第百八十九幕 水晶屋
次の日、千鳥と雷が帰って来た。
加具土は再会を喜ぶとともに千鳥の手伝いを申し出た。
「かまわないよ。人手が欲しかったところだ。給金は悪いが出せない。だが、知るいい機会にはなるだろう」
「いい機会ですか?」
どういう意味だろう。
加具土が首を傾げると、雷が端的に言った。
「行けばわかる」
「あの、ここですか?」
加具土は目の前に広がる光景に戸惑うしかなかった。
夕刻、千鳥に連れられ、着いた場所は加具土が見たことのない場所だった。
敷地内を囲むように竹を斜めに切った柵があり、入り口である大きな門の向こうには提灯と篝火が焚かれ、まるで昼間のように明るい。
その赤々とした火に照らされ、格子が組まれた部屋に座る、着飾った多くの男女がいた。遠目にもその衣や髪飾りが高級な物だと分かる。
妖艶だがどこか儚さも感じさせる彼らは、外にいる者に手を伸ばしたり、物憂げに周囲を見ている者もいた。
「あぁ、色街は初めてかい」
色街――遊女や陰間、または芸者が集まり、働いている場所だ。暁月村にも彼らはいたが、大きな店でやっているわけではなく、空き家になった茅葺の家に数人が集まり、客をとっていた。
「はい」
「まぁ、興味がなけりゃ来るところでもないからね。ここは南燕の色街、名を憂里というんだ」
千鳥は口元に笑みをつくる。
「わたし達の仕事は、妓楼と陰間茶屋、芸者屋で働く者たちの診察だ」
さらっと雷は言ったが、加具土は目を見開く。それは、ここで働く全ての人間を診察するという意味だろか。
「さ、三人だけでこの街の人、全部を診るんですか!?」
さすがにそれは無茶だろう。すると、千鳥が「ははっ」と声を上げて笑った。
「そこまで無謀じゃないよ。医術師仲間にも声をかけて、分担する場所を決めてある。私達が診るのは、『水晶屋』という妓楼と『鳳凰屋』と呼ばれる陰間茶屋、そして『まほろば亭』という芸者屋の人間だ」
「そ、そうですか」
全部でなくてよかったとほっとしながら、加具土は頷いた。
「年に一回はやっているんだ。病気になってから医術師を呼ぶんじゃ遅いからね」
「すごいですね・・・」
年に一回。
遊女、陰間、芸者だけでなく、下働きをしている者も含むのだから、診察するのはかなりの人数になるだろう。それを、人手を集めて行っているのだから、千鳥の行動力には頭が下がる。
「まずは、水晶屋からだ。行こう」
感心していると、雷が先を促す。
「はい」
加具土は頷き、二人の背中を追いかけ、憂里へ入った。
憂里に入った瞬間、千鳥と雷は、提灯や篝火で赤々と灯る妓楼、陰間茶屋、芸者屋が並ぶ通りを逸れ、なぜか明かりの届かない路地へと入っていく。
路地には、大通りの見世とはかけ離れた狭い小屋が押しつぶされるようにいくつも並んでいた。外から見ても、人一人が入れるほどの空間しかないように見える小屋の周りには、通りの見世のように多くの客の姿があり、中には泥酔し、道端に寝転んでいる者もいた。
「ここに水晶屋さんがあるんですか?」
通りとはまるで違う、暗い道。見世と思われる小屋は狭いうえに小さく、辺りは黴臭く饐えたような臭いも漂う。働く者達の姿が見えないので、本当にここに水晶屋があるのか疑ってしまう。
おそるおそる尋ねれば、雷が前を向いたまま言った。
「そうだ。水晶屋は大通りの見世じゃない。路地にある狭い見世だ。水晶屋は、その小屋が五軒ぶん続いている。小屋に一人ずつ遊女がいて、水晶屋の主人は五軒分の見世を管理して営業しているんだ」
加具土は、団子のように連なる多くの小屋を見る。
小屋――見世――の周囲には通りにあるような提灯も篝火もない。小屋の中からかすかに明かりが漏れているが、注意深く見なければ、中に人がいるかどうかも分からない。
これが、全て遊女の働く見世。通りの見世とは大違いだ。
「診るのは、水晶屋のご主人と五人の遊女さんですか?」
外から見ても、狭く小さい見世だ。通りの見世のように下働きの人がいるようには見えない。
「あぁ」
雷が返事を返す。
「この路地は、客の間で地獄通りと呼ばれていてね。そして、あの明るい通りが極楽通りと言うんだが」
千鳥が路地の向こうに見える、提灯と篝火で照らされた(路地から見ると、その明かりは蝋燭の明かりのようにひどく小さい)通りを一瞥して一旦言葉を切る。
「この地獄通りで働く見世の遊女は、かつて極楽通りの見世で働いていた遊女だ。年季が明けても借金があってそれを返すために働く者、それから病気になって通りの見世で働けなくなってここへ移った者がほとんどだ」
「病気になっても働くんですか?」
「そうさ。病気になっても借金はあるからね」
「でも、わざわざ遊女として働かなくても、ほかの働き口があるんじゃないですか?」
「それは難しいだろうね。遊女は若いときに売られてここに来た娘達だ。ここしか知らないし、遊女としての働き方しか知らない者も多い。読み書きや三味線などの芸事はできるが、それで食っていくのは大変だろう。若い女が読み書きや三味線を教えるために塾を開いても周りの目がある。色目を使っているんじゃないかとかね。たとえ遊女をやめても、周りの人間はそう思ってくれない。だから、色街に戻って妓楼の下働きになるか、こんな路地にある妓楼――切見世と呼ばれている――の遊女になるしかない」
「・・・・・・」
遊女として働いていても、遊女を辞めたとしてもその環境は過酷だということがよくわかった。
その過酷な環境を少しでも改善しようと、千鳥と医術師の仲間たちは奮闘しているのだろう。
「・・・さて、着いたぞ」
話をしながら歩いているうちに、水晶屋に着いたらしい。
雷の視線の先を見れば、水晶屋という名の割にその欠片もない、狭い小屋が五軒、今にも潰れそうな形で建っていた。五軒の小屋の隣には、さらに小さい小屋があり、そこに水晶屋と書かれた看板がさげられていた。
そして、その五軒の見世からは、途切れ途切れに人の話し声と嬌声が漏れ聞こえてきた。
耳をふさいでいたほうがいいだろうか。
顔が熱くなるのを感じながら、加具土は千鳥と雷を見るが、二人は平然としていた。
私がおかしいのだろうか、と思ったその時、「ちっ」と千鳥がいらただしげに舌打ちをした。
「あのハゲ。仕事をさせるなっつたのに」
千鳥は顔を顰めながら、足音荒く、看板のさげられた小屋の戸を勢いよく開け放つ。
「蝉丸っ!!」
そこにいたのは、行灯の明かりの下で酒を飲む、頭を剃った三十代ほどの男だった。
「ぶっ、ち、千鳥!!っげほ、ごほっ!!」
驚いたのか、蝉丸と呼ばれた男は口に含んでいた酒を吹き出した。同時に酒が気道に入ったのか、咳を繰り返す。そんな蝉丸に構わず、千鳥は小屋に上がり込んだ。
「のんきに酒を飲んでるんじゃないよ!私が来ることは文で知っていただろう!藍達に仕事をさせやがって!呼んでこい。ここに集めるんだ」
「しっ、仕事中だぞ!」
咳が止まった蝉丸が咎めるように千鳥を見た。千鳥は意に返さず、蔑むような視線を向ける。
「お前が約束を破ってたんだ。客に罵倒されるくらいなんだい。あの子たちはもっとしんどいんだ。とっとと行け。それとも何かい?十二司が決めた年に一度の健診をさぼろうっていうのかい?」
「う・・・!」
『優里で働く人間を診る』という仕事は十二司の采配だったのだ。仕事の斡旋や住む場所の提供だけだと思っていたが、それだけではなく他の仕事もあるらしい。
十二司の名を出すと、蝉丸は小さく呻き、しぶしぶ小屋を出て行った。
しばらくして、隣の小屋から怒りに満ちた女と男の声が響く。
『おい、いきなり何だ!』
『楽しんでるのに入ってくるんじゃねえよ!』
そんな二人を宥め、謝罪する蝉丸の声も聞こえてきた。そんな声が四回ほど聞こえ、しばらくした後、四人の女性が姿を現した。
仕事の最中だったためか、頭の上でまとめた髪はほつれ、胸元もはだけ、帯もきっちりと巻いてはいなかった。蝉丸と同じく三十代と思しき彼女らは、白粉も紅も塗っていなかったが、気まずくなるほど匂いたつ妖艶さを放っていた。
「まったく、千鳥先生の文を無視するとは馬鹿か。お前は」
呆れたような視線を送るのは、浅葱色の髪に群青色の瞳をした女性だった。
「きっとお酒を飲んでてちゃんと読んでなかったのよ。ほんとは無視しちゃいけないのに、蝉丸も悪い子よね~。頭の中にはお酒しか詰まっていないんじゃないかしら~」
にこにこと笑みを浮かべ、甘い声で蝉丸を詰る女性は、翡翠色の髪に飴色の瞳をしていた。
「お酒が詰まっているなら、四六時中酔っぱらって仕事ができないでしょう。甘い饅頭が詰まってるんじゃないですか?この間も私たちに内緒で食べていましたし」
淡々と言葉を紡ぎながら、非難めいた眼差しを蝉丸に向ける女性は、尾花色の髪に紅色の瞳をしていた。
「はいはい。蝉丸をいじるのはその辺にして。千鳥先生に診てもらうんだから、礼儀正しくね」
不穏な空気を切り裂くように、伽羅色の髪に紫紺色の瞳の女性が手をぱんぱんと打つ。
「はーい」
彼女の言葉に不服そうな表情を浮かべながらも、三人は返事を返した。
「佐保はどうしたんだい?」
千鳥が尋ねる。
そういえば、五人いるはずなのに一人足りない。
すると、蝉丸が顔を曇らせた。
「あいつは体調が悪い。声は掛けたが、反応は悪かった」
「一週間前から悪化しているんだ。千鳥先生がくれた薬は飲んでるみたいだけど、なかなか治らないみたいで。他の医術師を呼ぼうかと思ったけど、先生が来てくれてよかったよ」
浅葱色の髪の女性が安堵したように微笑む。
「そうか。わかった。佐保の方は私から行く。さ、あんた達の診察をするよ。藍、鶺鴒、つらら、繭、順に並んでくれ。蝉丸はその後だ。雷、蝉丸から掃除道具の場所を教えてもらえ。井戸の場所も知っている」
「分かった」
「は~い」
千鳥の言葉に雷が頷き、それを合図に、浅葱色の髪の女性――藍――、翡翠色の髪の女性――鶺鴒――、雄花色の髪の女性―――つらら――、伽羅色の髪の女性――繭――の順に列をつくる。
「加具土」
「はい!」
千鳥に呼ばれ、手伝いかと張り切った声を上げた加具土だったが、次の言葉に目を瞬かせた。
「雷と一緒に掃除をしてくれ。やり方は雷が知っている」
「え・・・」
掃除?診察の手伝いではなく・・・?
いや、掃除だって立派な仕事ではあるが。
戸惑いながら千鳥を見るが、彼女はすでに背負っていた薬籠から器具を取り出し、藍達の診察にはいっていた。
「加具土」
「あ、はい!」
雷に呼ばれ、振り返ると彼は苦笑を浮かべていた。
「張り切っていたところをすまないが、わたしと一緒に彼女達が住み、働いている小屋の掃除をしてもらいたい」
「わ、わかりました・・・」
張り切っていることが態度に出ていたことに恥ずかしさを感じながら、加具土は返事を返した。
「掃除道具がある場所は、蝉丸さんが知っているそうだから案内して貰おう。頼みます」
雷の言葉に蝉丸が頷き、「こっちだ」と外へ促した。
その後を雷と加具土はついていく。
行灯の明かりで照らされた部屋を目にしていたせいか、外はやけに暗く、飲み込まれそうな闇に満ちていた。