第百九十三幕 奔走
加具土は、鶺鴒、繭、月影と共に佐保のいる小屋に戻った。月影が戸を開ける。
「佐保!?」
月影が声を上げ、水の入った桶を取り落とした。ばしゃんという音が聞こえ、水が勢いよく地面に流れていく。
小屋に入ると、畳の上に下半身を土間の上に上半身を投げ出し、倒れている佐保がいた。
「佐保!」
「佐保さん!」
「佐保!」
月影と繭が佐保の体を持ち上げ、布団へと運ぶ。加具土は頭に怪我がないか素早く確認した。
見たところ何もない。
「鶺鴒さん、千鳥先生を呼んできてください!」
「わかったわ!」
駆けだした鶺鴒の草履の音が遠ざかっていくのを聞きながら、加具土は佐保の様子を見た。
頭に怪我はないが、息が荒く脈も速い。額に手を当てればひどく熱かった。
「佐保、熱があるのにどうして動いたりしたの・・・」
佐保の目がうっすらと開き、細い声を出した。
「のどがかわいて・・・。お水・・・」
加具土が目を走らせれば、土間の左端に水瓶と柄杓が置かれていた。
佐保は水を飲もうとして立ち上がり、倒れてしまったのだ。
加具土は土間に下り、柄杓から水をすくって佐保のところまで持っていった。
「佐保さん、お水です。どうぞ」
口元まで持ってくると、水の匂いで気が付いたのか佐保の口が開いた。
繭が佐保の顔を持ち上げ、枕で首を支え、飲みやすいように態勢を替える。
佐保は柄杓に口をつけて、少しずつ水を飲んでいった。
「大丈夫かい!?」
そこへ千鳥、雷、蝉丸が入ってきた。後ろには、呼びに行ってくれた鶺鴒と、つらら、藍の姿もある。
「水を飲もうとして倒れてしまったようです。頭の怪我はなさそうなんですが。千鳥先生、診てもらっていいですか?」
「わかった。皆は下がっていておくれ」
加具土の説明に千鳥が頷き、指示を出した。加具土が土間に下り、草履を履くと、入れ替わるように千鳥が草履を脱ぎ、畳の上へ上がる。
「繭さん、月影さん。出ましょう」
加具土が二人の名を呼ぶと、繭と月影はゆっくりと佐保のそばを離れ、土間に下りた。
小屋の戸が閉まり、佐保の診察が始まった。
行灯の明かりが灯る小屋を月影は目を離すまいとするかのように見つめていた。
繭、鶺鴒、つらら、藍、蝉丸も不安げに小屋を見つめる。雷は厳しい表情を浮かべていた。
やがて戸が開き、千鳥が出てきた。
「千鳥先生!佐保の具合はどうですか!?」
月影が千鳥に迫った。
「・・・頭の怪我はたいしたことはない。だが、熱がひどい。さっき診た時より上がっている。熱さましと痛み止めを飲ませた。本来なら何か口に入れたほうがいいんだが。卵粥は食べさせたのかい?」
「いえ、食べる気がしないから後でいいと・・・」
「そうかい。なら、あれを飲ませるか・・・」
「あれ?」
月影が首を傾げると、閉じられた小屋の中から、ごほごほという咳と嘔吐する声が聞こえた。
千鳥が勢いよく戸を開け、その脇を月影が滑り込むように入っていく。加具土は二人の背を追いかけた。
小屋に入ると、うつ伏せの佐保とその背をさする月影がいた。佐保の口元には吐いた時のための桶があり、吐瀉物のつんとした臭いが鼻をついた。
「全部吐いてしまったみたいです」
月影が佐保の背中をさすりながら、表情を曇らせた。
千鳥は唇を噛むと、懐から半紙と筆を取り出し、何かを書き付けた。
「雷、極楽通りに夢幻屋という妓楼がある。そこの主人にこれを見せて、桶いっぱいに作ってほしいと伝えてくれ。私の名を出せば通るだろう。それから蝉丸。お前には氷室屋に行って氷をとってきてもらいたい。そうだね。小桶に入るくらいでいいだろう。頼めるかい?」
雷には書付を渡し、蝉丸には財布を放り投げ、千鳥が厳しい表情のまま言った。
「わかった」
「私も手伝います!夢幻屋は昔いた場所ですし、案内できます!」
「私も!」
雷が頷くと、繭、鶺鴒が同行を申し出た。
「なら、案内を頼む」
「はい!」
雷の言葉に大きく返事を返し、繭は「こっちです!」と雷と鶺鴒を先導して駆け出した。
「財布の金、全部使うかもしれないぞ?」
「気にしなくていい。金は余計に持ってきてある」
「わかった。行ってくる」
蝉丸が渡された財布を懐に入れると、藍とつららが声を上げた。
「私も行くよ。氷が桶いっぱいに入っていたらさすがに重いだろう」
「私も行きます。桶いっぱいとなると、氷室屋さんが氷を出すのをしぶるかもしれませんし・・・」
「そうか。じゃぁ一緒に来てくれ」
こうして、蝉丸と藍、つららは氷室屋へ向かった。
雷や蝉丸達が戻ってくる間、千鳥は佐保の容態を診、月影は佐保の汗を手拭いでふいていた。
加具土は空気を入れ替えようと窓を開け、吐瀉物の入った桶を持ち、外へ出た。
小屋と小屋の間にある狭い茂みで桶の中の物を捨てると、井戸へ向かい、水を何度も入れ替えながら桶を丁寧に洗う。
先ほどの茂みとは別の茂みで、目を凝らし、鼻をくんくんとさせながら、どくだみ、ヨモギ、カキドオシなど芳香の強い草を探し、洗った桶に敷き詰める。これで少しは臭いがましになるだろう。
草を敷き詰めた桶を持って、小屋の戸を開けようとした加具土の目に、繭と鶺鴒が必死の形相で駆けてきた。その手には竹筒を持っている。
驚き、戸から手を離した瞬間、繭が閉じられた戸を叩き切るように開けた。
「桶いっぱい分じゃ作るのに時間がかかるから、持ち運べる量を作って持ってきたわ~!」
「雷先生が先に持っていけと」
鶺鴒の説明に補足するように繭が言った。
二人とも、息を荒げ、額にびっしり汗をかいていたが、手に持った竹筒を千鳥に差し出していた。
「・・・そうか。ありがとう」
千鳥が静かに礼を言い、二つの竹筒を受け取った。そして、佐保の口元に竹筒を持っていった。
「それは何ですか?」
月影が聞いた。
「栄養輸液だ。材料は水、食塩、砂糖、柑橘類を絞ったものだ。食べられず、栄養が摂れない患者に与えるものさ」
それは神薙に与えたものと同じものだった。月影が納得した顔で頷く。
「佐保。甘い飲み物よ。これなら飲めるでしょう?」
月影は佐保の首を支えながら囁く。その声は今にも泣きそうな声音だった。
その声が聞こえたのかわからないが、佐保はうっすらと目を開け、竹筒の中の物をゆっくりと飲み出した。
「よかった・・・」
月影が安堵の息を吐き、鶺鴒と繭が土間に崩れ落ちるにして座り込んだ。
「繭さん、鶺鴒さん、大丈夫ですか?お水、飲みます?」
加具土が二人の背に声をかけると、二人は同時に振り向き、「お願い~」「お願い」と疲れ切った顔で小さく笑みを浮かべた。
加具土は洗った桶を佐保の枕元に置いてから、奥の棚から湯呑茶碗をふたつ取り出し、水瓶の水で何度か洗ってから、柄杓で湯呑茶碗に水を入れた。
先に繭、次に鶺鴒の順に湯呑茶碗を渡すと、二人は「ありがとう」と礼を言い、水を一息で飲み干した。
繭と鶺鴒は立ち上がって言った。
「じゃあ、私たちは夢幻屋に戻るわね。今度は桶いっぱいに持ってくるわ。雷先生は竹筒二つ分あればもたせられるだろうって言っていたから」
繭の言葉に千鳥が頷いた。
「そうだな。ありがとう、二人とも。後も頼む」
「はい」
「任されました」
繭と鶺鴒は真剣な表情で頷き、夢幻屋へと再び駆けていった。
それからしばらくして、桶いっぱいに氷を持って蝉丸、藍、つららが小屋に戻って来た。
千鳥は棚から小さな壺をもってきて、その中身を桶の中の氷に振りかけた。それは白い粉のようなものだった。
「何をかけたんですか?」
「塩さ。こうすると溶けにくい」
千鳥は塩の入った壺をしまい、薬籠から手拭いを幾枚が取り出すと、それを重ね、氷を包んだ。それを佐保の首元に置く。同じように作り、脇の下にも置いた。
「これで熱が下がるだろう。栄養輸液も飲んでくれたことだし、これで薬が飲めるようになる」
二本目の竹筒の中身――栄養輸液――を佐保が飲み干した頃、雷、繭、鶺鴒が夢幻屋から戻って来た。その手には桶いっぱいにできあがった栄養輸液ができていた。
栄養輸液が入った桶を手拭いで蓋をして、千鳥は言った。
「これは今後の分だ。熱が下がってくるとはいえ、食欲がそう簡単に戻るわけじゃないからね」
再び、熱さましの薬と痛み止め、そして青カビでつくった薬を千鳥は佐保に飲ませた。
今度は吐くことはなかった。
「私は佐保についているから、皆は先に寝るんだ。明日の佐保の具合次第では、あんた達に看病してもらわなきゃならないからね。悪いが、蝉丸は佐保の小屋のところで寝てくれ。雷、交代でついてもらえるかい?加具土は鶺鴒か、繭の小屋で寝かせてもらいな。それから月影、あんたは帰りな。明日も仕事があるんだろう?」
「わかった」
「交代だな。わたしは後でいいか?」
蝉丸が素直に頷き、雷が予定を聞く。
「あの、私休んでいいんですか?」
加具土は手伝ったほうがいいのではないかと思い、千鳥に尋ねた。
「私はここにいるわ~」
「私も寝ているなんてできないわ」
「私も・・・」
「同じく」
「・・・・・」
鶺鴒、繭、つつら、藍は千鳥の言葉に首を振った。月影は答えなかったが、その目は帰りたくないと訴えていた。
千鳥は疲れたように息を吐く。
「まったく!強情だね、お前たち。少しは蝉丸を見習いな!雷、あんたは後で頼むよ。加具土、朝方まで仕事をするのは初めてだろう。倒れても困るから寝なさい。それから、あんた達も!私の手は一つなんだ!できることに限りはある!あんたらが倒れたら私だって困るんだ!月影、帰りたくないなら、藍達のところで寝かせてもらいな!」
息継ぎすることなく、千鳥は一気に言い放った。
そして、次の瞬間、大きく息を吸い、吐き出すように言った。
「だから、とっとと寝ないかいっ!」
叫び出したいのを我慢するかのような表情と坐った目。
そんな千鳥を見た、藍、鶺鴒、繭、つららはいそいそと小屋を出た。月影は静かに退出し、蝉丸は、それみたことかと呆れた表情を藍達に向けながら外へに出た。
「加具土、行こう」
「あ、はい」
皆がいっせいに出て行ったので時機を逸した加具土を雷が促した。
草履を履き終え、小屋を出ようとした加具土は、ふと振り返る。
そこには、強い眼差しで佐保を見る千鳥の姿があった。