6話
やがて、日が落ちて辺りが薄暗くなっても、陶華は韋駄天のように走り続けた。
僕は布袋を背負ったまま、陶華に負ぶさりながら考えを巡らせていた。
――今更であるが、陶華の精強さも、剣の技も、正に無双と言う他ない。
それも、雲の上に聳える天長城から落ちても無事に着地でき、剣筋さえ全く見えないまま魔獣を一刀で斃すのだから底が知れない。
そもそも今そうしているように、僕を抱えて断崖の谷山を飛ぶように超えて行くのも浮世離れしている。
剣姫の冒険譚で書かれていた物よりも、更に桁違いの精強さだ。
これも陶華が……冒険譚の冒頭で書かれていたように、左目に白宝玉を埋め込んだ剣姫であるからこそ為せる技であろう。
しかし、陶華は剣姫と呼ばれる事を何より嫌っているようだし、どうも好んで剣姫になった訳ではないようだ。
宝玉について少しでも触れよう物なら、彼女が鬼神の如く怒り出すか、気まぐれを終わらせて僕に止めを刺すか、という顛末が想像に難くない。
僕は何も言えないまま、白銀の鎧越しの陶華の腹を軽く掴み直した。
「もし、少しでも変な気を起こしたら殺しますから」
桟道から岩山の天辺へと大きく跳びながら、陶華がそう呟いた。
僕は別段よこしまな気持ちはなかったが、慌てて言い訳した。
「いえ……申し訳ありません。ただ少し眠くて」
「別に眠ってもいいですよ」
いつになく優しい声だった。 会った憶えもないまま夢想して来た、母の声のような……穏やかな声だった。
「……では、お言葉に甘えて」
僕は風で揺れる陶華の髷に頬を優しく撫でられながら、静かに瞼を閉じた。
目を開いた僕は、右手の山々を赤く照らす朝焼けを見つめていた。
今、陶華は北に向かってこの荒野の丘を駆けているようだ。
やがて、丘の頂上までたどり着いた陶華は、足を止めて僕に背中から降りるよう促した。
薄明かりの中に広がるのは、まさしく化外の地であった。
北西から東へと切れ目なく地平線を埋め尽くす、草一つない広大な砂漠。
北西から南に続く、黒い靄のような瘴気を纏う、尖った針山。
そのどちらも、生きとし生ける者全てを拒絶するかのように人界を覆っている。
「北狄か西戎にでも逃げようと思っていましたが……どうも人の暮らせる地ではないようですね。東夷の大海を超えるのは私でも難しいですし、ここは南蛮を目指しましょう」
「来た道を戻って南へと向かうという事でしょうか」
「いえ、既に包囲網が敷かれてしまっています。南の司紀国には糞親衛隊の属領があるので。それに北狄の砂漠には、少し野暮用があります」
化外の地を見渡しながら、陶華は続けた。
「……ここは一度東に向かい、海岸線に沿って令国を南に進み、そのまま南蛮へと逃げましょう」
「南蛮……ですか。名前だけは聞いたことがありますが、一体どのような場所なのでしょうか」
「令国と司紀国の南に広がる広大な森の世界です。巨象や妖鬼が蔓延る危険な地とのことですが、北狄や西戎よりは恐らく増しでしょう」
僕は地理にはあまり詳しくなかったので陶華に詳しく聞いてみた。
陶華は面倒くさそうにしながらも教えてくれた。
「この世界は、豊かな中原を天長城で囲った、あなた達魔族が領する魔帝国……別名魔界と、そこを中心にして、北西、北東、南に伸びる長城に区切られた三王国……いわゆる人界があります。私達が旅して来た北側の范夏国は、糞親衛隊の巣穴がある少し貧しい国です。東側の令国は大河の流れる豊かな国で、東夷の大海原に面しています。西側の司紀国は先ほど言ったように糞親衛隊の属領があるそうですが、詳しくは知りません。そして三王国は、四方を北狄、西戎、東夷、南蛮……これら四夷の化外の地に囲まれています」
僕は頭の中に地図を描いで情報を整理していった。
「とにかく東に行きましょう。猿里は砂漠に注意を向けて、もし暮らせそうな草原でも見つけたら教えてください」
僕が陶華にしがみ付くと、彼女はすぐに荒野の小高い丘を、東へと駆けて行った。
うだるような熱気と、乾いた風が時折巻き上げる黄砂に眉根を寄せながらも、彼方まで続く北狄の砂漠を見渡す。
しかし、そこには薄茶色のなだらかな砂山が広がるばかりで、生ける者の姿はその痕跡すら全く見えないという有様であった。
「砂漠に入ります。野暮用を済ませないといけないので」
陶華が小さく言い零したのは、夕暮れ時だった。
僕の答えも聞かず、陶華は砂漠に向かって駆けて行く。
やがて、砂漠の彼方に瓦屋根の門が見えて来た。
砂を被りながらも、金に輝く霊廟の門だった。
霊廟の門前に辿り着くなり、陶華は立ち止まる。
「封が破られている……?」
陶華には珍しく、焦燥したような声だった。
「どうかしたのですか?」
「奴は……劾銅は、私以上の力を手にしてしまうかも知れません」
「白宝玉……でしょうか」
「ええ。私が回収するつもりでしたが、遅かったようです」
剣姫の冒険譚にも書いてあった。……北狄の砂漠の霊廟に、剣姫の力の源である白宝玉が眠っていると。
劾銅は配下の親衛隊に命じて、白宝玉を既に回収してしまっているようだ。
あの大男が白宝玉を得てしまうと考えたら、思わず身震いしてしまった。
「劾銅は危険です。もし奴を見つけたら、すぐに言ってください」
「……はい」
また荒野の丘に戻り、休息を取りながらも東への旅は続いていった。