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1話

「ああ……おいたわしや……猿里様……」


「まだ十二歳になられたばかりだと言うのに……」


 壁越しに漏れ聞こえる若い女の声と、初老の男の声。


 魔帝の宝玉を生まれつき額に持って生まれた影響だろうか。

 ここ数年、僕の聴覚は壁越しの足音ですら聴きとれる程発達していた。


「ルドラ様……『魔帝の儀』とは、本当に必要な物なのでしょうか」


「……それ以上言うでない。古くからの仕来りを守るのが我ら魔人族の本懐だ」


「……失礼致しました」


 僕は、玉座の肘掛けに頬杖をつきながら、壁越しに聞こえて来る侍中のルドラとアノンの会話に耳を傾けていた。

 時折僕は、二人の会話を盗み聞きして、表に出せないような本音の会話を聞いたり、外の世界の話で想像を膨らませたりしている。

 生まれてこの方魔帝城で暮らす僕には、ちょっとした楽しみだ。


 ――しかし、あの二人。僕の事をおいたわしや、とは失礼な事を。

 あろうことか百年に一度の「魔帝の儀」まで愚弄するとは一体どういう了見か。


 僕は軽く顔を顰めて息を吐いた。

 僕が十二歳までしか生きられない事は、七歳の頃にはルドラから知らされていた。

 初め僕は現実を受け止めきれず、泣きわめいたり、暴れたりしてしまっていた。しかし九歳の頃には、ルドラの根気強い説得で死の運命を受け入れる事が出来た。


 明日、僕は剣姫、陶華に殺される。

 それは、誰にも覆す事の出来ない絶対的な運命なのだ。


 立ち上がり、大きな本棚から「剣姫陶華の冒険譚」を取り出す。

 剣姫の事が知りたい、と言った時の、ルドラの哀れみと苦笑いが混じったような表情は、今でもハッキリ思い出せる。

 ルドラは、初めこそそんな僕を諫めていたが、やがて僕の熱意に負けたのかこの本を持って来てくれた。


 冒険譚の頁をめくりながら、自分を殺しに来るであろう、強く、優しく、美しい剣姫……陶華に想いを馳せる。

 ――ああ、陶華は如何様にして僕の命を絶つのだろう。その時、僕は、彼女は、何を思うのだろう。


 栞を挟んで本を閉じ、表紙に描かれた美しい剣姫の横顔を見つめる。

 左目は黒い布の眼帯で覆い、右目は剣のように鋭く、真っ直ぐに、彼方を見つめている。

 長く美しい黒髪も、凛とした鼻筋や口元も、彼女の剛健質朴な性格を物語っているように感じられた。

 やがて、胸の辺りに靄のように、心地よい焦燥のような幸福感が纏わりつく。

 その靄は、心臓の高鳴りと共に段々と熱を帯びて行く。


 ――ああ、今すぐにでも剣姫に会いたい。

 何故彼女の事を考えると、こんなにも苦しくも、心地よくなるのか。

 その理由は、唯一つしか思い浮かばない。


 僕は、陶華に恋をしてしまっている。


 うっとりと冒険譚を読み終えた頃、ルドラとアノンが鉄扉の鍵を開けて深くお辞儀して入って来た。

 そして、二人は晩餐の準備を始めた。

 黒漆の食卓の上には、いつも以上に豪勢な食事が並べられていく。

 饅頭に、水餃子に、揚げ麺麭に、蛇の汁物もある。

 中央には、僕の大好物の黄桃が山のように積み上がっている。


 そのどれもが、世界で最も豊かな魔帝領……中原の実りだ

 やがて、二人は僕と向かい合うように着席し、無言のまま食事が始まる。

 食べながらも、二人はチラチラと憐れむような目線でこちらを見て来る。

 僕はその目線に軽く不快を抱きながらも食事を進めていった。


「陛下……明日の『魔帝の儀』が滞りなく執り行われますよう、心よりお祈り申し上げます」


 ルドラが食事の手を止めて、そう言った。

 ルドラは俯くようにお辞儀していたが、あの不愉快な目をしているのははっきり分かった。……アノンもだ。


「二人共、何の理由があって、その様な目で僕を見るのですか」


「……申し訳ございません」


 僕の冷たい声に、ルドラは表情が伺い知れない程深く頭を下げた。アノンもつられるように長い赤髪を揺らして頭を下げる。


「全ての物事には、理由があります」


 剣姫の冒険譚に書かれていた、陶華の決め台詞をそのまま二人に突き付ける。

 智と剣でどんな難敵にも果敢に立ち向かい、人々を救って来た剣姫を象徴するような、理知的で鋭い台詞だ。


 ルドラとアノンは、僕が由緒正しい「魔帝の儀」を軽視し、自分の命可愛さに怯えていると思っている。

 僕の事を臆病な魔帝だと思っている。


 二人が僕を憐れむような態度を取る理由は、それしか思い当たらない。

 僕は、卓に頭をぶつけそうな程頭を下げる二人に、ゆっくりと語り掛けるように言った。


「二人共、頭を上げてください。私はずっと変わらぬ忠義で尽くしてくれたあなた達に感謝しているのです」


 ルドラとアノンがおずおずと頭を上げるのを待って、続ける。


「ですが……いやだからこそ、僕にはどうにも我慢ならないのです。名誉ある『魔帝の儀』を、あなた達に哀れみの目を向けられながら果たすというのは」


 二人は、意を決したように真っ直ぐ僕を見つめ返した。

 やがて、ルドラの銀の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。


「ご立派に……なんとご立派になられたことか……」


 ルドラが涙を流す理由が、僕への哀れみからではない事はすぐに分かった。

 アノンもさめざめと泣きながら、手拭いを取り出して目頭を抑えている。


 晩餐が終わった後、僕は自室の大きな壁掛け鏡に映る、自分の姿と向かい合っていた。

 額の生え際の辺りには、魔帝の証である、漆黒の宝玉が埋め込まれている。

 魔帝の儀の行われる十二年前に生まれた魔人族の赤子の内、黒宝玉を生まれ持つのは天に選ばれたただ一人だけだ。

 その、天に選ばれた赤子が僕だ。

 何とも誇らしい鈍い輝きを見つめながら、側頭部の両側に生えている小さなツノを触ってみる。

 ツノは僕の濃い茶色の髪に埋もれてしまっていて、見た目にはそれと分からなかった。


「ダメだ。これじゃあ気付いて貰えないだろうな」


 剣姫に僕の自慢のツノを見て貰いたかったが、駄目だったようだ。

 僕は満開の花びらに思いをはせながら、卓上の鉢植えにそっと木のジョウロを傾ける。

 鉢植えのツボミの開花も、結局見られそうにない。

 僕のツノも剣姫に見て貰えない。

 心残りな事と言えば、その二つくらいだ。


 ――明日、僕は剣姫に殺される。


 寝台に寝そべった僕は、緊張と、期待と、少しの不安の中で、灰色の天井を見つめた。

 眠れない。眠れるはずもない。

 寝返りを打つと、格子の付いた窓に半月がぼんやりと光っていた。


 そして、待ちに待った次の日がやって来た。

 僕は、角張った冠と、豪華な藍の礼服と、黒い外套を身にまとい、魔帝の一族に代々伝わる大きな杖を持って玉座に腰かけていた。

 昨日一睡もできなかったせいか、少し眠い。

 ルドラとアノンが部屋に赤い絨毯や、燃え盛るかがり火といった装飾を施していく様が、まどろみのように移ろって行く。


「陛下……間もなく剣姫が到着するとの事です」


 ルドラがそう言った。

 アノンと隣立って、いつも以上に畏まった様子だ。


「では下がっていてください。今までのあなた方の忠義、忘れません」


 二人の目には、一瞬だけ哀れみの念が感じられたが、僕は見なかった事にした。

 そして二人は深くお辞儀して、ゆっくりと玉座の間を出て行った。

 ――入り口の鉄扉を、開け放したまま。


 普段は厳重な鍵が掛けられているあの扉が、開け放したままになっている光景を見るのは、生まれて初めてだった。

 外開きに傾いだ鉄扉の向こうに、燦々と朝日を放つ窓。

 眠気はとうに吹き飛び、替わりに緊張と期待が僕の頭を埋め尽くしていた。

 そして、僕は永遠にも思える時をじっと待ち潰した。


 やがて、鉄扉がより一層傾いで、扉は完全に開いた。

 窓の朝日が放つ光に、目が眩みそうになる。


 鉄兜で顔を隠し、白銀の鎧と緋袴を身に纏った剣姫が、そこに立っていた。

 彼女は、透き通るような長剣を鞘から少しだけ引き抜いて光らせながら、僕が待つ玉座へと歩み寄ってくる。

 足音が、高らかに玉座の間に響く。

 剣の間合いより少し離れた場所で、彼女は歩みを止めた。

 そして、恐らく手筈通り、鉄兜で顔を隠したまま、ただ黒い右目だけを光らせて、僕の名乗りを待っていた。


 ――顔すら見せてくれないとは。

 僕は必死に兜越しの剣姫の顔姿を思い描き、意を決して名乗りを始めた。


「我が名は猿……」


 ――ゴトン、と何かが落ちる音。

 杖を握ったままの僕の右手が、切り落とされて転がっていた。

 剣姫は、剣を横に素早く払う。

 剣に付いていた僕の赤い血が、白い壁に痕を残した。


「……ぐっ! うぐうううっ!」


 手の付け根を抑えて床を転がりまわる僕は、状況を理解できないでいた。

 ――心臓に一太刀……それが魔帝の儀の仕来りだった筈だ。……おかしい。何かがおかしい。

 僕は蹲って震えながらも声を絞り出した。


「何故……こんな弄るような……事を……!」


 剣姫は何も言わずに、微動だにせずに、兜越しの黒い瞳を僕に向けて光らせるばかりだった。


『全ての物事には、理由があります』


 何度も読み明かした冒険譚のその台詞が、頭を埋め尽くす。


「理由を……! 理由を……」


 ――そうだ、理由は? 剣姫は何故、美しく清廉潔白な筈の剣姫は何故、僕が想像し期待していたように、仕来り通り一瞬の苦しみもなく、死の実感すらない程に、刹那に、僕の命を優しく眠らせるように絶つのではなく、あろうことか、手首を切り落として命を弄ぶような……そんな冷酷で惨たらしいそんな所業を……何故剣姫は……どんな理由があって……なし得たのだろう……。


「理由を教えてください!」


「理由なんてありません」


 剣よりも鋭く、透き通った美しい声だった。


「何か……理由が……」


 僕は、陶華へ縋り付いた。呻きながらも必死に剣姫に這い寄って、手の斬り落とされた、血のにじむ右腕を彼女へと伸ばしながら。


「理由なんてねぇんだよ!」


 耳を疑う僕に、彼女は剣を振り上げ、


「これからお前を殺すのにも! お前がこれから無様に惨たらしく死ぬのにもなあああああああああああああああああああ!」


 粗野で、野卑で、荒々しい声で、そう叫んだ。


 僕の心は、不思議と冷静になっていた。

 まるで、第三者の目線で自分を見ているような心持ち。

 そんな夢うつつのまま、僕はただひたすら理由を考えていた。

 ――理由を。理由を。理由を。


 剣姫……陶華が僕の手を切り落とした理由。そして……、

 そして、決して考えぬよう、心の奥底に鍵を掛けてしまい込んでいた疑念も、少しずつ、沸々と湧き上がって来るのを感じた。


 ――魔帝の儀は何の理由があって行われるのか。僕は何の理由があって死ぬのか。

 しかし、いくら考えても何も思い浮かばない。

 分からない。僕がこの世界に生まれて来た理由も。想像していた剣姫とは全く違う残忍で冷血な痴れ者に、無慈悲に弄られた後、あっけなく命を奪われる理由も。

 分からない。きっとある筈だ。だが、思い浮かばない。


 もう時間がないのに。

 悔しい。悔しい。悔しい!

 何もわからない自分が。僕の時間を奪おうとする剣姫が。

 何も出来ない自分が!


「えっぐ……」


 シャックリのような声が出た後、剣姫は僕の涙で歪んで、まともに見えなくなった。


「ううぐうぅ……理由を……理由を教えてください……」


 止めどなく溢れて来る涙を左手の裾で拭って、剣姫の黒い瞳を睨む。

 しかし、拭っても、拭っても、涙は溢れ出て来るばかりだった。


「うぐうう……ううう……何で……何の理由があって……」


 すると、剣姫は、頭上に掲げた剣を、降ろしていった。

 彼女は剣を鞘に納め、灰色の兜をゆっくりと外していく。

 眼帯に覆われた左目。鋭く、美しい右目。長い黒髪。凛とした顔立ち。

 挿絵で見た通り。否、それ以上に美しい姿が、ずっと夢見て来た彼女の姿が、そこにはあった。


「生きたいですか」


 僕は剣姫が恐ろしくて堪らなかったが、それ以上に時間が欲しかった。

 そして、心のままに、叫ぶように言った。


「……生きたいです」


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