3話
次の日、僕は陶華に揺り動かされて目が覚めた。
「さっさと起きてください」
「……はい」
焚火は既に消し止められていた。
僕は布袋を抱えてそそくさと歩き出す陶華の後を付いていく。
「どこに行くのですか?」
「直に追手が来るので、長城沿いに北西に進んで北狄の砂漠へと逃げましょう。ここ范夏国は親衛隊のクズ共の本拠があるので少し危険ですが、北西なら片田舎しかないですし、暫くは大丈夫でしょう」
――追手か。
剣姫が単身魔帝城に乗り込んだまま帰らないとなると、「剣姫の冒険譚」でも度々活躍していた剣姫親衛隊は、魔帝城にすぐ乗り込んだ筈だ。
そしてもぬけの殻になった魔帝城に気付いて、すぐに僕と陶華の捜索に乗り出している事だろう。
ルドラとアノンは、今頃どうしているだろうか。
二人は魔帝軍でも随一を誇る実力者なので心配はしていないが、僕は少し気になった。
ふと、陶華が布袋から細長い布切れを取り出す。前を向いて歩いたまま、後ろ手に僕に渡す。
「これで頭の宝玉を隠してください」
僕は言われるがまま包帯を鉢巻のように額に巻き、黒い宝玉を隠した。
「一つ聞き忘れていましたね」
なおも前を向いたまま、落ち葉の林を歩きながら陶華が呟いた。
「あなたは今、何を為して生きたいのですか」
――僕は……一番は理由が知りたい。
生まれた理由と、死んでいく理由を。
でも、きっと陶華が聞いているのはそういう事ではないのだろう。
この世界をどうしたいか。この世界で何を為したいか。
彼女が聞いているのはそれだろう。
「僕は、この世界をより良くして行きたいと思っています」
「……より良く、と来ましたか」
「魔族は……中原を預かる僕ら魔人族を除いたらその多くが狂暴な者で、特に魔獣達は天長城から飛び降りて三王国に入り込んでは、人間達との間に度々要らぬ争いを起こしてしまっています」
陶華は、黙ったまま聞いていた。
「僕は、魔族と三王国が共存する方法を考えたいのです」
「お飾りのボンボンのクソガキが……おっと失礼。何もできない子供の癖に随分と偉そうな事言いますね」
僕は陶華の口調に怯まず、彼女の背中を真っ直ぐ見つめてみせた。
「お飾りでも権威は持っています。三王国全ての王の血筋を引く剣姫であるあなたにも、是非協力して頂きたい」
その時、陶華が突然に歩みを止め、僕は彼女にぶつかりそうになった。
振り向いて僕を睨んだ陶華の顔は、今まで見た歪みが比にならない程歪み切り、おぞましく見開いた血走った右目で、僕を見下していた。
「二度と、その名前で、呼ぶな」
低く、重い、地の底から響くような、憎悪に塗れた様な声だった。
生命の危機を感じた僕は、それきり言葉を止めた。
そのまま、気まずい空気の中、僕と陶華は林を抜けていく。薄茶色の石で組まれた、長城沿いに草原を進んでいく。
北の彼方には青々と連なる山脈。その手前には岩山が、大地から指のように真っ直ぐにいくつも突き出している。
そして岩山に寄り添うように、小さな村落と田畑が見える。
どれも本の挿絵でしか見たことがない光景だった。
「――美しいですね」
陶華もゆっくり首を回して、辺りを見渡しながら呟く。
「まあ、この景色は普通ですかね」
彼女の横顔は、いつになく優しく、穏やかに見えた。
普通というのは、陶華なりの精一杯の誉め言葉なのかも知れない。
僕は少しだけ彼女の事を理解できた気がして、嬉しくなった。
村に辿り着いた頃には、日も暮れかけていた。
「ごめんください。一晩泊めて頂けないでしょうか?」
陶華は、通りがかる村人に手あたり次第声を掛けていった。しかし、どの村人もそっぽを向いて無視するばかりだった。
諦めかけていた時、
「私の家でよろしかったら……どうぞ」
薄汚れた麻の深衣を着た若い女性が、気の弱そうな声色でそう言ってくれた。僕と陶華は、女性のお世話になる事にした。
女性の家は、崩れかけた土の壁に、茅葺屋根が乗った粗末な作りだった。
僕と陶華が薪割りをしている間に、女性は部屋の隅にある竈に火を焚いて、赤いクコの実が入った粥を作ってくれた。
「寝床だけでなく夕餉まで頂けるとは……なんとお礼を申してよいか」
深々と頭を下げる僕に、女性は恐縮した様子だった。
「いえ、どうか頭をお上げください。……こんな粗末な物しか出せませんで」
「私も感謝しております」
しかし陶華の言葉には、どうも感情が籠っていなかった。
僕はあまり気にしないまま、淀んだ白の粥を含んでみる。
「あ……おいしいです」
正直全く期待していなかったが、刻んだ茸と野草でしっかりと出汁が取ってあるようで、口中に旨味が広がった。
続いて淡白な雑穀の味わいと、クコの実の素朴な甘さも舌を楽しませる。
「お気に召して頂いたようで何よりです」
陶華にとってもこの粥は「普通」だったのだろう。少し目を見張るようにして粥を掻き込んでいる。
女性は春と名乗った。
話を聞いてみると、春はかつて范夏国の王宮で料理人をしていたそうだ。
そして故あって故郷のこの村に帰って、夫と暮らしていたが先立たれてしまい、今は一人でひっそりと暮らしているそうだ。
「何かお礼をしなければなりませんね」
何の気なしに呟いた僕を陶華が軽くねめつけたが、僕は気付かない振りをした。
「いえいえ、お礼など結構です。こんな粗末なもてなししか出来ないのに、却って申し訳ありません」
「それでは僕としても立場がありません。後生の頼みですから、何かさせてください」
「それなら……もし、あなたが困っている人を見つけたら、どうか助けになってあげて欲しいのです。どんな小さな事でも構いません」
「約束しましょう」
僕は春の顔をしっかりと見つめた。
陶華はというと、その様子を見て少し不機嫌そうにしていた。
川の水で皿洗いを手伝い、藁の寝床に陶華と横たわった僕は、女性が厠に行った時を見計らい、
「とても、優しい方ですね」
そう呟くように言った。
「猿里。少し面白い話をしてあげましょうか」
陶華の声は、どことなく皮肉めいていて不気味に感じられた。
「ある村に、傷だらけの少年がやって来ました。心優しい村人は、少年を介抱して匿ってあげました」
陶華はいよいよ皮肉めいた笑みを隠さなくなっていた。
「次の日、少年は逃げ出していました。やがて村には火の手が上がり、村人は全員無様に蹂躙され、皆殺しにされました。少年は、敵国の斥候だったのです」
僕は黙ったまま、枯草と枯竹の天井を見つめた。
「その村人は、軽率だったのかも知れません。あらゆる可能性を配慮しなければ、優しさが時に、取り返しのつかない結果を招いてしまう。それは確かです。しかし、」
僕は、軽く息を吸って続けた。
「あの女性、春は優しい人ですし、何も間違ったことはしていないと思います」
「何も変わりませんよ。国境の長城はすぐそこです。三王国で千年間大きな争いが起きていないとは言え、私達が司紀国の斥候でないという保証はありません。もちろん盗賊の一味でないという保証も皆無です」
余りにも穿った考え方ではないか、と言いかけた。
しかしそれは僕が、自分に悪意がない事を知っているからこその発想なのかも知れない。
春にとっては、この村の村人にとっては、それは分からない事だ。
僕が言い淀んでいると、陶華が少し小さな声で言った。
「でもあの粥は中々に結構でした。そんな粥を出してくれたという意味では、春も……普通かも知れません。私にとっては、ですが」
「そうですか。それは何よりです」
陶華を怒らせずにこんな長い会話を出来たのは初めてかも知れない。
僕は少しほっと息を吐いた。
そしてそのままゆっくりと瞼を閉じた。