5話
「そろそろ出立しましょうか」
熊魔獣がとうとう骨と皮だけになった頃だった。
僕は陶華の声に首肯して、ゆっくりと立ち上がる。
そして残された骨と皮の前で跪き、祈りを捧げた。
「何をしているのですか?」
「ただ、天に還れるようにと、祈っています」
「そんな事に意味はありませんよ」
「それは、あなたが決める事ではありません」
陶華は少しだけ不機嫌そうな顔をしたが、それきり黙った。
そして、僕達は村には寄らず、そのまま森を抜けて旅立っていった。
陶華は僕と隣り合って山道を歩きながら、左目を覆う布の眼帯の位置を気にしながら、意外そうに言った。
「あなたなら村人達に熊を退治した事を知らせようとすると思っていました」
「洞穴で考え抜いている時の思考の一環で、気付いたのです。彼らは僕達が熊魔獣を退治する事を期待したのではないでしょう。どこの誰とも知れない怪しい旅人が、勝手に熊の嗜虐心を満足させてくれる事を期待して、僕達に熊の居所を教えたんでしょう。今更熊を退治したなどと触れ回っても、怪しまれるだけで信じて貰えるとは思えません」
「……私は、あなたをただの莫迦で阿呆でどうしようもないクソ餓鬼と思っていましたが、少しだけ見直しました」
莫迦のくだりは余計なお世話ではあるが、僕は素直に嬉しかった。
――まあ、陶華の五臓六腑の満足から来た発言である事は想像に難くないが。
「猿里には特別に十点をあげましょう」
そう言った彼女は、何かを僕に差し出す風でもなかった。
「何ですか……十点とは……」
「使いたい時に使ってください」
陶華は時々、こうやって掴みどころがない。
だが僕が手に入れたらしいこの十点は何やら価値ある物に思えたので、一応憶えておく事にした。
三日程、野営しながらも山道を長城沿いの北西へ進んで行く。
長城はやがて崩れるように途切れ、代わりに絶壁の岩山が聳え立っていた。
陶華の手を借りながらも、断崖をひたすら登っていく。
岩壁には、頼りない崩れかけの木の桟道が連なり、北へと続いている。
岩山の切れ目には、美しい木々と清流が、のたくる蛇のように彼方へと続いている。
日が暮れようとする時だった。……その大男が立ち塞がったのは。
「おお! おお! おおおお! 見つけたぞ! 陶華!」
僕の二倍の背丈と、広い肩幅を持った、大鎧の偉丈夫。
偉丈夫は丸く光る大きな目玉で、長いもじゃ髭ともじゃ髪を瘴気のように纏って、心底嬉しそうに陶華を睨んでいる。
――追手だろうか。……風の音でうまく気付けなかった。
陶華の表情を盗み見てみると、僕が見た中で最も冷たい目をしていた。
その瞳には怒りでも、悲しみでもなく、ただただ深い軽蔑のみが感じられた。
「嗚呼! 我が許婚の陶華よ! 終ぞ! 終ぞ見つけたぞ!」
「……私には別に許婚が出来ました。あなたの出る幕はありません」
そう言って、陶華が僕の右腕を掴んで体を寄せて来た。
「……猿里……ここは話を合わせてください」
演技だと分かっていても、照れてしまう。
それでも何とか劾銅に小さく口を開いた。
「えっと……陶華は僕の……女……です……もう……やめてください」
大男の顔は耳まで真っ赤に染まっていった。
大きな目が、今にも飛び出さんばかりに更に見開かれる。
そして、天を震わす程の叫び声。
「貴様あああああ! 魔族かあああああ!」
――何故分かった。 角はまだ外からでは見えないし、額の宝玉も鉢巻で隠してある。
……あるいは、唯の当てずっぽうか。
僕の驚いた表情で大男は益々確信を強めてしまったようだ。
「やはりか! やはりか! やはりかあ! 憎き! 憎き! 憎き魔族よ! 嗚呼如何せん! 如何せん! 如何せん!」
抑揚のある怒号のような叫びを、早口でまくし立てて来る。
陶華は全く表情を変えないまま、大きな溜息を吐いた。
「この劾銅は! 剣姫親衛隊長の座を預かる劾銅は! 父上を! 母上を! 兄上を! 妹を! 魔族に蹂躙され! おめおめと生き延びたこの劾銅は! 梅雨の大河の水底よりも! 東夷の海底よりも深い! 深い愛を捧げし許婚の我が陶華さえも! 憎き! 憎き魔族に奪われると言うのか!」
僕は、魔帝として、沈痛な申し訳なさを感じた。
何とかして魔族の横暴を止めたいとも思った。
しかし、熊魔獣に魔帝の権威が通用しなかった事を鑑みるに、それは並大抵には行かないことは明らかだ。
かと言って劾銅を説得し、宥めることが出来るとも到底思えない。
僕が考えを巡らせている内に、陶華が一遍の感情もないまま冷たく言い放った。
「私は、あなたの事がこの三千世界で一番大嫌いです。もう関わらないでください」
劾銅の顔は一度真っ青になったが、すぐにまた紅に染まっていった。
そして獣のように奥歯を剥き出しにして食いしばり、唸った。
「……そうか……わかったぞ! 植え付けか! 植え付けであろう! 貴様が呪いを……陶華の魂に呪いを……植え付けたのか!」
顔中に紅く染まった青筋を浮き上がらせて大きな目で僕を睨み付けながら、ツバを飛ばしながら、怒号は際限なく大きくなっていく。
「陶華を誑かしたのか! 嗚呼! 根絶やしだ! 最早根絶やしにする他ない! 貴様を! 魔族を! 一匹たりとも残さず! 生きたままヤスリで手足を削り! 皮を剥ぎ! 千刀で弄り殺しにし! 油窯で煮殺し! その臓物を塵と残さず噛み潰してくれん! 嗚呼如何せん! 憎き! 度し難き魔族! 必ずや根絶やしにしてくれる! この命に代えても必ずや!」
劾銅が深い愛と憎しみと悲しみを抱えているのは間違いないと分かったが、僕はそれでも彼の一挙一動にある種の白々しさを感じつつあった。
――何故、何の理由があって、この人はこんなにも愉しそうなのだろう。
「嗚呼! 美しき! 美しき陶華よ! 鬼畜魔族に植え付けの呪術を施されてなお、陶華! そなたは何故これ程までに美しいのか! ああ如何せん! ああ――」
その時、劾銅が立っていた木の桟道が崩れ落ちた。
陶華が剣を収める音で、僕は初めて何が起こったか分かった。
大男は、断崖の底へと怒号のような、笑い声のような叫びを上げて落ちて行った。
その声が途切れた時、僕はおずおずと尋ねてみた。
「あの男は……どうなったのでしょうか」
「どうせ死んでいませんよ。あの程度で死ぬ男なら苦労はしません。しかし……どうやら、のんびりしている暇はないようですね。乗ってください」
陶華が、僕に背中を向けて屈んで見せた。
僕はその姿に劣情を催しかけたが、すぐ振り払い飛び乗って肩を掴む。
そして陶華は桟道を飛ぶように駆けて行った。
「僕を助けた理由はただの気まぐれ、という訳でもない様ですね」
「その通りです。どのみち、あのクソ未満と結婚させられる前に逃げようと思っていました。猿里は何かと利用価値がありそうですし、ついでですね」
「そんなにも劾銅が嫌いですか……」
「当たり前です! あんな最低最悪の阿呆馬鹿クソ下郎と結婚するくらいなら全身の皮を剥がれて糞を塗られるか、豚に犯されながら犬に喰われた方が幾分も増しです!」
「それは相当な嫌われ方ですね……」
僕は少しだけ劾銅に同情しつつも、目まぐるしく流れる景色に軽く恐怖を感じていたが、強がってそれと悟られないようにしていた。
「ところで陶華は、虚飾がない魔族は『普通』と言っていましたよね。あの男は虚飾とは最も程遠いように感じられましたが」
「それは当然、矛先が自分に向かない限りの話です」
陶華らしいな、と思って思わず笑いが零れた。
「糞餓鬼が……他人事だと思って笑わないでください」
僕は笑いを堪えながら、流れゆくいくつもの山河を、陶華の白銀の鎧の腰にしっかり抱きつきながら超えて行った。