4話
次の日の朝、僕と陶華は春にお礼を言って旅立った。
青々とした麦畑沿いの道を歩いていると、ふと声がした。
「こりゃあ酷い……」
十字路の右手の道に目を向けると、若い男の亡骸があった。
腹を抉るように切り裂かれて、地べたに敷かれた破れた茣蓙に、静かに横たわっている。
「あの熊魔獣が、また出たか」
蹲って顔を隠して静かに泣いているのは、男の妻だろうか。
他にも村人が集まって、男の死を悼んでいる。
僕は、魔族の一員として胸が痛くなるのを感じた。
そして骸の前に跪き、手を合わせてそっと祈りを捧げた。
その間も陶華は少しも歩を緩めなかったので、僕は走ってなんとか追いつく。
「お願いします陶華。何とかしてあげましょう」
「あなたならそう言うと思っていました。ですが、面倒臭いので嫌です」
「あなたは以前、悪い猛虎や巨象を退治し、人々の平和を守って来た筈です。陶華の冒険譚、僕は幾度となく読み返しました。諳んじる事もできる程です」
「あんなの全部嘘八百のデマカセに決まっているでしょう。阿呆も大概にしてください」
陶華は血走った右目の横顔を向けて、こちらを睨んだ。
僕は唖然としてしまったが、よくよく考えてみれば目の前に居る現実の陶華が、単純な善意で人々の平和を守るとは確かに考えにくい。
僕は美しい幻想が粉々に打ち砕かれていくのを、悲しみのままに感じるのだった。
しかし、直ぐにそれを振り払い、陶華の揺れる黒髪の後姿を強く睨む。
――僕は、この世界をより良くしたい。それに、陶華も……何があったかは知らないが、憎悪に塗れて生きている陶華にも、より良く生きて欲しい。
「陶華は、普通の存在である、と言い放った僕の事を助けてくれました。それには感謝しています。ならば、もう一度だけ気まぐれを起こして、あなたが普通だと言っていた春さんや、この村の景色を……どうか守ってください」
「私はあなた方魔帝の一族は大嫌いですが、意のままに暴れる魔獣は普通だと思っています。彼らは本能のままに人々を殺し、弄り、蹂躙します。その姿に虚飾はありません」
「虚飾がなくとも、人々を苦しめる存在に変わりはありません! 後生の頼みです! どうかあの熊魔獣を!」
その刹那、陶華がハッとしたような顔になった。
「熊魔獣、と言いましたね」
やがて、陶華はいつになく嬉しそうな顔で舌なめずりした。
「そうですか……なら話は別です。是が非でもやりましょう」
どうやら陶華にとって熊料理は格別に「普通」なようだ。
早速村人から熊魔獣の居場所を聞き付け、その通りに小高い麓の深い森へと入って行く。
時折踏んだ枝の折れる音と、不可思議な鳥の声。
その響きの中、鬱蒼と生い茂るなだらかな山道を、陶華と歩いていく。
「こちらです」
僕は時折立ち止まって耳に意識を集中する。
そして熊魔獣の出す音を聴き付けると先に立ち、洞穴へと陶華を案内する。
――不思議な誇らしさだ。この感覚は。
陶華の心根は想っていたそれとは随分……否、全く違う物であった。
魔獣を退治する動機も食欲と言う、不純と断じて然るべき物ではある。
しかし僕はこうして確かに陶華と冒険し、その先導をしていると思うと、やはり至福の心地よさが胸を埋め尽くすのであった。
「何をニヤニヤと笑っているのですか。気持ち悪い」
陶華に諫められながらも、僕は洞穴に垂れ落ちる水音と、大きないびき混じりの寝息を聴き取る。そして音の出どころに意識を集中させる。
「この丘を抜けた所に、奴はいる筈です」
丘に上がり切ると、灰色の大岩に空いた大きな穴。洞穴があった。
入り口の手前まで進むと、魔獣は僕達の気配にいよいよ気付いたのか、寝息を止めて起き上がる音を立てた。
「誰だ」
洞穴の奥から鳴り響く、怒ったような、低い唸り声。
魔獣の姿は見えない。
僕は魔獣に負けじと、なるべく低く叫ぶ。
「何故食する為でもなく、村人の命を奪うか。その理由を教えて頂きたい」
「理由などない」
その言葉に陶華は勝ち誇ったように笑ったので、僕は少し悔しくなった。
「俺はただ、時折人間の臓物を裂きたくなる。だから裂く。そして……食べても洞穴の蟲や苔よりまずいので捨て置く。後から無理くり理由付けするならそうなるであろう」
ずしずしと誰にも聴きとれる程の音を立てて、熊魔獣が近付いて来る。
僕は熊魔獣を鉢巻を外して出迎えた。額の黒の宝玉が露わになる。
「私は! 魔族を束ねる魔帝猿里である! そのことを知っての狼藉か!」
なるべく威厳が出るように大きな声でそう叫んだ。
「……成程お前が魔帝であるか。伺い知る所ではある。しかし俺は中原から天長城を飛び降りて人界に降りて来た身だ。今更魔帝など何でもない。俺の眠りを邪魔した罰は誰であろうと受けて貰う」
熊魔獣が二足で立ち上がった姿で、洞穴の岩肌を踏み越えて、落ち葉の敷き詰められた道へと顔を出す。僕の背丈の二倍はある程の巨躯だ。
「残念ですが、あなたを討伐する他に無いようです」
僕は右手を、手のひらを見せるように突き出し、そこに全身の気を流し込んで行く。
――真っ直ぐに放たれる黒い稲光と轟音。
黒雷法術の直撃を受けた熊魔獣は、大きな掌を今にも振り下ろさんと掲げたまま、目を見開いて動かなくなっていた。
そして焚火の燃える音のような、弾けるような音を立て、突き刺すような黒く小さな雷の残滓を纏い続けた。
幾度となく鍛錬して来た、魔帝の一族に伝わる黒雷法術。
よもや役に立つ時が来るとは夢にも思わなかった。
――それにしても、酷い頭痛だ。……やはり法術を使うのは、一日一度が限界なようだ。
やがて、熊魔獣の意識が戻り、今にも動き出しそうに思えた時、陶華は熊魔獣に一歩向かう。
そして長い黒髪を洞穴から吹く冷たい風で流しながら、振り向く。
すると剣筋の見えないままに、鮮血とその吹き出す音だけ残して、熊魔獣はうつ伏せに倒れた。地面が揺れる音が洞窟にこだました。
「弱い癖に……おっと失敬、雑魚の癖に余計な事はしなくていいです。私だけで十分倒せますので」
陶華はいつもの冷たい声色で吐き捨てる。
僕は悔しがるのも忘れて、ただただ口を開けて陶華の剣技に見惚れていた。
そして陶華は手慣れた様子で熊の皮を剥ぎ、骨を剣で削って臓物を抜き取り、血抜きした肉を薄く切り取ると、鉄鍋に入れて行く。
木の枝を集め終える頃に、陶華は岩塩と辛子を一つまみと、竹の水筒に入った酒を鍋に入れ始めた。
鍋がぐつぐつと煮立って来ると、軽い臭みと、立ち込める匂いが交じり合い、得も言われぬ香りが辺りに広がっていった。
「うまい……いえ、なかなかに普通ですね」
陶華は油の浮いた汁を匙で掬って、薄い唇に運んでいる。
僕も倣って汁を飲んでみる。
――旨い。
甘味に似た強烈な旨味が、こってりとした油と共に口中に広がっていく。
慌てたように熊肉を箸で掬ってみる。野性的な癖になる臭みと同時に、更に強烈な旨味が襲ってくる。
肉は上手く噛み切れない程硬かったが、噛み締める度に旨味と油が湧き出して来る。
「美味しいです」
「それは何よりです」
陶華は機嫌が良かったのか、いつになく優しく、静かに微笑んで答えた。
――やはり、微笑んでいる陶華が一番美しい。
それから暫く陶華は、熊鍋をガツガツと食べながら過ごしていた。
剣姫の冒険譚に書かれていた通り、随分と大食漢のようだ。
僕は鍋を掻き込む陶華を尻目に、時折思い出したように木枝を集めたり、熊鍋を突いたりしていく。そして自分の生まれた理由や「魔帝の儀」の理由をひたすら考え続けた。
それでも結局、答えは出そうになかった。