第二十五幕 記憶の中 ~りん~
残酷な描写があります。ご注意ください。
突如、空が暗くなり、悠子と達騎が立つ砂浜が、黒曜石のように黒くなった。そして、泥のようなものが足元から現れ、二人の足を沈ませた。
「え」
「なっ」
驚く間もなく、悠子と達騎は、下へ沈んだ。
「ぷはっ!」
地面に沈み、大きく息をついた悠子は目を見開く。そこにあったのは、薄暗い座敷牢だった。
ほこりが舞い、黴くさい臭いが鼻をつく。
日の光がわずかに差し込むだけの薄暗いその場所に、髪の長い少女が座っていた。
前髪さえも長くして、なぜか顔を覆っているため、その容貌は判然としなかったが、赤い着物を着て、山吹色の帯を蝶々結びにしていることから、少女だと悠子は判断した。
座敷牢の奥には、外へと続く階段があった。
そこへ足音を響かせ、一人の男が現れた。髭を生やした五十代ほどの男で、手には麦飯とたくあん、紅鮭ののった盆を持っている。
男は、座敷牢の前まで来ると、木でつくられた格子の間から、麦飯を盛った茶碗、たくあんののった小皿、紅鮭ののった平皿、木の箸、黒塗りの盆を置いた。
「今日の朝飯だ。食い終わったら置いとけ」
そう言って、立ち去ろうとする男に少女が声をかけた。
「ねぇ、あたしはいつまでここにいればいいの?」
きりっとした声音は、悠子に少女の聡明さを感じさせた。
男は面倒臭そうに振り返ると、少女に言った。
「さあな。おれはお前の面倒を見るように言われただけだ」
話はもう終わりだというように、男は少女に背を向けると、階段を上っていった。
少女は弾けるように立ち上がり、格子を掴んで叫んだ。
「待ってよ!ねぇ、ここから出して!出してよぉっ!」
少女の悲痛な叫びが、座敷牢に響き渡った。けれど、それに答える者は誰もいなかった。
悠子が、再び視線を座敷牢に向けると、少女は、十七、八歳くらいの女性に成長していた。しかし、前髪は長く伸ばしたままで、その顔はやはりよくわからなかった。
木の軋む音を響かせ、誰かが階段を降りてくる。
現れたのは、一人の青年だった。切れ長の瞳に、涼やかな面差し。手には、食事ののった盆を持っている。
「耕平!」
青年が座敷牢の前までくると、女性は立ち上がり、青年の前に駆け寄った。
「待たせたな。食事と、あと、これ持ってきた」
青年は、着物の懐から一冊の文庫本を取り出した。元は白かったのだろうが、何年も読んでいたためにすでに黄ばんだその表紙には、『青の薔薇』と書かれていた。
「ありがとう!」
女性は嬉しそうな声を上げると、本を受け取った。
「それにしても、りんは本当に本が好きだな」
耕平は、粟と稗の盛られた茶碗を格子の間から女性―りんに手渡す。
それを受け取りながら、りんは嬉々とした声で言った。
「えぇ、好きよ。だって、私が見た事や聞いたことのない世界を知ることができるんだもの」
「うらやましいな。おれなんか目次を見ただけで、根をあげちまう」
肩をすくめる耕平に、りんは呆れたような声を上げた。
「もう、貿易で名を上げて、世界中を旅したいっていう人がなに言ってるのよ。それじゃ、いつまでたっても、恭平さんの後をついて回るだけよ」
「なっ、兄貴のことは言うなよ・・・」
兄の名を出され、耕平がこう垂れた。
「なぁ、お前、外に一度も出たことがないのか?」
空になった食器や盆を畳の上に置き、あぐらをかいた耕平は、りんに尋ねた。
「そうよ。六歳の時に入れられて以来、ずっとね」
「六歳か・・・。寂しくなかったのか?」
「そりゃあ、寂しかったわよ。誰にも会えなくて、いつここから出られるかもわからなくて、わんわん泣いたわ」
「抜け出そうとは思わなかったのか?」
「・・・思わなかったわね。いつか、母様が許してくれるってそれだけを願ってた」
「許してくれる?どういうことだ?」
「これよ」
りんは、長い前髪を右手でかき上げた。隠れていたりんの顔が露わになる。
細い眉、すっと伸びた鼻筋、整った唇。およそ、美人と言われるような顔立ちだったが、それは半分だけだった。
後の半分は、目が大きなこぶで隠れ、鼻は潰れ、唇は太く分厚い。まるで、別人の顔が張り付いているようだった。
「っ!!」
息を呑み、目を見開く耕平。そんな耕平の様子に、りんは苦笑する。
「あなたにこの顔を見せるのは初めてだったわね。別に気持ち悪いって言っていいのよ。私も鏡を見るたびに、そう思うから。自分でこの顔の半分を潰してしまいたいくらい」
りんは、こぶのある右顔を隠すように、上げていた前髪を下ろす。
「・・・・・」
「これが、私がここに入れられた理由。生まれた時からそうだったみたい。母様はこんな顔をしたわたしを恐れて、ここに入れたの」
「・・・・・」
「耕平?」
何も言わない耕平に不安を感じ、りんは名を呼ぶ。りんに呼ばれ、耕平は、我に返ったようにはっとした。
「あ、あぁ。だいじょうぶ。だいじょうぶだ。ちょっとびっくりしただけだ」
落ち着かせるように息を吐く耕平を、りんは、前髪を上げた左の目で寂しそうに見た。
「耕平。もうここには来なくていいわよ」
「え?」
怪訝そうな顔をする耕平に、りんは左端の唇を上げる。
「こんな女の食事係なんて嫌でしょ?お福さんに言えば、代わってもらえると思うから」
りんが自分の顔を晒したのは、耕平ならこんな自分でも受け入れてくれると思ったからだ。
結果、言葉も出ないほどに驚かせてしまったが。
仕方がない。
母にも父にも見捨てられ、話だけ聞いた妹にも会うこともない。会う人間といえば、身の回りの世話をするお福と、食事を持っきてくれる耕平だけだった。
一か月前、前の食事係だった源次が病で里に帰ってしまい、あてがわれたのが、奉公人の耕平だった。兄の恭平は、頭の良さを買われ、次代の番頭として、日々精進している。
耕平は、薄気味悪い座敷牢にいる自分のことを怖がるどころか、話し相手として接してきた。話の内容は、主に兄についての愚痴だったが、それを聞きながら、耕平を慰めたり、時に叱咤したりしているうちに、警戒していたりんも打ち解け、商家の娘と奉公人という関係ではなく、友として話をするようになった。
やがて、りんは思った。
耕平なら、恐ろしい顔をした自分を受け入れてくれるかもしれない。
だが、結果、耕平を驚かせるだけとなった。
仕方ない、当然だろうと思いながら、それでも、りんの心は沈んだ。
「・・・・いや、やるよ」
「え」
しかし、思いもよらない耕平の言葉に、りんは左目を見開いた。
断ると思っていたのに、なぜ。
困惑するりんをよそに、耕平は、まっすぐにりんを見た。
「確かにびっくりしたが、別に噛みつかれるわけじゃない。最初からその顔を見せられていたらどうだったがわからないが、おれは、お前がどんな人間が知ってる。頭がよくて、口が回る、寂しがり屋だ」
きっぱりと言い切る耕平に、りんは、胸の奥が温かいもので満たされていくのを感じた。
嬉しかった。顔ではなく、性格を見て、りんをりんだと受け入れてくれた。
「・・・ありがとう」
左目を潤ませながら、りんは微笑んだ。
その時、突如、物々しい足音が座敷牢の中に響き渡った。りんは、階段の方へ視線を向け、耕平も立ち上がって、そちらを見やる。
階段から降りてきたのは、手に鍬や鋤を持ち、怒りの表情を浮かべた五人の男達だった。
「こいつだ!この娘だ!」
枯草色の着物を着た男がりんを指さす。すると、二、三人の男達が立ちつくす耕平を突き飛ばし、各々手に持った鍬や鋤を振り上げ、木の格子に叩きつけた。りんは驚き、背後の壁に後ずさる。
「何するんだよ!」
「うるさい!」
その手を止めようと一人の男の腕を掴んだ耕平だが、その男に、足で思い切り突き飛ばされ、しりもちをついた。
「耕平!」
りんは、声を上げた。
鍬や鋤を振り上げる手は止まらず、しばらくすると、格子にヒビが入り、やがて、粉々に砕け散った。
枯草色の着物を着た男が、壁に背を預けていたりんの腕を掴んだ。
「来い!」
強い口調で言い放つと、男は尻込みするりんを無理やり引きずり出し、座敷牢から出た。
階段を上りながら、りんはわけがわからなかった。
「りんを連れて、どうしようってんだ!」
耕平の怒りを孕んだ声が、背中から聞こえてくる。後ろについた男達に言っているのだろう。
耕平がそばにいることに、ほんの少し安堵する。
階段を上りきると、そこは、広い客間だった。何も活けられていないほっそりとした白の花瓶と、豊玉毘売命と書かれ、女神の姿が描かれた掛け軸がかけられているだけの簡素なものだった。
客間の障子は、全て開け放たれており、暖かな日の光が客間に差し込んでいる。
雀のさえずりが聞こえ、庭に植えられた木々の匂いがりんの鼻をくすぐった。
りんにとって、実に十一年ぶりの外だった。
男に腕を引かれながら、客間を出て、廊下を渡り、玄関を出る。
裸足のまま、外へ出されたりんは、思わず顔をしかめた。
暗がりに近い座敷牢にいたりんの目に、太陽の光が針のように刺さったからだ。
歩きながら、何度も目を瞬かせる。
慣れてきた視界の先には、日の光を浴びた砂浜と海があった。
寄せては返す波の音が聞こえ、独特の塩辛い匂いが鼻につく。
初めて見る海に、りんは大きく目を見開いた。
―もっとよく見たい。
そんな思いが募ったが、男は海に見向きもせず、強い力でりんを引っ張り、砂浜の上を歩き出した。
砂浜を歩くたびに、きゅっきゅっと砂を擦る音がする。さらさらとした砂の感触が楽しい。
男達は何者なのか。なんのために自分を外に出したのか。男たちの硬い表情が意味するものは。
疑問は尽きなかったが、初めて見る海と、体感する砂浜に、りんの心は浮き足だっていた。
しばらく砂浜を歩いていると、岩の洞窟が見えた。
男は、りんを連れ、中に入っていく。りんの後ろにいる男達もつづく。
洞窟には、松明を持った多くの人々がいた。
そこには、りんの家族もいた。両親は、年はとっていたが、十一年前の面影がある。彼らの隣には、自分より年下の少女が寄り添っていた。おそらく、妹だろう。
三人の表情は強張り、何かを恐れているような表情をしていた。
男は、りんから手を離した。直後、りんの周りを、松明を持った人々が取り囲む。皆、表情は硬く、何かにすがるような目をしていた。
「これより、儀式を始める!」
りんを連れてきた枯草色の着物を着た男が叫んだ。
すると、りんは、一人の男にいきなり腕を掴まれ、無理やり膝をつかされた。
訳が分からず、困惑しながら顔を上げると、枯草色の着物を着た男が冴え冴えとした瞳でりんを見下ろしていた。
「喜べ、高里りん。お前は豊玉毘売命、海神様の側仕えとなるのだ。海神様のお側で、世話をし、喜ばせよ。そして、我らをこの大干ばつと不漁から救いたまえ」
男が言うやいなや、黒の着物を纏い、ぎらりと光る刀を持った筋肉質の男がりんの前に現れた。
そして、りんの頭の上で、刀を振り上げる。
「ちょっと待てよ!」
突き抜けるような耕平の叫びが、洞窟に木霊した。耕平は、刀を振り上げようとする男から、りんをかばうように両腕を広げ、前に出た。
「一体、なんなんだよ、これは!」
憤慨する耕平を、紺色の着物を着た中年の男が冷静に返す
「耕平、どきなさい。これは、私たちが生きるために必要な事なのだ」
「りんを殺すことがか!あんた達がやろうとしていることは、数百年前の人間がすることと同じだ。一人の人間に全部救ってもらおうってな!そんな前時代的なことして、本当にみんなが救われるとでも思ってんのか!やってることは殺人だぞ!番頭!」
中年の男―番頭を、耕平は睨みつける。番頭は、呆れたような冷めた眼差しを向け、耕平に近づいた。
「全く、普段は馬鹿なのに、こういう時は口が回るな。お前を東京に行かせるのではなかった。余計な知恵をもちおって」
苦々しげに吐き捨てる番頭に、耕平は、ふんと鼻を鳴らした。
「ところで、金魚のフンみたいにいつもくっついているうちの馬鹿兄貴はどうした?あの頭の固い、百科事典が歩いているみたいな奴なら、こんなこと絶対に許さないぞ」
「恭平か・・・。あの子なら、遠出をしてもらっているよ。お前と違って優秀だからな」
「そりゃ、よかった」
耕平は皮肉気に笑った。そして、次の瞬間、りんの腕を掴んだ男に体当たりをして突き飛ばすと、彼女の手を取り、耕平は走り出した。
「逃がすな!」
番頭が声を上げ、周りの人々がざわめく中を、りんと耕平は外へ向かって走った。
「ひゃっ!」
足首を誰かに掴まれ、りんは顎から岩の床に叩きつけられた。
「りん!」
顔を上げたりんの目に、耕平の顔が見えた。
だが、追いかけてきた人の手が覆いかぶさり、すぐに見えなくなった。繋いでいた手もいつの間にか離れていた。
「耕平っ!」
りんは叫び、押さえつけている人々の手を振り払おうともがくが、びくともしなかった。
耕平の姿は、囲んだ人々の体が壁になり、見えない。そこへ番頭が現れた。
人の壁が割れ、中に入っていく。りんは、その様子をただ黙ってみていることしかできなかった。
押さえつけられた耕平の前に、番頭が現れる。そして、膝を折ると、しゃがみこんだ。
「なぜ、あの娘を助けようとする?惚れたか?」
小石で口元を切った耕平が顔を上げる。唇を引き結び、答えなかった。
番頭は、やれやれと肩をすくめ、耕平の耳元に顔を近づけた。
「あの顔では嫁にもいけまい。ただ飯を食らっているだけだ。亀代の汚点のようなあの娘が、これで役に立つなら本望だろう」
番頭の言葉に耕平は目をむき、憎々しげに睨みつけた。
「あんた、始めからそのつもりだったな!みんなまで騙しやがって!地獄に落ちろ!!」
番頭は、ふっと鼻で笑い、立ち上がった。そして、取り囲む村人達に告げた。
「この男が、儀式を邪魔しようとした。我々の村を滅ぼそうとする大悪党だ。―殺せ」
その言葉が放たれた刹那、村人の生気のない瞳は、一気にぎらぎらとした狂気のものに変わった。
ばきっ。めきっ。ぼきっ。
何かが叩きつけられる音が洞窟内に響く。心臓が止まりそうになりながら、りんはその音を聞いていた。
やがて、人の壁が割れた。
どさり。
音をたてて、誰かがりんの前に倒れ込む。それは、耕平だった。
頭から血を流し、目を閉じている。血の気はなく、青白かった。
「っ!!耕平!」
悲鳴に似た声を上げ、りんは耕平を呼んだ。けれど、耕平はぴくりとも動かない。
りんは、顔を青ざめさせ、体を震わせた。
「こうへい・・・?」
信じられない。信じたくない。
「さぁ、これで邪魔者はいなくなった。続きを始めよう」
倒れた耕平を一瞥し、番頭はさらりと言い放つと、隣にいた刀を持つ男に目配せをした。
男は、押さえつけられているりんの前まで来ると、刀を振り上げる。傍観している人間が持っている松明の炎に照らされ、刃がぎらりと光る。
しかし、りんの目には、耕平しか入っていなかった。
どうして、耕平が死ななければいけないの。
どうして、私が死ななければいけないの。
どうして、簡単に人を殺せるの。
耕平と出会い、会話をした記憶が次々と溢れだす。思い出す耕平の顔は、笑みを浮かべたものが多かった。
――ゆるせない。
耕平を殺した彼らを。耕平の未来を奪った彼らを。そして、今、自分の命を絶とうとしている彼らを。
ザシュッ。
刀が振り下ろされ、りんの首が落とされた。
血が溢れ、首が転がる。首を失ったりんの体は岩場に横たわり、そこを赤く染めた。
やがて、その体からゆらりと影が立ち上った。
それは、形をなし、りんの姿となった。
――ユルサナイ、ユルサナイ――
りんの髪が河のごとく長く伸びる。それは、生き物のように蠢き、次々と村人を締め上げ、殺した。
悲鳴が上がり、次々と倒れていく人々のなかを悠子は駆けた。
りんの魂の前まで来ると、悠子は叫ぶ。
「りんさん、やめてください!」
次の瞬間、りんの髪が悠子を襲った。だが、それは、達騎の投げた風雲時雨によって弾かれた。
風雲時雨は、くるくると旋回すると達騎の手に戻る。
「無駄だ、鈴原。あいつは、もう戻れない。おそらく、あいつがお前を乗っ取った霊達の大本だろう。お前の髪があんな風に長く伸びて、俺達を襲ったからな」
「・・・・・」
達騎の言葉を聞きながら、悠子は、髪を振り乱し、最後に残った番頭を締め上げ、息の根を止めるりんを見た。
―ユルサナイ、ユルサナイ、ユルサナイ
充血した左の目を大きく見開き、りんの体がゆらゆらと揺れる。洞窟の中は、死体と血の臭いで溢れていた。
りんの村人に対する憎しみと恨みが、悠子の体に突き刺さる。
悠子にもわかった。以前の、頭が良くて優しい彼女にはもう戻れないということを。
高天原には送れないということも。けれど。それでも。
「草壁くん、少しだけ時間をちょうだい」
すると、達騎の目が鋭くなった。
「お前、あれを見ても送れると思ってるのか?」
「無理なのは、わかってる。ただ、少しだけ言葉をかけたいの。このままじゃ、彼女は生まれ変われない。魂が消えるまで恨み続ける。説得はできなくても、彼女が自分の中にある恨みや憎しみを認めて、根で自分のやったことに気付いてほしい」
根之堅洲国。通称、根は、悪霊―荒御魂―が送られる場所だ。
己の罪を認めて、心を入れ替えない限り、生まれ変わることはできない。だが、高天原のように、すぐに人や妖になれるわけではなく、植物、虫、動物、人または妖の順に生まれ変わる。罪を認めて、心を入れ替えなければ、生まれ変わることはできず、魂が摩耗し、消滅するまで根で活き続けるのだ。
利用されたりんが、生まれ変わることができないなど、それはあんまりだった。
悠子は祈るように、じっと達騎を見る。達騎は、小さく息を吐いた。
「・・・わかった」
「ありがとう」
胸をなでおろし、悠子は言った。
「白蓮!」
悠子は、蓮の花の形をした盾を出現させ、りんに向かって走り出す。その後ろを、風雲時雨を構えた達騎が追走した。
左右に襲い掛かってくるりんの髪を白連で防ぎながら、悠子はりんの目の前まで来た。
りんが身構え、その長い髪が背中に向かってくるのを、悠子は風圧で感じていた。
だが、それに構わず、悠子は白蓮を解き、りんに抱き着いた。
体を震わせ、りんの体が強張る。悠子は、再度りんを抱きしめ、顔を上げると、その顔を逸らさずにじっと見つめた。
「耕平さんを助けられなくてごめんなさい。あなたを助けられなくてごめんなさい」
「・・・・・」
「理不尽に命を奪われる苦しさや痛みは、私には想像することしかできない。でも、あなたがこの人たちを殺さなければならないほど、辛かったのはわかるわ。・・・でも、もういいの。もう終わったのよ」
「・・・おわりですって?」
りんの唇が動き、はっきりと言葉を紡いだ。
「・・・まだ、おわってないわ。まだ、生き残っている。まだ、生きている・・・!!」
「りんさん!」
りんの瞳は、怒りと狂気に染まり、洞窟の外へ視線を向けた。
外にいる村人や遠出をしている恭平を殺そうとしているのだ。悠子は、それを止めようと叫ぶ。
「お願い、りんさん!やめて!これ以上、罪を増やさないで!そんな事、誰も望んでない!」
悠子の言葉に耳を貸すことなく、りんが身を翻そうとしたその時、黒い槍がりんの体を貫いた。
「あ・・・」
りんの目が驚きで見開かれ、悠子は悔しげに唇を噛んだ。
達騎は槍―風雲時雨を引き抜き、自身の手に収める。貫かれたりんの体には、血は一滴も流れていなかった。りんは不思議そうな顔をしていたが、しばらくして、りんの体は、足元から岩場にずぶずぶと沈んでいく。
りんの顔が、狂気ではなく、恐怖で青ざめた。もがくように手が空を舞う。
沈んでいくりんの手を、悠子は掴んだ。
「大丈夫。安心して。怖がらなくていいの。あなたは根に行くだけ。全ての命が生まれる場所に還るだけ。姿が変わっても、きっと、また、あなたの大好きな人に巡り合える。その準備をする場所なの。だから、だいじょうぶ。だいじょうぶ」
りんの手を擦り続け、悠子はひらすら、だいじょうぶと囁いた。りんを安心させるためでもあったが、悠子は、自分に言い聞かせているようにも感じていた。
りんが生まれ変われることを信じたいという、その思いが「だいじょうぶ」という言葉に現れているのかもしれない。
悠子の言葉に安心したのか、りんの顔は血の気が戻り、口元がほんの少し綻ぶ。
やがて、りんの魂は、岩場に完全に沈み、その姿は見えなくなった。
りんは、根に還ったのだ。
死体と血の臭いが溢れる洞窟内には、悠子と達騎だけが残った。
悠子は顔を上げる。
洞窟の奥に、香世の時にも見た祠があった。
目も口もなく、下半身が異様に丸みを帯びた土の像は、この惨劇の中に、ただ静かに佇んでいた。




