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星に願いを  作者: pinkmint
1/4

その1 八雲 昇

「おとなり、よろしいデスか」


 突然現れたニット帽にサングラスの外人男に声をかけられて、八雲昇は思わず周囲を見渡した。

 ここ、竹芝桟橋の埠頭公園は、観光客と船好き以外、平日の昼にはあまり人影はない。眼前の桟橋には東海汽船のジェットホイールが停泊している。極彩色の悪趣味なデザインだ。待合室は客船ターミナルビルの中にあるし、船待ち客はほとんどその中のレストランで軽食を済ませる。ビジネスマン用の食堂もビルの中にある。三月の真昼とはいえまだまだ風は寒いので、いたるところ屋外ベンチはあいているのだ。

「はあ、どうぞ」

 戸惑いながらもそう答えると「ドーモ」といって、帽子オトコはでかい身体を窮屈そうに屈め、ベンチの隣に座った。そしてクラッカーを二、三枚ずつ口に放り込み、プロテインドリンクのようなものを一気飲みした。筋肉で盛り上がった黒いTシャツの胸にはなぜか「南方熊楠」と書いてある。みたところ、映画「レオン」の殺し屋そっくりだ。

 四十を前にして生命保険会社で業績を上げられず席がギリギリ窓辺ににじり寄っている自分には、殺し屋派遣は大げさすぎるんじゃないか。馬鹿みたいな妄想に八雲はひとり苦笑した。

「お寒くはないんですか、三月のこんな風の強い日に、半袖で」黙っているのも気づまりなので、ゆっくりと話しかけてみた。

「船。みるの好きで。デモあれ、あまりよくない。ペンキのいたずらがきみたい」ジェットホイールを見ながら、身体に似合わない幼児のような喋り方で彼は言った。八雲は苦笑した。

「あれは漁船の大漁旗をモデルにデザインしてるんですよ。あと、セブンアイランド・虹ってのは全部がレインボーカラーに塗り分けられてて、さらにど派手です」

「レインボーの、ほうがいい。虹はいい。そっち見たかった」

「あなた、南方熊楠さんですか」冗談交じりに尋ねてみた。めくり上げた半そでの肩に、ふわふわころころしたクマバチのような刺青があり、その下にはハートマークと、花文字でよく読めない名前がふたつ、彫られていた。

「クマグス、知ってます。彼面白い。でもわたしは違う」彼は真面目に答えた。

「ジャン・レノに似てるって言われませんか」

「そこ狙ってる」彼は指を立てていたずらっぽく笑った。そして、鷲鼻の上のレイバンを指先であげながら言った。

「突然話し掛けて申し訳ない。わたしはアメリカで格闘技のインストラクターしてるものです。用があって日本に来た。大事な大事な用で」それまでとはがらりと違う、真面目な口ぶりだった。

「はあ。商談ですか」

「あなたに会うためです」

「はっ?」

「あなた、ヤクモ・ノボルさん。そうですね」

 サングラスの向こうの目が刺すようにこちらを凝視しているのがわかる。

「……」

「ある方から大事なお手紙を託されてきました」

「手紙? 誰から?」

「最初の一行、お伝えします。それをあなたに言って、それで反応なく覚えないなら、その手紙はそのまま燃やしてほしいと、そういうことで」

「人に名前を聞いといて、あなた自身は名乗る気はないんですか」幾分むっとして八雲は言った。

「スミマセン。わたしはレヴィ・フライシュマンといいます。わたしはあなたに聞いてほしい。まじめな、お願いです」

 数秒考えて八雲は言った。

「まあ、いい。では名乗ってくれたお礼に、一行分聞きましょう」

 男は、台詞の芝居のようにゆっくりと言った。


『しし座流星群を覚えていますか』

 

 八雲は、しし座、と口の中で小さく呟いたのち、絶句した。口元を撫で、頭を掻き、煙草を取り出してやめ、オロオロといろんなものを鞄に押し込んだ後、言った。


「依頼主は、女性ですか」

「イエス」

 

 突然、ジェットホイールの出航を知らせる放送が大音響で響き渡った。行先は伊豆諸島。スーツケースやリュックを持った客がわらわらと待合室のあるビルから出てくる。

「どうします」

 男に聞かれて、八雲は「くそ」と口の中で小さく呟いた。そして一分弱、沈黙した後、短く答えた。

「手紙は……頂きます」

 答えた後、ある種の敗北感と名指し難い恐怖とが腹にぐるぐると渦巻いた。

「それはありがたい。よかった。ではこれがお手紙です」

 サングラスの大男は心からほっとしたような表情を見せ、あて名書きも何もないまっ白な縦長の封筒をカバンから取り出し、八雲に手渡した。そして視線を海に投げて言った。

「今夜、星あまり見えないでしょう。空は晴れているのに海にもやがかかっています」

「……はあ」

「見晴らしもよく雲もないのに、見えるべきものが見えない景色は、もどかしいです。ザッツライフ。でも、生きるの大事。死にかけてる人の命も、あなたの命も。愛してる人には、同じに大事。よく、考えて。ありがとう」

 謎のような言葉を残して立ち上がると、男は海とは反対方向に向けて階段を降りていった。埠頭広場の中央、マストの形の巨大なオブジェの横を通り、浜松町駅方面に足早に歩いていく。なぞなぞを渡された子供のように、八雲はただ大男の背中を見つめていた。



「毎年律義に来るんだな。感心するよ」

「まあ家族のいる身だからな」

「恐妻家としては、奥さん命令だろう」

「あいつは倹約家だから、むしろムダ金だって毎回愚痴ってるよ。まあ強いて言えば、健康でいなくちゃと思うのは、愛犬の三太郎の為かな」

「なるほどね」

 八雲の目の前で笑顔を見せながらカルテを手にしている医師、真田功は、高校時代からの旧友でもあった。暇つぶしに入った文芸サークルで、まるで学会誌に掲載する研究報告のような理路整然としたつまらない小説を書いていた奴だ。

 人間ドックをこのホテルで年一度受けるのを習慣としている八雲には、この診断室は見慣れた空間だった。検査は午前で済み、貰った食事券でレストランで昼食を済ませ、あとは適当に時間をつぶしてから午後、結果を聞きに来ることになっている。海に向けたすりガラスから、ほんわりと昼の日差しが部屋を満たしている。

「なんか、顔色が悪いな。大丈夫か」真田が眉間にしわを寄せて言った。

「いや、空き時間に変な男に絡まれただけだ。大丈夫」

「ここらは緑もベンチも多い分、浮浪者も昼寝に来るんだよな。さて、結果だ」真田医師は様々なデータを一通りパソコンの画面で見ると、医者然とした口調に戻って言った。

「小腸に小さいポリープがある以外は、特に問題ない。これは去年も同じ場所にあって成長していないものだし、経過観察でいいな。血液検査、内臓の超音波、肝臓の数値……多少γGTPが高めだがあれだけ飲んでこれなら許容の範囲と。むしろ、この血液成分の健全さは、献血をお勧めしたいぐらいだよ。体にご負担がなければね」

「ご負担、か」四十とはそういう年齢なのだと再認識する。

「しかし、相変わらず肝臓が肥大してるなあ。脂肪肝、これだけは要観察だ」

「はいはい」

「では詳しい数値と診断表は後日ご自宅にお送りしましょう。お疲れさま。今度暇なとき軽く一杯やろうや」

「ああ、そのうち連絡するよ」

 支払いを済ませ、臨海広場に隣接するアジュール竹芝ビルを出る。そのまま八雲は客船ターミナルビルに入った。船が出たばかりで人の姿はまばらだ。売店やロッカールームのさらに奥、ひと気のないホールのベンチルームに入る。ちょうど半地下のドライエリアとなっているこの空間では、ガラスの向こうで噴水を止められたイルカのオブジェがむなしく跳躍のポーズをとっている。

 八雲は深呼吸すると、ベンチの一つに座り、白い封筒を開いた。この手紙を見るのは、検査の結果をすべて聞いてからにしよう。なんとなく、そう決めていたのだ。

 白い便せんをゆっくりと取り出す。金色の鎖付きのカギが上からぶら下がったイラストが印象的な、どこか少女が使うような便箋だ。


『しし座流星群を覚えていますか。たくさん、流れていましたね』


 青いインクで書かれた流麗な曲線の文字。探偵の言った通りの一行を読むと、八雲は身震いし、四枚の便せんを読まずに飛び越して最後の名前を見た。


 ……里美……

 

 ああ、と八雲は思わず声に出した。

 脳裏に、樹海を貫く霧の国道と、連れ立って暴走する車と、停車した車内での会話、「エントロピー」「宇宙の熱的死」といった気取った単語、そして甘い吐息が蘇る。

 年月が経っても、過去は消えない。こうして、夢の中の機関車のように、自分の後をついてくる。何もかも受け入れねばならない。いずれは向き合わねばならなかった現実が今、遂に俺に追いついたのだ。

 彼女がこれを書くことになったその流れの大元は、この胸の奥に重く落ちている。月の光を受けても産卵しない珊瑚のように、いつまでも固く凝固して。そして、たぶん。その固まりから、これを読んだあと、確実に何かが生まれるのだ。

 八雲は深呼吸すると、全文を読むべく、四枚の便せんを震える指で開いた。


『昇君。何から書いたらいいのでしょう。

 これだけ年月が経つと、どの年齢の自分の立場で、自我で、モノを書いたらいいのか迷います。それでまずは、あなたの知っている、あのときの里美でいくことにしました。

 ご無沙汰しています。お元気でお過ごしですか。

 わたしはご存じの通り、大学を中退してアメリカに語学留学しました。あまり誰とも連絡を取っていないので、行方不明扱いされているかもしれませんね。

 実はその後出合ったユダヤ人の男性と結婚しました。そして、女の子を授かりました。もう十七になります。わたしは結構アメリカと日本をいったりきたりしているので、夫とは半分別居状態です。故郷の大島の椿油の製油所が人手不足でピンチなので絞りを手伝ったり、海外での販路を広げたり…… 

 夫は格闘技指導者として世界の道場の支部を回って多忙な身です。イスラエル流護身格闘術…… クラヴ・マガというのですが、お聞きになったことは、ありませんよね』

 

 八雲は直感で悟った。あいつか! 偽ジャン・レノ。確か、フライシュマン。なぜ直接俺に、わざわざ面々と俺たちの過去をあけすけに書いた手紙を渡しに来たのか。


『娘は父親と同じ武術を極めようと、夫のもとで修業しています。イスラエルの軍隊で実際に使われている護身格闘術です。すでに打撃テクニックを学ぶKMストライクの上級者です。そして夫は本部のトップインストラクターで結構有名人です。

 娘の名前は、言わないでおきます。博多人形顔と言われるわたしに似ずくっきり顔の美人なんですよ。でも、……でも、あなたにとても似ています。眉毛と鼻と、ほくろの位置が』

 

 はらりとビニールに包まれた写真が落ちた。八雲は恐る恐る写真を引き出して驚愕した。

 まぎれもない事実がそこにはあった。この子は、混血ではない。濃い眉、マスカラでかいたようなくっきりした目。意志の強そうな唇、まっすぐな眸、細く高い鼻、極限まで短くした黒髪。他人から見ればハーフ顔にも見えるが、どうにも俺そっくりなのだ。……そうして、自分という存在と戦っているような、怒りにも似たエネルギーが、ありありと全身にあらわれていた。


『夫は、彼女が自分の子でないと知っていながらわたしと一緒になってくれました。日本の大学から逃げるように留学という形でアメリカに渡って、すぐに出会った人です。霊感が強いのかなんなのか、ごく自然に当ててきました。きみは辛い恋をした。そして、新しい命がここにいるね、って、そっとお腹に触って』

 

 八雲の目がそこで止まった。

 恋? 辛い恋だって?

 霊感も何もあったもんじゃないじゃないか。あれは……


 認めよう。そうだ。あれは、酒と薬を飲ませての、レイプだった。俺は、俺は、最低の人間だったのだ。最愛の人間を、レイプしたのだ。けっして消えはしない人生の十字架、そして罪。俺の醜さそのもの。誰にも知られてはならない秘密。ここまでぎゅうぎゅうとしまい込んできたそれが、その現実が、形を成してこちらを見つめている。

 手から離そうとしても、写真は離れなかった。


『彼は宗教上の理由から、そして命への優しさから、彼女を生むことをわたしに勧めました。むしろそのためにわたしのパートナーになってくれました。わたしはいろんな意味で一人ぼっちだったので、彼に縋りました。折角授かった命を捨てたくはなかった。彼は言いました。この子はすごい、とにかく凄い子になるぞ、って。

 シンママで元々余りわたしに執着していなかった母は、勝手にしなさいと日本からそれだけ。

 娘は夫を、レヴィを、人として父親としてとても尊敬しています。

 八雲昇さん。あなたは、彼女の命を祝福してくださいますか?』


「……」

 

 もしも、この子が。

 風船みたいなデブで頭が悪そうなブスで、あるいは障害持ちなら、自分は祝福するか?

 祝福してくれるかというのは、何かの皮肉だろうか。

 そんなの、条件によるだろう。唐突に聞かされて、答えられるわけもない。

 ああ、おれはまた、自分の醜さと向き合っている。


『あの、富士山のふもとで過ごした、しし座流星群の日』


 そこで、視線が止まった。その先にあるのは、俺の罪だ。だがどうしても、見なければならない。彼女はなにを語ろうとしているのか。どこまで意識があったのか。


『ボードゲームサークルの仲間と二台の車に分乗して富士山のふもとを目指しましたね。途中ジンをラッパ飲みしてた鳥海君が気持ち悪くなったと道の駅なるさわあたりで車の外に転げだして。じゃあここが見物場所でいいかって、道の駅の裏にシート広げてお酒飲み始めてどんちゃん騒ぎ。でもわたしたち、静かな車内で二人だった。わたしはあまりお酒が飲めなかったし、流星が好きで、富士のふもとでならたくさん見られると、そればかり楽しみにしてました。それでルーフウィンドウを開けて、寝転がって、たくさん、たくさん、見ましたね。色んなことを語りながら。楽しかった』


 楽しかった? 

 俺たちは本当にそれぞれ、楽しかったんだろうか。いつのどこの時点まで?

 樹海を横断する国道で見た霧のように、頭の中で白濁したものが渦を巻き始める。


『いくつもいくつも、流星は流れ続けた。願い事を願う間もないわって言ったら、何を願ったのって聞かれて。願いはあったけど、わたし、答えなかった。なんだかぼんやりしてしまって、あなたの話の半分も頭に入らなかったんです』


 俺の話。くだらない話だった。実に、くだらない。頭に入っていなくて、幸いだ。

 俺はそのころ不眠症だった。なぜかと言えば彼女のせいだ。寝ても覚めても、あの墨で描いたような一重の目が、囁くような声音が、微笑が、頭から離れない。

 面倒なことを飛び越えて、彼女と一つになりたかった。彼女の気持ちと身体をたしかめたい。いつも何か考えているようでわからない、生きる喜びに輝いているようで、突然闇に向かって歩き出しそうな、彼女の魂を捕まえたい。白くてすべらかな手足、そり上がった胸。いつもリンゴのような香りのしている口。それしか考えていなかった。

「エントロピーの法則って知ってる?」

 こんなことを、背もたれを倒した運転席で、俺はラッキーストライクのメンソールをくゆらせながら突然語ったんだよ。この気障野郎。今すぐ窓から引きずり出して顔面に蹴りを入れてやりたい気分だ。

「熱力学とか、熱容量とか、そういうもの?」

「そうだよ、さすがだね。そいつによれば、外部から遮断された閉じた空間……閉鎖系っていわれるやつ……におけるエネルギーや熱、物質の流れは必ず一定方向に進んで、やがては平衡に達して変化が停止することになってんだ。たとえば、コーヒーにたらしたミルクがゆっくり混ざっていっていずれは均一になるように」

「うん。で、それが?」

「宇宙の変化が停止するとどうなると思う」

「いきなり宇宙って……ええと……」

「熱的死、ていってね。全てが終わる」

「えええ??」

「たとえば永遠の時の果てにいくつもの太陽、恒星が死を迎え赤色矮星になって、いくつもの銀河が衝突し、外宇宙の熱が均衡になって、まざりあい、すべてが均一になる。ガチャガチャに溶けまぜたコーヒーみたいに。理論上で行けばそうなるんだよ。無限サウナ。もの凄い熱だよね」

「……うん」

「これは宇宙の宿命、最後の姿として必ず訪れると言われているんだ。宇宙の熱的死。まあ、遠い遠い遠い未来にね。オーストリアの物理学者ボルツマンはこの理論の行く先に絶望して自殺した」

「寿命も届かない話に絶望するなんて、凄いロマンチストね。でも、閉鎖系世界って、宇宙のこと? いまのところ、その予兆は見えてるの?」

「いや。物理学上の法則とは逆に、ぼくらの目に見える世界では世界はバラバラに散逸せず、いろんなエネルギーがうまく循環して人や地球や生形態を生かし続けてるんだ。

 細胞は死に続け、そして生まれつづけ、生命の構造体をそのままにとどめようとする。これはいのちが、『閉鎖系』ではなく『開放系』のエントロピーによって成り立っていると考えることで説明できるんだって」

「ふーん?」

 俺はシャトルポットに入れた麦茶とウィスキーと薬と氷のブレンドを彼女に渡した。ありがと、と言って彼女はそれをごくごく飲んだ。

「あ、お酒の匂いがする」

「その位薄めれば、飲めるだろ」

「うん」

 俺は胸をなにか暗いものに突き上げられながら、先を語った。

「生物は、太陽光を主とした低エントロピー資源を消費し、高エントロピーの廃熱・排泄物を環境に捨てることによって、自らの構造を維持するシステムを保ってるんだ。こうして資源の散逸によって維持される構造を散逸構造という」

「なんか、大学の講義みたいね」

「ちゃんと考えると結構これが面白いんだよ。手塚治虫の火の鳥にもあったように、細胞、人間、地球のレベルまで広げてもシステムと原理は同じでさ。地球は太陽からの熱を受け、廃熱を外部の宇宙空間に放出する機構を内部に持っているんで、物質循環の停止した熱力学的死に至らない。

 これを可能にしているのは、地球の、大気の循環と水の循環なんだ。

 ぼくらはこれと似た構造を知恵で手に入れて、それぞれの時代のエネルギー原料に頼って文明を築いてきた」

 彼女はルーフウィンドウを見上げながら又シャトルポットに口をつけた。

「中世の農耕時代の木材から始まって、近代では石炭、そして化石燃料。けど、高エントロピーの排熱が出続ける宿命はどうしようもない。命のからくりと同様に、人類が抱え続ける課題なんだ。

 人が前へ前へ進むほど有限な地上のエネルギー源は減少し、それによって支えられる社会システムは逆に膨張し続ける。ぼくらはつるつるの坂道に爪を立てて這い上っているようなものなんだって。そして効率のいいエネルギー源を探し続ける、何のために先へ進むのかわからないままに」

「それで? 宇宙の熱死は、いつ……訪れるの?」彼女の口調が幾分だるそうになってきた。

「いや、これ、仮設のあくまで一例なの。なかには、ブラックホール様の蒸発という奇異な現象が起き始めて、全部蒸発した後には、宇宙背景放射の光子とブラックホールの蒸発で生まれた光子だけが宇宙を満たした状態になるって説もある。この時代の宇宙は絶対零度に限りなく近い。これらの光子から再び物質粒子が生成されることはなく、放射のみが存在する宇宙が膨張していき、絶対零度に向かって永遠に冷却し続けることになる……。となると、逆に宇宙の凍死、だね」

「……」

 里美は瞳を閉じたまま、もう返事をしなかった。むしろこのつまらない話によくついてきたものだ。そうだ、彼女は懸命に聞いていた。聞いていてくれたんだ。

 俺はまず、里美にくちづけた。そうっと、蝶々が唇に止まるように。そして激しく。

「ん……」短い声が漏れた。

「何、なに……したの……」

「里美。今まで言えなかったけど、きみが好きだ。だい好きなんだ」

 俺は里美の肩を抱いた。

「……」

「だから、何も考えないでくれ。これは、流星の下で見た夢だと思ってくれ。いや、その夢を、俺にくれ」

「まって、待って…… そんな…… 夢じゃない、まだ…… 触らないで……」細い手が弱々しく胸を押し返してきた。畜生、大してきかない薬だ。

「好きなんだ。一時の欲望、とか、そんなんじゃない。心を込めて、好きだ」

「やめて…… こんなの、嫌…… わたしだって、だって、まじめに、の、昇君が…… だから……」

 なんだって?

 それきり彼女は微動だにしなくなり、顎が斜めに倒れた。うっすらと、涙が片目から流れていた。

 そうして、俺は俺のしようとしていたことをしたんだ。ボタンを外したブラウスからこぼれ出た乳房の白さばかりが目に眩しかった。手の中でそれはいやいやするように、あるいは素直に、形を変えた。

 あとは…… もう美化するのはよそう。酒と薬の力をかりて、ガサゴソと、他の連中に見つからないように、俺はまるで発情期の昆虫みたいにうごめいた。ミンミン鳴きながら、最後まで到達しようと必死だった。彼女の思いは確認した。これはレイプじゃない。俺は自分に言い聞かせ続けた。俺たちは、互いの気持ちを確かめ合ったんだ……

 それから一時間ぐらいたっただろうか。駐車場の車の中で、俺たちは放心した人形のようになっていた。もちろんどちらも服をもとに戻したまま。彼女は完全に人事不省だった。その時窓ガラスをどんどんと叩く音がした。

「みず、水のませてくれ。この野郎、俺が急性アルコール中毒死でくたばったらおいてく気だったな」鳥海だった。

「外出てらっしゃいよー。草原のほうがよく見えて気持ちいいわよ」

「おい、野暮はやめとけよ」外でシートを広げて宴会をしている連中の声がする。

「鳥海は出るげろもない半病人で、里美はウイスキーで熟睡」窓を開けて俺が告げると、

「あれ、生きてるの八雲だけかあ。じゃここで一緒に飲も」相田真紀が言った。

「お、おれもいくって」鳥海が這ってついてきた。草原にブルーシートを広げて、やたら酒に強い真紀と、同棲相手の稲村哲夫がウィスキーを飲みかわしながらマージャンの勝ち方について論争していた。

「お前ら星はどうでもいいのか」

「上見続けてたら首痛くなっちゃってさ。下に手鏡おいてるから大丈夫」哲夫が言った。

 焼酎片手の野間明菜と山越修一はヘラヘラ笑いながらそこら辺のキノコを焼いて食っていた。鳥海はウーロン茶をがぶ飲みしている。 

 俺はただ、空を見上げて呆然としていた。

 星はいつまでも流れ続けた。それはもう、怖いほど。

 相田が俺にそっと耳打ちした。

「どーせまたインテリジェンス溢れるつまんない話してたんでしょ。どーよ俺、って調子で」

「し、してねえよ」

「で。物理的にも、なんもしてないよねえ?」

「してないったら。いや、一部認める。下心満載で、意識高い系の話してたらなんかする前に一方的に寝られた」俺はするすると嘘を言った。相田は声を小さくして言った。

「ここだけの話だけどさ、里美、八雲のこと好きだって言ってたよ」


「え」


「二人でランチしてる時にさ。小さい声でだけどはっきり聞いた。あの子、昔から電車でしょっちゅう痴漢に遭って男性恐怖症気味なんだって。触られるのも、怖いんだって。だからたとえば、夏祭りで、浴衣きて、八雲くんみたいな紳士タイプと並んで風鈴選ぶあたりから、始めたいなって」

 腹がきゅうっと縮み上がってきた。いや、腹ではない。胸だ。いや両方だ。

「付き合ってあげれば。あんたイケメンだし、脈は十分だよ。でもそうっと、うさぎでも撫でるように、やさしくやさしくね」

 俺は真紀からもらったウィスキーの水割りを一口飲んだ。そしてそのまま、膝に顔を伏せた。

 乱暴な酔いの中で、ふわりふわりと走り回っている子ウサギを捕まえてバーベキューにする悪魔のような自分の姿が浮かんだ。


『八雲君。

 わたしの記憶に残っていることを申し上げますね。

 あなたからの、本当に大好きなんだ、という言葉です。欲望ではないと。

 ウィスキー混じりの麦茶を飲みながら聞いた、泣くような、言葉です。聞き間違いではありませんよね。わたしは信じています。そして、わたしは酔いに負けた。後の記憶はおぼろです。でもうっすらと、その時の記憶があるんです。おわかりでしょう。からだの、記憶です。

 わたしの娘はあなたとの間にできた子です。それ以外の男性を、わたしは性的な意味で近づけていません。ユダヤ人の夫との関係も、形ばかりです。彼はゲイですから』


 八雲はイルカのオブジェを前にしたベンチで、血が出るぐらいの勢いで唇をかみしめた。


『話を先に進めましょう。あなたがわたしに命をくれたこと、今は恨んでいません。それどころか、感謝しています。ですが、今は時間がありません。時間がないのです。そしてあなたに、協力してほしいんです。

 はっきりと申し上げます。娘は肝臓腫瘍に罹患しています。状況はよくありません。実は今日本の病院に入院しています。生体肝移植以外に助かる道はほとんどありません。けれど生まれつき肺機能の悪い、体の弱いわたしは候補から外されました。夫とはもともと血縁がありませんし血液型が合いません。確か以前、昇君、血液型はBといっていましたね。あの子も、Bです。あなたしかいないんです。

 無理なお願いで、本当にごめんなさい。そして、非常識とご負担を承知で申し上げています。わたしはなんとしてもあの子を失いたくない。あの子自身から、あの子自身を、奪いたくないんです。奥様やお子様がいれば、尚更無理な話でしょう。でも、一縷の望みに賭けました。

 どうか、どうか、どうか、あの子の為に、万難を排して、生体肝臓移植のドナーになっていただけないでしょうか。説明のための小冊子も、同封してあります。伏してお願いします。あの子だけが、わたしの生きがいなんです。

 お願いします。あの子を救ってください。差し上げられるものなら、何でも差し上げます。金銭的負担もお礼も用意しています。お疑いなら、DNA検査でも何でもします。ここに連絡先を記しておきます。無茶苦茶な話なのはよくわかっていますので、駄目なら駄目で、この手紙は破り捨ててください。嫌な思いをさせて、本当にごめんなさい。たぶんわたしいま、ふつうではありません。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい』


 八雲はただ茫然としていた。

 こんな現実が本当にあるのか。


 常識的で冷静だった彼女が、明らかに錯乱している。だがそれはみんな、みんな俺のせいなのだ。たとえ…… たとえ子どもを産んだのが彼女個人の判断だったとしても。

 レイプ同然で自分を犯した男への、そうしてできた娘への生体肝移植のお願い。書かない。こんな手紙は普通書かない。彼女は少し頭がいかれてるんだ。大部いかれてるんだ。里美、ごめん。里美ごめん。愛していたのは嘘じゃない。そのうえで欲望が勝っていたのも事実だ。だけど無理だ。俺には嫉妬深い勘の鋭い妻がいて会社があって犬がいて生活がある。この健康だって、手放す訳に行かない。ポンコツになれば会社も首だ。この手紙をどうする、破っていいか。だけど、この写真は卑怯だ。なんで、俺と同じあごの下にほくろがあるんだ。なんで、そんなに綺麗な目でこっちをそんなに見つめてるんだ。

 俺と妻の間に子はいない、もうできないだろう。

 名も知らない娘。たった一人の、心から愛した女性の娘。あとほんの少しの命。

 どうか諦めてくれ。こんな男の子どもに生まれたのが、おまえの不幸だったんだ。


「見晴らしもよく雲もないのに、見えるべきものが見えない景色は、もどかしいです。ザッツライフ。でも、生きるの大事。死にかけてる人の命も、あなたの命も。愛してる人には、同じに大事。よく、考えて。ありがとう」


 男の言葉が初めて意味を持って胃の腑に届いた。八雲は両手をぎゅっと握りこぶしにして顔に当てた。火のように顔面がほてった。涙は出なかった。



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