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苦しくて苦しくて仕方が無かった夜も、一人で耐えた。
だって、私はなにも持っていないから。
涙を拭う優しい指も、頭を撫でてくれる大きな手も、抱き上げてくれる腕も私は知らない。
冬前に手袋を編んでくれる器用な指も、眠るまでのまどろみの最中に心地よく背を撫でてくれる手も、抱きしめてくれる腕も私は知らない。
全部、あの子のものだったから。
今日も世界は残酷だ。
カーテンを開ければこれでもかと言うぐらいの日の光が差し込んでくる。
快晴と呼ぶに相応しい、最悪な朝。
人の気配を感じて視線を向ければ、隣の家に住む幼馴染が窓越しに相変わらず無感情な顔でこっちをみていた。
一拍だけ見つめ返して目を逸らす。
表情よりも如実に何かを語るその瞳が、私は苦手だった。
制服に着替えて身支度を整えていれば小さくノックが聴こえた。
「ましろ、飯は?」
弟の真護がドアの隙間から顔を出していつも通りのことを聞く。
「いい。もう出るから。」
私もいつも通りの言葉を返す。
「わかった。俺も出るから一緒いこ。」
幼馴染よりは少しだけ活動的な表情筋が悲しげに歪む。
一つ下の弟は中学1年生になったのに変わらず私と仲良くしてくれている。
あの人たちへの反抗期はすごいらしいけど。
2人で階段を降りていけば相変わらず不機嫌そうな男性と行き会う。
「…真護、『それ』となんか一緒にいるんじゃない。」
汚いものでも見たかのように眉間にしわを寄せる男は、正真正銘実の父だ。
「朝から大きい声出してどうしたんですか。」
リビングから出てきた女性は立ち止まっている私たちを見て合点がいったように大仰に溜息を吐いた。
「真護、私たちに反抗したいからって『そんなの』と仲良くしても意味ないのよ?『それ』は真由のスペアなんだから。」
不快そうに顔を曇らせて悲しげにそう言う女は、残念ながら実の母。
私は生まれた時からこんな扱いだから別に気にしないけど、多感な時期の弟に気にするなという方が無茶らしい。
いつの間にできるようになったのだろう、彼らに負けないような冷たい視線で二人を一瞥した後、何も言わずに私の腕を掴んで家を出た。
「今日は部活あるの?」
数メートル進んでから弟は何事も無かったかのように「日常」の話をする。
「うん。だから帰りは大丈夫だよ。凛と一緒に帰るから。」
彼の配慮を無駄にしないためにも、私も「家」ではない「日常」の世界に思いを馳せる。
「わかった。でも凛ちゃんが自主練するならちゃんと連絡しろよ。迎えに行くから。」
どこまでも優しい真護は遊びたい盛りの癖に私に気を遣う。
「ありがと。でも今日部活休みでしょ?休みの日は…真由ちゃんに会いに行ってきて?」
喉を震わせて出した声は、いつも通りの音を奏でただろうか。
不自然な大きさではなかったか、速すぎはしなかったか。
大事なはずの片割れのことを話すとき、いつも私は不安になる。
そう、大事だ。
大事で大切で…大好きなはずなんだ。
ある一部分以外は私と「同じ」な彼女は、だけど細くて儚くていつも悲しげだ。
眉を垂れ下げ、大きな瞳に涙の膜を張って私に「早く大人になってね」と言う。
その光景をみるのが中々しんどくて私は彼女に極力会わないようにしている。
「えー…」
「えー…じゃないの。真由ちゃんは真護くんに会うの楽しみにしてるんだから。」
私が来るよりも数倍喜ぶ姿が目に浮かぶ。
「俺は全然楽しくないんだけど…。」
少しだけ拗ねたように唇を尖らせる表情は小さい時のままで安心する。
お願いだから、急いで大人にならないでほしい。
私のせいで大人のようにふるまうことを身に付けた弟が諦めるという行為を覚えることがないよう、身勝手にも神様じゃない誰かに祈った。