第百九十四幕 本心
加具土は鶺鴒の小屋で寝かせてもらうことになった。小屋には鶺鴒、加具土以外に繭がいた。
佐保に何かあったら、飛び出せるようにと少しでも近い場所にいたいということだった。
狭い小屋の中は、三人が川の字で寝てもかなり狭い。窓を開け、こもった熱を逃がそうとするが、寝づらい。寝がえりも打つことができず、かといって場所を変えたいと言うのも気が引けた。
加具土は目を閉じた。
あまり動いてないといっても、疲れていたらしい。ぱちりと目が覚め、ふと窓の外を見ると、空は白み始めていた。
喉の渇きを覚え、加具土は寝ている鶺鴒と繭を起こさないよう土間を下り、柄杓を取ると水瓶から水を掬い、飲んだ。
水の甘さを感じ、喉に落ちていくのを感じながら、加具土は佐保のことが気にかかっていた。千鳥と雷がついているから大丈夫だろうと思うのだが。
加具土は柄杓を水瓶の縁と縁の間にかけ、草履を履き直して佐保のいる小屋へ向かった。
閉ざされた戸を小さく開け、中を覗けば、布団の上で寝ている佐保、脇には腕を組む雷、そして奥には体を丸めて眠る千鳥がいた。
「雷先生・・・」
声をかければ、雷は体をびくりと震わせると、驚いたように戸の間から覗く加具土を見た。
「加具土、どうした?」
「あの、佐保さんが気になって・・・」
「ちゃんと寝たのか?」
「はい」
しっかりと頷けば、窺うように見ていた雷は「そうか」と表情を緩ませた。
「あの、入ってもいいですか?」
「あぁ。そうだな。構わないぞ。山は越えたからな」
加具土はできるだけ音をたてないように戸を開け、小屋に入った。そして土間に立ったまま、目を閉じている佐保の顔を見る。赤みがとれ、寝入った表情は穏やかだった。
山を越えたということは熱が下がったということだろうか。
「佐保さんの熱は下がったんですか?」
「あぁ。熱さましと氷嚢が効いているんだろう。これで食欲が戻ればいいが」
「・・・そうですね」
食べられれば少しはましになるはずだ。青カビの薬だって効いてくるだろう。病気が治る可能性は高くなる。安堵しながら、加具土は奥にいる千鳥に目線を向けた。
「・・・千鳥先生はここで寝ているんですね」
「交代するとき、小屋で寝かせてもらえと言ったんだが、ここで寝るの一点張りでな」
医術師として、患者のそばを離れることができなかったのかもしれない。
雷は呆れたような声音を発したが、表情は柔らかかった。
「どうしてこういう職業があるんでしょう・・・」
佐保の顔を見つめながら、加具土は呟いた。
遊女という職業がなければ、佐保も病気になることはなく、藍達も狭い小屋という環境の悪いところで暮らす必要はなかったはずだ。
性を売るという職業。それさえなければ、ヨミも違う形で生きられたはずだ。
佐保や月影、藍達も違う形で出会うとしても、生きてさえいれば出会うことはあるはずだ。
『もし、たられば』などきりがない。けれども加具土はそう思わずにはいられなかった。
雷が静かに言った。
「人は快楽を求める生き物だ。それを商売にして職業にし、集約させた所が色街なんだろう。誰かを求め、快楽を求めるのは人間の性だが、それだけが人間じゃない。人が人として暮らしていけないなんて外道の街にしないためにも私達医術師と十二司の人間が動いているんだ。嘆いても悩んでも始まらない。できることを精一杯やるしかない」
「はい・・・」
加具土はゆっくりと頷いた。確かに嘆いても始まらない。できることをするしかないのだ。
その時、佐保が身じろぎし、うっすらと目を見開いた。
「佐保さん・・・」
「すまない。少しうるさかったか?」
雷の言葉に加具土ははっとし、口をつぐむ。小さい声で話していたつもりだが、佐保にとっては耳障りだったかもしれない。今更遅いかもしれないが。
雷が尋ねるが、佐保は夢を見ているかのようにぼうっとしていた。そして、二人がいることに気が付いたのか、顔を向けた。
「だれ・・・?」
「わたしは雷。医術師で、千鳥の弟子だ」
「私は加具土といいます。すいません、うるさかったですか?」
しかし佐保は加具土に返事を返すことはなく、ゆっくりと首を振った。
「・・・もういい」
「え?」
「私の事はもう放っておいて」
「どうしてそんな事をいうんですか!?」
加具土は驚き、思わず声を上げた。
「病気になったのは自業自得だもの。・・・あの人を見て、私自身だと思った。だから救ってあげたいと思った。だから抱いたの」
あの人――繭の言っていた商家の男性のことだろうか。
「・・・わかって、わかっていたのに怖くて不安で、月影に当たったりもしたわ。だからもういいの。私の事はもう放っておいて」
突き放すように言う佐保に加具土は言った。
「佐保さん、あなたを助けようと藍さん、つららさん、鶺鴒さん、繭さん、蝉丸さんが走ってくれたんです。月影さんだってあなたが生きることを望んでいます!」
「佐保。君の病気は、栄養を摂って体力を回復させれば薬で治るんだ。そう悲観することはない」
雷も励ますが、佐保の意思は固かった。
「いいえ、もういいんです。治るといったって、いつ治るか分からない。薬代だってかかってる。藍達、皆にも悪いけれど、月影の気持ちも本当にうれしいけれど、私はもう薬を飲むつもりはありません」
佐保は生きることを諦めていた。薬を飲まないということは、少しずつ死に向かうということだ。
「どうして・・・」
「皆に迷惑をかけたくないのよ」
天井を見つめ、加具土や雷に視線を向けることなく佐保は言い放った。
「それは本心ですか?」
投げやりな佐保の態度に加具土は眉を顰めた。
「加具土・・・」
雷が制するように加具土を呼ぶが、加具土は止めようと思わなかった。
「皆さんの気持ちを踏みにじって、月影さんの想いを無視して。あなたはあの人達の前で同じことが言えますか?」
雷が小さく息を吐き、穏やかな口調ながらはっきりと告げる。
「佐保、私も君の気持ちを尊重することはできない。余命いくばくもなく、薬も効かないとなれば話は別だが、君には生きる道がある。生きようとする意志が病を治すこともあるんだ。諦めるのはまだ早い」
だが、佐保の態度は変わらず、顔を向けることもなかった。
「みんなには申し訳なく思っているわ。でも、もし治ったとしたとしても、こんな仕事だもの。またなることもありえるわ。熱を出して、体調が悪くなって、またよくなって・・・。それを繰り返すくらいなら、もういい」
かたくなな佐保に加具土は問いかけた。
「月影さんはどうするんですか?あなたの回復を願っているのに」
そして共に生きることを望んでいる。佐保が死を選ぶと知ったら、月影はどう思うだろうか。
「月影が私を気にかけるのは同情よ。娑婆にこんな落ちぶれた女なんていやしない。ただの興味本位よ」
月影を蔑むような佐保の言い方に、加具土は彼女が病人であることも忘れ、怒りの声を上げた。
「月影さんはあなたを強い人だと言っていました。辛い仕事をしながら笑顔でいるあなたを強い人だと。でも、だからこそ自分の前では泣いたり怒ったりしてほしいと言っていました。そう思っている人が興味本位であなたを気にかけていると本気で思っているんですか!?」
佐保が目を丸くし、思わずというように加具土を見た。
それは月影の言葉か、加具土の様子に驚いたのかは分からない。
加具土は気持ちを落ち着かせようと小さく息を吐いてから、佐保を見た。
「佐保さん、どうして月影さんを好きになったんですか?」
「え・・・」
目を瞬かせる佐保に、加具土は続けた。
「三年続いているということは、あなただって特別な思いを持っているはずです。月影さんが興味本位であなたと付き合っているなら、花魁であったあなたならすぐわかったはずでしょう。月影さんを突き放すことだってできたはずです。それをしなかったのは、月影さんが本気であなたを想っていると分かっていたからじゃないですか?」
佐保が目を泳がせる。やがて観念したかのように、佐保は口を開いた。
「・・・最初は客の一人としか思っていなかったわ。でも何をするでもなく、ただ食べ物や衣、装身具を土産だと言って持ってきて、世間話をしてお金を払って帰ることが多くて。やらないのって聞いたら、そこまで飢えてないし、疲れているだろうって言ってくれた。そう言ってくれる客なんて初めてだったから驚いたわ。月影が女たらしの異名をもっていて後から知ってもっと驚いたけれど」
佐保の鮮やかな黄緑色の瞳に光が灯る。
「・・・たくさん気にかけてもらってわ。でもそれは遊女としてじゃない。一人の人間として見てくれているのが分かったから。いつの間にか好きになっていたわ」
「月影さんに言えますか。生きるのを諦めたと、私の事はもう放っておいていいと」
加具土は静かに問いかければ、佐保は苦しそうに笑った。
「言っても諦めてくれないわ。求婚された時も断ったけれど、『絶対諦めないから』って言っていたもの。諦めの悪い人なのよ、ああ見えて」
「そうか。なら、君が諦めるしかないようだな。ここにも一人、絶対に諦めない奴がいるからな」
雷が首を横に向けると、そこには阿修羅像を背後に背負い、憤怒の表情をした千鳥が立っていた。
「佐―保―」
地の底から這うような声を出す千鳥に、佐保は小さく悲鳴を上げた。
「ご、ごめんなさい!」
涙目で謝る佐保を見た千鳥は、ふうっと息を吐き、阿修羅像と憤怒の表情を消した。
そして、佐保を見据える。その瞳には申し訳なさと辛さが滲んでいた。
「私の力不足があんたにそう思わせていたなら謝る。だが、自分から命を絶とうなんてのは言語同断だ。生きてくれ。頼むから」
「・・・はい」
千鳥の懇願に触発されたのか、佐保は素直にこくりと頷いた。
千鳥が佐保の容態を診、熱が下がったことを確認している間、雷は、彼女が脇の下に挟んでいた氷嚢を取り出した。長方形の形になっていた氷嚢は、佐保の体温と小屋の熱で溶け、半分以下になっていた。
「食欲はあるかい?」
「少し・・・」
「なら月影が持ってきた卵粥がある。持ってきた氷で冷やしているから、温めて食べるといい。それから土間のところに栄養輸液っていう飲み物がある。あの桶の中だ」
千鳥は土間の右側、水瓶とは反対側置かれた桶を指さした。それは手拭いで蓋がしてある。
「これを朝餉、昼餉、夕餉の後に必ず飲むこと。後は薬を飲み続けること。薬は二か月分を残しておく。それから痛み止めも置いてくよ。一週間後にまた様子を見に来るから。ちゃんと食べて飲むんだよ」
「はい」
佐保は神妙に頷いた。
「佐保!!」
すると、勢いよく戸が開け放たれ、月影を筆頭に繭、鶺鴒、つらら、藍、蝉丸が団子のように連なって入ってきた。加具土は慌てて隅に避けた。
「何だい。お前たち、もう起きてきたのかい」
千鳥が呆れた口調で呟く。
「体調はどう?」
月影が土間に立ったまま、不安げに布団の上に体を横たえた佐保に尋ねた。
「・・・だいぶ楽になったわ」
佐保が柔らかい口調で答えた。
「熱は下がった。食欲もあるようだから卵粥を食べさせてあげるといい。栄養輸液のことや薬のことは佐保に伝えてある。気になるようなら聞いてくれ」
雷が補足すると、月影は「はい」と嬉しそうに返事を返し、畳の上へ上がった。
「さ、私たちは家に帰るよ。今日の夜も仕事があるからね」
「あぁ」
「はい」
雷と加具土は頷く。
そして、千鳥は集まっている水晶屋の面々を見回し、言った。
「一週間後、またここに来る。蝉丸、佐保に仕事を振るんじゃないよ。それから、あんた達の布団だが、夢幻屋に打診して、使わず奥にしまっている布団をもってっていいか聞いてみるよ。二つあるなら、今使っている布団は捨ることができるだろうし」
千鳥の言葉に、藍達の表情が華やぎ、嬉し気な声を上げる。
「ただし!」
ぴんと千鳥が人差し指を天井に向けた。
「ちゃんと洗う事。でないと、新しくした意味がないからね」
「は~い」
四人、いや五人の返事が重なった。