第百九十九幕 まほろば亭
芸者屋は、酒席を設け、芸事を客に見せ、また客も芸者と遊ぶ。色を売ることはなく、もし客が無理矢理に芸者に手を出そうものなら叩き出され、出禁にされる。
芸者達は住み込みではなく、憂里の中ではあるが、まぼろば亭に近い長屋に住んでいて、時間になると働きに出るという仕組みになっていた。
これが千鳥に聞いた芸者屋、まほろば亭の説明だった。
鳳凰屋の仕事を終え、午前中に文を出した千鳥は、夕刻に『まほろば亭』を訪れた。
その目は鋭い。また客を通しているなら、容赦はしないという顔だった。
まほろば亭に行ってみると、明かりは灯されているが、鳳凰屋の時のように客の声や歌、三味線や琴の音色は聞こえない。静かなものだった。
「うん、よろしい。よろしい」
それを見た千鳥がとたんににこやかな表情に変わったのを見て、雷が「現金な・・・」と呟いたが、千鳥には聞こえなかったようだ。
千鳥はまほろば亭の戸を開け、明るい声で来たことを告げた。
「私だ。千鳥だ。ハルはいるかい?」
「は~い」
すると、奥からゆったりとした声ともに六十代ほどの女が姿を現した。細目の顔だが薄桃色の衣の裾をさばきながら背筋を伸ばした彼女は、凜とした雰囲気を醸し出していた。
「久しぶりね。千鳥」
「久しぶり。また厄介になるよ」
「えぇ、お願いするわ。あら、今回は一人じゃないのね?」
「あぁ。男の方は私の弟子だ。名を雷という。そして、女の子の方が加具土。この子は私たちの手伝いをしてくれる子だ。期間限定だが」
「そうなの。よろしくお願いしますね。私はこのまほろば亭を経営しているハルと申します」
丁寧にお辞儀をされ、加具土は「よろしくお願いします」と勢いよく頭を下げた。雷も「よろしく」と頭を下げる。
ハルも「よろしくお願いします」とにこやかに答えると、千鳥の方を見た。
「診察する場所は女性と男性に別れているから。私も終わったら来ますね」
「わかった。終わったら呼ぶよ」
千鳥が言った。
ハルに案内されたのは、左右に巨大な襖がある大部屋だった。
左側の襖には水しぶきをたてる滝の絵が描かれ、右側の襖には四季折々の花々の絵が描かれている。
「左側が男性、右側に女性が集まっています。よろしくお願いしますね」
「了解した」
千鳥が頷く。
案内を終え、下がっていくハルの背を見送った後、雷が左の襖に近づいた。
「じゃぁ、私は行く。頼んだよ」
「あぁ」
雷は襖を開け、中に入っていった。
「さて、私達も行こうかね」
「はい」
千鳥が鮮やかな色彩の花々が描かれた襖を開けた。
部屋には総勢二十名の女芸者が勢ぞろいしていた。八間の明かりの下、淡い色の衣を着て、薄めの化粧で着飾っている。陰間の子らが派手な衣と濃い化粧をしていたのとは対照的だった。
「私は医術師の千鳥だ。これから診察を始める。何か気になることがあったら言うように。じゃぁ、始めるよ」
二つの折りたたみ椅子を女芸者達の前に置き、薬籠から器具を取り出しながら千鳥が言った。
加具土は喉や口に違和感を覚える者に行燈を近づけ、千鳥に見やすいように工夫したり、薬の必要な者に薬籠の中から薬を取り出して渡すなど、細かな作業を行った。
診察している内に、使い終えた器具――舌圧子(口や喉を検査するとき、舌を下に圧するのに使う)――が溜まっていく。
「千鳥先生、舌圧子を消毒してきましょうか。雷先生の所も溜まっていると思うので一緒にやってきます」
「あぁ、そうだね。頼むよ」
「はい」
加具土は七、八本の舌圧子が置かれ、端切れで作った風呂敷の四つの端を持ち上げ、肘で襖を開け、部屋を出た。
そして、廊下を挟んで向かいの部屋で診察をしている雷に声をかける。
「雷先生」
すると、雷が襖を開け、出てきた。
「どうした?」
「舌圧子の消毒にきました。そろそろ溜まる頃がと思って」
「そうだな。ありがとう。ちょっと待ってろ」
雷は背を向けると、しばらくして戻ってきた。その手には緩く縛った風呂敷があった。
「中に入っている。頼めるか?」
「はい。ありがとうございます」
持ちやすいよう、ほどけやすいよう、縛ってくれたのだろう。加具土は礼を言って風呂敷を受け取った。
加具土は厨で熱い湯と使わなくなったまな板をもらうと、裏口に出た。
懐に入れた布を取り出し、まな板の上に広げ、置く。そして、千鳥が使っていた舌圧子と雷が使っていた舌圧子を分けて布の上に置いた。その後、舌圧子を表と裏にわけ、鉄瓶に入った湯をかけていく。
湯を注ぎ終えると、加具土は誰もいないのを確認し、小さく火を放った。
鉄でできた舌圧子が一瞬赤くなり、徐々に冷えて元の黒色に戻っていく。指先で触れて冷えたのを確認すると、新しい布を懐から取り出し、千鳥の舌圧子と雷の舌圧子をわけて包んだ。
風呂敷二枚は、また使った舌圧子を置くのに使う。加具土は自身の衣の裾にそれらが入っているのを確認すると、鉄瓶を返し、舌圧子ともらったまな板を小脇に抱え、厨を出た。
まさか、二人とも熱湯消毒のほかに火であぶって消毒しているとは思っていないだろう。
鳳凰屋で熱湯消毒はしていたが、火を使うことを思いついたのは、鳳凰屋を出て千鳥の家に帰った時のことだ。
竜田の意識を無意識にはじき返したことで、能力の操作が必要なのではないかと感じたのだ。怪我を負わせることはなかったが、自分の能力が無意識のうちに誰かを傷つけるのはあってはならないと思った。
雷に布に包んだ舌圧子を返し、加具土は千鳥と女芸者達が待つ部屋に戻った。
女芸者達の診察が終わり、次々と出て行く。最後の女芸者に終わった事をハルに伝えてくれと千鳥が言うと、しばらくしてハルと針師や料理人、下働きの女達が入ってきた。
彼女らの診察を終えると、千鳥は一息ついた。
「これで大人数の診察は終わりだ。ご苦労だったね。加具土。手伝ってくれてありがとう。助かったよ」
「いいえ、そんな」
改まって礼を言われ、加具土は恐縮した。
同じように終わった雷と合流し、千鳥と雷はまほろば亭を見回り、衛生面がどうか確かめたが、ハルからは毎日朝一番に掃除をしていること、客が帰った後も掃除を徹底していると言われ、念のため、客を通す部屋や厨、道具部屋も見回るが、ハルの言う通り綺麗なため、問題ないということになった。
帰ろうとすると、突然、ハルから待ったをかけられた。
「六花にいる親戚からおいしい枇杷をもらったの。みんなにも分けたんだけど、かなりの量なのよ。余っているから持っていって」
千鳥がいやともいいとも言わないうちに、ハルが廊下を駆けていく。
「いい、とも言ってないんだが」
「あの急ぎようだと、よほど処理に困っているようだな」
「枇杷、おいしいですよね」
あの薄い甘さが何とも言えない。深く考えず呟けば、千鳥と雷が加具土を見た。
「あ、すいません」
二人の視線を感じ、これでは欲しいと言っているようなものだ、と加具土は恥じる。
「まぁ、五人もいるんだ。すぐに消費できるだろうさ」
「五人もいて食べきれないとなると、恐ろしい量だろうな」
加具土の気持ちか、それともハルの思いを汲んでくれたのか分からないが、千鳥と雷は受け取らないとは言わなかった。
「待たせてごめんなさいね~」
ハルが背負っていた籠を置いた。その籠は、栗や取った筍を入れる大きな竹製の編籠だった。どん、という重い音がし、中を覗き込めば、十や二十ではきかない恐ろしいほどの量の枇杷が入っていた。
「ハル、これは・・・」
千鳥が顔を引きつらせる。
「これで最後なのよ。私たちは十分堪能したから、あなた達で食べてちょうだい。おいしかったわよ」
ハルがにこやかに言い放つ。
その言葉は、千鳥達においしい枇杷を食べて貰いたいという思いに溢れているように聞こえるが、食べきれないから残りは全部あげるわという気持ちも透けてみえた。
「千鳥、さすがにこれを五人では・・・」
雷が低く呟く。まさか自分の言葉通りになるとは思っていなかったらしく、微かに顔が青ざめていた。
「・・・・・」
加具土はあまりの量の多さに言葉を失っていた。枇杷は確かにおいしいが、食べる量にも限度がある。
千鳥が何かを考えるかのように目を閉じ、しばらくして開けた。
「ハル、これを三つに分けてくれ。さすがにこれだけじゃ重い」
それは、枇杷を持って帰ることを意味していた。
「わかったわ。確か使ってない籠があったはずだから持ってくるわね」
嬉しげに手を叩き、ハルが籠を探しに駆けていった。ハルの姿が見えなくなったのを見計らい、雷が鋭い眼差しを向けた。
「千鳥、どうする気だ?この量じゃ腐らせるのがオチだ」
加具土も不安だった。この量をどう消費するのだろう。五人で毎日食べてもそうは減らないだろう。
「家にいるうちは私達が食べる。それから近所の連中、患者相手に配る。それでも余るようだったら、皮を剥いてはちみつ漬けにして冬の保存食にでもするしかない」
「どうして断らなかった?断らなくても、五人分の枇杷でいいと言えばよかっただろう」
「ハルはああ見えて根にもつんだ。断ったり、人数分だけといえば、今度のここの診察に支障が出る。だから断らなかったんだよ」
疲れたように息を吐く千鳥を見て、これが処世術なのだろうかと加具土は目線を遠くへ投げた。
ハルは意気揚々と二つの籠を持ってきて、大量の枇杷を三つに分けてくれた。
千鳥、雷、加具土はそれぞれ枇杷が入った籠を背負う。三つに分けたとはいえ、籠はずっしりと重かった。
(鈴さん、これ見てどう思うかなぁ)
この量なら喜ぶより、悲鳴を上げそうだと加具土は思った。
ハルに見送られ、三人がまほろば亭を出ようとしたその時、玄関の戸が開いた。
戸を開けたのは、長い黒髪をなびかせた色白の青年だった。その後ろには、鮮やかな赤毛の少女がいた。
「お帰り、二人とも。早かったわね」
「わたしが顔を覗かせたら、すぐに出てきて三味線は直すと言ってくれた」
青年の声がヨミに似ていたため、加具土は思わず青年を凝視してしまった。
彼の後ろで「涼風が来るとすぐ出てくるのよ。あの女。私の時は前の仕事が立て込んでいるからすぐには無理だって言う癖に」と不満を口にする少女の声が遠くに響く。
青年の髪はヨミのように真っ直ぐな黒髪だったが、瞳は海のような藍色だった。色白といっても、ヨミよりは日に焼けた肌で、頬には泣きぼくろがあった。
「・・・何か?」
加具土の視線に気がついたのだろう。青年が怪訝そうな顔で尋ねてきた。
「あ、ごめんなさい。声が知っている人に似ていたから・・・」
すると、青年の後ろにいた少女が前に出て、加具土を睨んだ。
「そんなことを言って、涼風に色目を使う気じゃないでしょうね?」
なぜ、そんなことを言われるのか分からず、加具土は当惑した。
「え?あの、本当なんですけど。弟に似ていると思って・・・」
「弟?」
目を丸くする少女に千鳥が口を挟んだ。
「つむぎ、加具土は涼風とは初対面だよ。そんな相手に色目も使うも何もないだろう」
「初対面・・・」
千鳥の言葉に少女――つむぎ――が考え込むように俯く。
すると、今度は青年――涼風――が前に出た。
「つむぎが失礼をした。申し訳ない」
頭を下げる涼風に慌て、加具土は「気にしていません。大丈夫です」と口にした。
「つむぎ、戻るぞ」
「加具土、私達も帰ろうかね」
涼風がつむぎを促すと同時に、千鳥が声を上げた。
「わ、わかった」
「はい」
俯いていたつむぎが顔を上げ、返事を返す。加具土も頷いた。
「気をつけてね~」
手を振るハルに頭を下げ、加具土は外に出た千鳥と雷の後を追おうと向かったその時、衣の裾を引かれた。
足を止め、振り向くと、つむぎが難しそうな顔で衣の裾を掴んでいた。
「あの?」
首を傾げれば、つむぎは引き結んだ唇を開いた。
「・・・ごめんなさい。きつく言って。涼風はもてるから心配なの」
「そうなんですか。大丈夫です。びっくりしただけで気にしてませんから」
そう言うと、つむぎはどこかほっとしたように表情を緩め、「ありがとう」と頭を下げると、
草履を脱ぎ、上がり口に上がり、中へ入っていった。
つむぎを見送っていると、千鳥と雷の声が背後から響いた。
「加具土、何しているんだい?」
「帰るぞー」
加具土は慌てて戸を開け、二人の元へ向かった。
「はい!今、行きます!」