第百九十七幕 本当の自分
「夕霧さん、お久しぶりです。元気でしたか?」
まさか夕霧に会えるとは思わなかった。元気そうな姿に加具土は口元を綻ばせる。
「あぁ、この通り。体だけは丈夫だからな。お前も元気そうだな」
「はい。夕霧さんはどうしてここに?」
衣も派手な物に代わっているし、遊びに来たのだろうか。
加具土がじっと夕霧を見ると、夕霧は疲れたような表情を見せた。
「仕事だ。茅の事を覚えているか?あいつは商品だけでなく、人も運んでいる。今しているのは、凪にいる牙蘭の商人四人を送り届ける仕事だ。明日には牙蘭へ向かう予定なんだが、宿にいるのは退屈だってその四人が言ってな。凪にいる最後の夜だからって、行きつけのここに遊びに来たのさ。オレと茅はその付き添いでここに来てる」
「そうなんですか・・・。大変ですね」
護衛だけでなく、付き添いもしなければいけないのだ。緊張も続いて疲れも溜まるだろう。
「加具土も仕事か?」
「はい。今は千鳥先生と雷先生という二人の医術師の方の手伝いをしています」
「千鳥・・・。外科の千鳥か?へぇ。すごい奴と仕事しているんだな」
目を開き、感心の声を上げる夕霧に加具土は緩く首を振った。
「といっても、期間限定なんです。私、休暇中で、義手を作ってもらっている間、手伝っているんです」
「仕事熱心だな~。休暇なんだから休んでも罰は当たらないと思うぞ」
「そうですか?でも、何かしないと落ち着かなくて」
苦笑う加具土に「休むのも大事だぞ」と真顔で夕霧は言った。
「そういえば、ここの楼主――竜田に用があったのか?」
「はい。竜田さんに話したいことがあって探しているんですけど」
「竜田がどこにいるかはオレもわからないな。オレは飲み過ぎた茅と商人達に水を持ってこようと思って厨に行こうとしていたんだ」
「そうなんですか。あ、一緒に着いていってもいいですか?厨の人なら竜田さんがどこにいるか知っているかもしれません」
「あぁ、かまわないぞ」
加具土は夕霧とともに厨へ向かった。
階段を下り、廊下を右に曲がって左側が厨だった。
粟と稗を炊く匂いや魚や肉を焼く香ばしい匂いが辺りを漂い、皿を洗う音、包丁で野菜を切る軽快な音が響いている。
料理人たちが調理をし、忙しそうに立ち働く厨のなかで、奥のほうから竜田の声が聞こえた。
「ここにもう一つ調理台が作れないかしら?」
「作れなくはないが狭くなるぞ?」
「今使っているような長い物じゃなくていいのよ。小さいもので」
誰かと話しているらしい。
「探す手間が省けたな。じゃ、オレは水をもらいに行くから」
「あ、はい。ありがとうございます」
加具土が礼を言えば、夕霧は手を振り、作業している若い料理人の方へ向かって歩いていく。
夕霧がその料理人に話しかけるのを目の端に留めながら、加具土は竜田の声のする方へ歩いて行った。
竜田と話していたのは、黒の衣に細い紺の帯を締め、すその細い袴を穿いた女だった。真綿のように白い髪は首元が露わになるほど短かった。
「竜田さん」
声をかければ、竜田が振り向く。
「おや、えっと・・・」
「加具土といいます。千鳥先生と雷先生の手伝いをしています」
名を名乗れば、竜田が納得したように頷いた。
「どうしたんだい?あたしに何か用かい?」
「あの日向さんのことでお話が・・・。宴会場まで来てくれませんか?」
「日向のことで?わかったわ」
竜田は返事を返し、隣の女に顔を向けた。
「雪。後はあなたに任せるわ。お願いね」
「全く、任せきりか。わかった。やっておこう」
雪と呼ばれた女は呆れた表情を見せたが、仕方ないと言う風に頷いた。
「さっ、行きましょう」
竜田に促され、加具土は共に厨を出た。
「さっきは何をされていたんですか?」
ぶしつけかと思ったが、宴会場まで無言で行くのもどうかと思い、加具土は気になったことを聞いた。
「厨に新しい調理台を作ろうと思って。雪に頼んだのよ」
「雪さんは何をしている方なんですか?」
「大工よ。あたしの旦那でもあるわ」
「あ・・・。そうなんですね」
だから、あんなに気安い態度だったのか。人に頼む割には雑な頼み方だと思っていたが、身内ならそうなるだろう。
宴会場に戻ると、すでに千鳥は日向の治療を終えていた。
話し、泣いたためか、日向はどこかすっきりした表情をしていた。
「日向がどうかしましたか?」
竜田が千鳥に尋ねると、千鳥は日向に起きたことを伝えた。
竜田の眉が顰められる。
「わかりました。ありがとうございます」
竜田は千鳥に一礼すると、真っ直ぐ日向の方へ向かった。
不安そうな日向の頭に竜田はぽんと手を置く。
「日向、ごめんなさいね。気づいてあげられなくて。でも、もう大丈夫。あの女が来たらあたしが追い返すから。あたしが言っても来るようなら、雪の大工仲間を数人引っ張ってくるわ。屈強なのも、弁が立つのもいるから大丈夫よ」
「でも、皆さんに迷惑をかけるのは・・・」
「何言ってるの!あなた含めてみんな家族なのよ。雪たちも分かっているわ」
優しく言う竜田に対し、日向の表情は暗い。
「でも、あの人はここの常連です。断ったら、経営にも・・・」
「うちの子を傷つける客なんかこっちから願い下げよ!経営が多少悪くなろうと構わないわ。大事なのは、みんなが元気に仕事ができること。みんなも客に嫌な思いをしたらかまわず言いなさい!いいわね!」
後半の言葉を日向だけでなく、宴会場にいる全ての若者達に向けて竜田は言った。
「はい!」
その言葉に彼らは元気な返事を返した。どこかほっとした表情を浮かべる者もいて、もしかしたら言っていないだけで、そういう事をされたことがあるのかもしれない。竜田の言葉が口を開く切っ掛けになるといいと加具土は思った。
「あー。楼主はいるか?」
すると、開け放った襖の陰から、申し訳なさそうに夕霧が顔を出した。
「何かありましたか?」
竜田が夕霧の方へ近寄り、尋ねる。夕霧が困ったように眉を下げ、口を開いた。
「悪いが、ここに泊まることはできるか?うちが連れてきた客四人と、雇い主が酔いつぶれちまって。宿に戻れなくなった」
「それは大変ですね。泊まってかまいませんよ。部屋は今いる場所でいいですか?」
「あぁ。ただうちの雇い主は男の客と飲んでいたから、女部屋に運んでいいか?」
「いいですよ。あたしも一緒に行きましょう」
「頼む。料理や酒は下げてもらってるから、後は布団を敷くだけなんだ」
竜田は話しながら、夕霧とともに宴会場を出て行った。
「さっ、診察を続けるよ!」
ぱん、ぱん、と千鳥が手を叩く。それを合図に止まっていた診察は開始された。
日向が治療に来たことが契機となったのか、千鳥の前に他の若者も並ぶようになった。
加具土は千鳥に言われ、薬籠の中の器具を渡したり、薬を必要な若者に手渡したり、溜まった器具の消毒のために再び厨へ赴いたりと、細々とした作業を行った。
それからしばらくして、接待をしていた他の陰間の若者八人がやってきた。おそらく夕霧の言っていた凪の商人四人を接待した若者達だろう。
彼らを診察し、四刻(二時間)ほどで鳳凰屋の陰間二十八人の診察は終わった。
陰間の診察が終わった後は、楼主である竜田や厨で働く料理人たち、そのほか衣を縫う針師などの下働きの者達を診察した。
その後、千鳥、雷は衛生面を見るため、鳳凰屋の中を見て回った。
そのなかで、一階にある陰間達が寝る雑魚寝部屋や、衣や帯、簪などの装身具などがある衣裳部屋、針師が仕事をする部屋の掃除があまり行き届いていなかった。
手分けをして掃除をすることにし、雷は陰間達と雑魚寝部屋を、千鳥も陰間と針師達とで針師の部屋を、そして、加具土は竜田とともに衣裳部屋を掃除することになった。
衣裳部屋は五人ほどが入ればいっぱいになるほどの部屋で、そこに衣や帯が入った葛籠が所狭しと並び、桐の箪笥には簪、首飾り、腕輪、耳飾りなどの宝飾品が数えきれないほど入っていた。
衣裳部屋に入った加具土と竜田は、灯台に火を灯し、部屋を明るくすると、箒と塵取りで部屋の埃を取り、濡らしたぞうきんで部屋全体を掃除した。
二刻(一時間)ほどで掃除は終わり、水気を含んだぞうきんを絞り、加具土は手桶にそれを引っ掛けた。
澄んでいた手桶の中の水は、量が減り、汚れでひどく濁っている。衣裳部屋の汚れを如実に物語っていた。
「このくらいでいいかしらね」
竜田もぞうきんを手桶に引っ掛け、満足したように頷いた。
「ありがとう。助かったわ。ここもけっこう汚れてるのねー」
そう言いながら、竜田が近くに置いてあった葛籠を開ける。
「あら、懐かしい!」
竜田が葛籠の中から引っ張り出したのは、落ち着いた色味の緑の衣だった。雨に濡れた植物の色をした衣は、灯台の明かりに照らされ、美しく輝く。
加具土は竜田を見ると、竜田は表情に微かに影を落とし、緑の衣を見つめた。
「これ、私がここに来て初めて着た衣なのよ」
「綺麗ですね」
竜田は緑の衣を優しく撫でながら、加具土に聞いた。
「あなた、おしゃれは好き?」
「う~ん、そこまでは・・・」
加具土はあまり自身の見た目に頓着しなかった。毎日紅を差したり、衣や帯、髪飾りを毎日変えることもなかった。
「そう。あたしは好きだったわ。子供の頃からね」
そう言い、竜田は話し出した。
竜田は、幼い頃からおしゃれが好きだった。近所の男の子とチャンバラごっこや鬼ごっこをするよりも女の子たちとままごとをしたり、家から衣を持ち寄って、ああでもないこうでもないと言い合うのが楽しかった。
そして、成長するにつれ、自分が思う性と体の性に違和感を感じ始めていた。それはだんだんと強くなり、やがて女性として生きたいと思うようになった。
家族には理解してほしいと、女性として生きたいと話したが、父は激怒し、母は泣いた。
何度話しても平行線で、これ以上は無理だと竜田は諦めた。
家に居づらくなった竜田は、家を出て、仕事を探した。だが、長続きせず、自身を否定されるような日々が延々と続いた。
あたしはいてはいけない存在なのではないか。
自分を必要以上に追い込み、死さえ考えていたその時、助けてくれたのが当時の鳳凰屋の楼主だった。
「あたしを助けてくれた楼主は、今は引退してしまったけれど、あたしに居場所をくれたわ。本当に感謝してる。その恩返しっていうわけでもないけど、あたしが楼主になって居場所のない子たちに帰る場所をつくろうと思った」
竜田が鳳凰屋の若者たちを大事にしていることは、先ほどの件で分かった。
「でも大変じゃなかったですか?その、・・・色を売るんですから」
望まない客の相手をするのは、居場所を持てたとはいえ辛かっただろう。
「まぁ、辛くないといえば嘘だけど。でも、本当の自分を偽りなく見せることができるのは嬉しかったわ。それにこの仕事のおかげで雪にも会えたから、結果的にはよかったのよ」
竜田は、まるで何もなかったかのように笑う。
「雪もあたしと同じ、自分が感じる性と体の性に違和感があったの。親には理解されず、無理やり見合いをさせられそうになって逃げだして、たどり着いたところが今の仕事場だったの。似た境遇のあたしたちは意気投合して、そしてお互いを想い合うようになって結婚したわ。今は幸せよ。自分の境遇を嘆いたことは何度もあったけれど、今はそれさえ糧になっていたんじゃないかって思うのよ」
口元に弧を描く竜田の黒曜石の瞳には、星のような輝きがあった。雪を大切に思っていることがありありと分かる表情だった。
「ねぇ、この葛籠に入っているの着てみる?」
不意に竜田が言った。
「え!?でもこれ、仕事で使われるものですよね?」
「少しくらいなら大丈夫よ」
にこにこと竜田は笑みを浮かべる。
加具土が葛籠の中を覗くと、そこには色とりどりの衣が灯台の明かりで照らされていた。
何色もの色を重ねた衣や、花や植物、動物などの刺繍も施された衣もあり、豪華絢爛だった。
他にどんな物があるか、加具土は興味が湧いた。それに楼主である竜田が大丈夫と言うのであれば、平気だろう。
「じゃぁ、少しだけ・・・」
その言葉通りのはずだったが、竜田は衣だけでなく、帯、髪飾り、耳飾りまで取り出し、加具土を着飾り始めた。
「はい、できたわよー」
竜田は、奥から布を被った何かを持ってくると、その布を取り去った。それは、鏡を立てかけた鏡立だった。
灯台を鏡立の近くまで持っていくと竜田が言った。
「はい、覗いてみて」
言われるがまま鏡に近づけば、鏡の中に見知らぬ少女が映っていた。それが自分だと加具土は一瞬分からなかった。
「うん。我ながら完璧。化粧できないのが残念だわ」
前髪を上げ、頭の上に団子結びにした朱色の髪には梅の花の簪が差してあった。
金箔を施した桜の花を模した耳飾りが揺れ、白い衣が髪と褐色の肌の色を引き立てている。
あまり着ることのない白の衣がなじんでいることが、加具土は不思議だった。
帯は鏡では見えないが、下地が赤で黄色の糸で百合の花の刺繍が施してある。
これが竜田の技量なのだろう。加具土ではこうはいかない。
感心しながら、鏡の中の自分を見つめていると、不意に竜田が両肩に触れてきた。
「女の子っていいわよねー。若いし、肌はつるつるだし、かわいいし・・・」
羨まし気に呟き、竜田は鏡の中の加具土を見ながら、言った。
「・・・ねぇ、ちょっとあなたを借りてもいいかしら?」
鏡のなかの竜田の瞳が妖しく光った。
「え?」
どういう意味かと尋ねる前に、目の前が真っ暗になるのを加具土は感じた。