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世界一短い手紙

作者: AS

「ヴィクトル・ユーゴーって知ってる?」

 彼女は林檎の皮を剥きながら、病床の僕に問いかけた。

「何か聞いたことはある気がするけど、誰だっけ?」

 本当は皆目見当もつかなかったが、僕は見栄を張ってそう返した。

「フランスの作家の名前。『レ・ミゼラブル』って知らない?」

「それは知ってる。何年か前に映画観に行ったもん。あれは良かったなあ」

「その『レ・ミゼラブル』の作者がヴィクトル・ユーゴー」

「へえ」

 素直に感心する僕に、彼女は皿の上に綺麗に切り分けられた林檎を差し出した。

「ありがとう」

 僕はそれを受け取り、一切れ口に運んだ。シャリ、という気持ちの良い音が口内に響くのが分かった。

「で? そのヴィクトルさんが何なの?」

「その人がね、『世界一短い手紙』を書いたことでも有名な人なの」

「世界一短い手紙?」

「そう。どんな内容だったと思う?」

 彼女の問いに、僕は数秒空を見つめて考えてみた。

「そうだなあ。『元気ですか?』とか、『こんにちは』とか、そんな感じ?」

「全然違う」

 彼女は僕が間違えたのが心底嬉しいというような顔で言った。

「ヴィクトル・ユーゴーの書いた手紙は、もっと短いの」

「これより短いの? それ何文字なの?」

「一文字」

「一文字?」

 素直に驚く僕を見て、彼女はまた嬉しそうに笑った。

「そう。ヴィクトル・ユーゴーはね、『レ・ミゼラブル』を出版してすぐ、疲れを癒すために海外旅行に行ったの。でも、旅先で本の売れ行きが気になって、出版社に手紙を送ったの。それが世界一短い手紙なんだけど、その手紙には、一文字『?』だけが書かれてたの」

「はてなマークってこと?」

「そう。つまり、『ほんの売れ行きはどうだ?』っていうのを、『?』一文字で表したの」

「へえ」

「そして、この手紙を受け取った出版社の人は『順調に売れてますよ!』ってことを返事に書くんだけど、それが『!』の一文字だったの」

「びっくりマークか」

「へえ。面白い話だなあ」

「さて、話は変わりますがーー」

 彼女は声のボリュームを少し上げた。僕の病室は個室なので、周りの患者に迷惑がかかるというようなことは無いが、看護婦さんに怒られはしないかと、僕は肝を冷やした。

「夏目漱石が”I love you”を何て訳したかはご存知?」

 さっきの手紙の話にしても、こういう類の話が大好きな彼女の声は躍っていた。

「それはさすがに僕も知ってる。『月が綺麗ですね』だろ?」

「その通り。じゃあ二葉亭四迷は?」

「ふたば……何?」

「二葉亭四迷。『浮雲』とか書いた人。日本史で習ったでしょ?」

「さあ……記憶に無いな」

 勉強というものが何より嫌いだった僕は、学生時代ペンを持つべき指にタバコを挟み、友と突き合わせる為の拳で他人を殴った。今こうして病院のベッドでただ死を待つだけの状態になったのは、罰が当たったのだと、僕は理解していた。

「まあいいや。そういう作家がいるの。でね、その人は”I love you”を『死んでもいいわ』って訳したの」

「へえ。何かかっこいいな」

「まあ、こっちのは諸説あるんだけどね」

 僕は林檎をもう一つ口に入れた。またシャリ、シャリ、という音が鼓膜を揺さぶる。

「で、君は結局何が言いたいの?」

 結論を求める僕の問いに、彼女は満を持してというふうに話し出した。

「この二つの話を知ったときに、私は思ったのです。じゃあ、『世界一短い”I love you”』は、何て言ったらいいんだろうって」

「世界一短い”I love you”?」

「そう。もし”I love you”を一文字で訳すなら、何になるだろうっていうのを考えるのが、最近の私のマイブーム」

「そんなの、『愛』とか『好』とかでいいんじゃないの?」

「君は風情のない人間だねえ」

「うるさいな」

「そんなの小学生でも言えるじゃない。私は、『月が綺麗ですね』とか『死んでもいいわ』とか、そういう風情があって、日本人的な訳し方は無いかって言ってるの」

「そんなこと言われてもなあ」

「君なら良い答えが浮かぶんじゃないかと思ったんだけど」

「どうして?」

「だって病気だから」

「どうして病気だったら思いつくのさ」

「あら。病気と文学は密接な関係にあるのよ。和泉式部も森鴎外も夏目漱石も正岡子規も宮沢賢治も、みんな病気で死んでるんだから。きっと、病気になると体が動かないから、その分頭がよく回るのよ」

「それはさすがに暴論じゃないかな」

「暴論結構。さあ、私に良いアイデアを頂戴」

「そんなこと急に言われても思いつかないよ」

「しょうがないなあ」

 彼女は呆れたという顔で僕を見た。そんな顔をされる謂れは無いはずなのだが。

「何かいい答えないかなあ」

「さあね。少なくとも、僕に期待しても意味ないよ」

「何とか日本を発つ前に納得のいく答えを出したいんだけどーー」

「……」

 僕は思わず黙ってしまった。

 彼女はこう見えて、その界隈では「天才」と称されるほどのバイオリニストであり、来年からウィーンへ留学することが決まっていた。本気でプロを目指している彼女は、少なくとも向こう五年は日本に帰って来ないつもりらしかった。おそらく次に彼女が日本に帰って来たときには、僕はもうこの世にはいないだろう。彼女は僕の死に目に遭うことよりも、自分の夢を追いかけることを選んだ。しかしそれは、どちらかというと僕の希望だった。僕みたいなちっぽけな命のせいで、彼女の夢が邪魔されることだけは嫌だったのだ。

「仕方ない。今日は帰るね」

 彼女は立ち上がり、コートを羽織りながら言った。

「うん」

 僕はまた林檎を頬張りながら答えた。

「答えが出たら教えてよ」

「もちろん」

 彼女は笑顔で言うと、さっと振り返って病室を出て行った。


✳︎


 あの会話から二年弱が経った。あれから彼女は何度か僕の病室を訪れたが、結局納得のいく答えは出なかった。そして彼女は単身ウィーンへと旅立って行った。

 僕はというと、懸命の治療も虚しく、医者が最初に宣告した通り、今にもこの世からサヨナラしようとしていた。ベッドの周りでは家族が僕の名前を叫んでいるようだが、その声もよく聞こえない。目は開いているはずなのに、視界は真っ暗だ。息も苦しい。必死に肺を動かそうとするが、どうすれば肺は動くのか、どうすれば筋肉が動いてくれるのか分からない。もはや僕には、僕の体のどこも制御することができなかった。

 そのとき、誰かが新たに病室に入って来たような気配がした。どうやら看護婦さんが慌てて入って来たようだった。僕はまだわずかに残された聴覚を使い、家族が僕にかける言葉を聞き取ろうとした。

「……オースト……手紙が……たよ……。……るね……」

 母は、封筒から一枚の紙を取り出し、中に入っていた紙を取り出すと、それを僕に見せた。僕はほとんど目が見えなかったが、白い紙に大きく一文字だけ書かれていることは視認できた。


「?」


 僕は思わず笑った。いや、顔の筋肉はほとんど動かせないから、実際に笑い顔を作れたかどうかは分からない。

 僕は小枝のように細い、しかし鉛のように重い腕を必死に持ち上げ、指をペンを持つときの形にした。僕の意思を察してくれたのか、誰かが僕の手にペンを握らせてくれた。僕は、「?」の横に一文字だけ書くと、全ての力を使い果たしたのか、もう僕の体は微動だにしなかった。

 もしかしたら、僕は「世界一短い最期の言葉」を残した人物になれたかもしれない。

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