『5』
背後から僕の名前を呼ぶ女の子の声。
……でも、こんなロクに友達もいなくて、クラスメイトから名前を忘れられてもおかしくない僕の事を知っているなんて一体誰なんだろう。
僕を普段イジめている三人とは明らかに違う声の持ち主。
柵を飛び越えようとしていた足を一旦地上に戻して、僕は背後へと振り返る。
いつの間にか、少し離れた場所で佇んでいたのは、可憐な印象の一人の女子生徒だった。
そして、その女子生徒は僕のような陰キャでも知っている人物だった。
彼女の名前は、綾凪 春香さん。
隣のクラスにいる女子生徒で、可愛らしい顔立ちに儚げな雰囲気、控えめな性格とそれに反した密かに主張している豊かな胸元など、思春期の男子には色々突き刺さる魅力に満ちた女の子だった。
かく言う僕も密かに憧れたりしていた時期があったけれど、その頃から既にルトナさん達にいじめられたりした事で気後れしていた事もあって、勇気を出せぬまま機会もまったくなく、一言も僕達は会話をした事すらなかったはずだ。
そんな綾凪さんが、陰キャの僕に一体何の用なんだろう。
と言っても、流石に自殺しようとしているところを見たら、ロクに接点のない相手であったとしても普通は止めようとするか……。
案の定そんな僕に向かって、綾凪さんが普段からは考えられない切羽詰まった表情で僕の方を見つめる。
――だけど、これは僕だけの問題じゃなくて、これから多くの人の運命が関わってくる話なんだ。
そんな決意を込めて、僕は綾凪さんから視線を外して再び柵へと手をかけながら、彼女へと語り掛ける。
「――来ないで!僕は、もうこうするしかないって決めたんだ。綾凪さんがどんな風に止めたって、自分の意思を曲げるつもりはないよ!!」
これから死を選ぼうとしている人間とは思えない強い意思の言葉が、自分の口から出てきた事に我ながらビックリする。
しかし、それ以上に僕の背後からもたらされた綾凪さんの言葉は、僕が思いもよらないものだった。
「違うの、水津盛君!!そんな痛くて辛いやり方で自殺なんかしなくても、私なら君の魂をもっと安全な形で救うことが出来るの!」
……えっ?綾凪さんって、実はそういうスピリチュアルな人だったの?
困惑する僕だったけど、綾凪さんの方を振り返ってすぐに、そんな疑惑が吹き飛ぶくらいに驚かされる事となった。
なんと、綾凪さんの両手の中に包まれるように、淡く優しい光が発生していたのだ。
……見る限り、こちらを害するような印象は受けないけれど……。
この光は一体、何なんだ?
そして、この正体不明の光を平然と出している綾凪さんって、一体何者なんだろう?
そんな僕の内心の疑問をくみ取ってくれたかのように、綾凪さんは少し困ったように苦笑してからこちらにゆっくりと近づき、僕に向かって優しく語り掛けてくる。
「……水津盛君は、“なろう作品”って呼ばれるような異世界系のネット小説とか、読んだりする?」
「え、あぁ、うん……確か、現代人が神様とかからチート能力をもらって転生や転移をしてから、異世界で大活躍する作品だよね?アニメとかにもなったりしてるようなヤツ……」
異世界系の作品と言えば、山賊小説と人気を二分するなろう界の代表ジャンルのはずだ。
オタク趣味のクラスメイト達は何が面白いのか、山賊小説の方に夢中みたいだけど……僕は、現世でどれだけ弱っちくても、神様からチャンスを与えられた上に、異世界で活躍する事が出来る異世界転生系の作品の方が好きだった。
でも、僕みたいな奴ならいざ知れず、“山賊”にも“異世界転生”にも縁がなさそうな、学年のマドンナともいえる綾凪さんが、一体どうしてそんなサブカル知識を僕に訊ねてくるんだろう?
そんな僕に対して綾凪さんがチロッ、と舌を出しながら、小声でいたずらっ子のように僕へと囁きかけてくる。
「――皆には内緒なんだけど、実は私は……そういう死んだ人々の魂の転生を司る異世界の女神なの」
「えっ!?あ、綾凪さんが……異世界転生を司る、女神だって!!」
思わず、普段出す事がないような大声で驚愕する僕。
そんな僕に向けて、今度は華やいだ笑みを返す綾凪さん。
「まぁ、女神と言っても見習いみたいなもんなんだけどね。私は本来、他の女神同様に、苦しんで亡くなった人達の魂を異世界に転生させて、救済する役目を持っていたの」
でもね、と綾凪さんは呟く。
「……私は異世界に転生させられるとはいえ、この世界で苦しみながら生きてきた人達が、痛くて辛い“死”を経験するという悲劇に耐えられなかった。……だから、本来の自分がいた領域から出て、この世界で居場所がないと悩んでいる水津盛君のような人を、自殺するよりも先に私の権能で安らかに転生させてあげよう、って思ったの……!!」
そうして、真剣な表情をしながら、僕を見つめてくる綾凪さん……もとい、異界の女神。
「――水津盛君、この光に触れて!!……そうすれば貴方は苦しむことなく、望んだ姿と能力で異世界に旅立つ事が出来るんだよ!!」
女神、として疑いようのない神々しい光と、それとは裏腹に真摯に僕の事を救いたい、という人間としての綾凪さんの表情。
それを見ながら、これまでの度重なる出来事で心が摩耗していた僕は、彼女の言葉に同意するかのように、手を光に向けて伸ばしていく――まさに、そのときだった。
「オイ、そこのもやし野郎。――俺の目の前で、余所者なんぞにいいようにされてんじゃねぇぞ……!!」
突如、僕と綾凪さんしかいないはずの屋上で、柄の悪そうな声が響き渡る――!!