[明るい部分]と[暗い部分]。[哲学]
[明るい部分]と[暗い部分]を実際に対比させて書いてみたいと思う。前者が[明るい部分]で、後者が[暗い部分]である。
昼と夜。太陽と月。夏と冬。暑と寒。舞台と客席。趣味と仕事。休日と平日。表と裏。喜びと悲しみ。楽しみと苦しみ。正義と悪。勝者と敗者。成功と失敗。完成と未完成。真実と嘘。恋愛と失恋。裕福と貧乏。理想と現実。白と黒。生と死。等々である。
つまり、社会の全ての事には、必ず明るい部分と暗い部分が存在するのではないだろうか。明るい部分だけの社会であれば理想であるのだが、現実には暗い部分も存在するものである。
ちなみに、暗い部分が存在するということは、明るい部分が際立って見えるということであり、明るい部分が輝いて見えるということである。暗い客席から明るい舞台を見ている感じである。逆に、明るい舞台から暗い客席を見ても何も見えないものである。そしてもしも、明るい部分しか存在しない社会であれば、明るい部分に特に魅力を感じることも無くなるということである。例を挙げると、苦しみを伴う仕事または勉強などが有るからこそ、休日は嬉しいものであり、毎日が休日だとしたら、休日の有りがたさも無くなるということである。さらに、暗い部分の苦しみを経験しなければ、自分の目標にしている明るい部分の楽しみに到達できないような社会の法則のようなものを感じるものである。そういう意味においては、人生において、先に、暗い部分の苦しみを経験してから、後に、明るい部分の楽しみを経験したほうが、順番的には希望が有るものであろう。逆に、先に、明るい部分の楽しみを経験してから、後に、暗い部分の苦しみが待っているとしたら、絶望的で耐えられないものであろう。
つまりそれが、暗い部分の存在意義であるのではないだろうか。暗い部分は、出来れば見たくないということが本音であるが、何故なのか分からないが、暗い部分を乗り越えないと、明るい部分に到達できないような法則が有るような感じがする、ということである。社会で成功している人は、普通の人よりも多くの苦しみを乗り越えた人であるのではないだろうか。自分は凡人であったので、多くの苦しみには耐えられなかった。だからこそ成功に到達できなかったのではないか、と今さらながら分析しているところである。しかし、今からでも、多くの苦しみを乗り越えていければ、もしかしたら、成功にたどり着けるのではないか、とも考えているところである。まさに、苦は楽の種、楽は苦の種、ということかもしれない。
結論としては、暗い部分は、不要な部分ではなく、明るい部分になるために必要不可欠なもの、であるのかもしれない。
余談であるが、嬉しいとき、というのは、暗い部分が明るい部分に変わるその境目のとき、であるのではないだろうか。例を挙げると、怪我や病気の治療が峠を越してきたとき、宝くじの高額当選が決まったとき、明日から長期休暇というとき、勝負に勝ったとき、結婚が決まったとき、等々である。逆に、悲しいとき、というのは、明るい部分が暗い部分に変わるその境目のとき、であるのではないだろうか。例を挙げると、怪我や病気になったとき、宝くじがハズレたとき、長期休暇が終わり明日から会社または学校というとき、勝負に負けたとき、離婚が決まったとき、等々である。出来れば、暗い部分が明るい部分に変わるその境目のときを、これからもたくさん経験したいものである。
[無断転載禁止]




