第八幕 今昔シンフォニー
花野市内に、花野やすらぎ公園と呼ばれる小さな公園がある。
ジャングルジムとブランコしか遊具のない公園だが、昼間は親子連れや近所のママ友が集まる憩いの場所であり、近所の子供達にとっては、遊具で遊べるただ一つの場所だった。
しかし、夜ともなれば誰も訪れない無人の場所になる。
ジャングルジムとブランコの間にある外灯の下で、一人の少年と帽子をかぶった中年の男がいた。
「で、鵺の情報はあったか?」
少年―達騎は、真剣な表情で帽子の男に問う。
「いや、今の所、何もない」
首を振る帽子の男に、達騎は「そうか」と淡々と呟いた。
不意に、帽子の男がどんぐりのような丸い目を達騎に向けた。
「・・・達騎、もう十分じゃないのか?」
男の言葉に、達騎の目が鋭くなる。その背には、わずかに殺気のようなものが混じり始めていた。
「おれの情報網でも、鵺の居場所を突き止められない。四年もかけた結果がこれだ。
・・・忘れろとは言わない。だが、そろそろ未来に目を向けてもいいんじゃないか?この間だって、腕の骨を折ってお袋さんに心配かけただろう?」
「・・・・・巫子をしている以上、危険は承知の上だ」
「それは分かってる。ただ、闇の中に自分から突っ込む必要はないと言ってるんだ」
諭すような男の口調に、しかし、達騎の表情は変わらなかった。その瞳には、決意と覚悟が見てとれた。
「俺は諦めない。唐沢、あんたが諦めるなら、俺は俺の力で鵺を探し出すまでだ」
「達騎・・・」
どうあっても折れる気のない達騎を見て、男―唐沢は小さく息を吐いた。それは、自身の言葉で達騎の気持ちを変えることができない無力さと、達騎の決意の重さに感じ入ったためのものだった。
「分かった。鵺のことは、引き続きおれが調べる。何かあったら、すぐに連絡する」
「・・・あぁ」
達騎が頷く。
「それから、話は変わるが」
唐沢が一つ、前置きをする。
「『狭間』の小妖怪達がやけに騒がしい。街に住む妖達に喧嘩をふっかけて暴れている。烏天狗やぬらりひょん達が治めてはいるが、もしかしたら、現世に来る可能性もある。注意した方がいい」
「小妖怪が?」
基本、『狭間』に住む小妖怪達は、己のテリトリーが侵されない限り、他の種族と争うことは稀だ。大体が群れをなし、森や川、海、山などに住み、木の実や動物を食べて暮らしている。
「そうか。分かった。一応、他の奴らにも伝えておく」
小妖怪といえど、群れごと現世に現れれば、街中がパニックを起こすことは必須だろう。そのうえ、人間を襲うとなれば被害は大きくなる。警戒することに越したことはないだろう。
達騎が了承したその時だった。
「うわあぁぁぁっ!!」
突如、男の悲鳴が公園に木霊した。達騎と唐沢が悲鳴の方へ目を凝らせば、一人の若い男が妖に襲われていた。全長180cmもある巨大な首が宙を飛び、大きく口を開けて、男を飲み込もうとしている。
「大首!なぜこんなところに!」
大首は、狭間に住む小妖怪だ。群れで行動し、森に住む動物達を餌としている。一人―この場合は一首といったほうがいいか―で行動することはほとんどない。
ちなみに、小妖怪とは大きさを表すのではなく、妖力が小さい妖怪のことを指す。
唐沢が声を上げたのと同時に、達騎が動いた。
悲鳴を上げる男の脇をすり抜け、達騎は大首に向かって走り出す。
「うぉりゃっ!」
そして、大首の目に向かって蹴りを放った。足は違えることなく、大首の目にめり込む。
「ぎゃあぁぁぁっ!」
痛みで悲鳴を上げる大首。
「静かにしろ。近所迷惑だ」
悲鳴を上げさせたことは棚に上げながら、達騎は槍―風雲時雨を取り出した。
「ん?」
ふと、大首を見やれば、その頭に何か棒のようなものが刺さっていた。
電灯に照らされた傷口からは、赤黒い血が流れ出ている。
「おい。あれはあんたがやったのか?」
達騎は、背後で腰を抜かしている男に聞いた。
「へ、え、あ」
「だから!あの首野郎の頭に刺さってるのは、お前がやったのかって聞いてんだよ!」
要領の得ない男の言葉に、達騎は声を荒げた。
「はっ、はい!俺がやりました!!」
達騎の剣幕に、男は体を縮こませ、叫んだ。
「ちっ、めんどくさいことを」
通常、人を襲った妖は根に送る。一回でも人を襲えば、再び襲う可能性があるからだ。だが、先に人間が手を出したとなると話は違ってくる。
大首が、今度は達騎に向かって襲いかかってきた。蛇のように長い舌と鮫のような鋭い歯が、達騎に向かってくる。
「ひゃあぁぁ!」
背後の男が、情けない悲鳴を上げる。
達騎は槍の穂先を上にし、石突を大首の舌に叩きつけた。
舌への攻撃に、大首の動きが一瞬止まった。
「はっ!」
棒高跳びの要領で、達騎は大首の頭の上を飛ぶ。その真上を通り過ぎる刹那、大首に刺さった棒を引き抜いた。
「ぎゃうっ!」
引き抜いた痛みで大首から声が上がる。
大首の背後に着地した達騎は、間髪いれずに、脊髄部分に足蹴りを見舞った。
砂煙を上げながら、大首はどうっと前のめりに倒れ込む。
「さて、と」
達騎は大首が動かない事を確認してから、首の脊髄部分に手をやり、右手の人差指と中指で、あるツボを押した。それは、一時だけ記憶を消すことのできるツボだった。
大首のような―人間に傷つけられ、人間を襲った妖に対して、再び人間を襲わないよう、襲った記憶を忘れてもらうためのものだ。
それから、達騎は、左手を地面につき、右手で頭の傷口に触れ、行氣渡を行った。
応急処置にしかならないが、やらないよりはましだろう。ツボを突いたとはいえ、確実とはいえない。傷のせいで、人を襲った事を思い出しても困るからだ。
「ずいぶんと荒いな。やり方が」
治療をする達騎に、唐沢が呟いた。
「ちまちまやってたら、こっちがやられる。・・・唐沢、後は頼んでいいか?」
「わかった」
唐沢が頷き、治療を終え、気絶した大首を片手で軽々と持ち上げる。
「じゅあな」
「あぁ」
空いた片手をひらひらと振り、唐沢はそのまま闇の中へ消えていった。
「それで、どういうことか説明してもらおうか?」
達騎はふうっと息を吐き、先ほどから座ったまま微動だにしない男へ体を向けた。
年は、二十代前半だろうか。半袖のTシャツに動きやすそうな黒いジャージのズボンを履いている。人の良さそうな顔をしていて、妖を傷つけるようには見えない。だが、人は見かけによらない。
「先生!」
「どわっ!」
すごんだ達騎だったが、今まで動かなかった男がいきなり距離を詰めてきたので、思わず体を除けらせた。
「あなたこそ、俺の先生だ!お願いします!俺を弟子にしてください!」
「はぁっ!?」
男の言葉に訳が分からず、達騎は目を白黒させた。
※※※※
「ねぇ、悠子。これから楓とラックに行くんだけどどう?」
放課後のこと、悠子は直にそう声をかけられた。
―ラック。大手ハンバーガー店、グッドラックの通称である。
「新聞のチラシに割引券が入ってたの。新しいシェイクも飲めるし、一緒に行かない?」
テレビでやっていた新しいシェイク、チョコバナナシェイク。悠子もそれは気になっていた。
「うん、いいよ」
悠子は笑みを浮かべ、二つ返事で返した。
ラックの二階にある窓際の席に、悠子達三人はいた。悠子と楓は窓から背を向けた席で、直はそんな二人と向かい合う形で座ることにした。
「そういえば、もう一ヶ月経つのね」
一階の受付で注文した品―フライドポテト(三つ)、チョコバナナシェイク(二つ)とオレンジジュースを並べながら、不意に直が口を開いた。
「何がです?」
席につきながら、楓が不思議そうに聞いた。
「悠子と達騎が怪我したあの日からよ」
「そういえばそうだね」
悠子が頷く。
悠子は一週間入院した後、怪我も癒え、再び登校した。
達騎の腕は、三ヶ月はかかると医者に言われたが、一ヶ月もしない内に完治してしまった。
これには医者だけでなく悠子達も驚いた。だが、達騎は「昔から怪我の治りは速かったから」と言って、驚くそぶりすら見せなかった。
「草壁くんの怪我があんなに早く治るなんてびっくりしたよ」
「確かに、子どもの頃から怪我とか色々してたけど、治りは速かった気はするわ。でも、さすがに骨折はなかったから、私もびっくりしたけど」
悠子の言葉に、直は頷く。
「妖の血でも入っているんでしょうか?」
楓の呟きに、悠子と直は顔を見合わせた。
「さすがにそれはないと思うけれど・・・」
思ってもみない楓の言葉に、悠子はやんわりと言葉を返す。
もし、達騎にその血が混じっているなら、気配で感じるはずだ。それに、巫子として霊力を使う彼が気づかないはずがない。
「あいつの場合、否定できないのがちょっと怖いわ・・・」
巫子として戦う達騎を知っているからだろう。もしかしたらという思いもあるのか、直はそう言って口元を引きつらせた。
達騎の話をひとまず終え、悠子達は注文した品に手をつけることにした。
「話は変わるけど、後一週間ね。芸術観賞会」
フライドポテトをもぐもぐと咀嚼しながら直が言った。
「そういえば、今年は劇だっけ?」
去年はオーケストラの演奏だった。一学年の半数が睡魔に負けて眠っていたことを悠子は思い出す。
「確か、巫子の原型となった鈿女と猿田彦の話でしたよね」
隣に座る楓がオレンジジュースをすすりながら、口を開いた。
「どう?鈿女の巫子としては?」
直が興味深そうに悠子を見やる。
「どうって言われても・・・。おもしろければそれでいいかな」
直の問いに、悠子は素直に答える。
「そんなもんなの?」
何だ、つまんない。そんな声が聞こえてきそうな直の表情に、悠子は思わず苦笑した。
「他には・・・、みんなに巫子のことをよく知ってもらえるのは嬉しいかな」
「巫子の存在は誰もが知ってますけど、その源流はあまり知られていませんからね」
楓が、フライドポテトを摘まみながら頷く。
「うん。私は、おばあちゃんやお父さんから色々話は聞いているけど、劇となると話は別だから。どんな風に描かれるのか楽しみといえば楽しみかな」
悠子もフライドポテトに手を伸ばし、口の中に入れた。適度に振られた塩が、じゃが芋の味を引き出し、なかなかにおいしい。
「あー、でも、どうせなら『劇団海風』がよかったなー」
チョコバナナシェイクを飲み干し、直が残念そうに呟いた。
劇団海風。
演劇界では有名な劇団だ。上映する劇は、コメディー、ミュージカル、ミステリー、現代劇、ファンタジーなど幅広く、ロングランも多い。そのため、チケットを入手するにも難しいと言われている。今回、悠子達が観賞する劇の劇団は、「山瀬」という名の小さな劇団だ。演出も役者の演技にも力が入っており、根強いファンがついている。
「『海風』なら夏目くんがいるのに!」
直がくやしげに拳を握る。チョコバナナシェイクが入った紙コップにも力が入ったのか、ベコリという鈍い音が響いた。
「夏目くんって誰?」
「「夏目一真」という海風の中で一番人気のある役者さんです。直さんのお気に入りらしいですよ」
「へー」
演劇のことなどてんで疎い悠子は、名前まで覚えているのかと感心するほかなかった。
ふと、悠子は背後から視線を感じ、振り向いた。しかし、店の中には多くの客がごった返すばかりで、いつの間にか視線の気配も消えていた。
「どうしました?」
「どうしたの?」
楓と直が悠子の様子を不思議がり、聞いてきた。
「・・・ううん。なんでもない」
気のせいだろう。悠子はそう思い、首を横に振った。
ラックから出た悠子達は、カラオケに行こうという話になった。
「私は、いりすの「フェアリーテール」でも歌おうかな」
「好きですね、直さん」
「もっちろん。私のバイブルだもの。ね、悠子はなに歌う?」
「う~ん、私は・・・」
その時、再び視線を感じ、悠子は勢いよく振り返った。
すると、サングラスをかけた女性が驚いたように足を止め、慌てて歩道にある脇道に入って行くのが見えた。
「悠子、さっきからどうしたの?」
「・・・ラックにいた時に視線を感じて、今、振り向いたら私達を見ていた女の人がいたの」
「え、何!?ストーカー!?」
直が声を上げ、楓は目を丸くする。
「ストーカーではないと思うけど。嫌な気配もしなかったし」
「でも、悠子さんの知っている人でしたか?」
「ううん。見たことのない人だった」
楓が眉を寄せ、何かを考えるように俯く。
「ね、思い切ってこっちから行く?私、撃退スプレーもってるよ!」
直は、リュックの中からスプレー缶を取り出した。
「激辛」と赤いマジックで書かれているスプレー缶は、市販のものには見えなかった。
「直ちゃん、それ何?」
「見ればわかるでしょ。撃退スプレーよ」
「それは分かるけど、何か手造り満載っていう感じがするから」
「ああ、これ、弟達が遊び半分で作ったのよ。ちなみに、中身は七味とうがらしとハバネロの粉を水に溶かしたやつ」
それを聞いて、悠子と楓は思い切り顔をしかめた。
「うわぁ、目に入ったら痛そう」
「それ、半分、凶器なんじゃないですか?」
「別に平気よ!コソコソする奴なんてこれで退治してやるわ!それに、ここには武術の達人もいるわけだし」
そう言って、直は悠子の肩に手を置く。
「さ、行くわよ!悠子、そいつのところに案内して!」
直は、意気揚々と歩いていたとは反対の方向へ向かう。
「あ、待って。直ちゃん!」
「・・・・・」
悠子と楓は、慌てて直の後を追いかけた。
歩道の脇道に留まっていた女性は、悠子達が近づいてきたのを見ると、さらに奥へと進み、駆けだしていく。
「いた!」
「よし、行くわよ!」
直が女性目掛けて走り出す。
「この後、どうしますか?」
直の背中を追いかけながら、楓が尋ねた。
「一応、話を聞いてみる。楓ちゃんは話が終わるまで直ちゃんを押さえてくれないかな。あの状態だと問答無用でスプレーをかけそうだから」
「了解です」
悠子の言葉に、楓が頷く。
しばらく走っていくと、袋小路だったのか、塀が目の前を塞いでいた。
女性は立ち止り、悠子達に向き合わざるおえなくなった。
「ふふ、ついに追い詰めたわ!」
まるで、どこぞの悪役の台詞のような言葉を吐いて、直がスプレー缶を持ったまま仁王立ちする。
「さて、観念しな、ひゃぁ!」
突如、直が小さく悲鳴を上げた。楓が、直の腕を後ろから持ち上げたためだった。
「ちょっと、何するのよ、楓!」
「はいはい、少し落ち着きましょうねー」
じたばたと足踏みする直の腕を、楓は離さないようにしっかりと掴んだ。
悠子は、サングラスの女性の前までくると、足を止め、女性を見た。
「あの、どうして私達をラックからずっとつけていたんですか?」
しかし、女性は答えない。
「ちょっと!答えないとスプレーかけるわよ!警察も呼ぶわよ!」
直が黙ったままの女性に憤り、声を荒げた。
「警察は少し困るわね」
直の言葉に、女性が口を開いた。
「ごめんなさい。困らせるつもりはなかったんだけど」
女性はそう言って、サングラスを外した。
「あー!」
すると、直が、突然大声を上げた。
「あなた!西川麗奈!」
「「・・・・だれ?」」
直が口に出した名前を聞き、悠子と楓の声が重なる。
「ほら、芸術鑑賞会!劇団山瀬の!ポスターにのってた!」
悠子は、西川麗奈と呼ばれた女性をまじまじと見つめる。
年は、二十代後半くらいだろうか。切れ長の瞳にすっきりとした顔立ちをしていた。
今回鑑賞する劇のポスターには、鈿女と猿田彦の役者が写っていた。その鈿女役の女性に、似ているといえば似ていた。
「ええ、そうよ。私は西川麗奈」
女性―麗奈は、外したサングラスを胸ポケットに入れて頷く。
「今回の劇で、鈿女役をやるんだけど、性格が私と真逆でね。納得のいく演技ができていないのよ。そんな時、偶然あなたを見かけてね」
麗奈はそう言って、悠子を見た。
「そのしぐさや動作を参考にしようと思ったら、あなた、鈿女の巫子だって言うじゃない?ラッキーだと思ったわ。同時に鈿女の演技に必要なものはこれだと思ったのよ。それであなたを見ていたの」
「はぁ・・・」
力説する麗奈に何とも言えず、悠子はただ頷くことしかできなかった。
「おわびに、今、会場で舞台稽古をしているから見ていって」
麗奈はそう言って、三人を促した。
悠子達が見る劇「紅と青」は、花野市の市民ホールで行われる。
麗奈に案内され、稽古をしている大ホールへ悠子達は辿り着いた。客席には監督や演出家らしい男性の姿があり、舞台上では、男女合わせて数人の劇団員がいた。
その舞台上に、劇団員に交って、思いもかけない人物がいた。
「あっ」
「え・・・」
「うそぉ・・・」
悠子、楓、直の順に驚きの声を上げる。
「もっと腰を落とせ!」
舞台の中央に達騎が作りものの槍を持って立ち、隣にいる男―こちらも作りものの槍を持っている―に指導をしていた。
「あ、あの!」
悠子は、前を歩いていた麗奈に声をかけた。麗奈が振り向く。
「あの制服を着ている男の子は・・・」
悠子が達騎を指さすと、麗奈が「あぁ」と頷いた。
「あの子ね。秀二の先生よ。あ、秀二っていうのは隣にいる奴ね」
「せ、先生?」
直が戸惑ったように呟く。麗奈は言葉を続けた。
「彼、猿田彦の巫子だそうよ。名前は草壁達騎。昨日の夜、妖に襲われていたところを助けてもらったといっていたわ。秀二は猿田彦役なんだけど、槍の扱い方が自分の中で上手くはまっていなくて悩んでいたのよ。講師を雇おうにも、そんなお金、こっちにはないし。その時、草壁くんに出会って「彼が先生だ!」って直感したみたい。監督に頼みこんで入れてもらったそうよ」
悠子、楓、直の三人は、茫然と、秀二に槍の扱い方を教えている達騎の姿を見つめていた。
その時、おもむろに麗奈が悠子の名を呼んだ。
「悠子ちゃんだっけ、ちょっと来てくれる?」
「え、あ、はい」
麗奈に言われるがまま、悠子は彼女の後を追った。
麗奈は客席へと歩を進め、背が低く、ふくよかな体型をした男と話している眼鏡をかけた背の高い男に声をかけた。
「安藤監督!」
麗奈は、男―安藤の前に悠子を押し出した。
「彼女、鈿女の巫子なんです。講師としてここにいてもらってもいいですか?」
「え!?」
講師と言われ、悠子は頭の中が真っ白になった。麗奈の鈿女役の研究は、もう終わったのだと思っていたからだ。
「あの、西川さん・・・」
講師などできるわけがない。断ろうと、自分の肩を掴む麗奈の方を向いたその時、安藤の感嘆めいた声が響いた。
「ほう、君が・・・」
思わず、悠子が安藤に視線をやれば、彼は、悠子をまじまじと見ていた。
何とも言えないむず痒さを感じ、悠子は体を縮こませる。
「まさか本物を連れてくるとはな。お前の人を見る目は確かなようだ。それで?その子は講師になってくれることに賛成したのか?」
安藤の言葉に、麗奈が悠子を見る。
「西川さん、その、講師はちょっと、できないです・・・」
申し訳ないと思いつつ、おずおずと断りを入れる悠子に、麗奈は目を丸くさせ、声を上げた。
「え、だめなの!?」
「だめというか、講師として何をやればいいかわからないですし、そうなると、あなたにも迷惑がかかります」
悠子がそう告げると、麗奈は安心したように息を吐いた。
「なんだ!それなら大丈夫よ!講師っていっても、劇で演じる鈿女の所作と舞の踊り方を教えてもらいたいだけだから」
「・・それって、一般の人に教えてもいいんですか?演技や内容に関わることでしょう?」
「大丈夫よ。所作と踊りだけだし、内容には深く触れないわ。でしょ、監督?」
心配する悠子とは対照的に、麗奈は明るい表情で言い切った。そして、最期の一押しとでもいうように、安藤へ声をかける。
「それはそうだが。西川、お前、また具体的に話もしないで連れてきたのか」
安藤が、呆れた視線を麗奈に向ける。
「研究熱心なのは分かるが、よそ様にまで迷惑をかけるなよ」
「はーい」
安藤の言葉に、麗奈は素直に返事を返す。だが、安藤の顔は晴れない。重々しいため息をついてから、安藤は言った。
「まったく、お前の「はい」ほどあてにならんものはない」
そして、悠子の方へ顔を向けた。
「西川がすまない。もし、本当に嫌なら断ってくれてかまわないんだ」
「え、監督!?」
麗奈が非難めいた声を上げる。安藤が鋭い眼差しを麗奈に向けた。
「西川、お前は黙っていろ」
「だって、秀二の時はいいって言ったじゃないですか」
「あれは、彼が講師役を引き受けると言ってくれたからだ。だが、この子の場合は違う。一度断っているんだ。無理にやらせてどうする」
「でも・・・」
「お前の実力は、私もみんなも分かっている。自信を持て」
「・・・はい」
麗奈はしぶしぶ引き下がる。
「それで、どうする?やるかい?」
安藤が、再び悠子に問いかけた。
悠子は、隣に立つ麗奈を見た。悔しそうに唇を噛んでいる。それほどまでに、鈿女役を己のものにしたいのだということが、素人の悠子でも分かった。
それは、かつて、術が上手く発動できず、悩んでいた自分と少し似ているところがあった。
正解のない演技と、術の発動では明らかに差異があるが、悩みというのはどこにでもあるのだと悠子は感じた。
自分が手伝うことで、この劇の完成度が少しでも上がるのなら、やってみよう。悠子は決心した。
「・・・私に上手く講師役が務まるか分かりませんが。出来る限りのことはやってみます。よろしくお願いします」
そして、安藤、麗奈の二人に向かって、順々に頭を下げたのだった。
「ここでやってもらうわ」
講師を引き受けた悠子は、麗奈に連れられ、ホールの中にある一室へ通された。そこには、劇団員の荷物や段ボールに入ったリハーサルに使う代わりの衣装が、床の上に散らばっていた。
「ちょっとごちゃごちゃしてるけど気にしないで」
「あの・・・」
その時、楓がためらうように声をかけてきた。
「私たちもここにいていいんですか?」
「そうよ。悠子はともかく・・・」
直と楓も、麗奈に連れられ、悠子とともに部屋に入っていた。しかし、場違いだと思っているのだろう。二人はお互いに顔を見合わせ、不安そうな表情を崩さなかった。
そんな彼女らをよそに、麗奈はあっけらかんと言った。
「いいのよ。それに、私のわがままで悠子ちゃんに来てもらっているわけだし。あなた達がいれば、悠子ちゃんだって安心するでしょ」
悠子は背後を振りかえり、直と楓に向かって微笑み、大きく頷いた。
その笑みを見た二人は、安心したような笑みを浮かべ、頷き返したのだった。
「それじゃ始めましょうか」
麗奈の声を合図に、鈿女役の所作を再現する指導が始まった。
約一時間。麗奈に鈿女役の所作を教えてもらい、それを悠子が実際にやりながら、麗奈も同じように行うという練習を繰り返した。
「所作はこれくらいでいいと思うわ。次は、「舞」なんだけど・・・」
麗奈はちらりと悠子を見る。
「ねぇ、鈿女の巫子には代々受け継がれている舞があるって聞いたんだけど、本当なの?」
「はい。初代の鈿女様が舞ったと言われている舞です。五穀豊穣を願う祭りの時に舞ったものだと」
「そう・・・。ねぇ、もしよかったら見せてくれない?」
「えっ」
思いがけない麗奈の言葉に、悠子は目を見張る。
「はいはい!私も見たい!」
すると、パイプ椅子に腰かけ、見学をしていた直が勢いよく手を上げた。
「直ちゃん・・・」
「私も。もしよろしければ見せてくれませんか」
直の隣で、同じように腰掛ける楓も興味深そうな眼差しを向ける。
「・・・うん。いいよ」
断る理由はなかった。ただ、少し気恥ずかしい。悠子は、緊張を解くため、大きく息を吸い、そして吐いた。
舞を見せるのは、八雲以来だった。上手くできるかどうか、不安が悠子の頭を掠めるが、八雲が褒めてくれた事を思い出し、悠子はしっかりと前を向き、足を、一歩力強く踏み出した。
麗奈との練習を終え、市民ホールを出た悠子、直、楓は、夕食の支度で買い物をする主婦層に混じりながら、商店街を歩いていた。
アーケードから覗く空には、夕焼けが広がり、数羽の烏が飛んでいく。
「それにしてもすごかったわね、悠子の舞!」
直が興奮した様子で、悠子を見る。
「そうですね。繊細さの中に力強さがあって。素敵な舞でした」
「はは。嬉しいけど、照れるなぁ・・・」
二人の賛辞に、悠子は困ったように頬を掻いた。
その時、楓が人ごみの中で何かを見つけたらしく、あっと小さく声を上げた。
「あそこにいるのは、草壁さんじゃありませんか?」
楓が指さす方向を見れば、「トントン亭」という肉屋の前で、コロッケを頬張る達騎の姿があった。
「あ、ほんとだ。おーい、達騎―!」
直もそれに気づき、手を振って達騎を呼んだ。その声が聞こえたのか、達騎が目だけをこちらに寄こしてきた。
「あんたも今帰り?」
「あぁ。お前らもか?」
「そ。でも、驚いた。あんたが槍の指導なんて」
「あ?何でお前が知ってるんだ?」
直の言葉に、達騎が不思議そうに首を傾げる。直は、自慢げに達騎に言った。
「ふふん。悠子もね、鈿女役の人に指導することになったのよ。今日はその帰り。あんたがいるのも見たわよ」
「あぁ。そういうことか」
達騎が納得したように頷く。
「それにしても、助けた人が猿田彦役なんてすごいわよね~。ま、それを言うなら悠子だってすごいけど」
すると、達騎は顔を思い切り顰めて見せた。
「な、何よ。その顔・・・」
達騎の顔に、直が若干引いたように口元を引きつらせた。達騎は、はあっと疲れたように息を吐く。
「助けたって言うけどな。半分は自業自得だぜ?あいつ、棒きれで槍の練習してて、手を滑らした拍子に、それが妖の頭に突き刺さって、怒ったそいつに食われそうになったんだからな」
「・・・それは、何とも運が悪い・・」
想像して、悠子は思わず呟いた。
「その様子だとあまり乗り気じゃなかったみたいですが、どうして指導を引き受けたんですか?」
楓の言葉に、達騎は一瞬、口をつぐんだ。しかし、しばらくして口を開いた。
「・・・涙ながらに頼まれたら、もう諦めるしかないだろ」
どこか遠くを見つめ、呟く達騎に、引き受ける前に色々とあったのだろうと悠子達は思った。
「達騎?」
達騎の背後に、直と達騎の幼馴染―早瀬浩一と、クラスメイトの堯村歩が立っていた。
「珍しいな。お前がこんな所で買い食いなんて」
達騎の手の中にあるコロッケの紙包みを見ながら、浩一は目を瞬かせる。そこで、浩一は悠子達も一緒にいることに気づいた。
「あれ?直に鈴原、七海も一緒だったのか?」
「ふん、猿田彦の巫子様はよくモテることで。いいねえ、俺達にもその方法、教えてくれよ」
浩一の言葉を遮るように、歩が見下すような態度を取る。その発言に、達騎の眉間に皺が寄ったが、次の瞬間、鼻を鳴らすと、にやりと口元を引き上げた。
「はっ。お前はその態度を改めねえと、一生無理だろうな」
「何だと?」
「女だろうが誰だろうが、そんなんじゃ誰も寄りつかねえっていってんだよ。人を見る前に、わが身を見直せってな」
「この!俺は、鬼討師四家の堯村の人間だぞ!そんな舐めた態度をとると・・!」
「とったからって、何だってんだ!時代錯誤もいい加減にしやがれ!それに、俺は「堯村家」じゃねえ!お前に言ってんだよ!」
達騎と歩の口論が徐々に激しくなり、通行人達も何事かというように二人を見ながら通り過ぎて行く。
「お、おい。二人ともやめろって」
「コウ(早瀬)は黙ってろ!!」
止めようとした浩一だったが、達騎と歩に怒鳴られ、その剣幕に思わず引きさがる。
堯村歩。
彼は、鬼討師四家―小野、朱雀院、芦屋、堯村と呼ばれる家で、堯村の姓をもつ。
歩は、堯村本家の四男に当たり、悠子達のクラス、2-Aのクラスメイトだった。
ぶっきらぼうだが、話しかければ受け答えをしてくれ、人当たりは悪くない。だが、達騎の前だと見下したような態度になり、達騎もそのたびに勘に障るようなもの言いをするため、口論になってしまうことが多い。
「・・・全く、しょうがないわね」
直がため息とともに、口喧嘩をしている達騎と歩の前に立った。そして、次の瞬間、直は拳を振り上げ、二人の頭に拳骨を落とした。
「いい加減にしなさい!!」
ゴンッという鈍い音がしたかと思うと、達騎と歩は頭を抱え、悶絶していた。
「通行の邪魔でしょ!喧嘩するならよそでやりなさい!」
「・・・・はい(はい)」
直の怒りを込めた一撃とその言葉に、達騎と歩は涙目になりながら、同時に頷いた。
「直ちゃん、すごい」
「さすが姉といったところでしょうか」
そんな直を悠子と楓は、驚きと感嘆を織り交ぜた表情で見つめていた。
悠子達は、達騎、浩一、歩と共に家路を歩くことになった。
いつの間にか、組み合わせが悠子と達騎、楓と浩一、直と歩という具合になっていた。
「ねえ、いい加減達騎に突っかかるの止めたら?」
不機嫌そうな顔を隠そうともしない歩に直が言った。
「うるさい。お前には関係ないだろ」
「関係なくはないでしょ。喧嘩する度に止めてるのは誰だと思ってるのよ」
「頼んでない」
「あんたねぇ」
取り付く島もない歩に、直は溜息をついた。
直と歩の後ろでは、楓と浩一がゆったりと歩いていた。
「早瀬さんは、どうして堯村さんと一緒にいたんですか?」
「今日、発売のCDがあってショップに行ったら、偶然、堯村に会ったんだ。あいつも俺と同じCD買っててさ。話が盛り上がって、途中まで一緒に帰ろうってことになったんだ」
「そうだったんですか・・・。でも、すいません。せっかく盛り上がってたのに邪魔してしまって」
「それは、七海のせいじゃないだろ?気にしなくていいよ。話はいつだってできるんだし。そういえば、直から聞いたんだけど、七海って歌が上手いんだってな。音楽とか興味あるの?」
「え、えぇ」
「そっか。何が好き?」
「そうですね。ルクスとか、カンターレをよく聞きますね」
ルクスは三人組みのロックバンド、カンターレはバラードを多く歌う四人組みのグループだ。海外のミュージシャンで、日本にも度々来ている。
「洋楽か~。J-ポップとかは?」
「直さんの影響で、「いりす」はよく聞いています」
―いりす。
女性のミュージシャンで、ロックからジャズ、バラードまで幅広い楽曲で歌っている。その名の由来は、ギリシア神話の虹の女神イリスからとっており、虹をかけるイリスのように、歌で人を繋ぐ人間になりたいという思いからつけたという。
「いりすかー。俺もちょっと聞いたことあるけど、あれが好きだな。「MIRAIの種」っていう曲。確かオリンピックの主題歌になった」
「あ、私も好きです。ラブソングなんですけど、個人個人だけじゃなくて、人と人全体のことを歌っているから」
「へぇ、けっこう読み込んでるんだな。俺は、サビを聞いた時、いいなって思ってさ。それから歌詞にも注目したな」
楓と浩一が、音楽の話題で花を咲かせている頃、その後ろで、悠子と達騎が真剣な表情で話をしていた。
「猿田彦役の奴、東山秀二って言うんだが、あいつを襲った妖が大首だった。しかも一匹で」
「大首?でも、彼らは群れで行動するんじゃなかった?」
「そうなんだが、今回に限っては違っていた。それに、俺が手に入れた情報では、『狭間』の小妖怪達が騒がしいらしい。もしかしたらこっちに来る可能性がある。大首が一匹で来たのも何か関係があるのかもしれない」
「・・・わかった。十分に気をつける。ありがとう。知らせてくれて」
悠子は力強く頷き、礼を言った。
そして、六人は、それぞれ家路に着いたのだった。
それから、約一週間、放課後に、達騎は秀二に、悠子は麗奈に、それぞれ講師として指導することになった。幸いにも、小妖怪が現世に現れることはなく、穏やかな日常が過ぎていくのだった。
そして、芸術鑑賞会の日がやってきた。
支龍高校全生徒が、花野市市民ホールに集まっていた。
席順は、一年から三年の区分けはされているが、細かく決まっているわけではなかった。クラスの仲の良い面々と固まる生徒もいれば、自分の好きな場所に腰を落ち着かせる生徒もいた。
悠子は、直、楓と共に、一階席の中央部分に座っていた。舞台もよく見え、絶好のポジションといえた。
「楽しみね~」
直が笑みを浮かべ、悠子と楓に言った。
「そうですね」
「うん」
直に返事を返し、悠子は受付でもらったパンフレットを開いた。
そこには、簡単なあらすじが書いてあり、劇団山瀬の劇団員、監督らの白黒写真が貼ってあった。
すると、舞台の開幕を知らせるブザーが鳴り、ホールの照明が次々と落とされていく。
同時に、ざわめいていたホール内が少しずつ静かになっていった。
「始まるわね」
期待に胸を膨らませたような声音で、直が囁く。
やがて、鶴と亀が描かれた壇幕が上がり、舞台が姿を現した。
劇団山瀬主催の演劇、「紅と青」の始まりだった。