『7』
あまりにも辛い現実から目を背けて、死を選ぼうとした矢先。
その瞬間に、僕の脳裏に浮かんだのは鮮明に僕の心に刻み込まれた思い出の数々だった――。
『一秒でも早く、お前と顔合わせなきゃ気が済まないって意味だかんな……♡そのくらい、分かれよな!このタコッ♡』
『アタシに勝てたら、とっておきのご褒美をあげるから、早く負けさせてよね……チー牛♡』
『――馬鹿ね。貴方が買ってきたものなら、なんだって良いに決まっているでしょ。これだから、パシリは……』
思い浮かぶのは、あれだけ僕に苦しい想いをさせてきたはずの、三人と過ごした日々の記憶。
僕をこここまで追いつめた原因であるはずなのに――僕はそんな思考を振り払うでもなく、この状況になっても、彼女達との思い出にしがみついているのだという事に、今更ながら気づかされる。
「あぁ、そうだ……こんな簡単な事だったのに、僕はなんで今まで忘れていたんだろう」
そう呟きながら、僕は再び踵を返す。
僕の視界にいるのは、当然の如く僕を巡って死闘を繰り広げていた異界の女神と名家のドラ息子の二人だった。
こちらに気づいた二人は、戦闘を中断して僕の方へと顔を向ける。
そんな二人を見据えながら、僕は自身の意思をしっかりと告げる。
「僕には、僕の事を待ってくれている人がいるんだ。――だから綾凪さん、犬神君。僕は君達のどちらも選んだりしない……!!」
人知を超えた権能を所持する綾凪さんと、そんな女神の力すらものともしない強大な犬神君の二人を前にしての、はっきりとした否定。
次の瞬間に、僕は物言わぬ肉塊に成り果てているかもしれない。
それでも、と僕は自身の意思を彼らへと告げる――!!
「君達が例えどれだけ凄い女神や権力者であっても!圧倒的なまでの権能や強さを持っていたとしても!この学校にいる限り、僕は彼女達専属のパシリなんだ!!――そんな彼女達をバックレる真似なんて、絶対に僕はしないッ!!」
決意を込めた僕の魂からの叫び。
そんな僕に真っ先に反応したのは、凄まじい斬撃の持ち主である犬神君の方だった。
犬神君はその名に相応しい、獰猛ながらも気色を隠し切れない様子で、盛大に呵々大笑していた。
「カハハッ!!なんだそりゃ!!――女神の眷属になるでもなく!俺の仲間になるでもなく!……自分の意思でアイツ等のパシリをし続ける道を選ぶってのか!!コイツぁ、傑作だなッ!!」
そうひとしきり笑ってから、急変ともいえる速さで気迫を滲ませながら、犬神君が凄みのある相貌で僕を睨みつけてくる。
「――これが、俺からお前への最後の通告だ。……水津盛、戯言もそこまでにしておけ。俺のこの全てを斬り裂く爪も、テメェの女達を狂わせるほどのパシリ気質も、何かを守るためなんかじゃ断じてねぇ!全てをブチ壊してから、自分の望んだ未来だけを掴みとるための力だッ!!」
……あぁ、それは間違いない。
DQNとパシリ。
その在り方は対極なれど、僕達は存在するだけで周囲の平穏を壊してしまうという点においては、まさに鏡合わせともいえる存在に違いない。
出会うタイミングさえ違っていたら、こんな『利用する・される』なんていう形式じゃない、僕達は本当に互いを理解し合える“親友”という存在になれていたのかもしれない……などと夢想する。
「――だけどさ、犬神君。僕は自分がどれだけ凄まじい性質を持っていたとしても、それでも、彼女達とこれからも向き合っていくって決めたんだ。……自分がどんな能力や才能を持っているかじゃない。自分で何を考え、どう行動するのかが大事なんだってことは、君が生きた人間として異界の女神に伝えた言葉のはずだよ」
――『本当にお前がコイツの事を救ってやるってんなら、いきなり転生なんて怪しさバリバリのもんを持ち出すよりも、お前が普段からコイツの悩みを聞いてやれば良かったじゃねぇか?』
自身で口にした発言を思い出したのか、ハッとした表情で押し黙る犬神君。
だが、それも一瞬の事で険しい顔つきをしてから、一度だけ深いため息をついて再度口を開く。
「……例えどんな理論を並べようがな、俺は自分から不自由な檻の中に入って喜ぶような奴は嫌いだね。そう考えたら、やっぱテメェみたい自分で道を切り開こうともしねぇパシリ野郎は普通にナシだわ」
「それはこっちの台詞だよ。大体なんだよ、君はやたらと自分の力で云々とか言っているけど……そんなのはある程度、権力者の親が敷いてくれたレールと人脈やら支援が最初から色々とあるヤツの単なる余裕と傲慢じゃないか!……それに、僕だって君がルトナさんの事を呼び捨てにした事とか全く許してないからね?」
「うっせ、うっせ。急に慣れ合おうとすんな、気色悪い。テメェこそ、いいようにやられてたパシリってだけで、綾凪からチヤホヤと声かけてもらおうなんざ、調子に乗りすぎだっつーの!!……あぁ、いいやもう。面倒くせぇ……」
……え、なんだ今の発言……?
僕が考えを整理するよりも先に、これまでやり取りを黙って聞いていた綾凪さんが何故か顔を赤らめながらも、僕らの間に割って入るように口を開く。
「――私はこれまで、いじめを苦に自殺するくらいなら、私の権能で痛くて怖い思いをすることなく安らかに異世界転生してもらいたいと思って、水津盛君に介入する事を決めました。……ですが、今の彼は死ではなく、自身の目標で生きる事を選んでおり、私がこれ以上干渉する必要性というものはなくなったみたいですね。……犬神君、貴方のほうはどうですか?まだ彼に関わるつもりなんでしょうか……?」
そんな綾凪さんの問いかけに対して、犬神君がつまらなさそうに返答する。
「んな訳ねぇだろ。俺は最初の時に言った通り、まだ洋宮院の家と事を構えるつもりはねぇんだ。――コイツが自殺やらお前の勧誘に乗って異世界転生するでもなく、自分の意思でまたあの女どものパシリに成り下がる事を選ぶんなら、これ以上の引き抜き行為なんてのは面倒以外の何物でもねぇよ」
「犬神君……!どうも、ありがとうございます!これでひとまず、私達が水津盛君の事で戦う理由はなくなった、という事ですね!」
若干嬉しそうに答えながら、すぐにハッとした表情になって綾凪さんが今度は僕へと向き合う。
「水津盛君、今回は非常に怖い思いをさせてしまい大変失礼しました。――良ければ、私の権能で今回の騒動の記憶を、何の後遺症もない状態で消去する事も出来ますが……どうしますか?」
本来なら、ありがたい申し出なんだろう。
だけど僕は、綾凪さんの提案に対して首を横に振って答える。
「ありがとう、綾凪さん。だけど、僕はこのままで良いよ。……そりゃ、とっても怖い思いもしたし、ついさっきまで僕は屋上から飛び降りようとするほど自分が何のとりえもない無能だと思っていて、生きている価値がないどころか、生きているだけで周囲の人達を不幸にする元凶なんだって死にたくなるほど、自分の事が嫌いで嫌いで仕方なかったんだ……!!」
でも、そうじゃない――と、今なら声を大にして言う事が出来る。
「僕は校内で人気のマドンナで異界の女神の綾凪さんと、校内で悪名高い不良で名家の跡取りの犬神君の両方から必要とされた上に、そんな凄い二人を相手にしながら、自分の意思をしっかりと伝える事が出来たんだ。――この記憶が僕にある限り、僕はあの三人にパシリを“やらされていた”時と違って、自分でパシリであり続ける事を選んだ人間として、彼女達とこれからも真剣に向き合っていけると思うんだ」
もちろん、実際に現実が急激に何か変わったわけでもないんだろう。
ただそれでも、今の僕はこれまでとは違う視点で世界を見渡せるようになっている気がした。
「僕はこの地上でもっともおっかない二人の誘いを断ってまで、彼女達のパシリであることを選んだんだ。だから、どれだけあの三人が僕の事を想ってくれていたとしても、パシリの範疇を越え過ぎた“学生だけの二泊三日の子作り温泉旅行”なんてプランだけは絶対に断るよ。……そりゃ、怒られたり侮蔑されたり泣かれるのは困るし怖いけど……流されるまま人生を破滅させるような堕落に突き進んだり、苦しんで死を選ぶことなんかよりも、その方がずっと大事で素敵な事だと僕は思うんだ……!!」
だから、と僕は眼前の二人に向かって、笑みとともに感謝の言葉を口にする。
「君達とは、この短い時間の中で色々あったけど……それでも、今日この屋上で僕と出会ってくれて、本当にありがとう……!!」
「水津盛君……!!うぅん。私の方こそ、女神なのに今まで苦しんでいた君の事を上手く助けてあげられなくてゴメンね……!!でも、そう言ってくれて、こちらこそ本当にありがとう!」
「まぁ、この俺の誘いを断ったんだから、そのくらいのことはテメェにもやり遂げてもらわねぇとな?――だから、絶対にそんな俺が認めたテメェってヤツは、洋宮院達なんかに負けずにビシッ!とかましてやるんだぞ、水津盛……!!」
そんな二人からの感謝や激励を受けて、僕の目頭から熱いものがこみ上げる。
こらえきれなくなって満足に喋られない状態になりながらも、僕はただひたすらに彼らの想いに答えられるように何度も強く頷きを返していた――。
あの屋上での怒涛の出来事が嘘であるかのように、それから僕は、慌ただしくも平穏な日々を過ごしていた。
そうしているうちに僕達は、とうとう、夏休み直前の終業式を迎えた――。