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第二十三幕 記憶の中 ~美春~

「すまない。美春みはる。こうするしか方法がないんだ」

何年もの歳月が流れたかのように枯れ果て、憔悴し切った顔で、父―賢蔵は、呟いた。

その声は擦れ、村長として村人をまとめてきた覇気はない。

 仕方がないのだ。この三年、どんなに手を尽くしても魚が捕れず、皆、餓死寸前の暮らしを強いられているのだから。

「気にやまないで、父さん。私の命でみんなが救えるのなら、喜んでやるわ」

亡くなった母―鈴乃の晴れ着を身にまとい、美春は微笑んだ。

 その瞬間、賢蔵は顔をくしゃくしゃにし、涙を溢れさせた。立っていられなくなったのか、美春の足元にひれ伏し、嗚咽を漏らす。

 「すまないっ!すまないっ!美春!本当に、すまないっ!」

体を震わせ、号泣する賢蔵の背中を、美春は優しく撫でた。


 寄せては返す波の音が洞窟に響いていた。

賢蔵と、元村長で、美春の祖父である新吉が持つ松明の明かりが、岩場の間から覗く黒々とした海を映し出していた。

 海水が引き込まれているこの洞窟には、海の神を祀る祠があった。

ぱちぱちと爆ぜ、蜜柑色に染まる松明の明かりが、土を捏ねて焼いた像を照らし出す。

 その像には、目も口もなかった。人の形には見えたが、下半身が異様に丸みを帯びて作られていた。


「美春、準備はいいか」

賢蔵が言った。

「はい」

美春は頷く。

「お前に幸あらんことを。海神様と仲ような」

新吉が唇を震わせ、祝福の言葉を投げた。

「ありがとうございます。私、幸せになります」

美春は頷き、岩場の淵に立った。海水の匂いがぐっと強くなる。

背筋を正し、美春は、暗い海を見つめた。海風が吹き、結いあげた美春の襟足を撫でていく。

 (私はこれから海神様と暮らすのだ)

その意味が言葉通りでないことは、自分が一番よくわかっていた。けれど、そう思い込まなければ、足が竦み、動けなくなる。

 美春は大きく息を吸い、足袋を履き、草履を履いた足を、一歩踏み出した。

「美春っ!!」

その時、一番聞きたくない声が、荒い足音とともに、美春の耳を打った。

(振り向いちゃだめ。だめよ!)

着物の袂を掴み、唇を噛み締め、美春は振り向きたくなるのを必死でこらえた。

「行くな、美春!お前が行く必要なんてない!」

豊助ほうすけ!村人全員で決めたことだ!諦めなさい!」

「嫌だ!どうして美春が犠牲にならなきゃならない!村長、あんただってこんなこと望んでないはずだ!魚が捕れないなら、村ごと引越せばいい!こんな事は間違ってる!!ぐっ!!」

豊助のうめき声が聞こえたのと同時に、どかっという鈍い音が聞こえた。

思わず、美春は振り返る。

 そこには、火の消えた松明を握りしめる新吉と、うつ伏せに倒れた豊助の姿があった。

名を呼びそうになった美春は、唾を飲み込み、必死に耐えた。

「まったく、しょうもない小僧じゃ」

荒く息をつき、豊助を見やった新吉は、顔を上げ、美春を真っ直ぐに見つめた。

「美春。お前さんの気持ちがどうあれ、覆すことはできぬ。どうか耐えてくれ」

「・・・わかっています」

小さく呟き、美春は豊助に視線を映した。

 子供の頃から一緒に遊んでいた幼馴染。気は短いが、曲がったことが大嫌いな真っ直ぐな性分だった。村長の娘である自分にも動ずることなく、他の子同様に接してくれる豊助は、美春にとって、いつしか特別な存在になっていた。

「ありがとう・・・」

止めに来てくれて。助けにきてくれて。

「本当に、ありがとう」

右の瞳から、一筋の涙が零れ落ちる。美春は、拳で涙を拭い、踵を返す。

 今度は振り返らなかった。


 足首が海水に着く。それは冷たく、針のように刺し、美春の動きを鈍らせた。

美春は、眉を顰めながら、ザブザブと音をたてて、海の中に入っていく。

やがて、足もつかないほどの深さになり、美春は勢いよく海中に沈んだ。

(くるしいっ)

あまりの苦しさに、本能的に上に上がろうと手足をばたつかせる。しかし、寸でのところで美春は思いとどまった。手足を動かすのをやめ、海流に身を任せる。

 簪が外れ、長い髪が海藻のように海に広がった。

だが、苦しさは変わらない。美春は、袂を皺ができるほど強く掴み、耐える。

それに耐えるうちに、美春の心は、村の皆を助けるという献身な思いが粉々に砕け散るのを感じていた。残ったのは、後悔と怒り、そして、助けを望む気持ちだった。


(くるしいっ。どうしてわたしが。こんなおもいをしなければいけないの)


いつしか、美春の頭のなかは、誰かに助けを求める声で一杯になった。


たすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけて


たすけて


意識が遠のき、目の前が暗くなった瞬間、美春は、誰かに上へひっぱりあげられているような感覚を感じた。

 水音とともに、海面に上がり、美春の鼻に空気が入る。

「っ、げほっ!ごほっ!」

だが、海水も一緒に吸い込んだのか、思い切りむせた。

「大丈夫!?」

背中を優しく撫でられ、顔を向ければ、見たこともない娘が美春を海中で支えていた。

丸みを帯びた顔に短い鼻。太い眉。美しい容姿というわけではなかったが、どこか安心させる顔立ちをしていた。

「あの、大丈夫?ごめんね、いきなり引っ張ったりして」

「い、いえ」

落ち着いた、穏やかで優しい声が、見も知らぬ娘に対する美春の警戒心を、幾分和らげさせた。

 それに何より、このは、自分を助けてくれた。

「砂浜まで行こう」

娘に腕を引かれ、美春は、言われるがまま砂浜へ向かって泳ぎ始める。なんとなく、振り向けば、美春がいた洞窟が月明かりに照らされ、置物のように鎮座していた。


 砂浜に辿り着いた美春は、荒く息をつきながら、勢いよく腰を下ろした。

着物が海水を吸って重く張り付き、うまく動けない。草履は、いつの間にか脱げてしまっていた。

「気分はどう?苦しいところはない?」

娘は美春と向かい合い、膝を折る。その娘の姿は、美春が見たこともないものだった。

 草履も履いておらず、長い髪を結うこともなく、背中に流している。

「あなたは・・・」

礼を言うことも忘れ、美春は娘をじっと見つめる。その時だった。

「鈴原っ!!」

怒声にも似た声音が、美春の背中を叩き、美春は思わず振り返った。

 そこにいたのは、豊助と同じ年の頃の青年だった。

形の整った鼻を冬でもないのに赤く染め、そばかすが頬の辺りで散らばっている。

服装も、娘と同じように、美春には見たこともないものだった。

青年は、切れ長の瞳を怒りで滲ませ、娘―鈴原に叫んだ。

「いきなり飛び込むやつがあるか!記憶の中とはいえ、危険な事に変わりはないんだぞ!」

「ごっ、ごめんね。草壁くん。彼女の氣が弱くなったから、あぶないと思って。思わず・・・」

申し訳なさそうな顔をする鈴原に、草壁と呼ばれた青年は、深々とため息をついた。そして、据わった目を鈴原に向けた。

「次、飛び出そうとしたら、問答無用で止めるからな」

「え」

「え、じゃねえよ!ここで怪我でもしてみろ!魂が傷つくことがどういうことか、お前はわかってねえ!助けに入る時は、俺が術を使ってやるからな」

「・・・・」

「返事は!?」

「はっ、はい!」

背筋をぴんと伸ばし、鈴原は、勢いよく返事を返す。

 そんな二人を見つめながら、美春は困惑を隠せなかった。


この二人は一体何者なのだろう。

「あの・・・」

美春が声をかけると、二人は一斉に美春を見た。

「あなた達はいったい・・・」

すると、鈴原は真剣な目を美春に向け、言った。

「私は鈴原悠子。鈿女うずめの巫子です。あなたの名前は?」

「美春よ」

名を告げると、悠子は一瞬だけ唇を引き結ぶ。そして、張りつめた表情を浮かべながら口を開いた。

「美春さん、私はあなたを送りにきました」

「・・・え?」

鈿女うずめの巫子は美春も知っていた。人間を悪霊や危害を加える妖から守ってくれる人々の事だ。

だが、「送りにきた」とはどういう意味だろう。

美春が頭に疑問符を浮かべていると、悠子は続けた。

「ここは、あなたの記憶の中です。あなたは、もうこの世にはいません。けれど、あなたはそれに気付かず、自分が死ぬ日をずっと繰り返しているんです」

悠子の言葉が頭に浸透し、理解するまで時間がかかった。

「なに、それ・・・」

しかし、意味は分かっても、納得することなどできなかった。

「嘘よ!信じられないわ!」

美春はきっと悠子を睨んだ。

「私はここにいるもの!たちの悪い冗談はやめてちょうだい!」

押し黙る悠子に、美春は言った。

「助けてくれたことにはお礼を言うわ。ありがとう。でも、いくら巫子だからって言っていいことと悪いことがあるわ」

鼻息も荒く、美春は立ち上がり、岩場から砂浜へ降りる。着物が体に貼りついて不快なことこの上なかったが、今は生きていることが大切だ。

「どこに行くんだ?」

背中越しに、草壁の声がした。

「ここを離れるの。人身御供として死んだはずの私が村に帰ることなんてできないわ」

そう言って、美春は歩き出す。

「その先には何もないぞ」

まるで、分かっているかのように草壁が告げる。

 どうせ嘘だろう。そう思った美春は、構わず歩き続けた。

しばらくして、砂浜が途切れ、砂利道が現れる。だが、続いているはずの道は、途中で裁断されたかのように途切れ、途切れた先は、見たことのない黒い壁が立ちはだかっていた。

「なんで・・・」

茫然とする美春の耳に、草壁の声が届いた。

「鈴原も言っていただろう。ここは、あんたの記憶の中だ。あんたがその先に行ったことがないなら、そこには何もない」

「・・・・・」

信じられなかった。けれど、途切れた道と見たことのない壁の存在が、いやがおうにも美春に事実を突きつける。

「美春さん・・・」

悠子が案じるような声で、美春を呼ぶ。美春は、勢いよく振り向き、悠子をすがるように見た。

「私は本当に死んだの?」

嘘だといってほしい。笑って否定してほしい。

「・・・・はい」

悠子は、表情を曇らせながら、それでもはっきりと告げた。


「・・・・ふ、ふふ」

思わず、唇から笑いが零れる。

「ふふふ、あはははっ、はははっ」

なぜ、自分が笑っているのか美春にもわからなかった。悲しいの嬉しいのか、それさえもわからず、美春はしばらく笑い続けていた。

「・・・それで、私は地獄へ行くのかしら?」

一息ついた美春は、悠子に聞いた。皆を助けたいと思わず、途中から助かりたいと願った自分が浄土になど行けないだろう。

 しかし、悠子は首を振った。

「いいえ、あなたが行くのは高天原たかまがはらです」

「高天原?」

「亡くなった人が、再び人として生まれ変わるための準備をするところです」

「そうなの・・・」

浄土と似たようなものだろうか。

地獄ではないことにほっとしながら、美春は思う。

 自分も望んだこととはいえ、あまりの苦しさに、村の皆を恨みそうになった。だが、それでも、村のその後は気になった。

 皆は、父や祖父、豊助はどうなったのだろう。豊漁になって、生きるか死ぬかの生活から脱げ出せただろうか。

 そうでなければ、自分は一体何のために死んだのだろう。


「みんな、元気かしら。ご飯もちゃんと食べているかしら」

「・・・大丈夫です。みんな、元気ですよ。あなたのおかげで、生活も楽になって、幸せに暮らしています」

悠子が、微笑みながら言った。

「そう。よかった・・・」

力強く言い放つ悠子に、美春は安心して笑った。



「では、送ります」

悠子は、美春と向かい合うと、根付けの鈴がついた扇子を頭に思い浮かべた。

やがて、右の手に扇子の感触が感じられた。

扇を広げ、小さく足を踏み、悠子は、鈴を揺らし始めた。

トンッ、シャン、トンッ、シャン。

交互に足と手を動かしながら、リズミカルに舞う。

そして、息を吸い、謡いはじめた。


『目覚めよ、天之常立あめのとこたち。天つ風を吹かせ、和御魂にぎみたまの導きとなせ。我が言霊を楔とし、岩天戸いわのあまとを開きたまえ』


謡い終えた直後、足元から涼やかな風が吹き上がる。その風は、美春の体を上へ上へと押し上げた。

 強張った表情を浮かべる美春に、悠子は優しく言った。

「怖がらないで。大丈夫。そのまま身を任せていれば、高天原に着くから」

美春は頷く。

「・・・色々と、ありがとう」

美春が礼を言う。 

「・・・いいえ」

悠子は、緩く首を振った。

助けることはできた。しかし、美春の皆を案じる言葉に対して、嘘とも本当ともいえない言葉を言ったことに、悠子は心苦しさを感じていた。

けれど、全ては、美春を安心して送り出すためだった。

そして、悠子自身も信じたかった。村の人々が幸せになったことを。

そうでなければ、彼女は何のために犠牲になったのか分からない。

悠子は、見送る。消えていった一人の魂を。


美春は風にのり、やがて、夜空の向こうへと消えていった。



「うまくいったな」

美春の姿が見えなくなった後、達騎が呟いた。

「うん」

「暴れるようなら、根に叩き落とすつもりだったが。他の奴らも物分かりがいいといいんだがな」

達騎の手には、小型化した風雲時雨があった。

「最初は、私が話を聞くから。草壁くんは手を出さないでね」

達騎の様子から、問答無用で根に送る気配を察し、悠子は釘をさす。

「お前の邪魔はしねぇよ。ただ、危険だと感じたら、即実行するからな。お前の体を取り戻すほうが先だ。乗っ取られたら、信念も何もないんだからな」

「・・・うん、それは、わかってます」

達騎が自分の身を案じてくれるのは分かっていた。

 もし、そうなったら、諦めるしかないのだろう。けれど、そう簡単に諦める気もないが。


「次、行こう」

達騎に声をかけ、悠子は、黒い壁に向かって歩き出す。あの壁の先に、美春と同じように自分を乗っ取った霊がいるのだ。

壁に触れると、手は、まるで水の中に入るかのようにずぶりと入る。

吸い込まれた腕からは、波紋が生まれていた。

手から伝わるのは、胸の奥がじくじくと痛む悲しい氣だった。


悠子は、息を吸い、壁の中へ潜った。


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