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第二幕 捕らわれる者、追う者

「うっ・・・」

頬にひんやりとした冷たさを感じ、悠子は瞼をゆっくりと開けた。

途端、強い光が目を刺し、悠子は思わず眉を寄せる。

瞬きをして、目を慣らさせれば、その光はカバーのない裸電球のものだった。無造作にコンクリートの床に転がり、辺りを照らしている。

悠子は顔を上げ、ここがどこなのか探ろうとしたが、激しい虚脱感とだるさに襲われ、顔を動かすことすらできなかった。

深く息を吐けば、両腕と両足が動かないことに気づく。どうやら縛られているようだ。

動かすことすら億劫だったが、満身の力を込めて手足を動かすと、麻のような紐で縛られているらしく、ちくりと痛みが走った。

「・・・ごめんなさい」

その時、微かな呟きが悠子の耳に落ちた。

声が聞こえた方に目を動かす。自分の体の状態を知るだけで精一杯だったが、声の人物は悠子の左肩に手を置いているようだった。

見れば、その人物は、悠子が達騎の部屋の前で出会った少年だった。よく目をこらせば、左手を手錠で拘束されている。それは長い鎖で繋がれ、コンクリートに打ちつけられた金具に嵌めこまれていた。

少年は涙を流しながら、悠子に謝った。

「ごめんなさい。お姉ちゃん」

「・・・どうして謝るの?」

満身の力を振り絞り、悠子は問う。擦れたような声しかでなかったが、少年には聞こえたようだ。

少年はくしゃりと顔を歪ませ、さらに大粒の涙を零した。

「あいつら、お姉ちゃんを動けないようにするからって、ぼくの手、動けないようにしたんだ」

少年は空いた手で涙を拭い、鼻をすすった。

「ぼく、力、うまくあやつれなくて。このままじゃ、ずっと苦しいままなのに。ごめんなさい。ごめんなさい」

少年の言葉に、悠子は、自分が何かに巻き込まれたのだと理解した。そして、少年は「あいつら」という存在に無理やり力を使わせられているということを。

「・・・君、名前は?私は、鈴原悠子」

「ひだるがみの健太」

「ひだる神・・・」

悠子が復唱すると、健太がしまったという顔をする。

「どうしたの?」

健太は口をもぐもぐと動かし、目を泳がせていたが、やがてぽつりと言った。

「・・・人間に言うとびっくりするからって、種族の名前を言っちゃいけないってお父さんが」

おそらく父親の言いつけを破ってしまったことに後ろめたさを感じているのだろう。

悠子は小さく笑みを浮かべた。

「大丈夫、よ。私、は鈿女うずめ巫子みこ、だから。妖のことも、知っているわ。だから、気にしないで」

「ほんと?」

健太は、目を丸くして悠子を見た。

「本当、よ」

悠子が小さく頷くと、健太はほっとしたように息を吐いた。

ひだる神は、手で触れることで、相手に空腹感や疲労感、飢餓感を与える妖怪だ。体の動きを奪うこともでき、相手を死に至らしめる場合もある。その能力は恐ろしいが、直に手を触れなければ効果はない。彼らの能力は種族同士には無効で、子供の頃は能力の制御が上手くできないので、操れることができるようになるまでは手袋をしているという。

性格は温厚で争い事を嫌う。

まだ、幼い彼が一人で現世に来たとは考えにくい。両親と現世に来たのだろうか。

「ここには、お父さんとお母さんと、一緒に、来たの?」

「うん。現世にいるおばあちゃんに会いにきたんだ」

健太は言った。

現世に初めて来た健太は、見るもの聞くもの全てが初めてで刺激的だった。

祖母と共に、花野市に新しくできた遊園地に出かけた。はぐれないように母と手を繋いで歩いていたが、健太はすっかり舞いあがってしまい、いつの間にか手を離していた。

我に返った時には、祖母も両親の姿もなかった。

あちこち歩いて探したが、見つからない。疲れと、不安と心細さで、健太は座り込んでしまった。

その時だった。見知らぬ男が健太に話しかけてきた。

「おい、どうした?」

赤茶色の髪を無造作に伸ばした、目の大きい男だった。遊園地のマークをつけた水色のつなぎの服を着ている。乗り物に乗る時、案内してくれる男性や女性と同じ服だった。

「迷子か?お父さんとお母さんはどうした?」

目線を同じ高さにして優しく聞いてくる男に、健太はついに泣きだしてしまった。

「うっ、ひっく、はぐれちゃった。ひぅ、ぐず、でも、見つからないんだ」

鼻をすすり、言葉を詰まらせながらも健太は答えた。

「そうか。でも偉いぞ。ちゃんと探したんだな」

すると、男が健太の頭を優しく撫でた。健太が驚いて顔を上げると、男は温かな笑みを浮かべていた。

「名前は?」

「・・・・健太」

「健太か。俺は仁だ。よろしくな」

男が頭に置いた手を離し、健太に向かって差し出してきた。

健太は、おずおずと男―仁に手を差し出し、小さく握った。手袋越しに感じた掌の硬い感触に、健太は軽く目を見張る。

握手を終えると、仁は言った。

「よし、健太。園内放送でお父さんとお母さんを呼ぼう。こっちだ」

仁は健太の手を引き、人ごみの中を歩き出した。

レストランや土産物屋などで埋め尽くされた石畳の大通りを抜け、遊園地のキャラクターの石像が立つ噴水の脇を横切っていく。

しばらく歩くと、胡桃色に統一された石造りの建物がずらりと立ち並ぶ場所に来た。そこは、西洋街ヨーロピアンストリートと呼ばれるところで、昔のヨーロッパの貴族や騎士、王族の格好ができる仮装屋や、貴族や騎士などをモチーフにした雑貨が売られた店がある。反対側には、西洋街と同様に亜細亜街アジアンストリートがあり、日本だけでなくアジアの仮装屋や雑貨がある。

「ここでお父さんとお母さんを呼ぶの?」

放送をする場所があるようには見えないので、健太は仁に聞いた。しかし、仁は健太の手を握ったまま答えない。

怖くなった健太は、仁から手を離そうとしたが、唐突に仁が立ち止る。

そこは壁だった。

「見ているんだろう。繋いでくれ」

突然、仁が言葉を発したかと思うと、壁に人ひとり入れるほどの空間がぽっかりと現れた。光すら見えない暗闇が健太の目に映る。

仁はその暗闇に向かって歩き出した。健太は、進むまいと必死で足を踏ん張る。

だが、大人と子供では力の差が有りすぎた。

すぐに健太の足は地面を離れ、仁に引きずられるようにして暗闇へと入っていく。

「離して!離してよ!離せ!」

健太は喚く。

すると、仁が振り向く。その表情は、話しかけてきた時の優しいものではなく、氷のように冷たいものだった。

「暴れるな。ここはお前が思っている以上に広い。手を離したら戻れなくなるぞ」

仁の脅しめいた言葉を聞き、健太は思わず身を縮ませ、口を噤む。

仁は再び歩き出す。

健太もつられるように足を進ませるが、目だけは仁を睨みつけていた。

しばらく歩いていると、前方に光が見えた。光は徐々に大きくなり、健太を包むほどの大きさになった。

眉を寄せ、健太は目を細める。

光に慣れた健太の目に映ったのは、灰色の巨大なコンテナが詰まれた空間だった。裸電球に照らされたそのコンテナの前には、四人の人間がいた。

一人は二十代半ばの若い男だった。日本人には珍しい銀髪で、それが光で反射し、男の周りに鈍い色を放っている。

その後ろには、パイプ椅子に座る白髪の老人がいた。顔には、木の年輪のごとく皺が刻まれ、目じりが下がった穏やかな風貌をしている。こんな場所でなければ、好々爺とも呼べそうだった。

その隣には、山吹色の着物を着た女が立っていた。年は銀髪の男と大差ないように見える。長い黒髪を背中に流している様は、大和撫子といった雰囲気だったが、その額には人間にはあるはずのない目があった。女は三つの目を持っていたのだ。

三つ目の女の隣には、もう一人、三十代と思われる女がいた。きつめの顔立ちに、髪を頭の上で一つに縛っている。動きやすそうなジーンズ姿の女は、腕を組み、仁と健太を見つめていた。

「御苦労だったね。仁」

口を開いたのは、銀髪の若い男だった。すらりとした体型に似合う優雅な所作で、男は仁の元へ歩き出す。一括りにした長い銀髪が歩く度にゆらゆらと揺れていた。

仁の前で足を止めた男は、口元に笑みを浮かべて言った。

「この子で最後だ。よく集めてくれたね。これで君の願いは叶う」

「・・・そうか」

嬉々とした雰囲気を醸し出す男とは反対に、仁は淡々とした口調で返す。しかし、その瞳には強い光が湛えられていた。

「子供を捕まえるのがうまいわね。やっぱり父親だから?」

すると、面白がるような雰囲気を滲ませ、ジーンズ姿の女が仁に近寄る。

「この制服だからだろう」

言葉少なに仁が言い、体を離して歩く健太を引き寄せようとした。

健太は、その一瞬の隙をつき、手袋の滑りを利用して、仁の手から逃げ出し、先ほど通ってきた空間へ飛び込もうとした。しかし、そこには何もなく、コンクリートが剥き出しになった灰色の壁があるだけだった。

「だめよ、ぼうや。逃げたりしちゃ」

はっとして顔を振り仰げば、女が健太の肩を掴んでいた。紫色のマニキュアを塗った爪が健太の肩に食い込む。健太は、とっさに手袋をしていない手で、女の空いた手に触れた。

妖力が女に流れていくのを感じる。

口角を上げ、余裕の表情を浮かべていた女は、次の瞬間、苦しげに眉を寄せ、その場に崩れ落ちた。

朱里あかり!」

三つ目の女が、朱里と呼ばれた女を支える。

「うわっ!」

その時、仁が猫のような俊敏さで健太に近づき、腕を掴み上げた。

健太は思わず声を上げる。

「お前、何をした?」

鋭い眼差しを向ける仁を健太は睨み返す。

はく!朱理が!」

銀髪の男ー珀に、三つ目の女が助けを求めるように視線を向ける。

「大丈夫よ、すず。ちょっと目眩がしただけだから」

こめかみに手を当て、朱理は三つ目の女ー鈴に安心させるように言った。

珀は鈴と朱理を一瞥すると、仁の方へ歩き出した。

「仁、その手袋を見せてくれないか」

そう言って、仁の左手にある健太の手袋を指さす。仁は、健太の腕を掴んだまま振り返った。

「これに何かあるのか?」

仁が訝しげな表情を浮かべながら、手袋を珀に渡す。

「少し確かめたい事があるんだ」

渡された手袋を、珀はおもて面から掌の裏面まで見ると、何かを確かめるように撫でる。

そして、顔を上げると健太を真っ直ぐに見つめた。

「君はひだる神だね」

自分の種族名を当てられ、健太は肩をぴくりと跳ねさせた。

「…なぜ分かる?」

健太を横目で見てから、仁が問う。

珀は手袋を広げ、手の甲にあたる部分をすっと撫で上げる。赤銅色の毛糸で作られたそれは、一見、どこにでもあるものに思えた。

「この堅さ、肌触り。この手袋は饕餮とうてつの毛で作られている。饕餮は妖力を食らう妖魔だ。わざわざ己の妖力を減らすものを身につけている種族など多くはない。ひだる神の場合、子供の時は妖力の制御ができないと聞いている。制御ができるまでは、特殊な手袋で力を抑えているという話だ」

「なるほど。だが、妖でもないのによく知っているな」

納得しながらも、仁は、珀の博識さに疑問を含んだ言葉をかける。

「なに、幻蔵の受け売りさ」

肩をすくめ、珀は、口を開くこともなく静観する老人を見やる。老人―幻蔵は、珀を見て目じりを更に和ませた。

「それにしても、とんでもない子が来たものね」

鈴に支えられながら、警戒した表情を朱理は浮かべる。そんな朱理に対し、珀は口角を上げた。

「そうでもないさ。上手く使えば、ぼくたちの計画を円滑に進めることができる。鈴、綾架アヤカ荘に動きは?」

珀に聞かれ、鈴は額にある目を閉じる。数秒後、その目が開いた。

「・・・今のところ何もないわ」

鈴の言葉に珀は頷いた。

「そうか。では、支龍高校はどうだ?」

「ちょっと待って・・・」

鈴は再び三つ目を閉じる。何かを探すように、開いた両目は空中を見据え、その眼球がせわしなく動いていた。

「あ、あの子がいるわ」

「あの子?」

朱理が問う。

「鈴原悠子って子。校門を出て歩いてる。・・・この方向は綾架荘かしら」

その言葉に珀は目を見開いた。

そして、次の瞬間、目を細め、鈴と朱理、仁に言った。

「鈴、そのまま彼女をつけろ。朱理は空間を開ける準備を。仁、その子が逃げないように捕まえておいてくれ」

「その鈴原って子を捕まえるつもり?あなたの話じゃ巫子なんでしょ?そう簡単に捕まえられるとは思えないけど」

朱理が眉を寄せ、疑念の形相を露わにした。そんな朱理に珀は口元を綻ばせ、健太を手で示した。

「この子を使うのさ。いくら巫子といえど子供相手なら油断するだろう。それに、ひだる神は空腹感や疲労感を相手に与えることができる。相手に触れてしまえば、気絶させるのはたやすい。それは、実感したお前が一番分かるんじゃないか?」

「・・・そうね」

小さく息をつき、納得する朱理。

珀は、仁に腕を捕まえられている健太に近づいた。

「さて、君に手伝ってもらいたいことがあるんだ。君の力を使って、女の子を一人捕まえてほしい」

「い、いやだ!」

口元に笑みを形作っているが、目は笑っていない珀に怯えながらも、健太は首を振る。

「…ふむ、なら仕方ない。仁、少しこの子を借りるよ」

言うやいなや、珀は健太の足を掴み、逆さまにする。

「うわぁっ!」

片手で健太の足を掴みながら、珀は灰色の壁にへばりつくようにしてある階段を上がる。

安定感のないゆらゆらと揺れる体に、健太は恐怖し、目を閉じてぎゅっと体を縮ませた。

階段を上るたびに、カンカンという甲高い音が響く。しばらくして、体の揺れと共にその音も止んだ。

「よっと」

すると、掛け声と共に体がぐわりと持ち上がり、すとんと下へ落とされるような感覚を健太は感じた。

おそるおそる目を開くと、柵を挟んで、珀が健太の足首を持ち、宙吊りにしていた。目を真下に向ければ、埃にまみれた床が遠くに見える。

「ひっ!」

悲鳴を呑みこむ健太に珀が言った。

「おっと、動かないでくれよ。間違って手が滑ってしまうかもしれないからね」

「・・・・」

目線を横に移動すれば、温度のない瞳で健太を見つめる珀の姿があった。

「さぁ、手伝ってくれるね?」

珀が念を押すように言う。その声は穏やかだったが、有無を言わせない迫力があった。

ここで断れば、健太を容赦なく床に落とすだろうことは明白だった。

「・・・わかった」

健太は、小さな声で了承した。

すると、珀はにこりと笑い、健太の足首を手から離した。

悲鳴を上げるひまもなかった。がくりと体が沈み、珀の姿が急速に小さくなる。

目を閉じ、健太は衝撃に備えた。

ぼすっ。

健太が感じたのは、堅い床ではなく、柔らかく温かいものだった。

ぽかりと目を開ければ、仁が健太を抱えていた。

仁は、頭上にいる珀を睨む。

「こいつが必要なんだろう。死なせるつもりか!」

「そんな気はないよ。君が受け止めてくれると分かってやったんだ。それに、その子と一緒に下りてくるよりは、こっちのほうが早いと思ってね」

悪びれた様子もなく、珀は片手をひらひらと振る。そして、ゆっくりと階段を下り始めた。

「全く・・・」

大きく息を吐き、仁は健太を床に下ろす。

震える膝に力を込め、健太は立った。座り込んでしまえば二度と立てないだろうと思ったからだ。

階段を下りた珀は、意気揚々と告げた。

「さぁ、始めよう。鈴、彼女は?」

「草壁みちるの部屋の前にいるわ」

鈴の言葉に満足そうに頷き、珀は朱理に顔を向ける。

「朱理、空間を開け」

朱理が小さく頷き、何もない空中に右手をかざした。その場所に人ひとりが入れるほどの空間が現れる。一片の光も射さない闇が床にかけてぽっかりとあいている様は、ぞっとしないものがあった。

「仁、その子を前へ」

仁に肩を掴まれながら、健太は足を進め、闇の前に立つ。すると、闇しかないと思った空間に光が現れた。空間の向こう側には、制服をきた自分より年上の少女が西日を受けてドアの前に立っていた。その構造に、健太は一瞬、トンネルが頭に思い浮かんだ。

「そうだ。彼女を捕まえた後でいい。これを置いてきてくれないかな」

すると、珀が健太の目の前に一枚の紙を差し出した。誕生日に贈るカードに似たそれは、墨で塗りたくったように黒く、白い文字で文章が書かれていた。

「これを彼女の・・・、そうだな。あの水色の袋に入れてくれればいい」

文章が気になり、読もうとした刹那、珀から言われてしまい、健太は水色の袋を確かめようと顔を上げる。

確かに、その少女の手には水色の紙袋があった。

「できるかい?」

「・・・うん」

カードを持ち、健太は頷く。

「いい子だ。それから・・・」

珀が健太の耳元に顔を寄せる。

「少しでも逃げるそぶりを見せたら、君のご両親の命はないと思いなさい」

その言葉に、健太は弾かれたように珀を見た。

「ぼくには情報をくれる人がたくさんいるからね。君のことはすぐに調べられる。ご両親の命を掛ける覚悟があるなら話は別だけれどね」

いっそ清々しいほどの笑みで珀が笑う。

そんなことができるわけがなかった。健太は俯き、カードを強く握りしめた。

殺されてしまうのではないかという恐怖と、言いなりのままの己が情けなく、健太の目にうっすらと涙が浮かぶ。

「さぁ、行きなさい」

珀が健太を闇の中へ促す。

歯を食いしばり、トレーナーで涙を拭った健太は、一歩足を踏み出した。

闇のトンネルを歩く健太の目に、少女の背中が見える。

同時に、健太の顔にも突風が舞い降りた。健太は腕で風を遮り、空間を抜ける。

そして、少女の腕に手を伸ばした。


首尾よく終えた健太は、気絶した悠子と共にこの部屋へ連れてこられた。悠子の手足を縛り、健太の左手に手錠を嵌め、珀は、己の血で悠子の左肩と健太の右の掌に模様を描いた。

互いの模様を合わせるように、健太の掌を悠子の肩につける。その瞬間、健太の手はぴたりと悠子の肩に吸いつき、離れられなくなった。

こうして、健太はその妖力を常に悠子に与える形になってしまったのだ。


「そう、だったの」

健太の話を聞き、悠子は頷く。

子供が、いや大人が経験しても辛く、苦しい出来事に立ち向かった健太は立派だ。結果がどうあれ、彼は両親を守ったのだ。

「辛かった、でしょう。よく、頑張ったわね。偉い、わ」

途切れさせながら、言葉を紡ぐと、健太から再び涙が溢れ出す。このまま気の済むまで泣かせてあげたいと思ったが、そうできない理由があった。

「落ち、着いて、健太くん。あまり、興奮すると、倒れ、ちゃうわ」

「・・どういうこと?」

鼻をすすりながら、健太が聞く。

「ずっと、力を使っていた、なら、感じている以上に、疲れているはず。倒れても、おかしくない。だがら、あまり泣いたり、怒ったりしないほうが、いいわ」

「わかった。泣かないようにする」

健太は真剣な眼差しで頷く。

「いい子、ね。・・・う、ごめん、ね。少し、休む・・・から」

不意にぐらりと目眩が起き、吐き気が悠子を襲う。

「お姉ちゃん!」

健太の心配そうな声が響くが、悠子はそれに答える余力すらなかった。

歯を食いしばり、吐き気に耐える。

頭の中では、健太が話してくれた首謀者らしい人物とその仲間の情報がぐるぐると回っていた。

相手は四人。首謀者らしい珀と呼ばれる男は、情報通で、子供の健太を脅すなど目的を達成するには手段を選ばない人物のようだ。他に男が二人、妖怪の女性が一人と、能力者の女性が一人という何とも変則的な集団だ。一応、珀の指示に従っているようだが、盲目的というわけでもないらしい。

それから、自分達の施された紋様。

悠子の記憶が正しければ、それは『不動のもん』と呼ばれるものだ。その紋様は、言葉通り、相手を動けなくさせる紋だ。ただ、紋と紋を互いに合わせないと力を発揮しないので、あまり使い勝手はよくない。

紋を描く術を総称して、『紋術』と呼ぶ。鬼討師が初めに学ぶ術であり、本家に封印された密書にある数百種類の紋を頭に叩き込むことで、攻撃と防御の力を得るのだ。巫子でいうところで「言霊」に当たる。

その首謀者は、鬼討師なのだろうか。

それに自分を捕えて、人質にでもするつもりだろうか。しかし、目的が分からない。健太の話では、綾架荘を監視していたようだから、綾架荘の住人を狙っているのだろうか。

考えても分からない。材料が足らなさすぎる。

悠子は、一端頭を切り替えた。

一先ず考えるのはよそう。どうにかして、ここを脱出して警察―保妖課に連絡しなければ。

そう決意した悠子だが、吐き気とだるさが頂点に達し、その意識は再び闇の中に沈んだ。



その頃、達騎は颯の背に乗り、如月を目指していた。

空はすでに夕焼け色に染まり、住宅街も濃い影に覆われていく。

景色が風のように後方へ流れていく様を横目に見ながら、達騎は携帯電話に耳を押しあてていた。

「もう一度、みちるに繋いでいるのか?」

颯が聞いた。それに達騎は首を振る。

「いや、聖川のおっさんだ」

達騎が掛けている相手は、聖川真冶という男だった。真冶は、保妖課ほようか―特殊な部類に入る課で、警視庁ほか、全国の警察署に配置されている―に所属する、花野警察署に勤務する刑事だ。階級は警部。

保妖課は、主に、人間社会に住む妖の保護や犯罪を侵した妖の逮捕を仕事としている。

人では及ばない力を持つ妖を相手にするため、警官も人ではなく、妖が多い。だが、人間もいないわけではない。霊感のある人間が採用されることもある。

真冶は、名前とは真逆の大柄な五十代の男で、濁声が特徴的な人物だ。

西遊記で有名な孫悟空の遠縁に当たり、多くはないが妖力を持つ。多少の事には動じず、懐が深いが、情にもろく、仕事でも感情に左右され、周りが見えなくなってしまうこともある。

刑事としては、もう少し落ち着けと言いたくなるほどだが、達騎は真冶が嫌いではなかった。

数回のコール音の後、想像に違わぬ濁声が達騎の耳を打った。

『おう、達騎か。どうした?』

真冶の声の合間から、数人の男達の声が途切れ途切れに聞こえてくる。仕事中だろうか。だが、こちらも切羽詰まっている。多少大目に見てほしい。

「鈴原が攫われた」

回りくどいことをせず、単刀直入に言うと、真冶が驚きの声を上げた。

『なに!?嬢ちゃんが?』

「犯人はお袋が目当てみたいだ。鈴原は、多分、巻き込まれたんだろう。今、犯人が指定した場所に向かってる。それで、おっさんに頼みたいことが・・・」

『ちょっ、ちょっと待て。犯人から場所を指定されたのか?』

「あぁ。ご丁寧にカードに書いてな。全く、ふざけやがって」

犯人に唾をかけたい気分で、達騎は言葉を吐き出す。

『どこだ?』

ごそごそと何かを探す音と共に真冶が尋ねる。

「如月の廃工場。颯の鼻なら匂いを辿っていけるから、すぐに見つかる。おっさんに頼みたいのは、お袋がどこにいるのか調べてほしいんだ。携帯の電波が届かないところにいるらしくて繋がらない。連絡がついたら、この事を知らせてすぐに来てくれと伝えてほしい」

瑠璃には、帰ってきたら伝えてくれと言ってしまったが、母がどの時間帯に帰ってくるのか皆目見当がつかない。ならば、調べてもらい、連絡をつけてもらった方が早いと達騎は考えたのだ。

『待て待て!お前、一人で行く気か?』

「これは、お袋がらみだ。お袋が始末をつけるのが筋だが、いないなら俺がやるしかないだろう。保妖課に迷惑はかけない。すぐに犯人を捕まえて、警察署に突き出してやるよ」

『いや、ひとます落ち着け。俺達も出動するから!』

「時間がおしい。大丈夫だ。隠れて潜入する」

『そういう問題じゃねえ!いいか、達騎!お前は・・・』

真冶は、達騎を行かせたくないようで必死に説得しているが、達騎の決意は固かった。

思いだす。あの夜を。冷たい、手足の芯まで凍えるような寒い冬の夜だった。

あの男の高笑い。服の上から感じる父の体温と、流れ出る血の温かさ。それが徐々に冷たくなっていく感覚。

自分の目の前で、誰かが傷つくのはもう見たくなかった。あんな思いは二度としたくない。

携帯電話を掴み直し、達騎は言った。

「じゃあ、お袋に伝言頼んだぞ。「聖川警部」」

『ちょっ、おい、達騎!!』

わめく真冶を無視し、達騎は電話を切った。

携帯電話を胸ポケットに戻し、達騎は視線を前方に向けた。

しばらくして、所狭しと並んでいた住宅街が消え、様々な材質の工場が隣接する土地に出た。

広大な敷地に立つ織物工場、錆びて、今にも崩れそうな屋根をもつ機械部品工場、群青色の壁に「製紙工場」と達筆な文字で書かれた建物などが垣間見える。

そんな今でも稼働している工場の群れの端に、有刺鉄線で囲われ、入口らしき場所には鎖を渡して、立ち入り禁止の看板を掲げた場所があった。

そこに立っていたのは、クリーム色の建物だった。屋根は、長年風雨に晒されたためか、赤い色が剥げ落ちて変色している。地面には砂利が敷かれていたが、砂利が剥げている所には雑草が青々と伸びていた。

その敷地を見下ろすことができる屋根の端に足を止め、颯が言った。

「あの建物から匂いが続いている」

「そうか。よし、「隠し紙」つけるからちょっと待ってろ」

達騎は、ズボンの左ポケット(天槍が入っていない方)に手を入れ、「隠し紙」を取りだした。一枚目は自分の胸元に、もう一枚は、颯の首に下げられた勾玉の首飾りに括りつける。その瞬間、颯の姿は、達騎の目から見えなくなった。しかし、この距離なら姿が見えなくても気配を感じることはできる。

「いいぞ。静かに下りろよ」

「分かっている。お前も気をつけろよ」

「あぁ」

隠し紙は、姿を見えなくするだけで声や足音が消えるわけではない。物音をたてれば、見つかる可能性もある。

颯は、屋根から飛び降り、敷地内に入った。音もたてず地面に着地した颯の背から、達騎は下りる。

「・・・山魚狗やませみ

言霊と唱えると、達騎の体はふわりと浮き上がり、空中を滑るように進んでいった。達騎の体は工場の正面玄関で止まり、着地する。颯も、ひと飛びで達騎の横に舞い降りた。

正面玄関は自動ドアが、開けられたままになっており、達騎と颯は苦もなく入ることができた。

受付を横切り、埃にまみれた廊下をなるべく足音をたてないように歩く。

周囲はしんと静まり返っており、曇って汚れた窓越しからは夕日が差し込んでいる。

奥にはノブ付きのドアがあり、「作業場A」と書かれていた。

「颯、匂いはこの部屋まで続いているか?」

「あぁ、続いている」

その言葉に達騎は頷き、ドアノブに触れる。その時、電流のようなものが達騎の手から流れた。思わず手を離す。

「達騎、紙が!」

颯の言葉に胸元を見れば、貼り付けていた「隠し紙」がちりちりと燃えていた。

達騎は「隠し紙」を引き剥がし、床に放り投げ、靴で踏み潰した。

ドアノブを見やれば、ちょうど手をかける部分に、何かで掘り込んだらしい模様が描かれていた。

達騎は目を見張る。

これは、鬼討師に伝わる「解除の紋」だ。

(鬼討師がからんでいるのか!?お袋、一体何したんだよ!)

今はいない母に問い正したい気持ちが頭に浮かぶ。だが、それに浸る暇はなかった。

「お前、誰だ?」

背後から男の声が静かに響いた。

振り返れば、だぼだぼのTシャツに薄汚れたジーンズという出で立ちの男が立っていた。

手には木製のバッドを持って肩にかけている。男の顔や手にはヒビのような痣があり、それが達騎の目を引いた。

悠子を攫った人間だろうか。

様子を伺い、黙っていると、突然男の目が見開かれ、次の瞬間、ニヤリと口元を上げた。

「なぁ~んだ。草壁達騎じゃねぇか」

達騎は自身の名が男の口に上がったことに驚愕する。

「お前、俺の名を・・・!」

「お前だけじゃないぜ。鈴原悠子、は分かってるよな。早瀬浩一、吉沢直。お前の幼馴染だ」

片手を上げ、指折り数える男を達騎は睨みながら、唇を噛む。

浩一達まで調べているとは思わなかった。だが、分からない。どんな理由で達騎の交友関係まで調べているのか。

「あいつは、徹底的に調べていたよ。まっ、俺には関係ないことだけど。いや~、ガキの見張り抜けだして正解だったわ。お前に会えたし」

笑みを浮かべる男に、達樹は鋭い眼差しを向ける。

「どういうことだ?お袋が目当てじゃなかったのか?」

すると、男はくくっと小さく笑い声を上げた。

「もちろん、あんたの母親、草壁みちるが目当てだぜ?けど、お前がここに来ることを想定して、あいつは鈴原悠子を攫ったんだ」

「何だと?」

達騎は目をすっと細める。

自分の意思で来たはずが、犯人に踊らされたというのか。達騎はにわかに信じられなかった。

「おっと、しゃべりすぎちまったな。さて、せいぜい俺を楽しませてくれよ?」

すると、男がバッドを肩から離し、それを振るような構えを取る。そして、一気に振りおろした。

ビュオォォォッッッ!!

突如、凄まじい突風が達騎と颯を襲った。

息もできないほどの風に、咄嗟に達騎は顔を腕で覆う。

風が弱まり、腕を下ろした瞬間、男の顔が達騎の目の前にあった。

「・・・!!」

「っりゃっ!」

男がバッドを達騎の顔目掛け、横向きに薙いだ。

「達騎!!」

反射的に、達騎は右腕で顔を庇っていた。

ミシミシと骨が軋む音と、バッドから叩き出させる衝撃を感じながら、颯が名を呼ぶ声が聞こえた。

足を踏ん張っていたが、腕一本で衝撃を殺せるわけはなく、後ろにあったドアが達騎と共に弾き飛ばされた。

「がはっ!!」

何か堅い物が背中に当たり、達騎の肺から空気が勢い良く吐き出された。

起き上がる気力もなく、ずるずると床に座り込む。

薄く眼を開ければ、そこはいくつもの機械が置かれた場所だった。達騎の身長の倍もあるその機械は、もとは黒かったようだが、長い年月で埃を被り、白くなっていた。

「くそ・・・」

立ちあがろうと、足をたてるが、全く力が入らない。頭も打ったのか視界がふらふらする。これは、やばい。

「なんだ?もう終いかよ?猿田彦の巫子ってのもたいしたことないな」

男がバッドを肩にかけ、達騎へ近寄る。その時、颯が言霊を叫ぶ声が達騎の耳を打った。

鵬火円ほうかえん!!」

颯の声と共に、空中から炎が立ち上がり、轟音とともに男へ襲いかかった。炎の熱が達騎の所まで届く。

「あっちぃっ!!何だ!?」

男は体を反転させて炎を避ける。

驚き、身をすくめている男を避けて、颯の気配がそばへ寄るのを達騎は感じた。

「すまん。あいつの動きが目で追えなかった。乗れるか?」

「・・・いや、乗らない。あいつには聞きたいことがある」

颯の心配気な声に返事を返し、埃にまみれた機械を支えに達騎は立ち上がった。

達騎は、霞む目を手で擦り、大きく息を吸った。

「ぐっ!」

あばらにヒビでも入ったのか、鋭い痛みが走る。しかし、達騎は拳を握りしめ、それに耐えた。

利き手である右手も指を動かすだけで痛みが走った。どうやら腕が折れているようだ。

「・・・はっ。ぼろぼろだな。でも、やるしかねぇ」

このまま倒れてしまえば、あの男の思う壺になる。それだけは嫌だった。

瞳に力を込め、達騎は慣れない左手で天槍―風雲時雨を取り出す。

「天槍、解放」

言霊を唱え、槍を通常の大きさにすると、左手でしっかりと持ち、男を睨みつけた。



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