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第九幕 紅と青

昔、辰都ときと更沂さらぎという二つの国があった。

二つの国は小さく、軍事力も決して大きいとはいえなかった。牙蘭がらん夜未よみなぎという周辺の国に攻められることを恐れた二つの国は、互いに手を取り合い、同盟を結ぶことにした。

この二つの国には、巫子と呼ばれる、霊や神々と交信する特殊な能力ちからをもった人々が存在し、国の精神的柱となっていた。

巫子の中でも力の強い者を、男女関係なく、辰都は鈿女うずめ、更沂は猿田彦と呼び、他の巫子達を統率する者とした。

鈿女の名を継いだ女性、くれないは、調印式の日、辰都の女王・明日奈あすなと共に高千穂へとやってきていた。同時に、猿田彦の名を継いだ男、青吾せいごも更沂の王・月与つくよとやってきていた。


一幕目は、鈿女―紅が住む辰都が舞台だった。

赤を主にした衣装を身に付けた一人の女性―紅―が、周囲をぐるぐると回りながら、何かぶつぶつと呟いている。

「わたしは鈿女、わたしは鈿女・・・。う~ん、やっぱり慣れないなあ」

小さくため息をつく紅の背後に、二人の女性が現れた。

「鈿女様」

白地に金色の刺繍を施した衣装に身を包んだ女性が、紅に声をかける。しかし、紅は反応しない。女性が更に声を大きくして紅を呼んだ。

「鈿女様!!」

「はっ、はい!」

紅は、驚きながらも振り返る。そこにいたのは、明日奈の侍女頭である沙羅だった。そのそばには、新しく入ってきたのか、若草色の生地に銀の刺繍を施した侍女の衣装を身まとった見慣れない顔の女性がいた。

「あ、沙羅様でしたか。わたしに何か御用でしょうか」

沙羅は、先ほどの大声を出した人物とは思えないほど落ち着いた声音で紅に言った。

「明日奈様がお呼びです。至急、星嶺せいりょう殿へおいでください」

「わ、わかりました。ありがとうございます」

紅は、おずおずと頭を下げ、沙羅の脇を通り過ぎ、星稜殿へと向かっていった。

沙羅の脇に控えていた女性は、紅の姿が見えなくなったのを確認すると、不思議そうな顔で沙羅に声をかけた。

「沙羅様、あの人が鈿女様なんですか?」

「ええ、そうよ。凛、あなた、名前を呼んだのを聞いたでしょう?」

何を今さらといった表情で、沙羅が凛を見る。すると、凛は困惑したように目を泳がせた。

「なんだか、想像と違って、その・・・」

この辰都を守護する巫子の頂点に立つ女性だと聞いていたから、もっと凛々しく、強いのだろうと思っていた。

「弱弱しくて、頼りないように見える?」

「い、いえ!そんなことは・・・」

沙羅のはっきりとした言い方に、否定の言葉を吐きつつも、肯定もできず、凛は俯く。

すると、何がおかしいのか、沙羅がふふっと小さく声を上げる。凛が顔を上げると、沙羅は口元を緩やかに上げ、笑っていた。

「まあ、普段のあの子はあんな感じだから。部下である巫子達にも下手に出ているくらいだもの。でも、一度戦いに出れば、背中を預けてもいいと思うくらい頼もしいわよ」

「沙羅様は、鈿女様とお知り合いなんですか?」

言葉の端々に、巫子と侍女頭という立場ない親密さを感じ取り、侍女は沙羅に尋ねた。

「ええ。私も巫子だったから」

沙羅は懐かしそうに目を細め、紅が去って行った方向を見つめていた。


その頃、星嶺せいりょう殿に赴いた紅は、女王・明日奈に謁見していた。

六十となる高齢の身ながら、その顔は若々しく、しゃんと伸びた背筋には威厳に満ちた雰囲気が漂っていた。

「わたしも高千穂に、ですか?」

「えぇ。最近、大国牙蘭が怪しい動きをしているという情報が入ったの。調印式とはいえ何か起こるか分からないから、あなたにも来てもらいたいのだけれど」

「・・・・・」

「親衛隊のげんには、許可を取ってあるわ」

「・・・分かりました。巫宮殿には、詩蓮しれん、彼女を置きましょう」

紅は、明日奈に向かって頭を下げた。

「ありがとう。鈿女」

紅の言葉に、明日奈はふわりと微笑んだ。


明日奈とともに、紅は、同盟の調印式を行う場である高千穂へ向かった。そこで、更沂の王、月与と巫子である猿田彦―青吾と出会ったのだった。


紅と青吾、辰都と更沂の親衛隊が身守るなか、調印式は無事に終わりを迎えた。

夜は高千穂の宿に泊まり、翌日にそれぞれの国へ帰ることとなった。


「ふぅ、いいお湯だった」

湯をもらい、一息つきながら、廊下を歩いていた紅の目に、ある人物が飛び込んできた。

庭を一望できる縁側に座り、一人の男が杯を傾けていたのだ。

男が脇に置いた酒瓶を取ろうとしたその時、立ち止っている紅と目が合った。

「そんなとこに突っ立ってないで、こっち来いよ。いい月だぜ」

男の言葉に天を振り仰げば、墨のような夜空を背景に、真珠のように光り輝く満月がぽっかりと浮かんでいた。

紅が男の近くまで来ると、男は縁側に置いてあったもう一つの杯を取り、酒を注ぐと、紅に手渡した。

「ほれ、お前もどうだ?」

「・・・まだ仕事の途中ですから」

紅がやんわりと断ると、男はつまらなそうな表情を浮かべ、手渡そうとした杯を縁側に置いた。

「鈿女、いや、辰都の巫子ってのはお堅いんだな。別に一杯くらいいいだろうに」

「あなただって、そんなに飲んだら支障がでますよ。ここは更沂じゃないんですから、誰かに襲われたらどうするんですか」

「はっ。更沂だろうとどこだろうと襲われる時は襲われる。そういう心構えでいねえと、王の命どころか、自分の命さえ守れねえぜ」

思ってもみない男の言葉に、紅は目を丸くする。しかし、すぐに小さく息をつく。

「正論だと思いますが、それと酒を飲むことは繋がらないと思います」

すると、男はふんっと鼻を鳴らし、口角を上げた。

「これくらいの酒で酔うようなへまはしねえよ。ガキの頃から飲んでたからな」

すると、男は、今度は杯ではなく、瓶に直接口をつけ、酒を飲み始めた。

「・・・それはずいぶんと年季が入ってますね」

止める気力もなく、紅は呆れた表情を浮かべた。

「それでも多少は自重しないと。猿田彦が酒に酔って仕事ができないなんて噂がたったら、目も当てられないんじゃないんですか?」

男―猿田彦が片眉を上げ、紅を見る。

「んんっ?俺が猿田彦だってあんたに言ったか?」

「気配で分かりました。調印式で感じたあなたの氣は独特でしたから。それに、王の御前なら、巫子の長である猿田彦様が出るのは不自然ではないと思ったんです」

酒瓶から口を離し、猿田彦は片手を頬に当て、興味深そうに紅を見た。

「・・・ふ~ん。じゃあさ、俺の氣ってどんなだった?」

「山から吹き下ろす夏の風に似てます。力強く、澄んだ風、・・です」

じっと紅を見る猿田彦に、若干の居心地の悪さを感じながら、それを振り払うように紅は話題を変えて、猿田彦に尋ねた。

「あなたはどうして私が鈿女だと?」

「そりゃ、武人より体型は引き締まっちゃいねえが、立ち姿は様になってる。女王の周りにも気を配っているし。それに、侍女以外にああいう場に場慣れしている奴っていえば、巫子くらいのもんだ。だが、一介の巫子が出てくるのはおかしい。出てくるとすれば、巫子長みこおさの鈿女だと踏んだのさ」

「なるほど」

猿田彦の観察力に、紅は素直に感心する。


「・・・で?いい雰囲気の所を邪魔するお前らは誰だ?」

不意に、猿田彦が口を開き、鋭い眼差しを月の光が照らす庭に注いだ。

その瞬間、いくつもの殺気を感じ取り、紅は立ちあがった。

庭に植えられた木々から、武器を持った黒い装束の人間が次々と飛び出し、紅と猿田彦に襲いかかってきた。

紅は、飛んできた鎖鎌を紙一重で避けると、鎌の柄を掴み、そのまま滑らせるように相手の鳩尾に拳をくらわせた。

そこに、銀色に鈍く輝く刀が紅を襲うが、それを白刃取りで受け止めた紅は、気合いとともに刀を折ると、動きの止まった相手の急所に蹴りを見舞い、よろめいた隙に顎を目掛けて掌底を叩きつけた。

猿田彦は、小刀で襲ってきた一人を酒瓶で殴って昏倒させ、けん(金属製の輪に刃をつけた打撃用の武器)を持ち、猿田彦の体に刃を打ち込もうとするもう一人の首筋に蹴りを放ち、縁側に叩きつけた。

「まったく、人気者は辛いねえ」

そうぼやきながら、猿田彦と紅は背中合わせになりながら、黒装束達を次々と倒していく。

あと三人というところで、黒装束達は不利だと悟ったのか、庭から音もなく姿を消した。

「明日奈様!」

一息ついた紅は、はっとして駆けだした。

自分達が襲われたということは、明日奈が危険だ。親衛隊がいるとはいえ、守る人間は多い方がいい。明日奈の寝室へ向かおうとしたその時、

「伏せろ!!」

猿田彦の叫びが聞こえたと思うと、紅は縁側に押し付けられていた。

ヒュッという空気を裂くような音と、ブンッという虫の羽音に似た音が紅の耳に響く。

しばらくして、木々の葉が擦れる音ともに、どさりという何かが落ちたような音が聞こえた。

顔を上げれば、紅を庇うように猿田彦が覆いかぶさっていた。

窺うように猿田彦を見ていると、猿田彦は紅から離れ、庭に下りた。

そして、庭の木の下で、弓を持ったまま仰向けに倒れている黒装束の一人に近づくと、その面を剥ぎ取った。

そばには、欠けた杯が転がっており、あの羽音のような音はこれを投げたものだということが紅にも分かった。

背後に首を向ければ、廊下の壁に一本の矢が刺さっていた。

「あの、ありがとうございます」

紅が助けてくれた礼を言う。しかし、猿田彦は返事を返すことなく、張りつめた表情のまま、言葉を紡いだ。

「こいつは・・・、牙蘭の手のものだ」

「え・・・」

「見ろ」

そう言って、猿田彦は黒装束の口を大きく開けさせた。

「舌が、ない・・・!!」

紅は驚いて、目を見開く。黒装束の口には、あるべきはずの舌がなく、ぽっかりと闇を覗かせていた。

「聞いたことがある。牙蘭の王の配下に、口無くちなしと呼ばれる暗殺集団がいると。そいつらは、情報を引き出されないよう、子供の頃に舌を切り落とされ、ただ人を殺す術だけを叩き込まれるそうだ」

「・・・・・・」

あまりの所業に、紅は言葉を失くす。

「さて、情報源にはならないだろうが、猿轡をして縛っておくか。また襲いにでもきたら面倒だ。お前は、女王と、月与王の様子を見て来てくれるか。二人でやるより、そっちのほうが早いだろ」

「・・・はい。よろしくお願いします」

猿田彦の案に反対する理由はなかった。紅は頷き、頭を下げると、まずは明日奈の寝室へと駆けて行った。


紅は、明日奈と月与に牙蘭の手の者に襲われたことを報告した。

それを聞いた二人は、親衛隊数名に口無の監視を命じた。

報告を終えた紅も同行しようとしたが、明日奈に休むよう言われてしまい、しぶしぶ隣の部屋へ戻るしかなかった。猿田彦は、辰都と更沂の親衛隊と共に監視をするという。

紅は、布団に入ったはいいものの、寝付くことはできなかった。うつらうつらとしながら、眠りに入ったのは明け方のことだった。

部屋に朝日が差し込んだ頃、廊下から誰かが駆けてくる足音が響き、紅の目を覚まさせた。着替えて部屋から出れば、親衛隊隊長の元が、硬い表情で明日奈の部屋の前に片膝を立てて、跪いていた。

「報告いたします。捕えた口無ですが、・・・全員死にました」

そこに、すでに身支度を整えた明日奈の静かな声が響く。

「どういうことです?・・・殺されたということですか?」

「いえ、皆、自害です。どうやら奥歯に毒を仕込んでいたようなのです」

元の報告に、明日奈は疲れたように小さく息を吐いた。

「・・・そうですか。分かりました。ありがとう」

それを聞きながら、紅は、牙蘭の恐ろしさをまざまざと感じっていた。


その頃、月与も同じように親衛隊隊長、堅聖けんせいから口無自害の報告を聞いていた。

「何ともむごいことだ・・・」

柳眉をしかめ、月与は重々しく息を吐く。まだ二十代の域を出ていない年若い王の顔は、青白かった。

堅聖の隣に控えていた猿田彦は、俯かせていた顔を上げると、月与の瞳を真っすぐに見つめた。

「陛下。牙蘭の者がまたいつ襲ってくるかどうか分かりません。私が囮になりますから、王の親衛隊をお借しくださいませんか」

月与と、堅聖が目を見開く。

「それはあまりに危険だ。共にいた方が安全ではないのか?」

「しかし、ここに口無が来た以上、安全とは言い切れません。牙蘭の手の者が我々を待ち伏せている可能性は十分にあります。なら、王には市井の者として、別の道を行ってもらい、国境の白山しらやまで私達と落ち合いましょう」

月与が不安気に堅聖を見やる。堅聖は、髭を伸ばした顎を摩り、唸りながらも小さく頷いた。

「そうですな。王の御身のためには、そのほうが良いかもしれぬ」

「堅聖!」

月与が非難めいた声を上げるが、堅聖の真剣な眼差しに怯む。

「陛下、辛いとは思いますがご決断ください。あなた様は更沂の王なのでございます。もし、あなた様に何かあれば、王宮は乱れ、更沂は再び戦場となりましょう」

堅聖の言葉に月与はぐっと唇を噛み締め、俯いた。

「心配なさらないでください。私はそう簡単に死にはしませんから」

「当たり前だ!そうなったら、お前を許さないからな!」

猿田彦の言葉に、月与は涙目になりながら言い放つ。猿田彦は、そんな月与を見つつ、深々と頭を下げた。



白山までの道すがら、馬に揺られ、周囲に氣を張り巡らせながらも、紅は考えていた。

辰都と更沂。この二つの小国を、なぜ大国である牙蘭が狙おうとしているのか。

農業が大半を占めている二つの国は、軍事力も牙蘭には遠く及ばない。特別な資源があるわけもなく、隠れて襲撃をするほど魅力があるかと問われれば、はなはだ疑問ではあった。

「・・・ずめ、鈿女」

「ふぁ、は、はい!!」

その時、輿の上の明日奈に呼ばれ、紅は慌てて返事を返した。同時に、歩いていた馬の手綱を軽く引いてしまい、馬が嫌そうに首を振った。

「大丈夫?疲れていない?」

「は、はい。大丈夫です!お気になさらないでください!」

巫子の身の上で、明日奈に心配されるなどあってはならないことだった。紅は、勢いよく首を振った。

猿田彦が王の囮となったと聞かされたのは、宿を出る少し前のことだった。

紅達も、囮を考えなかったわけではないが、高齢の明日奈に白山までの長い距離を歩かせるのには抵抗があった。そういうわけで、紅達は、行きと同じように明日奈を馬が引く輿こしに乗せ、その周りを親衛隊や紅が囲むという形で、牙蘭達の襲来に備えていた。

道中は、襲われるのが夢ではないかと思われるほど静かなものだった。

穏やかな風が吹き、どこからか鳥の鳴き声が聞こえる。

始終、緊張した気配を隠さないまま、一行は白山を目指したのだった。



白山についた紅達は、またがった道の先で、数人の旅人が争っている声を聞いた。

「堅聖、離せ!私は行くぞ!」

年の若い青年が、髭を生やした年配の男に食ってかかっていた。

「落ちついてください!もう少し待ってみましょう。まだそう時間はかかっていません」

堅聖と呼ばれた男が青年をたしなめる。

紅は、その青年が更沂の王、月与であると気づいた。堅聖という男も、調印式で王と共にいた親衛隊の一人だった。

「どうかしましたか」

紅は馬から降りると、二人に近づき、声をかけた。紅を見た月与は怒りを滲ませた顔で、対して堅聖は困惑した表情をしていた。

「猿田彦が来ないのだ。馬だから私達よりは早いはずなのに!」

堅聖も頷く。

「何かあったに違いない!そうだろう、堅聖!」

噛みつくように言う月与に、堅聖は落ち着いた声音で言った。

「数名を迎えによこしましょう。しん風真ふうま彼方かなた。お前達は猿田彦のところへ」

旅人姿の三人の男達に、堅聖が声をかけたその時だった。

茂みから、群青の鎧を纏った男が血塗れになって現れた。男は、堅聖達を目にすると、その場に倒れ込んだ。

ひょう!」

堅聖が男―彪を支える。

「・・・たいちょ、う・・・」

「どうした!何があった!?」

「街道で、・・・盗賊に襲われて・・・・。矢や刀には、毒がしこまれ・・・て・・・。猿田彦様達がまだ戦って・・・」

「分かった!お前も気をしっかり持て!死んではならん!」

声を擦れさせ、今にも息が途絶えそうになりながらも、彪は必死に言葉を紡ぐ。堅聖が叱咤するが、次の瞬間、彪は力を失ったようにガクリと首を落とした。すでにその瞳に生気はなかった。

彪の瞳を震える手で閉じた堅聖は、背後に立つ三人の男の名を呼んだ。

しん風真ふうま彼方かなた!」

「はっ!」

「猿田彦達の援護を!だが、深追いはするな!不利だと悟ったら、逃げることを優先しろ!犬死は許さん!」

その時、澄んだ声が彼らの耳を打った。

「彼らを同行させてもいいかしら」

そこにいたのは、明日奈と、数人の辰都の親衛隊達だった。

「私達は同盟を結びました。ならば、更沂の方々は兄弟のようなもの。人数は多い方にこしたことはないでしょう。馬も必要なら使ってくださってかまいません」

明日奈の言葉に、堅聖は微かに瞳を潤ませ、深々と頭を下げた。

「ありがとうございます。信、彼らと共に援護を」

片目に切り傷を持った男―信は、頷き、風真、彼方、そして辰都の親衛隊とともに馬に乗り、駆けて行った。


道の端に輿を置き、残った堅聖と元、辰都の親衛隊は、警戒を崩さず、周囲を見回していた。

月与と明日奈は、道端に折り畳み式の座椅子を置き、腰かけていた。紅は、そのそばで気を張っていた。猿田彦のことも心配ではあったが、こちらにも盗賊か、または牙蘭の者が来るかもしれないと警戒していた。


「情けない・・・」

不意に月与が口を開いた。

「王と言われても、私には何の力もない。ただ守られているだけだ。戦えないどころか、ここで待っていることしかできない。足手まといだ」

両手を握りしめ、悔しげな表情を浮かべる月与に、明日奈がやんわりとした口調で言った。

「信じて待つというのも、また戦いです」

「え・・・」

「私達は王ですから、そう簡単に危険に身をさらすことはできませんし、許されません。自分の心を押し殺し、信じて相手を待つことが、守ろうとする彼らに対する最大の援護だと、私は思いますよ」

「明日奈女王・・・」

明日奈の言葉は、六十年の間、今までそうして生きてきた彼女の言葉だけに、月与の胸に深く突き刺さったのだった。


その時、蹄の音とともに、数十頭の馬達が一人、または二人の人間を乗せ、駆けてきた。

「堅聖隊長!」

信が、黒地の衣服を赤黒く染めた猿田彦を背負っていた。他の者達も怪我を負った更沂の親衛隊達を背負っていた。

「皆、息はありますが、毒が体に回っています!急がないと!」

「あの!」

紅は、信に言った。

「様子を見せてもらってもよろしいですか?もしかしたら応急処置ですが、解毒剤が作れるかもしれません」

神妙な顔で信は頷き、馬から降りて、猿田彦を背中から降ろした。紅も一緒に猿田彦を支える。すると、猿田彦の体から鼻をつくツンとした匂いがした。

「この匂いは、・・・ヒルアオイ」

「ヒル・・、なんですそれは?」

「毒草の一種です」

そう言うなり、紅は茂みの中に入って行く。そこに生えている刃のような葉をもつ草と、四つ葉に似た草をむしり取る。そして、信と馬上にいる親衛隊達に言った。

「このノコギリグサと、テマリソウを探してください。完全にとはいきませんが、症状を抑えることができます」

紅の言葉に親衛隊達は頷き、怪我人を降ろし、幾人かに別れて、怪我人の応急処置とノコギリグサとテマリソウを探す者達に別れた。

「手伝おう」

「わたしも手伝いましょう」

月与と明日奈が立ちあがり、紅に言った。

「お願いします。ですが、お二人は私のそばから離れないでください」

月与と明日奈は頷く。紅も頷き返し、ノコギリグサとテマリソウを探すために再び茂みへと分け入っていった。


親衛隊、紅達の迅速な行動により、猿田彦と更沂の親衛隊達はどうにか命を繋ぐことができた。

だが、予断は許さない。白山付近の宿屋を借り、医者に再度解毒剤を処方してもらった。

そして、峠を越えたと告げられた時には、高千穂を出てからすでに二日が経っていた。


毒の効能は消えたとはいえ、傷による発熱は続いていた。新しく水を張ったたらいを持ち、紅は、猿田彦と更沂の親衛隊達の眠る大部屋へ入る。ぬるくなった手ぬぐいを冷たい水に浸し、順々に親衛隊達の額にのせていく。最後に猿田彦に乗せようとしたその時、うめき声とともに猿田彦が目を覚ました。

「ここは・・・」

「白山に近い宿屋です。・・・何か飲まれますか?」

「あぁ・・・」

紅は、枕元にある吸い飲みを手に取り、猿田彦の頭を支えると、口元に吸い飲みを持っていった。

猿田彦が水を飲むのを見届けると、頭を枕に戻し、吸い飲みを枕元に置いた。そして、たらいの水に浸したままの手ぬぐいを絞ると、猿田彦の額にのせる。

「まだ熱が下がっていませんから。寝ていてかまいませんよ」

だが、眠るつもりはないのか、猿田彦は目を閉じなかった。

「ありがとな。看病、してくれたんだろ」

「私だけじゃありません。それに、お礼なら親衛隊の方々に。危険を冒して、あなた達を助けたんですから」

「・・・そうだな。あいつらには、後で言っとく」

まだ、熱で潤む目を紅に向けながら、猿田彦は言った。

「それでは、私は月与王にあなたが目を覚ましたことを伝えてきます。とても心配していましたから。ゆっくり休んでください」

紅は音をたてないように、すっと立ちあがった

「なぁ・・・」

「はい?」

猿田彦に呼びとめられ、紅は足を止める。猿田彦は躊躇うように口元を引き結ぶ。

「どうしました?」

ややあって、猿田彦は口を開いた。

「・・・少し、話をしたいんだがいいか?」

「えぇ、構いませんよ」

即答する紅に、猿田彦は呆気にとられた表情を見せる。

「お前、大丈夫なのか?寝てないんだろ?」

その言葉に、紅は目を見開いてから、苦笑した。

「よく分かりましたね」

「隈もできているし、少しやつれているからな」

「・・・熱があってもその観察力と分析力は衰えないんですね」

感嘆したように呟き、紅は猿田彦のそばに膝を折った。

「いいのか?」

「徹夜したせいか気が張っていて。多分、部屋に戻っても眠れないでしょうから。ただ、報告がありますし、少しくらいならいいですよ」


※※※※※


「街道を馬で走っていた俺達は、盗賊に襲われた。戦い方もなにもなっちゃいなかったが、刀や矢に毒がしこまれていてな。数分でめまいや吐き気がしてきた。そこを大人数で突かれて、この様だ。まったく、情けねえ」

猿田彦が自嘲気味に笑う。紅は、自身の顎に手をかけ、考え込むように小さく俯いた。

「それにしても、毒、ですか。盗賊にしては手が込んでいるように見えます」

「お前もそう思うか?俺も戦っていて、違和感を感じていた。武器もあまり使い込んだ形跡がなくてな。さっきも言ったが、戦いにも関してもそうだ。一人か二人はそういう戦術に長けている奴がいそうなもんなのに、それもない。ただ、がむしゃらに突っ込んでくるだけだった。まさか一人を相手に、二十人が襲いかかってくるとは思わなかった」

「・・・牙蘭、が関係しているんでしょうか?街道を襲ってきたことといい、あまりに手際が良すぎます」

「かもな・・・。彪を使いにやらなかったら今頃どうなってたことか。考えただけでもぞっとする」

彪。その名に、紅は肩をびくりと震わせた。親衛隊の一人、彪はこの中で唯一の死者だった。その亡き骸は火葬にし、その骨は更沂に返されるという。

「・・・彪さんは・・・」

「ん?」

猿田彦の真っ直ぐな視線に顔を背けそうになりながら、紅は顔を上げ、しっかりと猿田彦の目を見返した。

「彪さんは、亡くなりました。私達に猿田彦様達の危機を知らせた後に」

「・・・そうか」

紅の言葉に、猿田彦は何かに耐えるように眉を寄せると、それきり黙りこんだ。苦しいほどの沈黙が辺りを包み、紅は思わず膝にのせた手をぎゅっと握る。

「・・・あいつは、親衛隊の中でも背が低くてな。でも、その分すばしっこくて、足が速かった」

すると、猿田彦は口を開いた。その唇から零れる「あいつ」とは、彪のことだと紅は気づいた。

「年の離れた妹がいてな。非番になると、妹のために櫛やうまい物をよく買っていたな・・・」

今はもういない彪を思う猿田彦に、紅はかける言葉が見つからない。だが、黙っているのも不自然な気がして、どうにか言葉を絞り出した。

「仲が、良かったんですね」

紅の言葉に、猿田彦はふっと笑う。その顔は、弟を思う兄のような表情をしていた。

「まぁな。巫子になる前は、親衛隊に入っていたから。親衛隊こいつらとは、兄弟みたいなもんだ」

紅は驚いたが、納得もした。観察力、分析力が優れているのは、彼が元親衛隊だったからなのだと。

「巫子になったのは、どうしてですか?」

その経緯が気になり、紅は猿田彦に問いかけた。

「・・・更沂は今でこそ安定しているが、月与王が即位する前まで、宮殿は陰謀と殺戮の巣だった。俺は、そこで敵対する奴の刃に刺されて死にかけた。その頃から、見えないものが見え、聞こえないものが聞こえ始めた。それに気づいた当時の猿田彦が、俺を巫子にと推薦したんだ」

それは、何とも重いものだった。しかし、謝るのも違うと思い、紅は自分のことを話すことにした。

「そう、だったんですか。わたしは、生まれつき霊感というか、見えないものが見える体質でした。それを先代の鈿女様に見出されて巫子になりました」

「へぇ。そういえば、あんた、鈿女っていうのは、本名じゃねぇんだよな」

猿田彦に尋ねられ、紅は戸惑いながらも頷く。

「え、えぇ。本当の名は紅といいます」

「紅、か。俺は青吾せいごだ」

「青吾・・・」

「そうだ。まあ、そういうわけで、敬語とか使わなくていいからな。あと、様付けもなしな。聞いてるだけでむず痒くなっちまう」

猿田彦―青吾の言葉に、紅は思わず笑ってしまう。

「公の場では無理ですが、そうでない時なら、善処しましょう」

「・・・真面目だねえ」

呆れたように青吾は呟く。

それが自分の性分なのだ。青吾には悪いが、慣れてもらうしかない。

「さぁ、疲れたでしょう。目を閉じてください。わたしは月与王に報告しにいきますから」

「・・・あぁ、わかった。ありがとう」

青吾は目を閉じ、やがて深い寝息をたて始めた。

紅は、音をたてずに立ち上がり、大部屋から出ていった。そして、月与がいる部屋へと歩き出す。

宿には、紅達だけでなく、旅人や観光客など一般の客も泊っていた。廊下を歩けば、老人から子どもまで、様々な人が行き来しているのが目に映る。

その時、紅の視界にある男が映った。三十代ほどだろうか。長い髪を一つに縛り、紺の衣服を隙なく着こなしている。優男の風貌であったが、男から発せられる気が明らかに常人のものと違っていた。例えるならば、抜き身の刀。触れれば一瞬で切り裂かれるような、そんな危うさを含んでいた。

男は廊下の壁に体を寄りかからせ、紅を見ていた。男は、口元を持ち上げると、壁から体を離し、静かに紅に近づいた。

「あなたのお仲間は元気ですか?」

「・・・・!!」

紅は男を睨みつける。男は、青吾達を襲った盗賊と関係しているのだ。

「そんな怖い顔をしないでください。よかったじゃないですか。みんな無事で。いや、一人は違うか」

「あなたは誰!?」

「ただの使い走りですよ」

肩をすくめて、男はそう言うと紅の耳元で囁いた。

「私と一緒に来てもらえませんか。あなたに会いたいとおっしゃる方がいるのです」

「・・・・・」

「何があっても連れてこいという命でしてね。来てもらえないなら、その場にいる人間を全員殺してもいいと。ほんと、恐ろしい方ですよ」

飄々とした態度で、言葉を紡ぐその男の瞳は本気だった。紅が断ればその通りに実行するだろうということが分かるほどに。

紅は唇を噛み締める。

「言うとおりにすれば、この人達に何もしませんか?」

紅の言葉に、男は目を細め、ゆっくりと頷いた。

「えぇ。もちろん。余計な殺しは、私の趣味ではありませんから」

「・・・わかりました」

紅は頷く。

「では、行きましょうか」

男が紅を促すように、先を歩く。紅は、男の背中を睨みつけながら、足を一歩踏み出したのだった。


※※※※※


紅が男と共にやってきたのは、大国牙蘭だった。

牙蘭の宮殿に通された紅は、そこで王、黎全れいぜんと出会う。

五十という歳ながら、その姿は溌剌はつらつとし、威厳に満ちていた。

王となる前は将軍であったらしく、人の上に立つ者としての気配が濃密に漂っていた。

「鈿女といったな。よく来てくれた」

労いの言葉をかける黎全を、紅は冷ややかに見る。

「そんな顔をしないでくれ。わしはそなたに提案があって呼んだのだ」

「提案?」

口無で自分達を襲い、盗賊を使って青吾達を襲う算段をたてたこの男が「提案」したいという。その裏に何かがあるようで、紅はうすら寒いものを感じていた。

「そなたは『神降ろし』を先代から教わっているな」

神降ろし。その言葉に、紅は顔を青ざめさせた。

それは、巫子の中でも巫子長みこおさである鈿女にしか継承できない特別な術だった。

舞を舞い、天上―高天原にいる神々を、自らを寄り代にして地上に降ろすというものだった。降ろした巫子には、神々の力が宿り、その気にさえなれば国一つを滅ぼすこともできる強大な術だった。

「聞けば、猿田彦も神降ろしができるという。そのことを知った時、わしは恐ろしかった。もし、辰都の女王や更沂の王が神降ろしを命じれば、この牙蘭など跡形もなく滅ぼされるだろう。同盟を結ぶとなれば、恐ろしい力でこの国を攻めてくるかもしれぬ。そうなる前に、先手を打とうと考えた。鈿女と猿田彦の命を奪えば、辰都も更沂も恐れるに足らん。だが、結局は失敗した。お前も猿田彦も生きている。しかし、ふと思った。お前達の力を得ることができれば、この国をさらに繁栄させることができるようになると。巨大な力をもっていることを示せば、敵対する夜未よみなぎを屈服させることができるかもしれないとな」

「・・・・・!」

「だが、それだけではない。辰都や更沂を牙蘭の傘下に入れれば戦の心配もなくなる。未来永劫、平和な時を国民が過ごせるのだ」

戦のない国。それは、紅も願っていたものだった。だが、神降ろしを行うことはできない。たとえ、自分が殺されても。

「わたしは、口無を育て、力で物を言わせるこの国のために神降ろしをするつもりはありません」

毅然とした態度で見返す紅に、黎全は鷹揚に笑った。

「そういうと思っていた。こう、あれをここに」

鋼と呼ばれた、―紅を牙蘭に連れてきた男が頷き、宮殿の扉を開けた。そこにいたのは、六、七歳の幼い少女だった。靴は履いておらず、衣服は埃と泥で汚れ、所々破れているところもあった。

鋼は少女の手を引き、紅の前に連れて行くと、懐から短剣を取り出し、その刃を少女の喉元に突きつけた。少女は目を見開き、引きつった悲鳴を上げる。

「何を・・・!」

「神降ろしをすると言わなければ、この娘の喉が裂けるぞ」

「・・・・!!」

「お前は優しい娘だ。この子を見殺しにはできまい」

「この・・・!」

殺気じみた目つきで、紅は黎全を睨む。

「この娘は始まりにすぎない。お前が頷くまで、この宮殿にいる者達を一人ずつ殺していこう。なに、下働きの者など探せばいくらでもいる」

あまりのいい様に、紅は腸が煮えかえる思いだった。

「・・・あなたという人は!!」

「では、私の元につくかね?その生涯をこの国のために尽くしてくれるか?」

「・・・・!!」

すぐに「はい」とはいえず、紅は眉を顰め、唇を噛み締める。紅は知っていた。神降ろしがいかに恐ろしいものであるか、身をもって知っていた。

「なら、仕方がない。鋼」

黎全が命じようとしたその時、紅は叫んだ。

「待って!!・・・待ってください!」

紅は、ぐっと口元を引き結ぶと、静かに頭を垂れた。

「言う通りにします。だから、その子を放してください」

その言葉に、黎全はにやりと笑う。

「いいだろう。鋼、放してやれ」

鋼は、刃を少女から引いた。そして、少女を引きずるようにして扉の前へ来させると、扉を開け、彼女を外へ押し出した。

「素直でいいことだ。ふっ、はははははっ!!」

そして、宮殿に黎全の笑い声が木霊したのだった。


白山の宿を拠点として、人脈を駆使し、姿を消した紅を探し回っていた明日奈は、牙蘭からの使者だという者から手紙を受け取る。それは、紅からの手紙だった。

書き出しは、何も言わず姿を消したことへの謝罪と、明日奈に対する感謝が綴られ、牙蘭に住む豪族が自分の家族だったということを告げ、できるなら、このまま牙蘭で過ごしたいと書かれていた。

「鈿女殿は、家族がおられないのか?」

同じく紅の探索に協力してくれた月与が、明日奈に尋ねた。

「えぇ。孤児だったところを当時の巫女長に拾われた、と。だから、彼女の両親が辰都の生まれかどうかは分からないのです」

「ですが、本当に彼女が牙蘭の生まれだったとしても、たった一人の人間のために王がそこまでするでしょうか」

そばに控えていたげんが明日奈に問う。

「そうね。何か思惑があって・・・」

刹那、明日奈は何かを思い出したかのように目を見開き、唇を震わせた。

「なんてこと・・・!!」

片手で口元を覆い、手に持っていた手紙が空を舞い、床に落ちた。

「陛下?」

「どうなさったのです?」

元と月与が不思議そうに明日奈を見る。明日奈は、小さく息を吐くと、月与を真っ直ぐに見返した。

「月与王、あなたは『神降ろし』を御存じですか?」

「『神降ろし』?名は聞いたことがあるが、詳しい事は知らない」

「そうですか・・・」

明日奈は頷き、月与の隣に控えている堅聖を見た。

「猿田彦を呼びましょう」

堅聖はそう言って、警護をしている親衛隊の一人を呼びよせた。


部屋に入ってきた猿田彦に、明日奈は言った。

「月与王に『神降ろし』のことを話してほしいの」

「・・・分かりました」

青吾は頷き、居住まいを正して語り始めた。

「『神降ろし』とは、名の通り、天上の神々を地上に降ろす術です。その時、術者は神と同じ力を使うことができました。当時は多くの巫子が存在し、神降ろしを行っては、自らの国を、その力を使って守ってきました。その中でも、皇虎こうこという国は、巨大な軍事力と巫子の力によって領土を広げ、繁栄を築いていました。巫子という存在は、今でこそ精神的な柱の象徴として存在していますが、当時は一兵士に過ぎません。皇虎の王は、軍と巫子によって次々と敵対する国々を滅ぼしていきました。神降ろしの中で、一番恐ろしいのは、大地と死の女神、伊邪那美いざなみを降ろすことでした。大地に伊邪那美いざなみを降ろした巫子が歩けば、草木は枯れ、敵の矢が飛んでくれば錆びて粉々になり、巫子が敵の体に触れれば、砂のように崩れて行きました。そこに住む生き物は皆、命を落とし、土に還ったのです。次に恐ろしいのは、伊邪那岐いざなぎでした。伊邪那岐いざなぎを降ろした巫子が大地を歩けば、草木は巨大化し、兵の歩く道を遮り、押しつぶされる者もいました。死んだ敵や味方の遺体に巫子が体を触れれば、命を吹き返し、巫子の言うままに戦いました。巫子の一人、鈿女は伊邪那美いざなみを、猿田彦は伊邪那岐いざなぎを召喚し、いくつもの命を奪ってきました。それは、皇虎の王が国々を統合し、戦のない平和な世を作ってくれると信じたからでした。何十年もの月日が経ち、皇虎はこの国―葦原を統一したのです」

「統一を促したのが、神降ろしというわけか」

月与は、納得したように頷いた。

「辰都の鈿女、更沂の猿田彦という名は、この二人から来ています。平和な世になった後、彼らは皇虎を去りました。しかし、皇虎の王による統一は長くは続かず、再び国は分裂し、内乱が起きました。二人は、暮らしていた国の民を守るため、再び戦うことになりました。そして、その国の王から功績を得て、巫子を国の精神的柱の象徴としました。鈿女と猿田彦がこの事についてどう思っていたかは分かりません。ただ分かっているのは、二人は、互いの国で力のある者達を集め、巫子として育てました。それが、今の私達に繋がっています。鈿女―紅は、先代から神降ろしのことを聞き、そのやり方も知っています。その情報を聞いた牙蘭の王がその力を利用しようと、彼女を拉致したのでしょう」

「えぇ、きっとそうだわ」

明日奈が確信したように言った。

「猿田彦、お前はその伊邪那岐いざなぎを降ろしたことがあるのか?」

月与がためらいながらも、青吾に聞いた。

「一度だけあります。猿田彦の名を継ぐ少し前に」

「どんな感じだった?」

青吾は、しばし視線を泳がせていたが、やがて口を開いた。

「自分が自分でなくなる感覚です。この世界で生きる全ての生き物の命を感じながら、それを全て掌握しているようなそんな感覚でした。実際、死んだ鶏を蘇らせた時には、空恐ろしいものを感じました。鈿女もおそらく知っているでしょう。伊邪那美いざなみの死の力を」

部屋に、重々しい沈黙が落ちる。それを破ったのは、明日奈だった。

「元、牙蘭に向かう準備をしてちょうだい」

目を見開く元に、明日奈は言った。

「あの子が牙蘭に定住するというのなら、鈿女を別の者に推薦しないといけないわ。そのためには、私が書いた書状とあの子の血印が必要よ。牙蘭の使者に手紙を書きます」

明日奈はすっと立ち上がり、部屋の隅に置いてあった机に向かい、墨と筆、そして紙を取り出し始めた。

「明日奈女王は、彼女に直接会うことでその真意を確かめたいのですね」

青吾が言った。

「えぇ、そうよ」

明日奈が頷く。

「ですが、それは難しいかもしれません」

「どういうこと?」

「もし、神降ろしのために彼女を拉致したのだとすれば、何としても手元に置いておきたいはず。会えたとしても、監視がついて、嫌だと言えない状態になっているかもしれません」

「では、どうすればいいと?」

眦を鋭くし、語気を強める明日奈に、青吾は臆することなく続けた。

「私に考えがあります。それをお話することを許して下されるなら続けましょう」

明日奈と青吾が向かい合う。そのピリピリとした空気に、月与が困惑したように二人を見やる。

「・・・いいでしょう」

明日奈の言葉に、元と堅聖がほっと息をついた。

「その前に、陛下、お願いがございます」

「な、何だ?」

突然、話を振られ、月与は戸惑いながら青吾を見た。青吾は、まっすぐ月与を見て、そして言った。

「猿田彦の名を返上したいのです」


※※※※※


明日奈が書状をもって牙蘭に辿りついたのは、それから五日後のことだった。

明日奈と元は、牙蘭の宮殿にいた。しばらくして、黎全が鋼を伴って現れる。

「これはこれは、明日奈女王。お久しぶりです。私の即位式以来でしょうか」

黎全が両手を広げ、明日奈に言った。

「出迎えありがとう、黎全王。さっそくなんだけれど、鈿女に会わせてもらえないかしら」

「分かりました。こちらです」

黎全は頷き、明日奈を紅の部屋へと案内する。明日奈は傍らにいる元と目線を交わすと、黎全の後についていった。

赤い絨毯を敷いた廊下を歩き、黎全が案内したのは、小さな扉の前だった。扉には蝶の姿が描かれており、今にも飛び立ちそうに精巧に彫られていた。

黎全が扉を叩く。

「鈿女」

「・・・はい」

蚊のなくような紅の声が扉の向こうから聞こえた。

「明日奈女王が来てくれた。開けるが、いいかね」

「・・・・どうぞ」

黎全が扉を開ける。

そこには、明かりもつけず、窓から差し込む月の光を浴びている紅の姿があった。

「明日奈様・・・」

「鈿女」

明日奈は紅に近寄る。

「牙蘭に住みたいと手紙に書いてあったけれど、本当なの?」

「・・・・はい」

静かに頷く紅に、明日奈の瞳が微かに曇る。

「そうなると、鈿女を誰かに譲らなければならないわ。ここにあなたの血印が必要なの。・・・元」

明日奈は元を呼ぶ。元は懐から巻物を取り出して、開いた。文章の最後には、紅の名があり、その隣に明日奈の名と御璽があった。

「ここに血印をすれば、あなたは鈿女ではなくなるわ」

紅の名の下にある空間を指さし、明日奈は言った。

紅は親指を歯で噛み切り、血を出すと、そこへ指を置く。血は紙に染み込み、印となった。元は巻物を丸め、懐にしまう。

「用は済みましたかな」

「えぇ」

黎全の言葉に、明日奈が返す。

「紅、戸籍のことは私が処理をするから心配しないで。あなたは家族と一緒にここで幸せに暮らしなさい」

「・・・ありがとうございます。あなたに仕えることができて私は幸せでした」

深々と頭を下げる紅に、明日奈は優しく肩に手を置く。そして、振り返ると、元を伴い、部屋の外に出た。

二人が出たのを確認し、黎全が部屋の扉を閉めると、背後に控える鋼に告げた。

「鋼、明日奈女王を部屋までご案内しろ」

「はい」

頭を下げる鋼を見やってから、黎全は明日奈に言った。

「長旅でお疲れでしょう。夕食までゆるりとごくつろぎください」

「ありがとう」

明日奈は頷き、鋼の案内で、元とともに部屋へと向かった。



明日奈達の足音が聞こえなくなっても、紅は頭を下げたまま、動かなかった。

「・・・・ふっ、うっ・・・」

紅の目から涙が零れ落ちる。それは、床に敷いた絨毯に小さな染みを作った。

「・・・ごめんなさいっ。ごめんなさいっ」

もう戻れない。

黎全は、戦の道具として己を駆り出すだろう。そして、自分は名も知らぬ敵国の兵士を殺すのだ。もしかしたら、辰都や更沂の人達を手にかけることになるのかもしれない。

未来で失われる命より、今生きている宮殿の人々の命を紅は取ったのだ。

「私にはできない。見捨てられないっ!」

寝台の敷布に突っ伏し、紅は泣いた。

初代の鈿女は、戦を好まない人だった。けれど、乱世にあった葦原では彼女の力が必要だった。どんな思いで、彼女は神降ろしを行ったのだろう。胸が張り裂けるような思いで、それでも目の前にいる人達を守ろうと、力を使ったのだろうか。


「何を泣いているのかな、お嬢さん」

「だれっ!?」

突如、降ってわいた声に、紅は振り変える。気づけば、窓が開いており、そこから微かに風が入ってきていた。

そして、部屋の角に黒い人影があった。人影は近づき、その姿をさらす。それは、天狗のように鼻の長い男の仮面をつけていた。

「猿田彦様!?」

「よっ」

驚く紅をよそに、青吾は面を取り、蹲る紅の隣に腰掛けた。

「どうしてここに!?」

「旅芸人の振りして、城の裏から入った。明日奈女王がしばらく黎全を引きつけておいてくれたから大分楽だったな」

「いくらなんでも無茶が過ぎます!帰ってください!危険です!」

「おいおい。苦労してここまで来たってのにそれはないだろ」

「あなたを死なせたくはありません!」

「それが理由でお前はここにいるんだろ。みんなを死なせたくないってな」

「どうして・・・」

「ま、簡単な推理だ。神降ろしは危険な術だ。それを好き好んでやろうなんて思うお前じゃない。十中八句、脅されたんだろ」

「・・・・えぇ」

紅は暗い表情で俯く。

「たくっ。とんでもない奴だよな、黎全てのは。街でもあいつの評判は最悪だったぜ。人を人とも思わない。大事なのは自分だけだとか。すごい言いようだったな。いつか後ろから刺されるんじゃないかってくらいの人気ぶりだった」

「それでも彼はこの国の王です。彼が統治し、統制している軍隊があるからこそ、夜未も凪も牙蘭を越えて周辺の小国に手が出せない。私達の国もその恩恵を受けています」

「その通りだ。けど、このままじゃお前は人を殺す羽目になる。俺だって同じにならないとは限らない。そうならないためには?」

「・・・王を、代える」

青吾は頷いた。

「五日前、信達が宮殿に入った。調べたところじゃ、影武者は、顔もそっくり、知識も教養も同等。だが、性格まで全く同じってわけじゃなかった。黎全とは真逆の穏やかな性格だそうだ。そいつを説得させて、王にする」

「仮に彼が王になったとして、重臣達が納得するでしょうか。黎全を慕う人もいると思います」

「目の前で殺されたら、嫌でも納得するだろう。その犯人も命を落とせば、感情の行き場はなくなる」

「それを誰が実行するんです?」

「俺だよ。そのために猿田彦の称号も、更沂の戸籍も失くした。変装はするが、万が一、ばれたら困るからな。仮死状態になる薬でごまかして、後の処理は潜入している信達に任せるつもりだ」

「・・・本当にやるんですか?」

「他に方法はない。黎全の記憶を消して野にでも放つか?そんな薬はないし、それができたとしても記憶を取り戻さない保証はない。それに毎日怯えて暮らさなきゃならないことになる」

「それなら私が・・・!」

意気込む紅に、青吾は首を振った。

「駄目だ。お前は目立つ。それに、迷いがある奴に人は殺せない。自分が死ぬだけだ」

「・・・・!」

唇を噛む紅に、青吾は優しく言った。

「できないからといって、恥じることはない。普通はそうだ。命を奪うことに迷いのない人間は、悪人か狂人か、あとは覚悟のある奴だけだ」

「・・・あなたは、覚悟がある人なんですね」

紅が言うと、青吾は自嘲気味に笑った。

「いや、王を殺そうなんて物騒なことを考えるんだから、悪人が狂人のたぐいだろ。じゃ、俺はもう行く」

面をつけ、窓から出ようとする青吾に紅は言った。

「青吾」

青吾は振り返る。

「気をつけて」

すると、青吾はにっと笑った。

「上手くいくよう、祈っててくれ。お前も気をつけろよ、紅」


その後、影武者と彼を擁護する宰相を味方につけた青吾達は、黎全が牙蘭の王になってから、ちょうど一周年になることを記念した宴で、演武を披露した隙をついて黎全を殺そうとする。

宴に出席し、演武を見ていた紅は、目の前にいる黎全の氣がいつもと違う事、巧妙に隠しているが、首筋に痣のようなものがあることに気づく。彼は影武者だと気づいた紅は、ふくよかな女の面をかぶり、そばにあった鉄扇を掴み、演武と欺いて、黎全に槍を突きつけようとする青吾をすんでのところで止めた。


(なにを・・・!)

槍を鉄扇でさばきながら、紅は青吾に囁いた。

(彼は影武者よ!計画は黎全に気づかれている!)

その瞬間、周辺の兵士達が二人を取り囲み、身につけていた槍や刀を突き付けた。

そして、給仕をしている信達にも兵士が取り囲む。

そこに黎全が鋼を伴って現れた。

「お前達の計画などお見通しだ。口無を忘れたわけではあるまい?こいつらは、城の内部でも働いている。新参者が妙な動きをしていると報告してくれてな。なに、話せないが文字はかける。優秀な奴らだ。そこでお前達を泳がせて一網打尽にしようと私は考えたのだ」

青吾は、仮面の下で鼻を鳴らした。

「はっ。情報不足はこっちのほうだってわけか。五日で調べて、実行に移したことをほめてもらいたいもんだね」

「確かにそれはほめてやろう。大したものだ。だが、それは月与王の尽力あってのものだろう。違うか?」

すると、青吾は肩をすくめる。

「悪いが、俺達は更沂でもお尋ね者でね。それに、この計画は俺達の判断だ」

「ふん。王を守るか。見上げた根性だ。だが、死ね」

「おいおい、鈿女うずめまで殺す気か?」

「・・・そうだな。鈿女うずめ、こっちへ。串刺しは嫌だろう?」

紅は叫んだ。

「お断りします!!」

その言葉に黎全は小さく息をついた。

「やれやれ、人が優しく言っているというのに頑固な娘だ。お前達、鈿女をどかして、そいつを殺せ!仲間達もだ!」

黎全の言葉が響いた瞬間、青吾は紅を輪の外に勢いよく押し出した。

たたらを踏み、振り返った紅の目に映ったのは、今にも串刺しにされそうな青吾だった。

「青―、ひっ!」


青吾の名を呼ぼうとして、紅―麗奈は悲鳴を上げた。

青吾―秀二の真上に、全長180cmもある巨大な首が悠々と漂っていた。

それは、蛇のように長い舌と鮫のような鋭い歯を覗かせ、秀二を今にも飲み込もうとしている。

「秀二!!」

麗奈は舞台であることも忘れ、大声で叫んだ。

その時、何かが麗奈の頭の上を通り過ぎ、首の化け物をホールの壁に突き刺した。

それは、黒い槍だった。

化け物は眉間を刺されて絶命し、その体(?)からはうっすらと透明になった化け物の姿が現れた。魂というものなのだろうか。それは、地面に吸い寄せられるようにして消えていった。

「逃げろ!!」

腹に響く声に振り向けば、達騎が座席の上に乗り、叫んでいた。

「早く非難しろ!次が来るぞ!!」

次の瞬間、ホールの壁や天井、ドアを突き破り、次々と巨大な首が現れ、ホール内は騒然となった。



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