第十九幕 臨海学校Ⅱ
散策組が集まる場所へ足を進めると、固まって集まっている生徒達のなかに、一人だけぽつんと立つ達騎の姿があった。
「草壁くん」
なぜ、一人でいるのだろう。達騎と仲のいい生徒達も散策組の中にはいるというのに。
不思議に思いながら、声をかけ、近づこうとしたその時、重々しい氣が達騎から発せられているのが分かった。俺に近づくなと全身で叫んでいる。
達騎の周りに人がいないのは、この氣のせいだと悠子は気がついた。
でも、なぜ、こんな氣を発しているのだろう。臨海学校に行くのがそんなに嫌だったのだろうか。
尻込みしていても始まらない。悠子は、さらに近づき、先ほどより声を大きくして達騎を呼んだ。
「草壁くん」
声が聞こえたのか、達騎の目が悠子へ向く。
「あぁ、鈴原か」
気だるげではあったが、発している氣のように拒絶するわけでもなく、達騎は普通に言葉を返してきた。内心、ほっとしながら、悠子は続けた。
「草壁くんも散策組なんだね」
「あぁ。海の中で足引っ張られでもしたら洒落にならねえ」
顔を顰める達騎に、悠子は苦笑する。
「でも、せっかく海まで来たんだから、近づくなって氣を発さなくても。みんな、困ってるよ」
悠子は辺りを見回す。散策組の生徒達が、達騎の様子に戦々恐々としているのが見てとれた。
「困らせておけばいい。俺は、あいつらに追いかけ回されたくないだけだ」
「あいつら?」
「霊のことだよ」
あいつらという言葉に首を傾げれば、背後から聞き慣れた声が響いた。振り返れば、号令係の鳥海圭太の姿があった。
「鳥海くん、霊って?」
「鳥海、余計な事を言うな」
達騎が嫌そうに眉を寄せ、咎めるような口調で圭太に言う。だが、圭太は意に介さなかった。
「別にいいじゃん。知られたからって、お前の株が落ちるわけじゃなし。同じ巫子なんだから」
「そういう問題じゃない」
「へぇ、じゃぁ、どういう問題なんだ?あ、もしかして弱い所見せるのが嫌だとか?」
「鳥海」
圭太に睨みを効かせる達騎だったが、圭太はけらけらと笑った。
「今さらだろう、それ。鈴原、こいつは子供の時に霊に追いかけ回されたことがあるんだよ。海のあるホテルで。だから、近づくなオーラだして、寄ってくる霊達を牽制してるんだよ」
「そうだったの・・・」
子供の頃に怖い体験をしたのなら、臨海学校を楽しもうという気にはならないだろう。
「もし、しつこく寄ってくるようなら、私が白連で追い払ってあげる」
それなら、達騎も近づくなという氣を発さなくていいだろう。せっかくの臨海学校だ。友達と楽しめないのは損だ。
達騎のためにと悠子は提案したが、達騎の口から出たのは否定の言葉だった。
「いや、遠慮しとく」
「え、でも・・・」
「俺のことは気にするな。お前はお前で楽しめ」
達騎は手をひらひらと振る。
「散策組、集まれー!」
散策組の引率を行う担任の隼の声が響く。
生徒達が集まっていくのを見て、悠子も後を追った。
ガイドの輝を伴い、散策組は海岸沿いを歩く。輝による和宮の海の説明を聞きながら、悠子達は、二隻の船が泊る波止場へ向かった。
散策組を乗せた船は、スポーツ組が泳いでいる様を横目に見ながら進んでいく。
「わぁ・・・」
デッキに出た悠子の瞳に、どこまでも続く水平線を映しだされる。日の光で銀色に輝く海は、穏やかに凪いでいた。
潮風が悠子の頬を撫でる。
デッキの柵に手をつき、大きく息を吸った悠子は、感嘆の息を吐いた。
「これが海・・・」
なんて大きく、美しい。氣は、何かに包まれているような温かさを感じる。
それでも、これは海の一面に過ぎない。荒れてしまえば、この美しい景色も恐ろしいものと化す。
海の別の一面を思いながらも、悠子の心は弾んでいた。できることなら、眺めるだけでなく、海の中を見てみたかった。海の上だけでもこんなに美しいなら、海の中はどれだけなのだろう。
左手首につけられた二つのブレスレットが、悠子の目に入る。
実際、海を間近に目にすると、こうでもしなければ、近づくこともできない自分がくやしかった。
濃紺に輝く海の上で、直と楓は泳いでいた。
海の中は、赤や青、緑など鮮やかな色をした魚達で一杯だった。風が吹き渡る草原のようにゆらゆらと揺れている海藻のなかを、穏やかに泳いでいる。
「ぷはっ!」
海面に顔をつけていた直は、勢いよく顔を上げた。
「すっごい、きれいね」
「えぇ。悠子さんにも見せたいですね」
「そうね」
楓の言葉に直は頷く。
「・・・悠子さん、楽しんでいるでしょうか」
「そうねぇ。悠子なりに楽しんでいると思うわ。終わったら聞いてみましょ」
「そうですね」
楓は頷き、直とともに海へ潜った。
デッキの上で、悠子は潮風に髪を弄ばれながら、海を見つめていた。デッキに来た当初の跳ねるようなきらきらとした気持ちは鳴りを潜め、苦いものが胸に広がっていた。
「でかいな」
「えっ」
いつの間にか、達騎が隣に立ち、悠子と同じように海を見ていた。悠子は驚き、達騎を見る。達騎は目線を海に向けたまま、続けた。
「こんなにでかいと、自然の偉大さを嫌ってほど思い知らされる。人間も、巫子もちっぽけなもんだよな」
海に畏敬の念を示す達騎を悠子は意外に思った。
「草壁くんでもそういう事思うんだ?」
すると、達騎は心外だという表情を浮かべ、眉を思い切り寄せた。
「お前なぁ、俺を何だと思ってるんだよ?」
改めて聞かれ、悠子は少し考える。そして、口を開いた。
「・・・誰が、何が、相手でも強気な態度に出る人」
悠子の答えに、達騎が小さく息をついた。
「まぁ、間違ってはいないけどな。けど、俺だって敬う気持ちは持ってる」
達騎は、すねたような口調で言葉を紡ぎながら、悠子を見た。
「ご、ごめんね」
考えなしだったと思って謝ると、本気で怒っているわけではなかったのだろう、達騎は悠子の謝罪を素直に受け入れた。
「別にいいけどな」
けれど、悠子の言葉を完全に受け入れたわけではないのか、言葉の端々にどこか投げやりな雰囲気がかいま見えた。
思わず、悠子は苦笑を浮かべた。
船体が、波を切っていく。
餌でも探しているのか、カモメが一、二羽ほどフェリーの近くの海面を飛んでいるのが見えた。
「お前、そのブレスレット、どうした?」
話題が途切れ、何とはなしに海を見ていた悠子は、達騎に顔を向けた。
達騎は、悠子の手首につけられたブレスレットに目を落としていた。
「昨日は一つしかなかっただろ?」
「あ、うん。これ、おばあちゃんが用意してくれたの。受霊力の多い私が海に行けば、とり憑かれる可能性もある。そうならないようにって、これをくれたの」
悠子は、達騎にはっきり見えるように左手首を掲げた。
「へぇ、便利だな」
感心するように達騎が呟く。
祖母が褒められたようで嬉しいと思いながらも、胸の奥底に秘めたくやしさが悠子の中に湧き上がる。それは、自嘲の笑みとなって悠子の顔に現れた。
「でもこれがなければ、私はどこにもいけない。今更だけど、なんだかくやしいな」
受霊力がさほど強くなければ、ブレスレットをつけることなく、どこにでも行けただろう。生まれつきのものとはいえ、身を守ってくれるはずのブレスレットが、今は自分を縛る枷のように思えた。
「・・・・・」
達騎の静かな眼差しが、悠子に注がれる。見透かすようなその視線を受け止められず、悠子は顔を海の方へ向けた。
「ごめんね。愚痴みたいになっちゃった。さっ、楽しもう!せっかくの臨海学校だよ」
移動して景色を楽しもうと考えた悠子は、柵から離れる。
「鈴原」
その時、背中から声をかけられ、悠子は振り返る。達騎は、悠子に近づくと一息に言った。
「謝るなよ」
「え?」
「だから、謝るな。愚痴ぐらいなんだ。聞いてやる。俺は受霊力が高くない。お前の気持ちを完全に理解するのは難しいだろうが、お前が苦しいのはわかる。だから、遠慮なく言え」
達騎の思いもかけない言葉に、悠子は目を見開く。
「草壁くん・・・」
「だいたいお前は溜めすぎなんだ。もっと周りの人間を頼れよ」
「私、溜めてるつもりはないんだけど」
「だとしても、お前はもっと人に頼るべきだ。コウや七海、直の時も自分で何とかしようとしただろう」
「・・・自分でできることは自分でやりたかったの。草壁くんだってそうでしょう?それを分かってくれたから、早瀬くんや楓ちゃんの時は、一緒に行動してくれた。違う?」
じっと達騎を見る。達騎は頭をがしがしとかき、小さく息をついた。
「・・・お前に説教する気はなかった。俺も人のこと言えないしな。ただ、人に頼るのも悪いことじゃない。それを言いたかっただけだ。一人で突っ走られて、怪我されるよりは、頼ってくれたほうがずっといい」
「私、そんなに落ち着きがないかな・・・」
「少なくとも、七海や直に何かあれば後先考えず追いかけるくらいは、落ち着きがないな」
「うぐっ」
指摘され、否定することもできず、悠子は肩を落とした。
ふいに、デッキが騒がしくなった。
何人かの生徒達がデッキの左端に集まり、何やら言い合いながら、海の方を見つめている。その中に圭太の姿もあった。圭太は達騎を見ると、手招きをし、興奮した様子で声を上げた。
「草壁、イルカだぜ!しかも大群!」
互いに顔を見合わせ、悠子は達騎と共にデッキの左端に近寄る。
そこから見える海面には、圭太が言った通り、イルカの姿があった。
灰色のバンドウイルカが、二十頭ほどの群れで海の上を悠々と泳いでいる。
「すごい・・・」
柵を握りしめ、悠子はその姿を食い入るように見つめた。
その時、一頭のイルカが波の上を飛び跳ねた。美しい半円を描いて、海面に沈み、群れの中で再び泳ぎだす。
デッキからは、大きな歓声が上がった。
「よかったな」
隣を見れば、穏やかな眼差しを悠子に向け、達騎が微笑んでいた。
「初日にイルカの大群を見れることなんて滅多にないぜ。いい思い出になるんじゃないか?」
その言葉に、悠子は満面の笑みを浮かべて頷いた。
「うん!」
夕方にかけて、海を見た悠子達は、ホテルに戻り、夕食をとった。新鮮な海の幸に舌鼓を打ちながら、直や楓と話をした。その後は浴場で汗を流し、寝るだけとなった。
大浴場で、源泉かけ流しの湯につかり、疲れをとった悠子は、自分の部屋でパジャマに着替えた瞬間、大きなあくびをした。
(昨日、楽しみ過ぎて、あんまりよく眠れなかったからかな。早く寝よう・・・)
目をこすりながら、窓に近づく。寄せては返す暗い海の向こうに、街頭やビルのオレンジ色の光に包まれた和宮の街並みが見えた。
コンッ、コンッ。
『悠子ー、いるー?』
その時、ドアを叩く音とともに、向こう側から直の声がした。
開けると、直と楓がパジャマにカーディガンを羽織った姿でドアの前に立っていた。
「どうしたの?」
「女子会、しない?お菓子とか持ち寄って、たくさん話すの。場所は私の部屋」
「夕食を食べた会場では、あまりお話できませんでしたから」
直がウインクし、楓が優しい笑みを浮かべる。
二人の顔を見ながら、悠子は申し訳なく思いながらも、言葉を紡いだ。
「誘ってくれてありがとう。でも、ごめんね。今、すごく眠たいの。女子会は二人で楽しんで」
「そう・・・」
直は残念そうに眉を下げたが、次の瞬間、一転して目を輝かせた。
「じゃあ、明日やろう!楓、今日はゆっくり寝て、明日に備えるわよ」
そう言って、直は楓を見た。楓が頷く。
「そうですね。無理してやることでもないですし」
「そんな・・・。別に二人でやってもいいんだよ?」
せっかくの女子会をやめるなんてもったいない。そう思って言ったのだが、直は目くじらをたてて、悠子を見た。
「なに言ってるの!悠子もいなきゃ意味ないのよ!」
「そうですよ。夜までお話することなんて滅多にないんですから」
直だけでなく、楓さえも、悠子に言い聞かせるように強く言った。二人の様子に悠子も頷く。
「う、うん。分かった。じゃあ、明日ね」
「おやすみ~」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
手を振る直と、頭を下げる楓に悠子も返事を返し、ドアを閉めた。
(女子会かー。楽しみだな)
ベッドに入った悠子は、ふわふわとした気持ちのまま、眠りに落ちていった。
※※※
そこは別世界だった。
宝石のように様々な色の魚達が、西日の射す海の中を悠々と泳いでいる。そばには、子供の小さなカメが手足を揺らめかせて泳ぎ、バンドウイルカの親子が戯れるように進んでいく。
この景色を目に焼き付けたいと思った悠子だったが、息が続かず、仕方なく海面から上がった。
「はぁっ!」
大きく息を吸い、空気を肺に入れる。落ち着いてきたところで、夕日が顔に当たり、思わず顔を顰めた。
「悠子ー!そろそろ上がろう!」
「夕ご飯ですよー!」
その声に振り向けば、砂浜に直と楓の姿が見えた。
「うん、今いくね!」
片手を上げ、直達のいる砂浜まで泳ごうとしたその時、背後から、おどろおどろしい声が聞こえてきた。
(タスケテ、クルシイッ、ココカラダシテ・・・、ユルサナイ)
それは、女性の声ではあったが、一つではなかった。何人もの女性が、それぞれ別の言葉で感情をこめて、言い放っている。
その声から感じ取れたのは、飲み込まれそうなほどの悲しみ、怒り、そして憎しみだった。
気づけば、夕日は沈み、辺りは夜のように真っ暗になっていた。そして、次の瞬間、悠子の両足が何かに縫い付けられたように動かなくなった。
「えっ!」
目を凝らして、足元を見れば、人の手のようなものが両足に絡みついていた。それは、赤黒い色に染まっており、悠子が外そうとして両足をばたつかせても、びくともしなかった。
(クルシイッ、タスケテ、ドウシテ・・・、イタイ、コワイッ)
悠子の耳元で、まるで壊れたテープのように、いくつもの声が言葉を紡ぐ。
同時に、赤黒い手に包まれた足首に、針を刺した時のような鋭い痛みを感じた。
「つっ!ひゃぁっ!!」
痛みに呻いた刹那、突如、足を引っ張られ、悠子は海の中へ引きずり込まれた。
反射的に閉じてしまった目を開ければ、悠子の足元に赤黒い影のようなモノがいた。
(クルシイッ、タスケテ、ユルサナイ、コワイ・・・)
引きずられながら耳元で響く声に、悠子は恐怖した。
逃げようと必死にもがく。
だが、赤黒い影は悠子を押さえつけ、さらに海の底へ引きずり込もうとした。
(いやっ!たすけっ・・・)
心の中で叫んだ瞬間、悠子の意識はふつりと途切れた。
「はっ!」
がばりと勢いよく、悠子は起き上がった。
息を荒げ、辺りを見まわす。そこは、宿泊しているホテルの部屋だった。
「夢・・・」
悠子は大きく息を吐いた。手を見れば、微かに震えている。夢の中で聞いた声の残滓―怒り、悲しみ、憎しみ―が体に纏わりついているようで、悠子は自身の体を抱きしめた。
「・・・・!!」
次の瞬間、夢の中で感じたものが、体を突き抜けた。
それは、窓のある方角から強く感じた。悠子は窓に近寄り、感覚を研ぎ澄ませた。
「・・・近い」
なら、あの声は夢ではないということだ。しかし、街中に近いこの場所で、息が詰まるような強烈な悲しみ、怒り、憎しみが溢れる所などあるだろうか。
「そういえば・・・」
悠子は思いだした。ガイドの輝が言っていたことを。
『海岸沿いを真っ直ぐ行くと、洞窟がある。そこには小さな祠があって、昔はこの辺りの村人や漁師が海の神として崇めていたらしい』
祠。確かに輝は言っていた。しかし、神の家である祠に、あれだけの負の感情が込められるものだろうか。
―行ってみよう。
あの感覚がねっとりと纏わりついて、どうせ眠れない。それに、何も分からないまま、夜を過ごすのも嫌だった。
悠子は、パジャマから着替え、鍵は持たずに部屋を出た。