『6』
突如、僕に向けて放たれた柄の悪い男の罵声。
それに対して、綾凪さんがすぐに険しい表情をしながら振り返る。
「――誰なのッ!?ここは今、私が女神としての権能で結界を張っているから、誰も屋上内に足を踏み入れることは出来ないはず……!!」
そんな彼女の問いかけに対して、屋上の入り口付近にいた赤髪が特徴的なガラの悪い男子生徒が答える。
「そこは普通『何奴ッ!?』だろ。お前は冷奴よりも喰えねぇヤツだな、綾凪……いや、人間のフリした女神様、とやらか?――まぁ、良い。生憎だがお前ご自慢の結界術式とやらは、俺がこの爪であっけなく引き裂いてやったぜ……!!」
そう得意げに返答する彼も綾凪さん同様に、陰キャの僕でも知っている校内の有名人だった。
……もっとも、その方向性は真逆のものではあるが。
彼の名前は、犬神 秋人。
東京から来たルトナさんの洋宮院という家柄と違って、この地域に昔から根差した名士と呼ばれる家柄の跡取り息子だった。
彼は地域と密着した家柄の力を使って、黒い繋がりを築き上げたり、犯罪行為を隠蔽したりしているともっぱらの噂である人物だった。
そして先程の発言から分かる通り、個人としての武力も優れているようだ。
見れば彼の言うとおり、犬神君の両手の爪先には、鮮烈な輝きが宿っている。
……なるほど。
犬神君の言う通り彼は名家の跡取り息子として、親の七光りを自身の爪先に宿した斬撃によって、全てを斬り裂く事が出来るのか。
確かにこれなら、異界の女神である綾凪さんの結界術式とやらを破ってこの屋上に足を踏み入れたとしても、何ら不思議ではないのかもしれない。
……でも、そんな彼が、この場に来たのは一体どういう訳なんだろうか。
困惑する僕の前で、犬神君が語り始める。
「それにしても、同じクラスメイトだと思っていた女子が、まさか、異世界から来た女神だったとは!……クククッ、こりゃ実に面白い情報が手に入ったぜ!!この特ダネを、普段お前と仲良くしているクラスの奴等や、マドンナ扱いしている校内のスケベ男子達に教えてやったら、一体どんな顔をするのやら?」
「なっ……い、異界の女神である私を脅迫するつもりなんですか!?犬神君、貴方は最低です!……例え周囲がどんなことを言っていても、こちらに来たばかりの頃の私に親切にしてくれた貴方は、そんな人なんかじゃないって信じていたのに……私、完全に貴方の事を見損ないました……!!」
静かな口調とともに、キッ!と犬神君を睨みつける綾凪さん。
そんな彼女の罵倒にヘラヘラとしながらも、彼は全然笑っていない瞳のまま、綾凪さんに言葉を返す。
「見損なった、ねぇ……人を救うはずの女神様とやらが、自殺しようとしている奴を止めるどころか、唆すような真似をしているわけだけど、そっちの方がよっぽど悪どいんじゃねーの?流石に俺も、そこまでの事をしたことはねーよ!」
「ッ!!……だ、だって、私は基本人の魂を転生させる事しか出来ないし、こうする事でしか苦しんでいる水津盛君の魂を救ってあげる方法を思いつかなかったから……」
小声ながらも、何とか必死に犬神君に言い返す綾凪さん。
だが、対する犬神君はなおも彼女へと畳みかける。
「アン?本当にお前がコイツの事を救ってやるってんなら、いきなり転生なんて怪しさバリバリのもんを持ち出すよりも、お前が普段からコイツの悩みを聞いてやれば良かったじゃねぇか?どうせ、口ではなんだかんだ言いながら、お前がコイツの魂を回収したら、もっと上の神様からなんかポイントもらえちゃいまーす♡的なのがあるんだろ?」
「なっ……!?わ、私達転生の女神の役割をそんな風に侮辱しないでください!!そんな風に思うのは、貴方がそんな人間だからでしょう!?……私は、普段から男の子とどうやって話したら良いのか分かんないし……さっきの水津盛君へのお誘いも、私なりに一生懸命勇気を振り絞ってたんです!!発言を撤回してくだい!」
そのように顔を真っ赤にしながら反論する綾凪さんに対して、鼻白んだ表情をする犬神君だったが、気を取り直したように、今度は僕の方に視線を向けながら、話を切り出してきた。
「アホくさ。……おい、水津盛!お前、外面良くてもコミュ障拗らせたこのアホ女神のせいで、もう少しで死ぬとこだったんだぞ?……まぁ、コイツの誘いがなかったとしても、お前は飛び降り自殺してたかもしんないけど、どうせ死ぬつもりならいっそのこと、俺と一緒に組まねぇか?」
校内屈指の悪評の持ち主である傍若無人な名家の跡取り息子:犬神 秋人。
そんな彼が、僕の事をパシリ扱いではなく、仲間として勧誘するという事実に驚愕する。
と言っても、これもいじめっ子特有の口先で良いように言いながら、上手く使おうとしてくるパターンに違いないけど……。
でも、僕みたいな何のとりえもない奴に、そんな呼びかけをしてくるなんて、一体どういうつもりなんだろう?
何も言えずにいる僕に対して怒るでもなく、それどころかニヤついた笑みを浮かべながら、犬神君が驚くべき事実を突きつけてくる。
「テメェの女達の嗜虐心を揺さぶる性質は、単なるM気質とかフェロモンとかいうチャチなもんを通り越して、もはや“常識改変”扱いされてもおかしくないまでの凄まじい代物だ。……テメェがその場にいるだけで、わんさか惹きつけられた女どもが群がってくるってんだ。こりゃ、上手く活かせば強力かつ旨味が盛りだくさんってもんだよなぁ……!!」
そう言いながら、瞳を爛々と光らせる犬神君。
それを聞きながら、僕は酷く衝撃を受けていた。
――単なるパシリのはずの僕が、常識改変レベルで女の人を狂わせる存在だって?
そんな馬鹿な……!?
――いや、でも確かに、あの三人が持ち出してきた二泊三日の温泉旅行の事を思い出せば、それも納得できる……かもしれない。
そんな僕に向けて、犬神君が高らかに言葉を告げる。
「これまでは、俺の犬神家と洋宮院の家がまだ事を構えるわけにはいかなかったから、ルトナが目にかけているお前を安易に引き抜くような敵対行為は出来なかった。……だが、お前が死を選ぼうとするほど、自分の意思でアイツから離れる事を選ぶってんなら、話は別だ!!お前が見限ったルトナでもねぇ、苦しんでいたお前を散々見て見ぬフリしてきた女神でもねぇッ!!――テメェは名家の血を引く俺とともに、その才能を使ってこの世界に覇を唱えるべきなんだよッ!!」
圧倒的な気迫とともに向けられる、大神君の本気の叫び。
それを前にして、二の句が告げなくなっている中、慌てたように綾凪さんが反論する。
「なっ……なにを、馬鹿な事を言っているんですか!!これまで苦しんできた彼を、貴方みたいな人の犯罪行為に加担させるような真似を許せるはずがありません!彼は、私が守りますッ!!」
「クククッ、やめとけ、やめとけ。本来、異世界に魂を転生させる事しか出来ないお前の能力なんかじゃ、俺をどうこうする事なんざ出来やしねぇよ!……お前が何と言おうが、水津盛は俺の獲物だッ!!」
……校内屈指の人気を誇るマドンナと、校内屈指の悪評を誇るDQNが、単なるパシリに過ぎない僕を取り合ってるという異常事態。
早く、この状況を何とかしないと……!!
そんな僕の決意に気づいたのか、互いに言い争いをしていた二人が中断して、こちらへと詰め寄ってくる。
「水津盛君!こんな危ない人や苦しい事がたくさん存在するこの世界を早く出て、私と一緒に早く異世界へ転生しましょう!!こんなところにいたら、命がいくつあっても足りません!!」
「俺の手を取れぇ、水津盛!!……テメェの才能は、俺が一番上手く使ってやれるんだからよッ!!」
異界の女神だからか、善意の方向がどこかズレている綾凪さんと、とことん僕を利用するつもりの本心を隠そうともしない犬神君。
そんな二人は、互いの主張が許せないと言わんばかりに、キッと一瞬睨み合ってからすぐに臨戦態勢へと入る。
人知の及ばぬ女神としての権能を誇る綾凪さんと、連綿と人から人へ受け継がれてきた名家の力を持って対峙する犬神君。
――“神”と“人”という異なる在り方を体現した両者が、盛大に激突する!!
親の七光りを宿した斬撃を放ちながら、『綾凪さんの正体を周囲にばらす』という脅迫による搦め手を交えた犬神君の猛攻を、女神としての権能と『脅迫には応じない』という毅然とした態度で華麗にいなす綾凪さん。
眼前で繰り広げられる超常じみた死闘を前に、僕は思わず及び腰になる。
――このままだと、二人の戦闘に巻き込まれて死んでしまう。
――こんな怖くて苦しい想いをこれ以上するくらいなら、何もかも投げ捨ててこの場から……いや、生きてる事からも全部逃げ出したい。
そんな思考のまま、激突する二人を尻目に僕は再び塀の方に向い、遙か下方の地面を見つめる。
……このままここから飛び降りれば、今度こそ楽になれる。
そう考えていた――そのときだった。