第二十二幕 楔
自らの魂を体から抜く「幽離」と呼ばれる術を使い、達騎は、とり憑かれた悠子の意識の中へ入っていく。
内部は、星のない夜空のように暗く、何も見えない。暗闇は、氷のように冷たく、針で刺すような氣で覆われている。
だが、その中に、ロウソクの明かりにも似た一筋の小さな光が現れた。
(あれだ・・・)
あの光から、日だまりのような温かい氣を感じる。悠子だとすぐにわかった。
達騎は、泳ぐように突き進み、光へ向かった。
そこは、霧に覆われたかのような白い空間だった。
達騎は音もなく、そこへ降り立つ。
(ここがあいつの心界か・・・)
心界。
人間や妖がもつ心の中の空間のことを、巫子はそう呼ぶ。夢として現れる人や風景は、この心界だという者もいるが、くわしいことはわかっていない。
ただ、心界は人によって千差万別で、森や川、草原などの風景が現れる者もいれば、赤や黄などの色、ビルなどの建物が現れる者もいる。
そして、心界に何があるかによって、それを宿している者がどんな性格をしているかが分かるのだ。
達騎は、悠子の心界を歩く。だが、いくら歩いても白い空間が広がっているばかりで、何も見えなかった。
その事に、達騎は強烈な違和を感じていた。
荒御魂―悪霊でさえ、巫子の力を使い、傷つけないよう苦心し、言葉で鎮めようとする彼女の心が、何もないというのがひどく腑に落ちなかったのだ。
(・・・俺はあいつを見誤っているのか?)
強い信念を持っていると思っていた。自分とは真逆の、守るために振われるその力。
誰かを守るためなら、自身を犠牲にしてもかまわないという思い。それは、痛々しいくらいで、見ているこちらが辛いと思うこともしばしばだった。 弱音や愚痴を吐けといったのはそのためでもあった。
その信念のために、真っ直ぐ突き進む悠子。迷いさえみせないその様は、この心界の風景を現わしているのか。
その時、歩き続けていた達騎の目に、一本の木が映った。その木の根元は太く根が張り巡らされ、幹は、達騎が腕を回しても余るだろう太さがあった。
しかし、緑の葉で生い茂っているはずの枝はなく、幹の中心は、まるで雷に打たれたかのように二つに裂かれていた。
「ういさんの木。これはういさんの命だった・・・」
いつのまにか、達騎の隣に、五、六歳くらいの幼い少女が立っていた。
丸みを帯びた顔に短い鼻。太い眉。その顔立ちと少女から感じる氣から、少女が悠子だと達騎は気がついた。
「ういさん?」
「梅の木のせいれい。わたしの友達」
その言葉で、達騎は思い出した。
彼女が幼い頃、今と同じようにとり憑かれ、友と母を傷つけたことを。
「私のせいで。私が羽衣さんを殺した」
見かけの年齢にそぐわぬ言葉を発した悠子を、達騎は見る。
そこにいたのは、十八歳の悠子だった。
「私は、青木先生や堯村くん、草壁くんを傷つけた。・・・私がいれば、また誰かを傷つける。私は、ここにいちゃいけないの」
まるで、全ては自分のせいだと言わんばかりの悠子に、達騎は怒りを覚えた。
「自惚れるな。いるだけで傷つける奴なんているか」
「でも」
「でももしかしもねぇ。俺も青木も堯村も怪我ひとつしてねぇんだ。おら、さっさと霊を追っ払って、体、取り戻すぞ」
けれど、悠子は動かなかった。唇を噛みしめ、じっと佇んでいる。痺れを切らした達騎は、思わず怒鳴った。
「こんな所で一生蹲っているつもりか!お前は鈿女の巫子だろう!俺を止めるんだろう!違うか!!」
巫子としての誇りと、自分を止めるという誓い。それは、彼女が立ちあがるのに十分なはずだった。しかし、悠子の瞳に光はなく、強い意志も感じ取れなかった。
「怖いの・・・」
ぽつりと悠子が告げた。
「考えないようにしてきたの。勾玉もあるから大丈夫だって、自分をごまかして、心の中に蓋をしたの。でも、今、この状況になって思った。また、同じ事が起こったら、今度こそ誰かを傷つけて、・・・殺してしまうんじゃないかって」
眉をぎゅっと寄せ、悠子は、今にも泣きだしそうに顔を歪めた。
確かに、勾玉の力よりも強い霊力をもつ荒御魂や、妖力をもつ妖にとり憑かれてしまえば、誰かを傷つける可能性は高い。
誰かを危険にさらすかもしれないという思いを、常に抱えながら生きていく。
それは、今までも同じだったのだろうが、改めて突きつけられたことで、悠子が自分で蓋をしていた不安や恐れが一気に溢れたのだろう。
隣で、肩を震わせる悠子を、達騎は見つめた。その顔に涙は浮かんでいなかったが、その体は今にも崩れ落ちそうなほど頼りなく見えた。
勾玉にも限界があると気づいた今、悠子は、達騎が思っている以上の恐怖と不安を感じているに違いない。
これは、言葉でどうにかなるものじゃない。
達騎は思った。
なら、どうしたらいいだろうか。
達騎は頭を回転させる。
悠子自身も安心でき、なおかつ、ここから立ちあがることができる方法。
「そうか・・・」
達騎は気がついた。ここは、心界だ。なら、やれることはある。
瞳を閉じ、達騎は意識を集中させた。頭の中に風雲時雨を思い描き、現れるように念じる。
やがて、右の手の中に、いつも持っている槍のずっしりとした感触が感じられた。
目を開ければ、濡れたように黒く光る槍、風雲時雨があった。
「鈴原」
顔をこちらに向けた悠子の前に、達騎は、風雲時雨を差し出した。
「これをお前にやる」
「え・・・?」
戸惑うような表情を浮かべ、悠子は達騎を見た。
「これを置いておけば、それが目印になって、俺は心界にくることができる。お前に何かあっても、意識を通じて感じられるし、魂ならすぐに飛んでいけるだろ?」
これは、『楔』と呼ばれる術だ。
相手の心界に、自分の一部となるものを置き、相手の心界に自由に行き来できる。
呪いかけること、相手の精神を壊すこと、また、意識の強さによっては相手の体を乗っ取ることもできる。
だが、裏を返せば、内側から相手の魂を守ることもできるのだ。
「最初は違和感があるだろうが。そうだな。これを強力なセコムだと思えばいい」
茫然とする悠子に、槍を持ち上げ、達騎は何でもないように言った。しかし、内心は焦っていた。
心界に他人の物を置くという、ある意味プライバシーもないこの方法を、悠子が嫌だと否定すれば、達騎にはもう手がない。
だからといって、このまま悠子の魂が心界に留まっていいわけがない。
ハラハラとしながら、けれどその事をおくびにも出さず、達騎は悠子を見つめた。
「どうして、そんなことしてくれるの?」
「ん?」
そのため、悠子の言葉にうまく反応できなかった。
「だって、ここにそれを置いたら、大変になるのは草壁くんだよ?どうして、そこまで・・・」
「なんでって言われてもな・・・」
否定の言葉がでなかったことに、微かに安堵しながら、達騎は考えた。
そして、真っ先に頭に思い浮かんだのは。
「・・・知り合いが人殺しになるなんて目覚めが悪いだろ」
「・・・・・」
悠子が目を見開く。だが、次の瞬間、何とも言えない表情で達騎を見た。
「それ、草壁くんにも言えることだけど」
「俺のことは、今は置いとけ」
悠子の言葉に、達騎は即答で返した。
「ほら」
達騎は、風雲時雨を悠子に渡そうとする。しかし、悠子はそれを受取ろうとしなかった。
「嬉しいけど、でも・・・」
「あぁ?俺じゃ頼りないとでも言うつもりか?」
わざと低い声で言ってみれば、悠子は勢いよく首を振った。
「違うよ!そんなんじゃないよ!その、・・・迷惑じゃない?」
おずおずと言葉を紡ぐ悠子に、達騎は鼻を鳴らした。
「あのな、迷惑だと思ったら、こんな方法とってないぞ?」
「・・・・。うん、ありがとう」
小さく微笑み、悠子は風雲時雨を受け取る。その瞳は、少し涙ぐんでいた。
鼻をすすりながら、悠子は風雲時雨を木の下に横たえた。
「草壁くん、これ」
風雲時雨を横たえた悠子は、振り返り、達騎に向かい合った。彼女の手のひらには、翡翠色の勾玉がつけられたブレスレットがあった。
「私だけじゃフェアじゃないから。受け取って。草壁くんに何かあったら、私が飛んでいくから」
その瞳には、強い光が宿っていた。
(どうにか持ち直したな)
心の内に、ほっと安堵の息を吐きながら、達騎は頷いた。
「わかった。その時は、よろしく頼む」
そう言いい、達騎はブレスレットを手に取った。
達騎がブレスレットを手首にはめたその時、立っている地面が大きく揺れた。
そして、真白の空間に黒い大きなヒビが入った。
「なんだ?」
「私にとり憑いた人たちの思いが、ここを侵食しようとしているの」
ヒビを見やった悠子は、達騎に顔を向けた。
「草壁くん、手伝ってくれる?」
向かい合う悠子は、先ほどの弱弱しさは微塵もなかった。達騎が望み、悠子が誇る鈿女の巫子の姿がそこにあった。




