第二十九幕 開幕のベルが鳴る
臨海学校最終日。その日の昼に届いた勾玉二つを手首にはめ、悠子は目の前にいる紫と隼に顔を向け、深々と頭を下げた。
「本条先生、青木先生。色々とありがとうございました」
昨日の夜から今日の朝にかけて、二人は交代で、悠子の様子を結界の外から見てくれていたのだ。
「元気になってよかったわ」
「この後は自由時間だ。楽しんできなさい」
紫が笑みを浮かべ、隼が穏やかな眼差しで悠子を見る。
「はい」
悠子は頷き、救護室となっている和室を出た。
(直ちゃんと楓ちゃんは―)
心配をしているであろう直や楓に会おうと、二人の部屋を訪れたが、ドアを叩いてもどちらとも返事かなかった。
(ロビーかな?)
そう思い、悠子は、ロビーへ向かった。
深緑色の絨毯が敷き詰められたロビーには、外国人の観光客の姿と、悠子達が通う支龍高校の生徒の姿も何人かあった。
そして、その中に直と楓がいた。
「直ちゃん、楓ちゃん!」
声を上げ、悠子は駆けだした。それに気づいたのだろう、直と楓が悠子の方を向いた。
「悠子!」
「悠子さん!」
二人は驚いた顔をしながら、同じように悠子に駆け寄ってきた。
近づくにつれ、悠子はスピードを落としたが、直は緩めることなく、悠子に駆け寄り、抱きついた。
「もう、心配したのよ!体は平気?なんともない?」
矢継ぎ早に繰り出される言葉に、悠子は一瞬固まりながら、声を出した。
「う、うん。大丈夫。なんともないよ」
楓が瞳を潤ませて、悠子を見た。
「よかった。運ばれた時は、顔が青白くて、このまま目を覚まさないんじゃないかって思いましたから。それに、青木先生から、悠子さんが起きて出てくるまで、救護室には近づいちゃいけないって言われてましたし」
隼がそう言ったのは、勾玉を失い、暴走状態になる可能性のある悠子から、周りの人間を守るためだろう。
周りに被害を出さないためとはいえ、直と楓には悪いことをした。
「ごめんね。心配かけて」
「いえ。そんな。悠子さんが謝ることじゃありませんから」
謝ると、楓は戸惑うように首を振った。
すると、直ががばりと顔を上げ、勢いよく悠子に言った。
「そうよ!罰として、悠子は今日ずっと私たちと一緒よ!」
罰というには、あまりに微笑ましい内容に、悠子はの頬が思わず緩む。直が自分のことを考えて言ってくれたことがわかったからだ。
「うん。いいよ」
頷く悠子に、楓が言った。
「さっき、直さんと写真を撮ろうっていう話になったんです」
「私、デジカメもってるから。パソコンで現像できるし。携帯でもいいけど、なんかもの足りないと思って」
肩に下げた黄色のバッグから、直はデジタルカメラを取り出す。
「悠子にとっては、楽しいばかりじゃなくなっちゃったけど、高校生活最後の旅行だもん。思い出を残しておきたいじゃない?」
「うん」
確かに楽しいばかりではなかった。けれど、それだけではないことは悠子にもわかっていた。
直の言葉に、悠子は頷く。
「それじゃ、撮りましょうか」
楓が言った。
「どこで撮る?あの海岸が見えるところがいいかな」
辺りを見回し、直はロビーの大きなガラス窓から見える海岸を指さした。海は、太陽の光を浴びて銀色に輝き、穏やかに凪いでいた。
「いいですね」
「うん、いいね」
楓と悠子は同意した。
「よし、それじゃ行こう!」
直の指さす場所へ向かおうとした時、悠子は、目の端にロビーで談笑する達騎、歩、浩一の姿を見とめた。
「あ、先に行ってて」
悠子は、直と楓に断って、三人のところへ向かった。
「堯村くん、草壁くん、早瀬くん」
「おお、鈴原。大丈夫か?」
浩一が悠子に声をかける。
「うん、ありがとう。もう大丈夫」
笑顔で返した悠子は、まず歩の方を向いた。
「堯村くん、昨日はありがとう」
「おう。まぁ、無事でよかった」
歩は、少し照れたような表情を浮かべながら言った。続いて、悠子は達騎の方を見る。
「草壁くんもありがとう」
しかし、達騎は何事かを考えているような顔で、遠くを見ていた。
「草壁くん?」
もう一度、悠子が呼ぶと、はっとしたように顔を向けた。
「あ、あぁ・・・。・・・悪い。寝すぎて、まだ頭がぼうっとしている」
すると、歩が呆れたように鼻を鳴らした。
「少しだれているんじゃないか?そんなんじゃ巫子としてやっていけないぞ」
「なんだと、コラ」
歩の言葉に、達騎の目が光る。
「あ?やるか?」
睨みつける達騎に、歩も睨み返す。
「はいはい。旅行に来てまで喧嘩しないの!」
そこへ直が割って入った。
「ちょうどいいわ。あんたたちも写真に入りなさいよ。さ、向こうで撮るから並んで並んで」
直に促されながら、並ぶ悠子達。
浩一は嬉しそうに、歩と達騎はしぶしぶといった感じではあったが、断りはしなかった。
並び順は、中央に直、直から見て左側が楓、直から見て右側は悠子。悠子の後ろには達騎、直の後ろには歩、楓の後ろには浩一という具合になった。
直は、近くにいた同級生を捕まえ、写真を撮ってくれるように頼んだ。
女性陣三人は、後ろにいる男性陣の姿が写真に写るように膝を曲げた。
「じゃ、とりまーす」
同級生の女生徒がデジタルカメラを構え、直達に言った。
「はい、チーズ!」
ガラス張りの海岸を背景に、悠子達は写真を撮った。
こうして、悠子の最初で最後の臨海学校は終わった。
それは、臨海学校を終えた数日後のことだった。
悠子が朝食を食べていたさなか、緊迫した女性アナウンサーの声がリビングに響き渡った。
『ただいま入ったニュースです。花野市市民ホール襲撃事件の容疑者とされる鵺が、同じく収監されていた仲間達とともに脱獄しました。保妖課が全勢力を上げて探しています』
「え・・・」
聞き間違いかと耳をそばだて、ニュースの内容に聞き入る。だが、それは、何度聞いても同じだった。
ニュースを聞きながら、悠子が思い浮かべたのは達騎のことだった。
(草壁くん―)
悠子は急いで朝食を食べ終えると、達騎のアパートへ向かった。
綾架荘に着いた悠子は、外階段を駆け上がり、達騎達が暮らす263号室へ向かった。
悠子は、インターホンを押す。
しばらく待ったが、誰も出ない。
みちるは仕事だろうか。達騎ももう学校へ行ったのだろうか。それとももう鵺を追っていったのだろうか。
悠子は、逸る心を押し殺して身を翻すと、階段を下りて、学校へ向かって駆け出した。
靴を叩きつけるように下駄箱に入れ、教室へ続く階段を駆け上がる。
荒い息を整えると、祈るような気持ちで、悠子は教室のドアを開けた。
教室はざわめきに包まれ、直や楓、多くのクラスメイト達が話をしていた。その中に達騎もいた。
自分の席―窓際の後ろから三番目の席―に座り、浩一と圭太と笑いながら何事かを話している。
「草壁くんっ!」
悠子は、自分の予想が外れたことによる安堵と、達騎が学校にいることに微かに驚きながら、達騎を呼んだ。そのために、少し声が大きくなっていたことは否めない。
達騎が悠子を見た。同時に、教室がなぜか水を打ったように静まり返った。
クラスメイト達の好奇の視線が自分に向けられているのを、悠子は感じた。
「あ・・・」
悠子は気が付いた。思い余って達騎を呼んだが、公衆の面前で鵺の事を聞くことはできない。
「あ、その、お、おはよう・・・」
そう思い、悠子の口から出たのは、当たり障りのない挨拶だった。
片手を軽く上げ、ひきつる口元を無理やり笑みに変える。
奇妙な顔になっただろうが、この場をやり過ごすにはこうするしかなかった。
「あ、あぁ・・・。おはよう」
悠子の様子が変だと気づいたのか、達騎は微かに眉を上げる。しかし、何も言わず、悠子と同じように挨拶を返したのだった。
達騎が返事を返したことで、クラスメイトの視線は悠子から外れ、いつものざわめく教室に戻った。
達騎は、浩一と圭太の方に顔を戻した。
「はぁ・・・」
どうにかやり過ごすことに成功し、悠子は小さく息を吐きながら、自分の席についた。
「おはよう、悠子」
「おはようございます」
そこへ直と楓がやってきた。
「おはよう。直ちゃん、楓ちゃん」
「悠子、どうしたの?何かあった?」
気遣わしげな表情を浮かべる直に、悠子は思わず「へ?」という声を上げる。
「必死な顔で教室に入ってきましたから。真っ先に草壁さんに話かけましたし。何か事件があったのかと・・・」
「朝の脱獄事件もあれだけど、何かあったんじゃないかって」
楓が心配そうに悠子を見る。直も同意するように頷いた。
その朝のニュースが原因なのだと言えるわけもなく、悠子は首を振って誤魔化すしかなかった。
「あ、違うの。何かあったとかそういうことじゃないから。気にしないで」
笑みを張り付け、どうにかその場をしのぐ。
直と楓は、不思議そうに悠子を見る。だが、その演技が功を奏したのか、二人はそれ以上聞くことはなかった。
「そう・・・」
「そうですか・・・」
何か言いたそうな顔をしながらも、直と楓は頷いた。
授業の間も、悠子は達騎のことが気になって仕方がなかった。
先生の目を盗んで、左斜めに顔を向ける。そこには、退屈そうに現代国語の授業を受ける達騎の姿があった。
それは、いつも通りの達騎の姿だったが、いつも通りなのが逆に違和感を感じさせていた。
達騎の憎しみは、そう簡単に消えるものではない。鵺が脱獄したならば、一目散に向かうだろうと予想していた。
だが、実際は、学校に来て、授業を受けている。達騎が学校に来たことは素直に嬉しかったが、朝のニュースを聞いているだろう彼から何の反応もないのが不思議だった。
放課後に聞いた方がいいかもしれない。場所は屋上がいいだろう。
「・・・原。鈴原!」
突如、隼の声が聞こえ、悠子は反射的に顔を上げた。
「は、はいっ!」
「鈴原。次の段を読んでくれ。二十六ページ、『しかし、私は』からだ」
「あ、はいっ」
悠子はページをめくり、隼に指摘された文章を見つけると、慌てて読み始めた。
その様子を、頬づえをつきながら達騎が見ていることに、悠子は気づかなかった。
「ううっ」
悠子はがくりと肩を落とし、小さく呻きながら、弁当に入ったウィンナーを突き刺した。
午前中は散々だった。
鵺のこと、その事を達騎にどう切り出そうかと考えてばかりいたため、読み当てられた文章で舌を噛んだり、黒板に書いていた問題が全く違っていたり、果ては教壇に登ろうとして躓いたりと、注意力散漫といえる行動ばかり起こしてしまったのだ。
「悠子、大丈夫?」
「臨海学校の疲れが溜まっているんですか?」
そして、ついには直と楓に労わるような眼差しを向けられる始末。
悠子は、自分が情けなくて仕方がなかった。
これでは、巫子として半人前以下だ。
そんなことを思いながら、悠子は顔を上げ、乾いた笑みを浮かべた。
「うん。平気、平気・・・」
そう言って、悠子はウィンナーを齧った。
「ねぇ、悠子。もしかして恋でもした?」
「ぐっ、げほっ、ごほっ」
直の突拍子もない言葉に、悠子は飲んでいた緑茶を吹き出しそうになった。
むせながら、悠子は直を見る。直の目が、好きな物をもらった子供のようにきらきらと輝いていた。
「直さん、突然、何を言い出すんですか」
楓が呆れたような視線を直に向ける。直は唇を尖らせた。
「だってー。珍しいじゃない。悠子がぼうっとしたり、文章とちったり、教壇に躓いたりするなんて。誰かを好きになって、その人のことで頭がいっぱいになってたからじゃないの?ねぇ、悠子」
「それくらいは、恋をしなくても十分にあります。直さんは飛躍しすぎですよ。きっと疲れが出たんです。ねぇ、悠子さん」
二人が同時に悠子の方を向き、力強い瞳で悠子を見つめる。どちらも、考えは譲らないといった強い意志が垣間見えた。
「え、えっと・・・・」
悠子は困った。
恋ではないが、確かに鵺のことや達騎のことで頭がいっぱいになっていたことは事実だ。
だが、それを直接言うのは憚られる。
直や楓に心配をかけたくない。
どう言おうかと考えていると、唐突に達騎が悠子達の席へやってきた。
「直、七海、鈴原」
それに真っ先に反応したのは、直だった。
「なに?なんか用?」
「今週の土曜、ひまか?」
「ひまだったら、なに?」
「その日は祭りだろ?一緒に行かねぇか?行くのは、俺とコウ、堯村だ」
直は目を瞬かせ、達騎を窺うように見た。
「あんたが祭りに誘うなんて。明日は雪かしら?」
直の皮肉に、達騎は応じることなく、手に持った白色の紙を広げて見せた。そこには、『花野夏祭り商店街スタンプラリー』と書かれていた。
「これ。知り合いのおっさんからもらったんだ。全部のスタンプを押すと、商店街の中の食べ物屋で、どれか一つ、無料で食べられる」
「無料!?」
直が目を見開いた。悠子も驚き、達騎の持った紙を見る。
「全部で六枚。お前達がやってくれれば、これを無駄にしなくていいんだが。嫌なら仕方ない。鳥海か、別の奴に頼むから・・」
「誰も行かないなんていってないでしょ!ね!」
直は楓と悠子を見る。
祭りのある土曜は特に用事もない。それに、今まで友達と祭りに行くこともなかった悠子にとって、それは心躍ることだった。
「う、うん。行く」
「私も行きたいです」
首を縦に振る悠子に、楓も頷く。
楓と悠子の返事に満足そうに頷いた後、直が両手を達騎の前に広げた。
達騎は、スタンプラリーの紙を三枚、直に渡す。
「じゃあ、夜の七時に商店街に集合な。頼むぞ」
そう言って、達騎は自分の席に戻っていった。
悠子は直に手渡されたスタンプラリーの紙を見る。
そこには、花野市のマスコットキャラ、花乙女―花野市の花である桔梗を頭に乗せ、檸檬色の着物を着た女性―が描かれていた。




