その2 梓
八雲はその夜しこたま酒を飲み、脂肪肝をまた脂肪ででっぷりさせて、がらんとした駐車場脇を通っていた。酔いはへべれけレベルで体は左右に四十度で揺れていた。一歩進んで二歩下がる、後頭部が電柱にぶつかる。すると駐車場のスケボーバカがガラガラと派手にスケボーを鳴らしながら二人出てきた。
「おっさん、平野歩夢になりたくねえか」
「いや別に。てか誰だそれ」
「ひゃっほー」
とっつかまって両腕を抱えられ、無理やり激走させられた。天地が逆転し、こぶと鼻血が加わった。はじける火花のような流星が視界を幾つも横切った。
帰宅すると、待ち構えていたパグの三太郎がひゃんひゃん吠えながら出てきて額の傷をぺろぺろ舐めた。
「いててて、いいよもう。ただいま。はい、お土産」八雲は三太郎の頭を撫でて、買っておいた骨のおもちゃを投げた。短い尻尾を振りながら、三太郎はとてとてと骨を追って走った。
寝室のドアを静かに開けて、てれんとした花柄の室内着の妻が出てきた。あの手紙はくちゃくちゃにしたまま、鞄のなかだ。写真は出さないでおこう。
「どうしたのその顔。カツアゲ? 警察呼ぶ?」
妻は呆れ顔で言った。
「いい、一応頭突きと正拳突きで返り討ちにしたから」
拳の節という節がめくれ上がり流血していた。一応一般向けのジムで体を鍛えている俺だ、やる時はやるのだ。連中は今頃駐車場で大の字になっているだろう。妻は薬箱を持ってきて消毒をはじめ、包帯を巻いた。そして酒臭い上に傷だらけの夫の前に黙って冷たい水を置いた。
取引先の大銀行の副頭取の娘だった彼女、梓は細かいことにあまり動じない。しかしこれから先は、覚悟の必要な騒動になるだろう。
八雲は黙って手紙をテーブルの上に置いた。梶井基次郎に言わせれば、檸檬だ。こいつは爆弾だ。逃げろ、三太郎。この家は爆発するぞ。
「何これ」
「何も聞かずに読んでくれ」
妻は包帯を巻いた手から手紙を受け取り、黙って読んでくれた。三太郎がその足元でおもちゃの骨を噛みながら、ふごふごふごふごと言っていた。
妻は次に添えてあった小冊子を読むと、両方静かにテーブルに置いた。彼女の速読の技術は大したものだ。斜めに眺めているとしか思えない速さだ。そして第一声がこれだった。
「M駅前のCストアの地下で、牛レバー味付け100グラム70円」
「そんなもん移植できるか」
「彼女か、彼女の夫が欲しいのはレバーじゃなくてお金よ。この手紙をあなたに渡したのはだれなの」
「……み、見たことのない、風采の上がらない中年男だ。多分探偵かだれか、だろう」思わず知らず声が震える。
「探偵、ね。じゃあここの住所も突きとめてるだろうし、また来るわね。会社にも来るかも。肝臓がダメなら費用負担してくれって」
「来ないよ」
妻はばんと両手でテーブルをたたいた。
「あなたドナー用の小冊子読んだ?
腹部にドレーンという管を入れたままにして胆汁の体外への排出をはかりながら抗生物質の投与をして自然に漏れが止まるのを待つ。場合によっては再度開腹して、胆管の手術をするような外科的な処置が必要となることもある、そんな場合には入院期間が非常に長くなる事がある。その他、手術後に腹水、胸水がたまることによる居てもたってもいられない苦しさ、ストレスによる胃潰瘍、十二指腸潰瘍や出血、肺炎、癒着による腸閉塞、残った肝臓の胆管が狭くなっての発熱や黄疸、手のしびれ、声のかすれ肝臓の切離断面に付着してねじれたりすることで、このために食事が通らない、あるいは胃液すら通らなくなって頻繁に吐く、……死んだドナーもいる。なんのために?」
「凄いなお前。よくそれだけ覚えられるよな」
「答えてよ。何のためにこれをするの? 一面識もない正体もわからない子の為に? 仕事とわが身を危機にさらして命がけで? 贖罪? それとも、しないの? 手紙破って終わりにする?」
「誰もレバーを差し上げるとは言ってないよ。落ち着け」
妻はいきなりろうろうと語り出した。
「これよく聞いて。
生まるるに時があり、死ぬるに時があり、
植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
殺すに時があり、いやすに時があり、
こわすに時があり、建てるに時があり、
泣くに時があり、笑うに時があり、
悲しむに時があり、踊るに時があり、
石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、
抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
捜すに時があり、失うに時がある」
「やめろよ気色悪いな。旧約聖書か」
「あたしは無宗教だけれど、これはわかる。その時が来たら従う。生きながら人の健康なからだから臓器を取りさなきゃ生きられないならそこで諦める。それは相手に対する傷害でもあるから。脳死移植ならともかくね。それを人の亭主に求めるようなやつは尻子玉抜いて叩き出してやる」
「じゃあ肝臓移植が必要なのが俺だったら」
「しないね。二人で死んだら三太郎はどうするの。あ。それと」妻は慌てたように言った。
「あたしが何かの腫瘍になっても臓器移植はやめて絶対。しないだろうけどね。他人のでもあなたのでも嫌なの。時が来れば死を受け入れる。約束ね」
それから夫の傷だらけの顔をじっと見て、すっと近寄ると、梓は静かな声で言った。
「ここからは女としての質問よ。正直に答えて。嘘は命懸けで許さない。いい?」
八雲昇はごくりと喉を鳴らして頷いた。
「貴方みたいな人が今まで女性問題がなかったなんて思ってない。そのことはどうでもいい。問題は中身。里美さんのこと、心から好きだった?」
「好きだった」
「本当に?」
「本当に好きだった」
「純愛と言える?」
「そんな陳腐な単語は知らん」
「相思相愛だった?」
「多分…… ただ、あそこまで行くレベルだったかっていうと、そこんとこは多少時期尚早かと」
「やりたいのが先に立ったから避妊はしなかったのね」
「……」
「ウィスキーに何入れた? 正直に言いなさい。ウィスキーだけ?」
「す、す、……睡眠薬」
「あなたのそういう正直なとこ、好きよ」
彼女の顔がすっと離れた。そしてチベット織りの肉厚のスリッパを脱いだ。俺は目玉だけ動かしてそれを見ていた。妻はスリッパに手を入れると、今まで相撲でも見たことのないような張り手を力一杯俺の顔にヒットさせた。ぱあんと風船が割れるような音がした。俺は仰向けに倒れて床でしたたかに頭を打った。その横で、彼女が泣いていたような記憶がある。クンクンといいながら、三太郎が彼女の涙を舐めていた。おい、こっちには来ないのか。それきり、意識が消えた。
「お前さんのやったことは立派な犯罪だよ」
「言われなくてもわかってる。俺は最低だ」
「でもな、奥さんの言う事はあながち間違っていないよ」
診察時間を終えた個人医院で、真田は八雲と向かい合って言った。
「海外ではドナーの死亡例は三十例ほどある。そんなに気軽に受けていいものじゃない。だが日本で生体肝移植が許される血縁者は三親等までだ。里美さんも必死だったんだろう。だがな」湯気の立つ日本茶の前で、真田は体を前に出した。
「お前の脂肪肝は生体肝移植には不適格だ。堂々、落第」
八雲はぽかんと口を開けた後、下を向いて肩を震わせ、クックックッと笑いだした。
「助かった」
八雲は震える声で言った。。
「生体肝移植なんか、したくなかったんだ。手紙を破るのも、見捨ててゴミに出すのも嫌だった。そんなことを頼んでくる里美を哀れに思い、俺にこんな思いをさせることに腹も立てた。あいつが勝手に生んだんじゃないか。俺は頼んでないし知らない。なぜ、命の危険を冒して、会ったこともない娘を、俺が」下を向いたまま、八雲は続けた。
「これでもう面倒はない。見捨てたんじゃない、無理だったんだ。そして、あの子は。あの子は、もう、助からない。俺はこれで助かった」
「もうよせよ」真田は憐れみを込めた声で言った。
「いくら悪ぶっても、俺にはお前の言いたいことはだいたいわかる。そして、奥さんの梓さんの言う通り、俺は実は生体肝移植には基本的に反対だ。いくら家族が望んでも、あるいは家族に強引に頼まれても、三親等以内の血縁者の健康な体にメスを入れて他人のために臓器を取り出すのは、傷害罪に近い。俺だって、自分が執刀医ならそんなことはしたくないよ。病気は、運命だ。だが絶望ではまだ、ない。世界にはいろいろな形の治療法も奇跡もある」
「ありがとうな、……真田。それでな」薄い涙を拭くと、八雲は言った。
「なんだ」
「里美は、俺を見たかもしれない。いや、見られていたかもしれない。あの竹芝埠頭で」
「なんだって? 何故?」
「里美は大島でときどき家業を手伝っていると言っていた。彼女の夫は世界中を飛び回り今は東京の病院の娘を見舞う身だ。じゃあ、あの東海汽船のジエットフォイールで大島から到着した客の中に里美がいて、俺の見えない場所で夫婦で待ち合わせて病院に行ったかもしれない」
「そうか。……確かにな」真田は腕を組んだ。
八雲は冷めた茶を啜った。
「妻にひっぱたかれた翌朝、彼女は姿を消していた。テーブルに手紙があった。内容はこうだ。
最初、わたしはあなたに無茶を言ってくる里美という女が憎かった。でも今、わたしは彼女に同情してる。その子に生きてほしいと思ってる。あなたよりはよほどましな命よ。あげられるなら、わたしが命をあげたい。そして、謝りたい。しばらく一人にしてください」
「いい女と結婚したな」真田は言った。
「……」
「いい奥さんかどうか知らないが、いい女だよ。彼女の怒りも悲しみも、俺は正しいと思う」
「まあな」
「帰ってくるといいな。まあ、帰ってくるさ。お前らには三太郎がいるんだろう」
八雲は頬の痣を押さえて、俯いた。




