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第三十二幕 欠けているもの

ピピピッ。ピピピッ。

目覚まし時計の音に起こされ、悠子は手探りでスイッチを押した。

「う~ん」

起き上がり、大きく伸びをする。

時刻は六時半。いつも通りの時間だ。

悠子はベッドから降り、目を擦りながら、ハンガーにかけた制服に手を伸ばした。


制服に着替え、顔を洗い、髪を整えた悠子は、居間に通じるドアを開けた。

居間と隣接する台所では、母の花穂が急須でお茶を入れており、ダイニングテーブルには、新聞を読む父、拓人の姿があった。

「おはよう」

「あぁ、おはよう」

「おはよう」

悠子が挨拶をすると、拓人、花穂の順に挨拶が返ってきた。


テーブルの上には、ベーコンの入った目玉焼きとレタスときゅうり、プチトマトのサラダがあった。

悠子は食器棚からコップと茶碗、汁物の椀を取り出した。

冷蔵庫から紙パックの牛乳を取り出し、コップに注ぐ。

牛乳を冷蔵庫に戻すと、温まった鍋に入ったワカメと豆腐の味噌汁を椀によそう。

次に、しゃもじを持って炊飯器に炊かれた白いご飯を茶碗に持った。

テーブルに、よそった物を全部置いた悠子は、最後にお気に入りの赤い箸を箸置きに置いて、手を合わせた。

「いただきます」


朝食を食べていると、拓人が読んでいる新聞に、「鵺、未だ行方分からず」という見出しがのっているのが目に映った。

「まだ、見つからないんだ」

ぽつりと呟くと、拓人もその記事に気づいたらしい。

広げていた新聞を閉じ、悠子が見ていた一面を自分の所へ持ってきた。

「あぁ、これか」

そして、納得したように頷く。

「テレビでも言っていたわ。保妖課の人達が全力で探しているって。一般の人にも情報提供を募っているそうよ」

「そうなんだ」

花野市市民ホールでの一件が思い出される。

また、あの時のような事が起こるかもしれないと思うと不安だった。

警察が一刻も早く鵺を見つけて欲しい。

そうすれば…。

(あれ―?)

一瞬、過ぎ去ったものに悠子は首を傾げた。

だが、胸の中を探っても何も思い出せない。

気のせいか。

そう思い、悠子は味噌汁に口をつけた。



登校した悠子は、 2-Aのドアを開けた。

直は自分の席に座り、楓はそのそばで佇み、直と話している。

悠子は、自分の席にスクールバックを置き、直と楓のそばへ向かった。

「おはよう」

「おはよ」

「おはようございます」

互いに挨拶を交わす。

「あと四日で夏休みね~。早いわ~」

「そうですね」

直の言葉に楓が頷く。

「二人はどこか出かけるの?」

悠子が夏休みの予定を聞いた。

「私はおばあちゃんの所よ。毎年のことだけど」

直が言った。

「確か沖縄だっけ?海が綺麗だよね」

直の母方の祖母が沖縄に住んでいると悠子は聞いたことがあった。

「楓ちゃんは?」

「私は家族と箱根まで。別荘がそこに」

「べっ、別荘?」

別荘と聞いて驚き、悠子は声を上擦らせた。

「なにそれ!聞いてないわよ!」

直が椅子を蹴って、声を上げる。

「ごめんなさい。別荘を買ったのは、今年の五月なので、行くのは初めてなんです」

「ねぇ、遊びに行っていい?」

直が楓の手をがしりと掴む。

「な、直ちゃん…」

楓の予定も聞かず、問答無用で聞く直に、悠子は思わず口元をひきつらせた。

「別にかまいませんよ」

だが、楓はあっさり了承した。本当にいいのだろうか。悠子が楓を見ていると、楓は何かを思い出したように、あっと小さく声を上げた。

「直さん、学園祭の演劇の練習があるんじゃ…」

その言葉に、直は真顔になった。そして、目を見開き、

「しまったー!忘れてたぁー!」

頭を抱え、大げさに嘆いたのだった。


「日程、調整してもらおうかしら」

本気なのか冗談なのか、区別のつかない言葉をぶつぶつと呟く直を見ながら、悠子は、ふと視線を逸らした。

窓際付近には、浩一と歩が机を囲み、誰かと話している。

体を傾けると、その人物は中島翔太だった。

明るく、物怖じしない性格でサッカー部に入っている。音楽関係で気が合うのか、よく浩一と歩と三人で話をしている。

翔太の顔を見た時、悠子の中で何かが動いた。

(―違う)

なぜかそう思ってしまったのだ。


「ねぇ、直ちゃん」

「ん、なに?」

「中島くんの席って、前からあそこだった?」

「そうよ?四月からずっとそうじゃない」

直が、何を言っているのかという顔をする。

楓も不思議そうな顔をしていた。

「そ、そうだよね。ごめん。気にしないで」

確かに悠子の記憶でも、窓際の後ろから三番目の席は、翔太だった。

(なんで違うなんて思ったんだろう)

悠子は、自分の心の動きに戸惑っていた。



家に帰っても、その違和感は続いていた。

浩一と歩、そして翔太。

見慣れた三人のはずなのに、悠子には何かが心に引っかかっていた。

夕食を食べている時も、湯船に浸かっている時も、部屋で一息ついている時も考えていたが、答えは出なかった。

(―寝よう)

このまま考えても埒があかない。

明日、また考えよう。

悠子はベッドに潜り込むと眠りについた。



そこは、湖だった。透き通った水面は、鏡のように青空を写し取っている。

湖の中央には、二つに裂けた木があった。

そばには、枯れ枝のように水面に浮く一本の槍があった。

槍は墨のように、あるいは、星も月もない夜空のように黒く染まっていた。

妙に惹かれるものを感じ、悠子はその槍を手に取った。

次の瞬間、水面に波紋が広がる。

(え―)

波が静まり、再び鏡のようになった水面に映し出されたのは、みちるだった。

次に、直、浩一、楓、歩。さらに颯、瑠璃、隼。そして、陽燕と沙矢。

悠子にとって顔馴染みの面々が、次々と映し出される。

これで終わりかと思いきや、次に現れたのは、悠子自身だった。

(私―?)

喜怒哀楽の表情を浮かべる悠子が、まるでアルバムの写真のように現れる。

しかし、それもかき消え、次に登場したのは、一人の少年だった。

年は自分と同じくらいだろうか。

形の整った鼻を冬でもないのに赤く染め、そばかすが頬の辺りで散らばっている。

彼を見て、悠子は言いようのない懐かしさを覚えた。

(初めて見る顔のはずなのに。知らない人のはずなのに)

悠子は、切れ長の瞳でこちらを見る少年を見つめた。

(―あなたは誰?)



ピピピッ。 ピピピッ 。

目覚まし時計の音で起こされ、悠子は手探りでスイッチを押した。

音が消え、起き上がった悠子は、自身の頬が濡れていることに気がついた。

目尻に触れれば、涙が零れた。

(泣いていた?)

夢を見ていた気がするが、内容まで覚えていなかった。悲しい夢だったのだろうか。

内心、首を傾げながら悠子は制服に手を伸ばした。


台所では、花穂が洗い物をしていた。

「お母さん、おはよう」

「おはよう」

「お父さんは?」

ダイニングテーブルに、拓人の姿はなかった。

「今日は出張。だから、早めに行ったわ」

「そう」

自宅の離れで医院を営む拓人は、月に一度出張することがある。その日だけは、悠子よりも早く起き、仕事場に行っていた。


ヒュル~、ドォンッ。

朝食の準備をしていると、花火の音が聞こえてきた。

 振り向けば、ダイニングテーブルのそばにある棚に設置されたテレビから、花火の映像が映し出されていた。

『・・日に行われた花野市の花火は、観客も多く・・・』

女性アナウンサーの歯切れの良い声が響く。

その映像は、先週の土曜日に行われた花野市の夏祭りで打ち上げられた花火だった。

 悠子は、川岸で見ていたことを思い出した。

大きく、迫力のある花火に感動したのを今でも覚えている。

 誰かと一緒に花火を見たのは初めてで・・・。

(え?)

悠子の動きが止まる。

(たしか、私はひとりで花火を見ていたはず―)

赤い箸を置き、悠子は側頭部に手を当てた。

思い出しても、ひとりで見ていた記憶しかない。けれど、違うと何かが囁く。

胸がちくちくと刺すように痛い。悠子は右手を頭から離し、胸を押さえる。だが、それでも痛みは収まらない。それどころか、体全体に痛みが回っている気がする。

悠子は、右手を左肩に伸ばし、背を丸め、自分で自分を抱きしめた。その時。

『ごめん。・・・ありがとう』

聞いたことのない少年の声が悠子の頭に降ってきた。

「・・・――っ!!」

次の瞬間、まるで映画のワンシーンのように次々と映像が溢れだした。


『嫌な気配がしてきてみたんだが…、相変わらず変なのに好かれるんだな』

そばかす顔の少年が黒い槍を構える姿。

『てめぇに何が分かる!一度も手を汚したことのないてめぇに!!』

怒りを露わにさせ、怒鳴る少年。

『・・・知り合いが人殺しになるなんて目覚めが悪いだろ』

戸惑うような、照れたような表情で、明後日の方向を向く少年。

『そんじゃ、これからもよろしく。鈿女うずめの巫子さん』

微笑み、手を差し出す少年。

『ごめん。・・・ありがとう』

苦しげな声で囁く少年。


「―くさかべくん・・・」

悠子は呟く。

それが合図だったかのように、記憶が次々と溢れだす。

笑い、呆れ、怒る達騎の顔が、まるで写真のように悠子の瞼に焼きついた。

顔を俯かせ、悠子は名を呟き続けた。

「くさかべくん、くさかべくん、くさかべくん、草かべくん、草壁くん、草壁達騎!!」

悠子はばっと身を翻し、居間を出る。

「悠子?」

花穂が不思議そうな顔で悠子を呼んだが、それすら悠子の耳に入っていなかった。

階段を駆け上がり、自分の部屋に飛び込むと、悠子は、机の上に置いてある写真立てを勢いよく掴んだ。

広がる海を背景にして、悠子、直、楓がおり、その後ろには、達騎、歩、浩一が写っている。―はずだった。

しかし、達騎が本来いるはずの場所には何もなく、五人だけが写っていた。

「どうして―」

写真立てを握りしめ、悠子は茫然と呟いた。そして、唇をぎゅっと噛み締め、写真立てを抱きしめる。

「草壁くん・・・」

思い出すまで、悠子は達騎のことを完全に忘れていた。達騎がいない世界を当たり前だと思っていたのだ。

思い出した時、何かの幻覚かと考えた。それを確かめるために臨海学校の写真を見たのだが、これで確信した。

これが幻覚ではなく、本当に起こっていることだということを。

 

達騎自身に何かが起こったのか。それとも、達騎が何かを起こしたのか。

いずれにせよ、達騎が関係しているのは間違いない。

―調べる必要がある。

 悠子は決意した。


調べることによって、直や楓、歩や浩一、みちるの中に達騎が存在しないと証明されることになっても。


 (私がやらなくちゃ)


写真たてを胸元から離し、悠子は写真を見る。

 悠子の背後には、ガラス越しに太陽の光を浴びてきらきらと輝く紺碧の海が見えるだけだった。


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