第九十三幕 闇のなか
杏里は竹林と崖の間にできた細い道を駆け、何歩が走ったところで、薄暗い竹林の中に戻った。
後は、あの五人に遭遇しないように、注意して竹林の中を抜け、今度は村人に見つからないように、村を出る。そして、町まで行くのだ。その途中で、光介達に出会えればよし、そうでなければ、町で合流するしかない。
なるべく音をたてないよう、歩幅を縮めながら走る。進む距離は短くなるが、見つかってしまえば元も子もない。
気を抜くと、荒くなりそうになる息遣いも、なるべく静かにしようと、潜めるように息を吐いた。
その時だった。前方から足音が聞こえてきたのは。
「なあ、杏里を見つけたらどうする?あいつは好きにしていいって言ってたけど」
高めで、軽さのある声が耳に響く。
「あぁ?そんなの決まってるだろ。どうせ、光介は死ぬんだ。なら、俺達がかわいがってやろうぜ」
低く、下卑た声がそれに答えた。
その言葉に、杏里は背筋を凍らせた。
高めで、軽さのある声の主は、啄。低く、下卑た声は剣次だ。啄は、五人の中で一番若く、剣次は顎に刀傷のある男だった。
明るく、人懐っこい啄は、村の人間に孫や息子、あるいは弟のようにかわいがられていた。剣次は、ぶっきらぼうで無口だが、仕事が早い。
杏里も啄を年の離れた弟のように思い、剣次には信頼をもって接していた。
悪い印象をもっていなかっただけに、二人の言葉が、胸に刃のように突き刺さる。
杏里は、右手で口と鼻を覆い、左右を見回す。すると、下草のなかにツツジが植わっていた。しゃがみこめば、ぎりぎり体が隠れ、二人と鉢合わせすることはなさそうだ。
杏里は、急いでツツジの影に隠れた。息を殺し、啄と剣次が通り過ぎるのを待つ。
二人の声と足音がゆっくりと近づいてくるのが耳に入った。
「啄、お前、間違っても殺すなよ。俺は、死体とやる趣味はないからな」
殺すという言葉に、杏里はびくりと肩を揺らした。
まるで、明日の天気はどうか、明日の朝餉は何かと言っているような自然な口調だった。
剣次は自分達と同じ村人のはず。そんな言葉を当たり前のように言うなどおかしい。
杏里の動悸が激しくなる。心臓がどくどくと脈打ち、体中が総毛だった。
「それをあんたが言うのか?女を見ると、気が強いところが見たいからって、何度も殴って、しまいにはやり過ぎて死なせてさ。あんたこそ楽しみを潰してるだろ」
啄は、剣次の言葉に動じることはなかった。むしろ、呆れた口調で、剣次に苦言を零す。
次の瞬間、バシッという小気味よい音が響いた。同時に、啄が痛そうな声を上げる。
「いてっ!何すんだよ!」
「はっ。お前にあの良さがわかってたまるか!あのぎりぎりの所で歯向かうところがたまんねえんだよ」
顔が見えれば、口角を上げているだろうと想像できるような声音に、杏里は恐怖した。
彼らの会話で分かったことは、啄と剣次がただの村人でないことだ。
殺す、死なせるなど、平穏に暮らす者にとって縁遠い言葉を、普段使うように口にする彼らは明らかにおかしい。
二人の正体も気にはなるが、見つかれば確実に殺されるという恐怖のほうが勝った。
絶対に気付かれてはいけない。その事を胸に刻みながら、杏里は息を潜め、啄と剣次が去っていくのを祈るように待った。だが。
「みーつけた」
肩をがしりと掴まれ、見上げれば、ツツジの茂みから身を乗り出し、剣次がぎらついた瞳を光らせて杏里を見ていた。
「・・・・っ!!」
逃げようと、肩をしゃにむに動かし、足を踏み出そうとするが、剣次の力は思ったよりも強かった。
「おいおい、逃げるなよ。せっかく人が楽しもうと思ってるんだからな」
舌なめずりをしながら、剣次の手がさらに肩を強く掴む。食い込むほどの力に、杏里は思わず声を上げそうになった。だが、耐える。声を上げれば負けだと言う思いが、なぜか頭に浮かんだからだ。
「あんまり怖がらせるなよ。見ろよ。今にも泣きそうだぜ?」
啄の声がしたかと思うと、彼は杏里の前方から現れた。その顔には、強い呆れの表情が浮かんでいる。啄は、剣次からの痛みに耐える杏里の前に立つと、杏里の片頬を撫でた。
「ごめんな。剣次の奴、乱暴で。気が強くていい女を見ると、見境なくなるからさ」
頬を撫でるその仕草は、まるで想い人にするかのように優しいものだったが、口から出る言葉がその印象を裏切っていた。
「それはお前も同じだろ、啄。あぁ、でもお前の場合は『殺したくなる』だっけか」
その言葉に、啄の目がすうっと細められる。
「余計なことを言うな」
殺気を込めて睨みつける啄に、剣次はおどけたような声を上げた。その瞬間、肩から感じていた力が消える。目だけを肩に向ければ、そこに剣次の手はなかった。ふり仰げば、剣次は降参だというように両の掌を啄に向けていた。
「おお、怖い怖い。けど、今更だろう?何年、お前と組んでやってきたと思ってるんだ?」
「だからって、他人の心に土足で入っていい理由にはならないだろ」
「ほう、お前がそんな殊勝なことを言うようになるとは。あの平和呆けした村で、骨でも抜かれたか?それとも、この女に惚れたのか?まぁ、年はお前の方が近いが・・・」
顎に手を当て、興味深そうな顔をする剣次に、啄は冷たい視線を向けた。
「あんたの方が頭湧いてんじゃないのか?俺にだって、触れられたくないことはある。それだけだ」
自身を間に挟み、啄と剣次は口論を続ける。その様子を見ていた杏里は、これなら逃げ出すことができるのではないかと考えた。幸い、剣次の手は杏里の肩に触れていない。啄も剣次との言葉の応酬に夢中で、杏里に注意を向けていなかった。
体を縮ませ、俯いたまま、そろりそろりと杏里は二人の間をすり抜ける。その考えが功を奏したのか、啄の脇を通り過ぎても、啄本人も剣次も杏里が逃げたことに気付いていないようだった。
このまま逃げ出せる。
そう思った刹那、右肩を思い切り掴まれ、地面に押し倒された。
「・・・っ!!」
痛みに呻くひまもなく、今度は喉元に手がかけられる。息ができない。
「かっ、はっ・・・!!」
杏里は、首に手をかけている啄の腕を引き剥がそうともがいた。
「馬鹿だなあ。あんな分かりやすく逃げて。気づかないとでも本気で思ったのか?」
啄は、心底馬鹿にした口調で嘲るような笑みを浮かべた。
「ぐぅっ!!」
意識が朦朧とするのを感じながら、杏里は啄の腕に手を伸ばす。
「おいおい。言ってたこととやってることが違うじゃねえか。殺すなっつったろ」
呆れたような剣次の声が頭の上に響く。しかし、声は聞こえていても、杏里にはその内容が耳に入っていなかった。
嫌だ。死にたくない。怖い。助けて。
恐怖が頭のなかを支配する。目には涙が溢れ、頬を伝った。
「殺さねえよ。ちょっと脅かしただけだ」
啄は肩をすくめ、杏里の首から手を離す。杏里はせき込みながら、息を吸い、起き上がった。
助かったと安堵したのもつかの間、勢いよく顎を掴まれる。すると、感情のみえない顔で、啄は凄んだ。
「また逃げようとしたら、今度はほんとに殺すぞ」
首を絞められたことが頭に過り、杏里は黙って何度も頷くことしかできなかった。
その手が顎から離れる。啄は立ち上がり、氷のように冷えた眼差しを杏里に注いだ。
杏里は、立ち上がる気力さえなかった。
「それにしても、かわいそうだな、お前も。光介と一緒になったせいでこんなことになるんだからな」
剣次が、ツツジの茂みを跨いで杏里の隣に立つ。そして、呆然と座り込む杏里の肩に再び手を置き、まるで慰めるように言葉を投げかけた。
「まぁ、一つ目の子供だの頭に炎がついたちっさい子供が見えるなんて言ってた奴だ。いくら気が良くても、そんなのが見えるなんて気味悪いもんな。何でもない顔しながら、内心怖がってる村の連中は多いだろうよ」
剣次の言葉に同意するように啄も頷く。
「そんな奴のことはさっさと忘れて、俺達と一緒に楽しもうぜ」
「逃げようとしなければ、悪いようにはしない」
耳元で剣次が意地悪く囁き、穏やかな口調で、けれど脅しに近い言葉で啄が言う。
そこに愛情などあるはずもない。二人は自分の欲を満たすためだけに杏里を手に入れようとしているのだ。
二人の言葉が徐々に浸透し、やがて意識がはっきりとしてくる。
(どうして、こんなことをされなければいけないの?)
暴力で、無理やり従わそうとする剣次と啄のやり方に、杏里はふつふつと怒りが湧き上がってくるのを感じていた。
首を絞められたのは怖かった。恐ろしかった。だが、それでもいいようにされるのは我慢ならなかった。
杏里は大きく息を吸い、目を閉じる。頭に描いたのは、光介と夕輝のことだ。
二人に生きてもう一度会うために、杏里は剣次と啄の脅しに屈するわけにはいかなかった。
肩に置かれた剣次の手を引き剥がし、杏里は啄を強い眼差しで見据えた。
「・・・私はあんた達と楽しむ気なんてないわ。他を当たって」
「おう、いきなり威勢がよくなったな」
感心したように剣次が声を上げる。
「光介の助けを待っているのか?悪いが、それは無理だな。今頃、与一と藤吉と耕造が光介を捕えているだろうぜ。あいつらは俺達より甘くない。捕まえるためなら、夕輝を犠牲にするし、光介の腕や足の一本でも折るだろうな」
杏里の意思を挫こうという算段なのか、あるいは事実を述べているのか。淡々と言葉を紡ぐ啄に、しかし杏里は怯まなかった。
「脅そうとしたって無駄よ。光介は捕まらない。夕輝を犠牲になんてさせない。そして私もあんた達のいいなりにはならない!」
啄が呆れたように肩をすくめた。
「やれやれ。妄想もいいところだな。この状況で俺達を出し抜くことができると本気で思ってんのか?」
杏里は、二人に気付かれないよう両手で土を抉り、掌に塊を作って握り締める。
「そんなの、やってみなきゃわからないでしょ!!」
そして、勢いよく土くれを啄と剣次に向かって投げつけた。
「うぎゃっ!」
「ぐっ!」
杏里の行動に反応が遅れたのか、剣次と啄はもろに土くれを浴びた。
彼らの反応など気にしているひまはない。杏里は、土くれを投げた直後、急いで立ち上がり、その場から離れた。
「はぁ、はぁ、はぁ!!」
がむしゃらに走り、もうこれ以上走れないと感じた杏里は足を止める。
バクバクと鳴る心臓の音を聞きながら、荒くなった息を整えようと息を大きく吐く。
「あ・・・」
息を整え、周囲を見回した杏里の目にある光景が飛び込んできた。
そこは、杏里が一度通った崖沿いの道だった。
周りの景色も見ず走ったせいで、同じ道を戻ってきてしまったらしい。
町へ続く道へ行くには、村に戻らなければいけない。だが、そうするには竹林の中に再び入らなければならない。だが、啄と剣次がいるだろう竹林に戻るには、躊躇いがあった。
(どうすれば――っ!!)
尻込みする杏里の耳に、二人分の足音が響く。隠れようにも、月明かりの射す道には何もない。後方には竹があるが、笹の葉は少なく、その幅は細くて背丈も低い。おそらく成長して間もない竹なのだろう。杏里の身を隠してくれるほどの大きさはなく、奥にある竹のように密集してもいなかった。
見つかるのを承知の上で隠れるか、このまま身を晒すか。
迷った末、杏里は身を晒すことに決めた。土くれを投げつけた時のように、啄と剣次の隙をついて、どうにか村に辿り着くしかない。
覚悟を決め、足音が近づいてくるのを待つ。その時、足元に何か硬いものが触れる感触があった。足元を見れば、掌ほどの大きさの大きな石が二つ、道に転がっている。
反撃するのに使えるかもしれない。正直、自分の拳だけでは不安がある。杏里は、下唇をきゅっと結び、石を二つ掴む。
すでに足音は止んでいた。
石を持ち上げた杏里の目に映ったのは、月明かりの下、顔を汚し、着物を土まみれにした啄と剣次の姿だった。
啄は拳で口元を拭い、剣次は眉を寄せながら、道端に唾を吐き出した。口の中に土が入ったのかもしれない。
二人は軽く息を整える。先に声を出したのは剣次だった。
「よくもやってくれたな、この女!」
目は血走り、口調は荒い。杏里の攻撃によほど腹が据えかねたらしい。
「脅したからと甘く見たのが間違いだった。そこで待ってろ。泣き喚こうが暴れようが関係ねえ。お前を俺のものにする!」
ドスドスと足を鳴らし、剣次は杏里に近付いてきた。
その剣幕に、思わず小さく後ずさる。
対して、啄は人形のように無表情で、何を考えているのか分からない。怒り心頭の剣次もそうだが、何をするか分からない啄の方も怖かった。
思わず両手にある石を投げそうになる。だが、これは最後の切り札のようなものだ。大切にしなければ。そこに、啄の声が響く。
「とんだじゃじゃ馬だな。変わり者の光介と似合いだ」
褒めているとはとうてい思えない口調で言葉を紡いだ後、啄は、続いて何かを確信するかのように顎を擦った。
「・・・もうすぐ効く頃か」
(きく・・・?)
どういう意味だろう。そう思った次の瞬間、膝の力がかくんと抜け、杏里は道の上に倒れ込んだ。同時に両手に握った石がごろりと音をたてて転がる
「はっ、はっ、はっ」
体全体が痺れ、息が上手くできない。何が起きたのか全く分からなかった。
「顎を掴んだ時に、針を打った。朝方になれば痺れは抜けるだろ」
啄は、袖の袂から何かを取り出す仕草をし、親指とひと指し指を摘まむような形にして軽く掲げた。その二つの指の間には、月明かりに照らされ、銀色に光る針の先端が見えた。
剣次は目を丸くし、針をしまう啄を見やる。
「とんだ策士だな、お前」
「こいつの性格上、おとなしくいう事を聞くとは思えなかったからな。念のためやっておいた」
大股に杏里に近付いた啄は、倒れた杏里の襟元を掴み、持ち上げる。
「これで楽しめる。文句ないだろ」
剣次は、にやりと口角を上げた。
「おう、ないない」
「殺すなよ」
「するか。それに、久しぶりの女だ。・・・まぁ、気の強いところをみれないのはつまらないが、土とか石とか投げられても困るからな。今回はこれで我慢するか」
「上から目線か。礼の一つもないのか」
「あぁ?お互いいい思いをするんだから、帳消しだ帳消し」
鼻歌でも歌いそうな雰囲気で、剣次が杏里の帯に手をかけようと手を伸ばす。
その時だった。
「ぎゃあぁっ!」
剣次が悲鳴を上げ、片手を伸ばしたまま、ばたりと倒れた。
その背には、鋭い爪で引っ掻いたような無数の切り傷があった。脇腹や太もも、足首は何かに食いちぎられたかのようになくなり、赤黒い血が地面に流れ出していた。
「ひあっ!!」
ぴくりとも動かなくなった剣次に、杏里はひきつった声を上げた。
啄もこの状況に頭が追い付かないのか、固まったままだ。
「なっ、なんだ!?う、あぁぁぁあっ!!」
しかし、次の瞬間、啄が杏里の襟から手を離し、悲鳴を上げた。ごんっという鈍い音をたてて、杏里の頭が地面に落ちる。頭の痛みに呻く杏里の耳に、ぶちぶちという嫌な音が響いた。
目を開き、啄を見上げれば、崩れるように倒れた。
倒れる瞬間、月明かりに照らされ見えたのは、耳や肩が食われ、背にも大きな傷を負った啄の姿だった。まるで、藁人形のように地面に落ちていく啄を杏里は見ていることしかできなかった。
(なに!?いったい何が起こったの!?)
二人はまるで動物かなにかに襲われたような傷のつき方だった。けれど、そのなにかが杏里には分からない。周囲は、杏里の息遣いと時折吹く風の音以外、物音はしない。けれど、前方に見える竹林から、威圧感のようなものが感じられた。
見えないけど、いる。
そんな感覚が、杏里にも感じられた。
自分も彼らのようになってしまうのだろうか。痺れ針のせいで体は動かない。息もうまく吸えない。そんな状況で襲われたら、待っているのは確実な死だ。
(嫌だ!こんなところで死にたくない!)
光介と夕輝が待っているのだ。
「ぐっ!!」
杏里は、満身の力を込めて足や腕を動かす。赤ん坊のように這うような動きになったが、この際、恰好などどうでもいい。
この異様な場所から、一刻も早く離れなければ。それだけが杏里の頭を支配していた。
その時だった。
背中にのしかかられるような重さを感じたのは。犬が発するような荒い息が耳元にかかる。
「やっ!!」
体を揺らし、背にいる何かを振り落とそうとするが、肩に鋭い痛みを感じ、杏里は悲鳴を上げた。
「うぁっ!!」
痛い痛い痛い!!
体を何度も何度も揺らすが、背にいる何者かは、杏里からどこうとしない。
あまりの痛みに涙を溢れさせながら、杏里はむちゃくちゃに体を動かした。少しでもこの痛みから逃れたかった。
だが、痛みを逃すことに夢中で、崖のそばにいることを杏里は失念していた。這うように動いていた結果、崖の端に来てしまっていたのだ。
気がついた時には、杏里の体は底の見えない暗闇へと身を躍らせていた。
「あっ・・・」
体が下へ下へと落ちていく。満足に動くこともできない杏里は、闇へと手を伸ばしながら夫と息子のことを思った。
(光介、夕輝!!)
頭に二人のことを思い描きながら、襲い掛かる衝撃に備える。次の瞬間、脳天を突き破るほどの衝撃が体を突き抜けた。
杏里の意識はそこで途切れた。




