公爵令嬢と残念な王太子殿下
短いお話が書きたくて……。長いですけど。短めに切れば3話くらいにはなりそうなくらいに長いですけど…。
前回書いた話が予想外にとてつもなく暗く重い話になってしまったので、明るい話が書きたくてコメディテイストで。ほんのり笑ってもらえればいいなと思います。
セラフィーナ・ロンフォード公爵令嬢は少し変わり者で有名だった。
ドレスや宝石よりも書物や経済状況に興味を示し、屋敷で贅沢三昧し時間と金を無駄に浪費するよりも新しい知識を吸収し、飽くなき探求心を
満たすことに喜びを感じていた。
邸宅にある書物はすでに目を通してしまい、欲しい情報が得られないセラフィーナは今日も早くから王宮内の一角にある王立図書館に来ていた
。
そこは王宮内にありながら一般にも開放されており、国中至る所からあらゆる職種階級の人々が書物を閲覧しにやってくる。
その為王宮内でも一般人の立ち入りが許されている区画では沢山の人が行き来していた。
その中にセラフィーナもいた。
手には先日借りていった本が三冊抱きかかえられている。
今日借りる予定の本を頭の中で反芻しながら歩みを進めていると、通路の端の方で噂話に花を咲かせている噂好きな貴婦人たちの声が耳に届い
た。
それはこの国の第一王子についての噂話だった。
彼は今年二十一歳になる現国王夫妻の長男で、濃紺の髪に澄んだ美しい紫の瞳を持つ容姿端麗な美丈夫だ。
細身だが背も高く陽気で、始終笑顔を振りまく彼は一見すれば巷の女性たちを一瞬で虜にする。
眉根を寄せて難しい顔をしている時などは絵になる美しさだ。
だが!それはあくまで一見すればの話であることを彼をよく知る人たちは良く分かっていた。
彼が口を開きさえしなければ、その輝く笑顔を向けた先ではあちこちから黄色い歓声が上がり、難しく考え込む艶やかな姿を見た令嬢たちはう
っとりとした眼差しを送り溜息を零した。
だが彼に向けられる女性たちの熱烈な視線や感情は、彼が口を開いた瞬間にガラガラと音を立てて崩れていく。
セラフィーナはそんな王太子殿下の話を見聞きするたびに残念な人だと呆れ交じりの溜息を零していた。そんな日常は今日も繰り返されていた
。
「お聞きになりまして?先日の王太子殿下のお話」
「どのお話かしら?」
「御参加された公爵家の茶会でのお話です」
「ああ、そのお話でしたら私も耳にしたところです。なんでも王太子殿下は、優雅に談笑をされておられた御令嬢たちに満面の笑顔で両手に一
杯のプレゼントなされたとか」
「そうなんですよ。その場にいた御令嬢たちは悲鳴を上げて逃げ纏い、中には気を失って倒れる御令嬢もいらしたとか」
「皆様もまさか『あんなもの』をプレゼントされるとは思ってもいなかったのでしょう」
「私も考えただけでぞっとします」
「私は気を失ってしまいますわ」
「そもそも『あれ』を贈られて喜ばれる御令嬢がいらっしゃるとは思えませんわ」
「そうですわね」
「見るのもおぞましいのに、触れるだなんて以ての外ですわ」
「ええ、気の遠くなるお話ですね」
「まさか両手一杯の……」
「「「「カエルをプレゼントされるなんて」」」」
「!!??」
声が綺麗に揃った御令嬢の言葉にセラフィーナはぎょっとして思わず振り向いてしまっていた。
視線の先では美しいドレスに身を包んだ貴族令嬢たちが頬に手を添えて大きな溜息を零していた。
口元がひくひくと引き攣るのを感じながらセラフィーナは思わず止めてしまった足を大きく踏み出し、図書館へと続く廊下を進んだ。
今度はカエルですって?
次から次へとあの王太子殿下はよくやってくれるものだわとセラフィーナの溜息は尽きることがない。
考えなければいいのだが、聞こえてくるものは致し方ない。
それだけ王太子殿下の奇行はあちらこちらで囁かれていた。
この前はドブに嵌って全身汚泥まみれだったとか。
その前は豚の後ろ脚を引っ張ったら蹴られただとか。
ある時は地面に這いつくばって見つけた赤い実を拾って食べたとか。
親善大使として来られていた隣国の王女殿下にあらゆる草をより集めた花束ならぬ草束をプレゼントなされたとか。
剣の稽古のために初心者用の剣を持たせれば、受け取った瞬間に剣が重すぎて取り落してしまったりだとか。
その際「私はフォークより重いものなど持ったことがないのだ!」と意気揚々と口になされたとか。
他にも………数知れず。
国王が頭を抱え、胃痛を訴えるのも仕方がないだろう。
王妃がめまいがすると時折ふせってしまうのもまた致しかたがないことだろう。
誰一人として口に出すことはないが、王太子殿下の奇行を耳にし時に目にする王族、貴族の者は皆…。
『彼が次期国王で国は大丈夫か?』
と明後日の方へ虚ろな視線を投げかけつつ誰ともなしに問いかける日々を過ごしていた。
国の未来を思うと憂いも感じたが、セラフィーナにはその残念な王太子殿下との接点らしいものなど微塵もなかった為、彼女の日常はすこぶる
平和に過ぎ去っていっていた。
その日セラフィーナは宰相である父に届け物をする為王宮に来ていた。
執務室に顔を出すと図書館に行っていて不在だと言われ、彼女はその足を図書館へと向けた。
どうせ帰りに立ち寄るつもりだったので丁度良かった。そう思いながらセラフィーナが図書館にやってくると父はすんなりと見つかった。
父に荷物を手渡し別れると彼女は何か興味を魅かれるものはないかと図書館内を歩いていた。
ふと見えた窓の外、中庭の芝生の上に突っ伏す様にして倒れている人を見つけ、どうしたのだろうかと暫く眺めていたがその人は動く気配が全
くない。
何となく気になってしまったセラフィーナは図書館を出て中庭の方へ回り込むと、未だに突っ伏した状態でぴくりとも動かないその人物の傍に
よって膝をついた。
「もし、大丈夫ですか?」
肩付近を優しくとんとんと叩けば「うぅ」とくぐもった声が漏れた。
「どうされましたか?」
肩に触れもう一度声を掛けると、かばっと身を起こした人物にセラフィーナは伸ばしていた手を鷲掴みにされた。
「ひゃっ」
驚きに小さな悲鳴が漏れた。
次いで目の前の人物を見て驚き、セラフィーナは思わず声を零していた。
「なっ!王太子殿下!?」
濃紺の髪を持つ人物は意外に多い。その為セラフィーナは特に警戒することもなく倒れている人に近づき声を掛けた。もしそれが王太子殿下だ
と知っていたならば、彼女は決して声を掛けたりしなかっただろう。
可怪しなことに巻き込まれるのは御免こうむる。
だがセラフィーナその思いも虚しく、目の前の人物は濃紺の髪に澄んだ美しい紫の瞳をしていた。
濃紺の髪は珍しくもないが、紫の瞳は王族にのみ現れる特徴だ。
目の前の人物は紛れもなくこの国の第一王子だった。
セラフィーナと目が合うと彼はその紫の瞳を嬉しそうに細め口元を綻ばせた。
その瞬間にセラフィーナは声を掛けてしまった自分を呪った。なぜ見て見ぬ振りをしなかったのか。そもそもなぜ気づいてしまったのか、それ
以前に、なぜ自分は窓の外など見てしまったのだろうと深く後悔した。
「君なら必ず私を見つけて来てくれると信じていたよセラフィーナ!」
王太子殿下は掴んでいたセラフィーナの腕を引き寄せ両手で包み込むとその手のひらに顔を寄せた。
ぞわりと背筋を嫌なものが走り抜け、一瞬にして顔を青ざめさせたセラフィーナが渾身の力を込めてその手を引き抜いた。
「残念…」
ぼそりと呟く王太子殿下にセラフィーナはこめかみがぴくりと痙攣しそうになるのを必死に我慢した。
「何をなさいますの!」
「麗しの姫君にご挨拶をしようとしただけなのだが?」
にっこり笑って告げる王太子殿下の言葉にセラフィーナの表情は怪訝なものに代わっていく。目など既に半開きで据わっている。
「手のひらにキスなど誰にでもしてよい挨拶ではないのでは?」
「そうかもしれないな。…なら今後はセラフィーナにのみすることにしよう!」
名案だとばかりに目を輝かせる王太子殿下に向けるセラフィーナの視線は冷ややかなものだった。
「今後一切ご遠慮申し上げます」
「なぜそこまで嫌がる」
「王太子殿下だからです!」
「そんなに恥ずかしがらずとも良いのに」
この人に私の言葉は通じない。
そう結論付けたセラフィーナの目はもはや王族に向ければ不敬罪で罪に問われかねないほどに侮蔑の籠ったものになってしまっていた。
王太子殿下の方はそんなセラフィーナの心情など知る由もなく一方的な会話を楽しんでいた。
当然のこと王太子殿下の話などセラフィーナの耳には入ってこない。
君に会えたのも神のお導きだとか、倒れている者に優しく声を掛けるなんてやはり君は天使だとか、私たちはやはり結ばれる運命にあるのだと
か、勝手なことを口走っている。
一人世界に入り込んだ王太子殿下が自分の妄想に浸っている間に、セラフィーナがその場をそっと離れたのは言うまでもないことだった。
王太子殿下はなぜ私をご存じだったのか、どこかでお会いしたことがあったかとか、麗しの姫とは誰のことだとか、なぜあんな場所にうつぶせ
になっていたのだとか。
図書館へと戻るセラフィーナの頭の中にはありとあらゆる疑問が浮かんでいたが、それを本人に問うてしまえばまた余計な言動に巻き込まれて
しまうのは明らかだったので考えないようにした。
疑問を持ったことは納得いくまで徹底的に調べ、時に相手を尋問してでも解決してきたセラフィーナにとって、疑問解決を諦めるということは
信念に反するものだった。
それでもその苦渋の決断を下したのは、『王太子殿下と会話をする』ことと『疑問解決を諦める』こととを天秤にかけた場合、彼女の全神経が
『王太子殿下と会話をする』を選ぶことを頑なに拒否していたからだった。
そしてその決断は彼女にとってこれからの平穏な日々をおくるためには必要なことでもあった。
だがセラフィーナの願いも虚しく、その後もなぜか王太子殿下と顔を合わせる日が明らかに増え、そのことを彼女が嘆き、その姿を目にした人
々が同情的な眼差しをセラフィーナに向けるという連鎖が王宮では起こっていた。
「ああ、愛しのセラフィーナ。朝露に濡れるこの美しいバラも君の輝きには敵わないね」
王宮の庭師が丹精込めて手入れして育てた真っ赤なバラの花束を差し出し、自身の前髪をかき上げながらその紫の瞳を閉じ自身の発した言葉に
酔いしれている王太子殿下を尻目に、セラフィーナは来た道を戻り始めた。
一向に返答のないことに痺れを切らした王太子殿下が目を開けるとすでにそこにはセラフィーナの姿はない。
それが繰り返されることすでに数十回。
殿下が差し出すものやその時の言動は日々異なるが、概ね二人のやり取りに変化はなかった。
いい加減諦めて欲しいものだわ。
どこからともなく現れて意味不明な言動を繰り返す王太子殿下を避けるべく、毎度図書館への道を遠回りすることになるセラフィーナの思うこ
とは今日も同じだった。
挨拶をしないセラフィーナの王太子殿下への態度は不敬罪に問われかねないのだが、気づかない振りを貫き殿下の傍を離れれば誰も彼女を咎め
る者はいなかった。
まわりの者がセラフィーナに向ける感情は等しく『残念な方に絡まれて可哀想に』だったからだ。
それらはいつしか宰相である父の耳にも入り、国王に対面する際の彼の冷ややかな表情に「勘弁してくれ」と項垂れる王の姿が見られる回数も
だんだんと増えていった。
*・*・*
「ふぅむ、なかなか手強いな。さすが俺の見込んだ女性だ」
執務室の窓から階下に見える廊下を歩いていく人物を視界に写し、この国の第一王子レグス・ディアヴァイツ王太子殿下は呟いていた。
彼が見つめる先には、背筋を伸ばした美しい姿勢で颯爽と歩いていくセラフィーナの姿があった。
「今日も美しいな」
おもむろに振り返ったセラフィーナの髪が宙を舞い、後姿しか見えていなかった彼女の顔が見られたことに王太子殿下は顔を綻ばせた。
その瞳は真に愛しい者を見つめているかのように熱がこもりうっとりとしていた。
レグスは小さな時から今のように振る舞っていたわけではなかった。
幼い頃は厳しい鍛錬にも耐え、難しい勉強も一生懸命頑張った。
『父上のような立派な国王になるんだ!』
そう言って澄んだ美しい紫の瞳を輝かせるひた向きな王太子殿下の姿に、人々は将来が楽しみだと称賛を贈っていた。
だがそれも彼が年を重ね成長するごとになくなっていった。
代わりに彼らが王太子殿下に向ける言葉を彼は知っていた『残念な人』という言葉を。
誰に聞くわけでもないが、そういった噂は何処からともなく耳に届く。
そのことを本人は特に気にしてはいなかった。
むしろ自分が悪く言われるたび、にやりとその口元を面白そうに歪めていた。
「おっと、こんな姿をまだ彼女に見せるわけにはいかないな」
紫の瞳を細め、口元に弧を描く姿を一瞬にして緩めるとレグスは纏う雰囲気さえも緩慢としたものに切り替えた。
半年にも及ぶ二人の攻防はある日変化が訪れた。
その日レグスとセラフィーナの姿は王都から少し離れた小さな街の一角にあった。
そしてその二人の装いは街に溶け込む様に地味でひっそりとしたものだった。
図書館に向かう為に家を出たセラフィーナを、こともあろうにレグスは拉致し連れ去ったのだ。
突然止められた馬車の扉を開けて顔を覗かせた王太子殿下が、その顔を悪戯を思いついた子どものように綻ばせて言ったのだ。
「セラフィーナ、デートしよう!」
と。
当然セラフィーナは即座に断った。
だがレグスは断られることは承知の上で、公爵家の馬車に乗り込んできたのだ。
そして行先も御者も変更させられ連れ去られたというわけだ。
「犯罪ですよ」
「大丈夫これはデートだから!」
「お断り致しました」
「うん、聞いてない」
「殿下!」
一方的に自身に都合の良い解釈しかしないレグスにセラフィーナは抗議の声を上げる。
その呼びかけにレグスはセラフィーナに顔を寄せた。
馬車の中、向かい合わせに座っていた二人の距離がぐっと近づいた。
「なんだい」
「近いです!」
持っていた扇子を閉じたまま王太子殿下の鼻先に突き付け押し返す。
「痛たたたた」
座席に座り直したレグスは赤くなった鼻先を手で押さえていた。
反対側の座席からセラフィーナは彼を睨み付けていた。
「怒っているその表情も美しい」
その言葉を聞いたセラフィーナの眉間には瞬時に皺が刻まれた。
この人には何を言っても無駄だと諦めた彼女は小さな小窓から見える景色に視線を移した。
そうしてみても視界の端には向かい側に座る王太子殿下の姿が入り込む。
彼の様子が気に障り、セラフィーナの眉間に刻まれた皺はその深さを増した。
顔を向けることなく彼女は抗議の言葉を口にした。
「何を笑っているのですか」
「愛しい君の姿が堪能できて幸せなんだ」
「見ないでください。腐ります」
「酷いな。私の視線はむしろ君を輝かせるものだよ」
「…………」
『消えろ』とセラフィーナが心の中でのみ宣ったことをレグスは知る由もない。
手にしていた扇子を広げセラフィーナは彼の視線を遮る様に己の顔を隠した。
そうしてみてもレグスの嬉しそうな陽気な様子が伝わり、セラフィーナは顔を顰め溜息を零し続けていた。
黙っていれば眉目秀麗で素敵な方なのに、ほんっとになんて残念な人なの。
胸に沸き立つ怒りをどうにか散らしながらセラフィーナはこの日の予定を全て諦めた。
馬車が止まると先に馬車を降り手を差し伸べるレグスに、セラフィーナは仕方なく自身の手を重ね馬車を降りた。
レグスが連れてきたのは王都から少し離れたところにある港町だった。
どうりでかなり長い時間馬車に乗っていたはずだと、街並みに視線を走らせつつセラフィーナはそっと溜息を吐き出した。
狭い馬車の中で残念な王太子殿下と長い時間顔を突き合わせているのは本当に辛かった。
居心地の悪さもありセラフィーナは新鮮な外の空気を渇望していたのだ。
潮の匂いの混じる空気を吸い込んで彼女は少し気持ちが落ち着いた。
「行こうか」
セラフィーナの手は馬車を降りた時のままレグスに握られてしまっていて離しては貰えなかった。
そのことに彼女はそっと諦めの溜息を零した。
今日一体何度目の溜息かしら…。
レグスに促されついて行きながらセラフィーナは既に数えきれないくらい零した溜息のことをぼんやりと考えていた。
隣をそっと窺えば嬉しそうに顔を綻ばせ前を見て歩く王太子殿下の姿がある。
口を開かなければ素敵な方なのに、本当に何て残念な人なのだろう。
複雑な思いを抱えながらセラフィーナは彼の後をついていった。
時に店の中に入ったり、軒先で物を売る店に立ち寄っては人々と楽しそうに何かしらを話しているレグスの姿をセラフィーナは不思議そうに見
ていた。
もしかしてこんな風にお忍びで何度もやってきたことがあるのかもしれない。
街中を二人で回っていればレグスが声を掛けた人々からは、必然的に二人の仲を囃し立てられてしまう。
レグスはそれをとても嬉しそうにしてはしゃいでいるが、セラフィーナは顔が引き攣りそうになるのを必死でこらえていた。そういった間柄で
はないとどんなに否定しても、街の人たちはセラフィーナが恥ずかしがっているのだと聞き入れてくれなかった。それは隣で一緒になって囃し
立てる諸悪の根源がいたからに他ならない。
普段は来られないところに来ているのだからと気持ちを切り替えようと頑張るが、その度にセラフィーナの心は隣に居る人物の傍若無人な振る
舞いに打ち砕かれていた。
街中を見て回る度に、セラフィーナは王太子殿下の奇妙ともいえる行動に気づいた。
セラフィーナが店の中など安全と思える場所にいるとそっとその場を離れどこかに行ってしまうのだ。
しばらくすれば戻ってくるが、彼は特に何を話すでもない。
時折店の中から見えたが、レグスは建物の陰で誰かと話し込んでいる。その表情はとても真剣でセラフィーナといるときの間の抜けた雰囲気は
微塵も感じられなかった。
あまりにも普段とかけ離れた様子にセラフィーナは目を瞬かせた。見間違いかと思い何度も見直してしまったくらいだ。その王太子殿下の姿は
この街に居る間何度も繰り返され、セラフィーナも幾度となくそれを目にしてはあまりにも不釣り合いなその様子に眉間に皺を寄せていた。
セラフィーナの頭にふつふつと湧き起る王太子殿下に対する疑惑はとうとうはっきりとした目に見える形で彼女の前に示された。
これまで幾度となく繰り返されていたセラフィーナの傍をレグスが離れるという行為。その瞬間を狙っていた三人の人相の悪い輩が行動を起こ
し彼女を連れ去ったのだ。
縦横無尽に走る建物の隙間を縫うようにして進む男たちにセラフィーナは抵抗も虚しくされるがままだったのだが、彼らの行く手を阻む様に立
ち塞がった王太子殿下によってあっさりと彼の手に取り戻されていた。
一瞬の隙に行われた数々のことにセラフィーナがついていけないでいる間に全ては終わっていた。
彼女の脳裏に残っていたのは、男たちが進む通路の先に突如現れたレグスの姿。
逆光の為その表情はよく見えなかったが、声が明らかにいつもの彼の物とは違った。
纏う雰囲気もだ。明らかに怒っていることが伝わってくるほどに彼は怒気に包まれていた。
「目を閉じているんだ」
どこに連れて行かれるのかと恐怖で泣きそうになっていたセラフィーナの目の前にレグスが現れ驚いていると次の瞬間には直ぐ近くでその声が
した。
自身の視界を塞ぐようにその優しい手のひらが目元に触れ、セラフィーナは言われた通り目を閉じた。
セラフィーナを抱え上げていた男の腕が離れ地面に降ろされると、何かがぶつかるような激しい音が数回して静かになった。地面に座り込み目
を閉じたままのセラフィーナの頬をふわりと風が撫ぜたと思った次の瞬間には温かなものに包まれていた。
「もう目を開けてもいいよ」
優しい声が耳元でしてセラフィーナが目を開けると視界一杯に自身を包み込む人物の胸元が入り込んだ。
そっと顔を上げれば、自身を包み込んでいる相手は己の肩口に顔を埋めていた。
「で…ん、か?」
思っていたよりもずっと掠れた声が出てセラフィーナは驚いていた。
だが彼女は自身の肩口から顔を上げた彼の顔を見て更に驚いてしまった。
「なぜ貴方がそんな泣きそうな顔をしているのですか」
顔を上げた王太子殿下の表情は今にも泣き出しそうに歪められていて唇をきつく噛み締めていた。
「怪我は…?」
発せられたその言葉は震えていた。
「ありません」
「…痛いところは?」
「ありません」
セラフィーナの無事を確かめるごとにレグスの強張った表情が緩んでいった。
「無事でよかった」
呟いた王太子殿下は本当に泣いてしまうのではと思う程の表情をしていた。
恐怖に震えていたセラフィーナの体はレグスの温かい腕に優しく抱きしめられて当に落ち着きを取り戻していた。
だから目の前で言葉を紡ぐ彼よりも、今はセラフィーナの方が気持ちに余裕があった。
「怖い思いをさせて、すまなかった」
「殿下が助けて下さったから大丈夫です。ありがとうございました」
セラフィーナは御礼を告げると満面の笑みを見せた。
それはレグスがこれまでに一度も見たことがない一点の曇りもない美しい笑みだった。
セラフィーナの笑顔を見たレグスの、今にも泣きだしそうに細められていた目が驚きに見開かれた。
彼の胸にあった苦々しい気持ちが露も残さず一瞬にして晴れ渡っていく。
レグスはもう一度「無事でよかった」と呟くとセラフィーナを力いっぱい抱きしめた。
それは彼女が限界を感じて抗議の声を上げるまで続けられていた。
帰りの馬車の中でのセラフィーナの様子は行きとは随分と異なっていた。
これまで嫌悪感しか抱いていなかった目の前の王太子殿下に対して、それまでとは違う感情を抱きつつあった。
広げた扇子の隙間からそっと彼の横顔を窺い見れば、胸の奥には仄かに温かい熱がうまれる。
彼がただの残念な人ではないことをこの日セラフィーナは知ってしまった。
*・*・*
あの日から三日程経った日のこと。
話があるから王宮内の色彩園まで来るように。
直々にそう告げられてしまえばセラフィーナもすっぽかすわけにはいかなかった。
色彩園とは王宮内にある庭園の一つで、その名が示す通り色とりどりの美しい花々が年中咲き誇る場所だった。
一般にも開放されているその場所は、今日に限ってセラフィーナの他に誰もいなかった。
王太子殿下が人払いをしたのだろう。
そのことに思い当たるとセラフィーナはふぅっと溜息を零した。
さて何を言われるのだろうか。
先日の一件についての話だろうことは予想がつくが、わざわざ人払いまでする必要があるのか疑問が残る。
目の前の鮮やかなピンクのバラに手を伸ばしながらセラフィーナが物思いにふけっていると草を踏みしめる足音が耳に届いて振り返った。
「ああ、やはりそうしていると美しいな。花の妖精のようだ」
「…………」
一瞬にして表情を消し半眼になったセラフィーナは反論する言葉も思いつかずドレスの裾をつまんで深く礼をした。
「どんな御用件でしょうか」
数歩先で立ち止まったレグスがこちらを見つめてくるばかりで何も切り出そうとしないことに業を煮やしたセラフィーナは、失礼を承知で先を
促した。
「先日の件だよ。止むを得なかったとはいえ君に見せてしまったし、もうそろそろ待てなくなってきたからね」
「何のお話しか分かりかねます」
セラフィーナは気づいていて知らない振りをした。
すんなりと受け入れてしまえば人生最大の過ちを犯すことになるのは目に見えている。
王太子殿下が一歩セラフィーナに近づけば、彼女は一歩後ずさった。
「どんどん美しくなる君を周りは放っておかない。私もそろそろ本気を出さないとね」
「誰のことをおっしゃっているのか見当もつきません」
レグスが伸ばした手を避けるように一歩退いた時、セラフィーナは見てしまった。
彼の紫の瞳が怪しげな光を放っていたのを、彼の口の端が持ち上げられ弧を描いているのを。
そして彼が纏う雰囲気がおっとりして気の抜けた普段のそれと違い、鋭く凛として威厳に満ちたものであることに気づいてしまった。
あまりにも違うその雰囲気はついこの間感じたものと同じだった。
街中で見せた彼の凛々しく堂々とした風格のある佇まい。
セラフィーナが硬直し動けなくなっているその一瞬を、彼女を狙う王者の風格を持つ獣は逃しはしなかった。
「セラフィーナ」
名を呼び近づいたレグスはその腕を伸ばしセラフィーナの腰を引き寄せた。
絶対的強者の視線に射抜かれた彼女の体は抗うことなくすんなりと彼の腕の中に囚われてしまった。
そのことにセラフィーナが気づいて抵抗したがもはや遅かった。
腰に回された腕は予想に反して力強くちょっとやそっと暴れたくらいでは外れてくれない。
何この人!?フォークより重いもの持ったことないって言ってたの誰よ!
そんな人の腕がこんなにがっしりしてる筈ないじゃないの!
セラフィーナが両腕を突っぱねて必死に押し返してもびくともしない。
彼女の細く小さな体は腰を引き寄せられ殿下の胸に簡単に抱き込まれてしまう。
セラフィーナが殿下のなよっとでれっとしただらしないこれまでの姿から想像していたのは、ふよふよで筋肉の欠片も感じられない柔らかな肉
体だったのだが、今手のひらに伝わってくるのは固い筋肉に覆われた屈強な戦士とも言える頑丈な体躯だった。
セラフィーナは内心焦りながらも冷静さを取り繕い殿下に抗議した。
「騙しましたわね!?」
「騙すなんて人聞きの悪い。秘めていただけだよ」
「同じことですっ!」
殿下の胸をぐいぐいと押し返すも、腰に回された腕に少し力を入れられただけで互いの距離は縮まってしまう。
「離してくださいっ!」
セラフィーナの必死の抵抗も意味をなさず、殿下は空いた方の手を細く華奢な彼女の顎に添えて持ち上げた。
至近距離で二人の視線が交差する。
獲物を狙う肉食獣のような目をした殿下の瞳が細められそこに妖しい光が浮かぶ。
口元をニヤリと笑みの形にしたその表情は過去に何度も見た。それが何かを企んでいる時に見せる腹黒い笑みだということをセラフィーナは考
えたこともなかった。
この人がアホそうに見えていたのは、そう見えるように演じていたからだと今更ながらに気づいてセラフィーナの脳裏には焦りが浮かんだ。
レグスの口からセラフィーナの胸の奥まで震わせるような低い声が零れた。
「残念、逃がすつもりはないから」
レグスの妖しい笑みとその言葉にセラフィーナがあげた小さな悲鳴は彼の唇に呑み込まれた。
「っ!」
軽く触れた唇は角度を変えて何度も重ねられる。
「○×△◇※!!!」
セラフィーナの声にならない叫びはレグスの唇に吸い取られて消えていく。
仕舞いには生暖かく湿ったものが唇を這い、そのえも言われぬ感覚にぞわりと背筋を震わせると彼女はとうとうキレた。
バッチィイイイイン!!!
気持ちのいいほど大きな音が辺りに響く。
セラフィーナの唇の感触に酔いしれて力の抜けていたレグスの胸を一気に押しやり、彼女は渾身の力を込めてその頬を叩いたのだった。
咄嗟のことに対処の遅れたレグスはその勢いのまま柔らかな芝生の上に尻餅をついた。
体の向きを変えて座り込んでいる彼に一歩近づいたセラフィーナの表情は陰っていて見えない。
「御無体な仕打ちにはお仕置きが必要ですわよね?」
どこから出したんだと疑いたくなるほどに低い声がセラフィーナから発せられた。
「え?えっ?」
見たこともないセラフィーナの剣幕に少々遣り過ぎたかと今更ながらにレグスは焦るが、時すでに遅し。
自身の足元に立ち片足を持ち上げるセラフィーナの姿に半ば悲鳴のような声を上げる王太子殿下の姿は誰が見ても自業自得。
「待てっ!!!」
ドスッ!!
急所のすぐ近くに勢いよく振り下ろされたピンヒールに血の気が引いて冷や汗を流すこの国の第一王子の姿がそこにあった。
「お戯れはほどほどに?」
「はぃ……」
にっこりと極上の黒い微笑みを見せるセラフィーナにレグスは微動だにすることもできず情けなく返事を返すだけだった。
セラフィーナは乱れた髪をかき上げ背中に流すと、踵を返し颯爽と歩いていった。
「流石は俺が見込んだ女だ」
腰が抜けて立ち上がることもできないレグスは座り込んだままの姿勢でそう呟き去っていくセラフィーナの後姿を見つめていたが、次の瞬間に
ハッとして叫んだ。
「待てっ!ふざけてしたのではないっ!俺は本気だぁあああ!」
聞こえた声にセラフィーナは僅かに視線を動かしたが、振り返ることも立ち止まることもしなかった。
座り込んだ王太子殿下だけが残された庭園にその声は虚しく響き渡っていた。
*・*・*
息子の奇行を憂いた国王が密かに調べさせた数々の行動の真相はというと……。
ドブに嵌って全身泥まみれだったのは、婚約指輪をドブに落としてしまい泣き崩れる恋人を慰めている男性の傍を偶然通りかかり、探してあげ
たからなのだとか。
豚の後ろ脚を引っ張ったのは、豚が木の幹に空いた小さな穴に嵌って抜けなくなっていたからだとか。
地面に這いつくばって見つけた赤い実を拾って食べたのは、その実をくれた小さな女の子が落としてしまい、ショックで大泣きしていたからだ
とか。
隣国の王女殿下にプレゼントした草束はあらゆる薬草を束ねたもので、体調を崩してご飯が食べられないと言っていた彼女にこれを食べればす
ぐに良くなるからと言ったからだとか。
剣を取り落したのは数日前から手首を痛めていたからだとか。
「フォークより重いものを持ったことがない」とは本人が言ったそうだが剣を受け取った際に更に手首を痛めてしまい、相手に気づかれない様
にする為だっとか。
後々になってそんな王太子殿下の奇行の真相を聞けば、人々は深く感心しさすがは王太子殿下だともてはやした。
だがそんな事の真相もセラフィーナにとってはどうでもいい話だ。何となくそういうことなのだろうくらいの予想はしていたからだ。
そんな事よりも彼女にとって今何よりも重大なことは、如何にして王太子殿下から逃げ切るかということのみだった。
公爵令嬢セラフィーナと残念な王太子殿下レグスの攻防はまだまだ続く。
*Fin