第百八十四幕 母、来る
一月が経ち、季節は緑が青々と茂る皐月となった。
山並みは鮮やかな緑で染められ、加具土の部屋から見えていた桜も桃色の花弁を散らし、瑞々しい緑の葉で覆われていた。
続けていれば、仕事の容量も分かってくる。加具土は時間が空いた時に、いさなに文字を教えていた。場所は加具土の部屋、あるいはいさなの部屋だった。水守は文字を教わることを断っていたが、見ているのは好きなようで、彼女の部屋に招待されることもしばしばだった。
いつものように午前の仕事を終え、昼餉にしようと階段を下り、食堂へ向かおうとした時、加具土は聞き慣れた声を聞いた。それは紛れもない活杙の声だった。
「私の娘がお世話になっています。この宿のご主人はいらっしゃいますか」
なぜ、ここに母が?
文は送ったが、この場所は書いていない。どうやって、居場所を突き止めたのか。
「加具土、どうした?顔色が悪いぞ」
石榴が顔を覗き込む。
「だ、大丈夫です!さ、食堂に行きましょう!」
加具土は石榴を追い越し、急ぎ足で食堂へ向かった。
何も悪いことはしていないが、気分はあまり良くなかった。
「加具土。ちょっといいか」
午後。
緑野とともに掃除の仕事をしていると、菫青が部屋に現れ、声をかけてきた。
「はい」
仕事の手を止め、菫青の元へ向かう。何となく呼ばれた理由が分かった気がした。想像した通りでないことを頭の片隅で願う。
「君の母上――活杙さんがここに来ている。会いたいとおっしゃっているから、仕事が終わってから行きなさい。部屋は一歩堂の「扶郎花の間」だ」
「・・・は、はい」
断るわけにもいかず、加具土は頷く。菫青が出て行くのを見送り、緑野の元へ戻った。
「浮かない顔だな?嬉しくないのか」
話を聞いていたのだろう。緑野が不思議そうな顔を向けた。
「いえ・・・。そういうわけじゃないんですけど・・・」
会える事は嬉しい。だが、呪いの事もある。素直に喜ぶことができなかった。
「行った方がいい。言えなくなってからじゃ遅いからな」
緑野がぽつりと呟く。その表情はどこか寂しげだった。
加具土は、はっとする。緑野は両親に何も言えないまま別れていた。
「母は何も言わずに仕事に行った。珍しく抱きしめてくるから変だと思っていたけれど、その日に亡くなったと聞かされたし、父の場合はいつものように見送って、その後同じように亡くなったと言われた。だから、ありがとうも何も俺は言えてない」
緑野は加具土を見据え、言った。
「だから、会えるときに会った方がいい。後悔しないためにも」
会いたいと誰よりも思っているのは、緑野自身だろう。その言葉の重みを受けて加具土は思い直した。
母と話そう。皆と離れた理由は文にも書いたが、口にしなければ伝わらない事もある。
加具土はこくりと頷いた。
午後の仕事は終わった後、加具土は活杙が待つ扶郎花の間へ向かった。
「久しぶりね、加具土」
数か月ぶりの再会だった。活杙は少し瘦せていた。
「う、うん」
元気そうでよかった、とか。皆は元気かとか、どうしてここか分かったのか。
様々な思いが頭をよぎったが、言葉にならなかった。母の、――少し痩せていたが――変わらない姿に心底安堵したからだ。
「文を読んだわ。みんなにも読んでもらった。あなたが私たちの元を離れた理由もわかった」
「そ、そっか」
家族に読んでもらうつもりで書いてはいたが、直接言われると少し気恥ずかしい。
「それで、私たちの結論なんだけど」
「うん」
いきなり本題から入った。少し緊張する。どんな態度で何を言うだろう。拒絶か、怒りか。
そんな態度を活杙がするとは思わないが、それでも怖かった。心の中までは読めない。
活杙は一旦言葉を切ると、実にあっけらかんと言った。
「別に気にしないことにしたわ」
「はいっ!?」
一瞬聞き間違えたかと思った。思わず加具土は聞き返すが、活杙は意に介すことなく、先を続けた。
「いくら女神の言葉とはいえ、私たちや村の皆を不幸にするなんてできないわよ。それぞれの人の人生を変えるなんて、運命の神なんてものがいたらできるけれど。でも、死や不幸は神が与えるものではないわ。伊邪那美は根の国の主だけれど死そのものではないわ。だから、そう気に病むこともないんじゃないかしら」
「そうなのかな・・・」
活杙の言葉は理に適っているが、その理を超越するのが神なのではないか。
「たとえ呪いが本当だとしても、私は起こるかもしれない不幸や不運を思って縮こまっているよりも、今できることをやりたい、楽しみたい。加具土、あなただって隠れて生きるより誰かと触れ合って生きたいでしょう?」
「お母さん・・・」
活杙はにこりと笑った。
「私はあなたを独りになんてさせないわ。私だけじゃない。みんなもよ」
そして、麻の葉柄の風呂敷から三枚の文を取り出した。
「これが胡蝶、これが角杙、これがヨミの文よ」
人差し指で示され、加具土は左端の胡蝶の文を取り、広げた。
『加具土、元気?体は壊していない?文を見た時は驚いたけれど、あなたが生きていてよかった。知らない男の人たちが突然入ってきて、私たちを家から追い出した時、あなたが血を流して倒れているのを見て血の気が引いたわ。お義母さんが覆いかぶさって、能力を使ってあなたを治したと聞くまでは気が気じゃなかった。離れ離れになってしまったけれど、村に帰れば会えると思っていたから、村中探してもいないと分かった時は悲しかったわ。お義父さんもヨミも長い間探していたのよ。見つからないあなたに、私たちは半ばあきらめかけていたの。でもそこにあなたの文が届いて、皆驚いて、お義母さんと私は気づいたら泣いていたわ。でも、私は少し怒っているの。あなたの気持ちも分からないではないけれど、なんの説明もされずに遠くに行かれてしまった私たちの気持ちを察してくれてもよかったんじゃないかしら。私たちは家族なのに。どうして一人で行ってしまったの。それが私は悲しい。あなたはヨミの仲を取り持ってくれたり、友達のように、時には姉、妹のように接してくれたわ。私の大切な家族だから、辛いことも苦しいことも話してほしかった』
胡蝶の文は、加具土と別れた時点から始まり、その後のこと、そして一人で行ってしまった加具土に対する想いが書かれていた。
『私のお説教はここまで。ここからは、あなたに伝えていなかったことを書くわ。あの子の名前なんだけれど、ヨミと話し合って、加具矢という名前にしました。そう、あなたの名前をもらったの。新年には大きくなった加具矢を見せるのを楽しみにしているわ。待っているわね 胡蝶』
そう締めくくられ、文は終わっていた。
まさかあの子の名前に自分の名が使われるとは思わなかった。くすぐったいような、申し訳ないような気分になる。
けれど、実の母の命を奪った自分の名。それをつけていいのだろうか。
それを口にすると、活杙は笑った。
「そんな事言ったら、胡蝶とヨミが怒るわよ。どれだけ自分を卑下するんだって。あなたの人となりを知っている二人が息子につけたんだから、胸を張りなさい」
そう励ましてくれた。
次に加具土は角杙の文を取り、広げた。
『加具土。お前がこれを読んでいるということは、活杙に会えたということだろう。活杙は、お前が書いた文に残る氣を読んで、お前を探すという突拍子もないことを思いついた。雲を掴むようなことだと止めたが、あいつの意思は固かった。おれも一緒に行こうと言ったが、復興作業もあり、まだ小さい加具矢のこともあって止められた。活杙曰く、まだヨミと胡蝶の二人だけでは不安だということだった。胡蝶の家族も時々来てくれるが、明全の介護もある。あまり頼ることはできない。一緒に来られなくてすまない』
活杙が雲母荘まで来られた理由はそれだったのか。なんという無茶なことを。若干痩せているのもそれが原因だろうか。後で聞こう。加具土は心の中で小さく頷く。
それから明全の介抱。加具土が出て行こうとした直前、倒れたという言葉を耳にしていた。倒れたことと、真秀の谷の重労働が戻ってきてからも尾を引いているのかもしれない。
不安が加具土の胸を覆った。
『それから、呪いの件についてはあまり気にしていない。伊邪那美は死者の魂が住む根の国の長だが、死そのものではないし、多くの者の運命を変える力を持っているわけではない。要は、気持ちの問題だ。回りに多くの不幸や死が訪れれば、確実に自分のせいだと思うだろう。お前を追い詰め、独りにさせようと考えているのかもしれない。しかし、そんな事はさせない。お前は一人じゃない。おれ達の優しさが辛いと思うこともあるかもしれないが、悪いがお前を見放すつもりも責めるつもりもないからそのつもりでいろ。お前はおれと活杙の娘だ。諦めの悪い親をもった事を後悔するかもしれないが、これがおれ達のやり方だ。諦めろ。では、新年に会える日を楽しみにしている 角杙』
――見放すつもりも責めるつもりもない。
それは、角杙だけでなく、活杙、胡蝶、そしてヨミもそうなのだろう。
でなければ、文など送ってくれるはずがない。
嬉しかった。胸がいっぱいになるほどに。そして同じくらい苦しかった。
もし、彼らに何かがあったら、加具土は確実に自分を責めるだろう。けれど、たとえ何があっても彼らは手を離さない。それに報いるのは、自分もその手を離さないことだ。その覚悟をしなければ。
加具土はひそかに決意しながら、活杙を見た。
「お母さん、私の氣を追うなんていう無茶をしたんだ。だから前より痩せたの?」
目を細め、口調を強めて言えば、活杙は「そうよ」と何でもないように頷いた。
「どうしてそんなこと・・・。大変だったでしょ?」
「大変だったけれど、あなたが生きてるって分かったから、すぐにでも会いたいと思ったのよ。まぁ、大分時間がかかちゃったけれど」
「でも痩せるくらい大変だったのに・・・」
そこまでしてやらなくてもよかったのではないか。家族の文をもらえたのは嬉しいが。
すると、活杙は身を乗り出し、加具土を見据えた。
「あのね~!血を流して倒れたあなたを治して、色々あったけれどどうにか村に帰れて、だけどあなたがいないと知った時は叫びそうだったわ。生きているのか死んでいるのか、私たちを追っていったのか、私たちが村に帰ってきたのも知らず、まだそこにいるのか。私の能力が足りなかったのか。色々な事を考えて頭がどうにかなりそうだった。でも、そこにあなたの文が届いて、本当に嬉しかった。泣きそう、実際に泣いたけれど。でも文だけじゃ足りなかった。あなたの元気な姿を直接見たかった。だから、多少の無茶をしてもあなたに会おうと思ったの!」
「・・・・・・」
活杙の加具土を思う言葉に、加具土は奥歯を噛みしめた。そうしなければ、涙が零れそうだった。
「心配かけてごめなさい。探しに来てくれてありがとう・・・」
涙を堪え、微笑みながら言うと、活杙は「どういたしまして」と笑った。
次に加具土はヨミの文を開いた。
そこには文いっぱいに、達筆な字でただ一言、『新年には帰ってこい』とだけ書かれていた。
ヨミらしい文に、加具土は思わず苦笑する。
「なに?どうかした?」
「ヨミの文。これだけを大きく書いてあるの」
「あぁ。多分、言いたい事は会って直接言うつもりなのよ、あの子」
「お説教かな」
「それに近い事は言われるかもしれないわね。でも、それもあなたを心配していたからよ。ちゃんと聞いてあげなさい」
「うん・・・」
何を言われるだろう。怖いような、嬉しいような複雑な心境だ。
その後、活杙は暁月村の様子も話してくれた。家も田もだいぶできて、かつての賑わいが戻っていること。
明全の事も聞けば、倒れたがすぐに意識が回復したということだったが、禮甫という国へ連れていかれ、重労働を強いられたせいで体を壊し、ほぼ寝たきりの状態であること、明全の様子を胡蝶の家族だけでなく、活杙らもみていることを話してくれた。
「・・・・・」
そんな大変なことになっているとは知らなかった。もう少し早く小闇に会っていたら、と思わずにはいられない。
「こら。なに暗い顔してるの」
「いた」
活杙に額を弾かれた。
「明全――村長が倒れてしまったことはあなたのせいじゃないでしょう。無理に明るくしろとは言わないけれど、まるで自分がこの世の不幸を背負っているような顔をするのはやめなさい」
小闇の事を活杙は知らない。これ以上、暗い顔をしていたら不審――いや、心配されてしまうだろう。それに先ほど決めたはずだ。――何があっても家族と村の縁は切らないと。
「・・・はい」
痛みが残る額をさすりながら、加具土は頷いた。
それから、雲母荘に一泊した活杙は、暁月村へ帰っていった。
「新年には帰ってきなさい」と一言言い添え、いや念押しして。
活杙を見送りながら、加具土は思った。
これは、絶対に新年には帰らないといけない。
雲母荘では、休暇は言えばとれると聞いているが、早めに言わないと困ってしまうだろう。
菫青に相談しなければ。
考えながら、加具土は活杙に会うまで抱いていた複雑な気持ちが、すっとなくなっていることに気がついた。
もっと早く活杙達に相談していれば、一人でいようと固く決意することもなかったのかもしれない。けれど、そうなっていれば凪に来ることはなかったし、水守たちに会うことも、凪のことを知る事もなかっただろう。
――覚悟はできた。正直、これでよかったのかは分からない。けれど、一歩前進できたような、清々しい気分に加具土は包まれていた。