銀の足しにした。


「十分な額で売れましたね。あなたが買ってみてください」


 初めての事に戸惑いながらも、干し飯、藻塩、干し葡萄を買ってそれぞれ小袋に入れて行く。

 そんな僕の姿を、満足そうな表情で陶華は見ていた。

 陶華は、僕が自発的に気付くように、導くように教える事に関しては熱心らしかった。

 共に旅をする相手として、僕に自立して欲しいという考えからだろうか。


 そして、大河へと夕日が落ちる頃、僕と陶華は通行人から聞いた宿屋の場所へと向かっていた。

 宿屋は川沿いに並んだ建物の奥にあるらしい。僕と陶華は、入り組むように連なった煉瓦の家の路地を歩いて行った。

 地面は土を固めて出来ているようで、しっかり整地されている。


「どうかお恵みください」


 ふと、地べたに座り込んだ痩せこけた少年が、虚空を見つめながら、ひとりごちるように呟いた。


「陶華、いいでしょうか」


「あなたの刀銭です。ご勝手にどうぞ」


 僕は少年の前に屈み、腕輪に紐で括りつけていた刀銭を3つ解き、少年の前に落ちている木彫りの椀にそっと入れた。

 少年は、僕と目を合わせないまま軽く頭を下げた。

 それから少し進むと、すぐに宿は見つかった。


 粗末な筵の上に陶華と隣り合って横たわり、煉瓦の天井を見つめる。

 窓の外の宵闇を、月明りが照らしている。


「僕がやった事は、正しかったのでしょうか」


 陶華は、暫くの沈黙の後、


「それの質問の答えは、何に正しさの基準を置いているかによって変わってきますね。あなたの自己満足、という意味ではきっと正しい行いでしょう」


「やはり、あの少年の為には……あるいはこの世界をより良くする為には、正しい行いとは言い切れないのでしょうか」


「自分で考えてみてください」


 陶華の声はいつもの様に冷たかったが、ほんの少しだけ優しさが感じられた。


「僕が恵む事によって、少年は乞食に依存して自立する術を失うかも知れません。少年は金には困っておらず、得た金で阿片でも吸うのかも知れません。無法者の元締めに金を奪われ、その金が悪い事に使われるかも知れません」


「大体そんな感じでしょうね。ならば、その可能性に気付きつつも、何故猿里は少年に恵むという判断を下したのですか」


「元締めがいるなら誰かが監視しているはずですが、そんな音や気配はしませんでした。ケシ畑も見渡す限りは見つかりませんでした」


「少し無理がありますね。自立する術を失う事に関しては回答出来ていませんし、無法者の元締めは偶々その場に居なかっただけかも知れませんし、ケシ畑が近くになくとも、輸送船を介してこの町に阿片が流通していてもおかしくありません」


「……可能性の話ばかりしていては、何もできません」


「私は猿里に何もするな、とは言っていませんよ。寧ろ自己満足の為のあなたの行動はとても素晴らしいとすら思っています。しかし、世のため人の為等と思ってもいない事をもっともらしくでっち上げるのは滑稽なだけですよ」


 陶華は皮肉たっぷりにそう言った。

 その声には、先ほどまでの微かな優しさは感じられなかった。

 ――そもそも陶華は、僕の考えを尊重しながらも成長を促したいのではなく、自分の考えを植え付けたいだけなのではないだろうか。

 優しさのように感じられた気配も、その為の飴に過ぎなかったのではないか。

 そう考えを巡らせていると、段々と腹が立って来た。


「僕は、陶華とは違って自己満足よりも天下泰平を目指しています。もちろんまだ世間知らずの若輩だというのは分かっていますが、勉学や思案や体験を通して、いずれは魔帝の名に恥じぬ大人物になりたいと思っています。あなたの自分勝手な考えを植え付けようとするのは止めてください」


「自分が殺される理由を知りたい等と言って、仕来りを破ったガキが、調子に乗らないでください。あなたの考えこそ、この世界で一番の自分勝手だと思いますが」


「確かに、僕が『魔帝の儀』を投げだしたのは、死ぬ理由が知りたいとか、死にたくないといった自分勝手な考えからです。しかし、実際に世界を見て来た今は、それだけではありません。僕は名ばかりとはいえ、曲がりなりにも中原を預かる魔帝です。だからこそ、出来る限りを尽くして天下泰平の助けになりたいのです」


 僕は陶華を真っ直ぐに見つめ直し、続けた。


「もし『魔帝の儀』の行われる理由が、天下泰平の為に必要不可欠だと分かれば、僕は喜んで命を差し出します。それが、熊魔獣を退治したあの村の……春と交わした、困っている人がいたら助ける、という約束を果たすことにもなる筈です」


 陶華は、長い溜め息を吐いた後に、呆れたように言い捨てるだけだった。


「やはり馬鹿ですね……あなたは」


 今までで一番冷たい、氷のような声。

 そのまま会話は途切れ、僕は自分の正直な気持ちを陶華に切って捨てられた事に悲しみを感じながらも、やがて眠りについた。


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