中庸の効果について。[哲学]
中庸というのは、ほどよい中程[なかほど]、ということである。個人的には、中庸というものは、素晴らしいものであると思っている。
中庸が素晴らしいという例を挙げるとするならば、まずは、運動、だと分かりやすいかもしれない。適度な運動は、自分の身体の健康増進に役立つものであるが、極端に運動し過ぎると、身体への負担が大き過ぎて、身体を壊して病気や怪我につながることにもなるかもしれない。逆に、全く運動しない状況では、運動不足で成人病のリスクにさらされて、結果的に長生きできないことにもなるかもしれない。
同様に、勉強においても、適度な勉強は、自分の知識や知恵の増進に役立つものであるが、極端に勉強し過ぎると、精神への負担が大き過ぎて、睡眠障害やノイローゼなどの症状が出てくるかもしれない。逆に、全く勉強しない状況では、精神や身体への負担は何も無いが、生きていくうえで役に立つ知識や知恵を吸収することが出来ずに、人生で損をしてしまうことが有るかもしれない。
同様に、買い物においても、適度な買い物は、生活に必要な物を買えるので、生活に支障をきたすことは無いものであるが、極端に買い物をし過ぎると、経済的にお金が底をつき、生活が苦しくなるかもしれない。家のなかに物が溢れてしまうことにもなるものである。逆に、全く買い物をしなければ、生活必需品も足りない状況であり、これも、生活に支障をきたすことになってくるものである。
同様に、人間関係においても、適度な交流は、良い人間関係を保つことが出来て、友達が増えることにもつながり、人間関係の信頼をもたらすものであるが、極端に交流し過ぎると、しつこい、と思われて、友達を失うことにもなるかもしれない。逆に、全く交流しない状況では、相手に迷惑をかけることは無いけれども友達が増えることも無いものである。さらに、全く交流しない状況では、つめたい、と思われて、友達を失うことにもなるかもしれない。人間関係においても、中庸に接することは、最善のような気がするものである。とはいえ、人間関係においては、客観的な意味でも中庸に接することは、なかなか難しいものである。自分では、中庸に接しているつもりでも、相手がどのように受けとめるかは、そのときの状況や相手との関係によっても変わってくるので、相手次第ということになる。しつこい、と受けとられる場合もあり、つめたい、と受けとられる場合もあり、あたたかい、と受けとられる場合もある。あたたかい、と受けとられた場合には、客観的な意味でも中庸に接することが出来たということなのかもしれない。このように、人間関係というものは、本当に難しいものであるが、人間関係において中庸に接することは、結果がどのようになるかは別として、方向性としては間違っていないような気がするものである。
持論の結論としては、人生においても、中庸の努力は成功につながるような気がする。命懸けで努力しないと人生の成功は無いという考え方も有りうるが、その場合でも、死なない程度の努力にしなくてはならないので、強力に体力が有る人以外は、中庸の努力が、最善のような気がするものである。
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