第百八十二幕 牙蘭の王
緑野の言葉で、部屋中に動揺した空気が広がる。
誰も口を挟めず、加具土も緑野の横顔を見つめることしかできない。
「本当はこんな形で聞くつもりはなかった。ですが、今日あなたが発つと聞いて、時間がないと思った。お願いです。父と母の死の真相を教えてください。前王の側仕えをしていたあなたなら知っているはずです」
竜鐘は必死に言い募る緑野を見つめたまま、難しい顔をして眉を寄せていた。
前王の側仕え。竜鐘がそんな立派な人物だったとは。世間は広いようで狭いという事だろうか。加具土は顔には出さずに驚く。
やがて、竜鐘が躊躇いがちに口を開いた。
「・・・それを聞いてそなたはどうする?」
「どうもしません。ただ、真実を知りたいだけです」
「真実か。それが望まないものだったとしても?」
「かまいません」
緑野は即答した。
「私は母と父を十歳のときに亡くしました。父が亡くなった後、喪が過ぎる前に、逃げるように叔父夫婦に連れられ、ここに来ました。叔父はよく言っていました。『父は、お前の母のために、いと高き方に歯向かった。自分の命が脅かされるかもしれないと分かった上で。それでも言わずにはおれなかった。その気持ちはよくわかる。だが、幼いお前の事を思えば言ってはいけなかったと私は思う』と。叔母は言っていました。『誰かを恨んでも憎んでもいけない。生きて幸せになりなさい』と」
緑野は続けた。
「叔父、叔母の気持ちはわかっているつもりです。ですが、私は知りたい。どうして両親が亡くなったのか。叔父と叔母は病で亡くなるまで、くわしい理由を話してくれなかった。言えば、私が復讐すると思ったのかもしれません。ですが、私は二人の想いを砕こうなんて思っていません。ただ、知りたいのです。あなたの名は両親から聞いて知っていました。お願いです。教えてください」
瞳に強い光を称え、緑野は竜鐘を見返す。一拍置いて、竜鐘は重々しく頷いた。
「・・・わかった。私が知る限りのことを話そう」
緑野の母、保紫は牙蘭の正妃、綸麗付きの女官だった。ある日、保紫は王を補佐する大臣の道欠と綸麗の密会を目撃してしまい、第一王子・識暁が王、盟順の子でないことを知る。それを知ってしまった保紫は、正妃綸麗から側室の子である第二王子、長庚の殺害――毒殺を命じられる。
そうしなければ、保紫の命だけでなく、夫の黄紀と息子緑野の命を奪うとまで告げられたという。
保紫は、家族と長庚の命を救うため、長庚に盛られるはずだった毒を飲み、王族が一堂に会する茶会の席で自らの命を絶った。
会場は騒然となり、王族の警護はさらに厚くなった。
なぜ毒が茶会に紛れ込んだのか。保紫が死んだのはなぜか。
宮中で犯人捜しが始まった。だが一向に犯人は見つからず、保紫の喪が明けた頃、王と官吏らが会議をしていた『王の間』に一人の男が現れた。
男は、保紫の夫である黄紀だった。
黄紀は手にした保紫の遺書を読み、保紫の死の真相を告げた。
「大王様、こやつの言った事は戯言です!お聞きくださいますな!!」
王、盟順の左隣に座っていた道欠が音をたてて立ち上がり、青筋を立て唾を飛ばしながら黄紀を指さした。
「妻を殺された腹いせに、このような愚行をおかすなど!!牢屋にぶち込むのも生ぬるい!!」
「ならば、私を殺しますか?今、ここで」
怒りを露わにした道欠に対し、黄紀は淡々としていた。その顔には、保紫を亡くした怒りも悲しみも憎しみもなく、逆に恐ろしささえ感じられた。
「出ていけ」
盟順が黄紀を見て呟く。道欠は唇の端を持ち上げ、勝ち誇った表情を浮かべた。
「大王様のいう通りだ!出ていけ!お前の戯言を真に受ける者などここには一人もいない!!」
「出ていくのはお前だ。道欠」
「だ、大王様、今何と!!」
盟順の言葉に、道欠はたじろぎ、慌てる。
「道欠。二度は言わん。出ていけ」
「大王様、あの男の言葉を信じるのですか!!」
「私は誰も信じていない」
顔を青ざめさせ、信じられないといった表情を浮かべる道欠を見ることなく、盟順はばっさりと切り捨てた。その瞳には冷ややかな光が浮かんでいた。道欠が言葉に詰まったように口をつぐみ、喉をごくりと鳴らした。
「・・・わ、わかりました。・・・失礼いたします」
道欠は悄然としながら、盟順に頭を下げ、『王の間』を出て行った。
「大王様、道欠殿がいないとなると業務に支障が・・・」
「業務を割り振り、調整しろ。采配は任せる」
「は、はい」
同じく王を補佐する大連の獅司が不安気に告げるが、それさえも切り裂くかのように盟順は指示を出す。
結果、押し切られた形になった。獅司の表情は冴えないままだったが、彼は了承の返事を返した。
「私は愛する者を亡くしました。大王様、あなたの普段の行いが妻を――保紫を殺したも同然です」
「貴様、大王様を愚弄する気か!!」
褐色の肌に白い瞳をもつ若者が黄紀に向かって声を荒げた。
若者は、牙蘭の西に位置する酉鬣の政治を担当する国造であり、名を若怜といった。
有能な官吏で、王に心酔している者の一人だった。
若怜を気に留めることなく、黄紀は王である盟順を睨みつける。
「大王様、あなたは識暁様が自身の御子でないことに気が付いていましたね?」
黄紀のその一言で『王の間』に衝撃が走った。若怜は目を見開き、王を囲むように座る官吏らもどよめいた。また、ある者は王の顔色を窺った。
「それを知っていながら、あなたは綸麗様にも大臣の道欠様にも何もおっしゃらず、何もしなかった。あなたが一言言っていれば、二人は長庚様を暗殺するという愚行を考えようとはしなかったでしょう。違いますか」
「そ、それは結果論だ!!」
軍事、財政、祭祀を司る伴造の一人、勝鷗が灰と黒の斑の髪を振り乱し、苦し気に反論する。黄紀は勝鷗を一瞥しただけで、何も言わなかった。
彼の目線は常に王に向けられていた。
「・・・あなたは変わった。橙奈が亡くなったあの日から」
睨みつける目力は変わらなかったが、黄紀の口調が変わる。そこには微かに憐憫が混じっていた。
――橙奈。
王の間の端に控えていた竜鐘は、その名を聞いて驚いた。
側仕えに任命されてまだ一年の竜鐘でさえ、その名は知っていた。かつての王、当時王子だった盟順が唯一愛した、平民の女性の名だった。しかし、詳しい事は知らない。
噂は数多くあり、二人は互いに愛し合っていたが、当時の王――つまり盟順の父親が、二人が結ばれることを許さず、結局別れることになったというものや、橙奈の存在を脅威に感じた王が彼女とその家族を殺すよう命じたなどという暗殺話まで多岐に渡っていた。真相は分からないが、盟順が王になる前、平民の女性を愛したことは本当だった。
竜鐘は黄紀の横顔を見、盟順に気づかれないよう、そっと表情を窺った。表情は変わらないものの、盟順の瞳は揺れているように見えた。
「あなたが橙奈を誰よりも愛していたのは知っています。あなたと彼女を引き合わせたのは私ですから。・・・そして、橙奈を亡くしたあの日から、あなたは誰も信じなくなった。誰も愛さなくなった。身内や官吏をこの牙蘭を動かす歯車にしか思っていない。その人となりがどうであれ国のために働いてくれれば、身内争いや勢力争いをしようが構わない。あなたのなかには愛情も優しさもある。だが、それは必要であるときで必要でなければ注ぐことはない」
黄紀の言葉は王を侮辱することに等しかった。だが、巨大な卓を囲み、椅子に座った官吏らは、一言も言葉を発さない。黄紀の言うことに覚えがあるのか、もしくは王の個人的なことに口を挟むことが恐れ多いと思っているのか。
張り詰めた空気が王の間を包む。
黄紀の後に誰も言葉を発さず、このまま膠着状態が続くのかと思われたその時、盟順が口を開いた。
「・・・そうだ。お前の言う通りだ。橙奈が死んだあの日、私の心は死んだ。ここにいるのは、王という殻を被っただけのただの男だ」
「大王様!」
勝鷗がぎょっと目を剝きながら、声を上げる。
「何を言っているのです!あなたはこの国の王です!ただの民ではございません!」
「そうです!この牙蘭を切り開いた祖先、啓霧様の血を引いているのです。格が違います!」
若怜が自分のことでもないのに胸を張り、盟順を期待を込めて見つめる。
二人の意気込んだ物言いに、盟順が俯き、深く息をついた。
「・・・ありがたいことに、ここには私を王として見てくれる者が大勢いる」
それは感謝の言葉にも聞こえたが、盟順の暗い表情がそうではないことを告げていた。
「当たり前です!」
「我らの忠誠を甘く見ないでいただきたい!」
若怜も勝鷗も王の表情に気づいていないらしく、自分の言いたい事を力強く言い放った。
「そうです!」
「まさにその通り!」
二人に追随するかのように、王の間にいる官吏ら全員が明るい声を上げる。
それを本心から発している者もいるようだったが、盟順が発する暗い空気を払拭しようとしているようにも見えた。
「あなたのその生き方の結果が、最悪なものにならないことを願っています」
黄紀の瞳に感情は浮かんでいなかったが、代わりにとばかりに、その声には怒りと悲しみが入り混じったような複雑なものが感じられた。
黄紀に対し、盟順は言葉を返さなかった。ただ、じっと黄紀を見つめているだけだった。
言いたい事は言い終えたというように、黄紀は「それでは失礼いたします」と一礼し、王の間を出ようとする。
「待て、貴様!このまま出られるとでも思っているのか!」
「若怜」
怒りで顔を赤くさせ、黄紀の背に向かって叫ぶ若怜を盟順が制した。
「大王様?」
若怜が訝し気に盟順を見やる。
盟順は若怜に視線を向けることなく、黄紀に目を向けたまま言った。
「かまわない。下がっていい」
「大王様!?」
「この男を見逃すのですか!?」
若怜がぎょっとし、勝鷗が声を上げる。
「問題をすり替えるな。今重要な事は保紫の死の真相を解明することだ。宮殿内で死者が出たことはここで働く者たちの耳に入っている。彼らの不安を取り除き、平穏な生活を取り戻さなければならない。この会議の後、道欠を呼び出す。綸麗は私が直接後宮に赴いてはなしを聞く。以上だ」
これ以上は聞く耳を持たぬ、とでもいいたげなきっぱりとした言い方で、盟順は二人の反論を受け付けなかった。
若怜は代わりとばかりに黄紀を勢いよく睨みつけ、勝鷗は苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべる。しかし、それも一瞬のことだった。
二人は「・・・仰せのままに。大王様」と盟順の意を汲み、頭を下げた。これ以上反論しても無意味だと長年の経験で知っているからだ。
「仰せのままに。大王様」
ほかの官吏達が一斉に声を揃え、同じように大王の意に従った。
黄紀は再び頭を下げ、振り返ることなく、王の間を出ていった。
「この後、大王様は道欠を呼び出し、事の真相を問いただした。私は直接その様子を見てはいないが、関わった者から聞いたところによると、最初私は知らないと一点張りだったが、冷静な態度を崩さない大王様の姿に逃れられないと観念して、綸麗様と結託して、お前の母に長庚様を殺すよう言ったという。暗殺を謀った罪として、道欠は北の果てにある、作物もろくに育たない荒野がほとんどを占めるという尾背という土地に飛ばされた。綸麗様のことは後宮の女官から話を聞いたが、大王様が御一人で来られ、二人で静かに話しておられたが、しばらくして綸麗様が大王様を詰る声が聞こえてきたという。ついには泣きだして、ここにおいてほしいと懇願する言葉も聞いたそうだ。大王様は綸麗様の話を聞いたうえで、実家がある脚楠へ帰したそうだ。道欠に関して追放は生ぬるいという声や、綸麗様が可哀そうだという声も上がったが、大王様は一顧だにしなかった」
竜鐘は緑野を見つめ、続けた。
「やがて、宮殿内も落ち着き、平穏が戻ってきた矢先、そなたの父が亡くなった。その訃報を聞いた時、私は大王様のおそばにいた。大王様は表面上は普段通りに振舞われていたが、内心はどうだったか。そなたの父のことを親友だと言われていたからな」
「・・・どうして亡くなったか聞いていますか?」
「階段から誤って落ちたと聞いている。大王様とともに、落ちたという階段を見に行った。大王様は彼が誤って落ちたことが腑に落ちなかったのか、何度も見に行き、その時間帯に働いていた官吏や女官達に話を聞いてもいたが、彼が他者の手で葬られたという証拠は見つけられず、事故として片付けられた」
「・・・そうですか」
王に歯向かったのだから、誰かに殺されたかもしれないと緑野は考えていたのかもしれない。だが、王自身が調べ、事故だと判断した。釈然としないが、納得するほかない。そんな声だった。
「叔父たちは、父が王に謁見したことで誰かに殺されたと思ったのかもしれません。母の事もありますから。父の死因を知るよりも私の事を思って牙蘭を出たのかもしれません。あるいは、父から言われていたのかもしれない。もう確かめるすべはありませんが」
自身を納得させるかのような、けれど物寂しい口調で緑野は言う。一旦、言葉を切り、緑野は竜鐘を見据えた。
「・・・教えてくれてありがとうございます」
吹っ切れたような声を上げ、緑野は頭を下げた。
張り詰めた空気がほんの少し柔らかいものに変わる。梨虎がそれを逃さないとばかりに明るい声を上げた。
「竜鐘殿は、今もそば仕えをしているの?」
「あぁ。ただ仕える方は変わった。今牙蘭を治めている王は、識暁様だ。かつての第一王子だ」
「その方はどんな方なのかしら?」
「明るく、優しく、皆の意見を幅広く聞いてくれる、頭の良い方だ。牙蘭の民全てに慕われている。識暁様が大王になられてからは王宮の評判もいい。地方を出て王宮で働きたいという者も多く出ている」
「素晴らしい方なのね」
「素晴らしい、か。あまりに完璧すぎて、こんな人間が本当にいるのかと思うくらいだ。それが少し不安と言えば不安だな」
竜鐘の顔が少し翳る。だが、次の瞬間、ハッとした表情になり、こほんと咳払いを一つした。
「いや。これは贅沢な愚痴だな。気にしないでくれ」
「え、えぇ」
梨虎が戸惑いながらも頷いた。
「竜鐘様、お願いがございます」
緑野は強い光を瞳に宿し、竜鐘に改めて丁寧な物言いをした。
「お願い?」
緑野がしっかりと頷く。
「これはあなたにとっては当たり前の事かもしれませんが」
そう前置きし、緑野は言った。
「牙蘭を良い国にしてください。・・・母の死を無駄にしてほしくはありません」
それは祈りに満ちた言葉だった。その言葉を受け、竜鐘は力強く頷いた。
「わかった。約束しよう。必ず、牙蘭を良い国にしてみせると」
「お願いいたします」
緑野は丁寧に一礼した。