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「ましろ、今すぐ必要なモノをまとめて。」
あの後すぐにタクシーを拾い家へ帰ってきた私はどこか焦ったような弟にトランクを押し付けられる。
「理由は聞かないで。とにかくあいつらが帰ってくる前にここを出るんだ。」
そう言ったきり、誰かと電話し始めた真護に戸惑いながらも荷物をまとめる。
いつだって真護が敵に回ったことはないのだから彼のすることを疑うべきではない。
しばらくして家の前で車が止まった。
あの人たちが帰ってきたのかとビクビクして窓から下を覗けば、全く見たことのない黒塗りの高級車だった。
「ましろ、準備できた?」
「うん。」
「よかった。あのな、ましろ。今来てる車はじいちゃんとばあちゃんの寄こした迎えなんだ。」
おじいちゃんとおばあちゃん。
その言葉を頭の中で反芻する。
縁のなかったその存在がなぜ突然出てきたのだろう。
会ったこともなければ生きていたことさえも知らなかった。
「じいちゃんとばあちゃんが待ってる。あの二人ならましろを助けてくれるから。もう…自分のために生きていいんだ。」
混乱している私にかみ砕くように言う弟はいつの間にこんなに大人になってしまったのだろう。
「でも…真護くんが1人になっちゃう。」
手を離してはいけない気がして思わずそんなことを口走っていた。
私が近くにいる方が弟に気を遣わせるのかもしれない。
それでもこの広くて冷たい家に彼だけを残していくのは嫌だった。
「それに真由ちゃんが…」
点滴痕に塗れた細い腕を思い出して身震いする。
私が自分のために生きれば、私の姉弟が不幸になる。
最悪の結果にたどり着くぐらいならこの優しくない「日常」を我慢することだって簡単だ。
だって今まで耐えてきたのだから。
「もういいんだ。どうせ真由は何もしなくても助かるから。」
何かを確信しているような強い目で彼は笑った。
「それに俺も後からそっちに行くつもりだし。」
今一緒に行けないだけで用事を済ませればすぐに向かうと言われる。
柔らかく私を見つめる真護に「…絶対だよ?」と小さく言えば大きく頷いてくれた。
玄関を出れば満面の笑みを浮かべた青年が車のドアを開けてくれる。
「お久しぶりです真護様。ましろ様も。」
真っ黒な装いのくせに最悪な朝のように爽やかなその男は私の手からトランクを自然に奪い取り車に積んでくれた。
「急にごめんな、諫早。」
「いいえ。親方様も奥方様も大層喜んでおられますので。」
親しげに話す彼らはいつの間に仲良くなったのだろう。
「ましろのこと、よろしくね。」
「承知いたしました。」
そうして私に向き直った真護は「すぐに行くから待ってて」と再度安心させるように笑みを深くした。
「真護くんは…今は一緒に行けないの?」
聞き分けのない私は少しだけゴネてみる。
「うん、残念だけど。少しだけこっちでやることがあるんだ。」
最後の一言で冷たく笑った弟はおそらく何かを企んでいる。
だけどそれは聞かないでと言われているようで、「わかった。」とだけ頷いた。
いつのまにか自分よりはるかに大きくなった体を一瞬だけ強く抱きしめて私は車に乗り込んだ。