第百七十三幕 緑野
石榴と別れ、加具土は午後の仕事――浴場や部屋の掃除――に向かった。
大浴場へ向かえば、男性用の浴場である焦げ茶色の暖簾の前には、掃除中と赤く書かれた立て札が立っていた。そして、女性用の浴場である檸檬色の暖簾の前に、一人の少年が掃除用具を持って立っていた。
「君が加具土か?」
「緑野さん、ですか?」
名を尋ねれば、少年――緑野は頷く。
新緑の瞳と深緑色の長い髪を一括りにした、石榴と同じ年頃の少年は、表情を動かすことなく、加具土に告げた。
「若旦那様に言われたと思うが、これからやるのは大浴場の掃除と客のいなくなった宿泊部屋の掃除だ。二人一組でやっていく。もう一組は男湯をすでにやっている。俺たちは今日は女湯だ。浴場の掃除は、毎日交互に行っている」
加具土は頷く。
「まずは説明からだ。それから教える」
「はい」
緑野は掃除中と赤く書かれた立て札を檸檬色の暖簾の前に置き、入っていく。
加具土もその背を追った。
大浴場の床や壁は白の大理石、四つある浴船は檜で、水風呂、薬草風呂、果物(山林檎や柚子など)が入れられた風呂、ねっとりとした水質のぬるい風呂があり、外には露天風呂もあった。
「まず、一人がこのシュロたわしで壁や床を磨く。もう一人は追いかけるようにこの棒ぞうきんで水気を拭く。拭き取った水はこの桶にいれてまとめて捨てる」
桶に入った茶色く丸いシュロたわし――二、三個入っていた――を右手に、左手で棒ぞうきん(長柄の先に横木がつき、そこに白い布が何枚も重ねられている)を持ち、顎で桶を示した。
「両方やってみて、やりやすい方を選べ」
「わかりました」
加具土はまず棒ぞうきんを手に取り、浴場の床の水気を拭き取ってみた。
片腕のため、あまり力をいれると自分が倒れることになりかねない。倒れないよう、けれど水気を拭き取れるくらいの力を込め、棒ぞうきんを引いたり、押したりを繰り返した。
「・・・・・」
白い布が水気を吸い取って重さを増していき、加具土は知らず息をついた。
棒ぞうきんを持ち上げれば、白い布から吸い取れなかった水が流れ落ちてきた。
加具土は布を取り、桶の縁から内側にかけて垂らす。右足を折り曲げ、左膝を縁にかけて端の布を押さえ、左手で水気を絞ろうとする。しかし、左膝だけでは安定せず、揺らいでしまい、あまり水気が取れなかった。
もう一度やり直そうとすると、緑野の待ったがかかった。
「諦めないのは感心するが、もういい。桶が壊れる可能性があるし、お前も怪我をしかねない」
「・・・はい」
事実その通りだったため、加具土はしぶしぶながら桶から膝を離した。
衣の裾を帯に引っかけ、衣が濡れないようにすると、緑野からたわしを受け取り、両膝をついた。
「なるべく同じ方向に――上下に擦るんだ」
「はい」
加具土は白い大理石を上下に擦る。それを追いかけるように緑野が棒ぞうきんで水気を拭き取った。丸い小さなたわしで擦る面積はそうそう大きくない。焦って急いでやろうとすれば、緑野が言った。
「自分の速度でいい。焦るな。力はそんなに込めなくていい。擦ることは擦るが、なでるように、例えば亀の甲羅を洗うような感じに擦ればいい」
「わ、わかりました」
亀の甲羅など洗ったことはないが、要は大理石を生き物のように思って擦ればいいということだろう。想像しながら擦ってみれば、腕は格段に楽になり、擦る速度も速くなった。
一時(二時間)ほどかかり、加具土はシュロたわしで床と壁を擦った。合わせるように緑野が棒ぞうきんで水気を拭き取る。
「ご苦労だった。後は薬草と果物の交換、それから露天風呂に塵が入っていないか確かめて、もしあれば取る」
緑野が持ってきた手桶の中には、新しい薬草の束とつやつやに光るりんごや柚子などの果物が数個入っていた。
「はい」
加具土は頷いた。
「どちらかを選べと言ったが、やはり毎日たわし掃除ではお前の負担が大きいな。よし、明日はお前が棒ぞうきんだ。水気を絞るのは俺がやる」
「え、いいんですか?」
毎日たわし掃除でもいいと思っていた。目を瞬かせ、尋ねれば緑野は不思議な顔をした。
「なにを驚いている?俺ができることをやるだけだ」
さも当然というように言う緑野を見て、加具土は「・・・ありがとう、ございます」と礼を言った。加具土が主に行い、その後始末を緑野にさせるのは申し訳ないと考えていたが、緑野はそれを後始末、あるいは手間と考えない。できることはやるという姿勢なのだろう。
そして、加具土にはやるなとは言わなかった。
加具土が給仕の仕事をしていたとき、片腕であることを慮ってか、補助の従業員は率先して手伝ってくれていた。加具土は申し訳なさと「自分もできるのに」という物足りなさを感じていた。だが、自分でやろうとすると、時間がかかるのはわかりきっているので、何も言わなかった。
しかし、手伝ってくれていたのは最初の頃だけで、忙しく余裕がなくなってくると、一人で任せられることも多くなった。けれど、片腕では時間がかかる。結局、大変さが身に染みることになった。
だが、緑野は違う。
加具土ができるところとできないところを見分け、自分ができるところはやる。
それが加具土にはありがたかった。
「・・・なぜ、礼を言う?」
頭に疑問符をつけたように首を傾げる緑野に、加具土は「気にしないでください」と片手を振った。
それから、二人は薬草風呂の薬草を新しく交換し、果物風呂に浸かっている、ふやけ、色が悪くなった果物も新しく交換した。最後に露天風呂に落ちた塵――枯れた葉など――を回収し、大浴場の掃除は終わった。
浴場の掃除が終わり、次は宿泊を終えた客の部屋の掃除だった。
そのままになっている布団や掛け布団などを部屋の押し入れに入れ、文机の位置を直し、畳の上を箒で掃き、ちりとりで細かい塵を取り除き、濡れた雑巾で床の間を拭く。最後に竹で編まれた塵入れの中に入っているものを回収した。
全ての部屋の掃除を終えたのは、ちょうど夕餉の時間である酉の刻(午後六時)だった。
「お疲れ。明日も頼む」
「はい。お疲れ様でした」
「じゃぁ、俺はこれを片付けてから上がるから」
緑野はそう言い、箒やちりとり、桶などを手に取った。
「あ、じゃぁ、私も」
箒やちりとりの場所を知っておいたほうがいいだろう。加具土がついていこうとすると、緑野は首を振った。
「お前は先に上がれ。他にやることがあるだろう?この片付けは、明日教える」
「・・・!」
そうだ。神薙の夕餉の準備をしなければいけないのだ。
緑野は菫青から話を聞いていたのだろう。
「ありがとうございます。では、先に上がります」
「うん」
加具土は緑野に頭を下げ、厨へ向かった。
「神薙さん、夕餉をお持ちしました」
「入りなさい」
カンナの間の襖の前で加具土が声をかければ、神薙の声ではなくなぜか菫青の声が返ってきた。
「失礼します」
神薙の夕餉を持って入ってくれば、部屋には布団の上で起き上がっている神薙と脇に座る菫青の姿があった。
なぜ、菫青がここにいるのか。疑問に思いながら、部屋に入る。
「では、また来ます」
「はい。ありがとうございます」
神薙が礼を言い、菫青が立ち上がる。
「あぁ、そうだ。加具土」
神薙のそばへ来ていた加具土の方に菫青が顔を向けた。
「神薙さんの世話は明日からやらなくていい。二つも仕事を掛け持って、その合間にやるのはお前も大変だろう。別の者に頼むことにした」
「え・・・」
神薙がここにいるまでその世話を続けるつもりだったが、菫青の発言に加具土は戸惑った。
菫青の気持ちも分かるが、加具土は初めてもらった仕事を放り投げるようなことはできなかった。
「でも・・・。給仕としての仕事も半端なままでは、今の仕事もしっかりできません」
「加具土・・・」
菫青は窘めるような声を上げる。
「お願いです。神薙さんがいる二週間は、私にやらせてください!」
加具土は頭を下げた。
「・・・・・」
菫青が小さく息をつく。
「・・・分かった。神薙さんがいる二週間、改めてお前に頼もう。頼んだ者には私から言っておく」
「ありがとうございます!」
加具土は声を上げて礼を言った。
「・・・ということでよろしいですか」
すると、菫青は苦笑気味に神薙に言った。
「そうですね。彼女の気持ちは固いようですから」
頷く神薙に、加具土は二人を交互に見た。
「え、え?どういうことですか?」
菫青が決めた事ではなかったのか。これではまるで神薙が頼んだようだ。
「お前を外してくれるよう頼んだのは神薙さんだ。お前が大変だろうと」
「・・・そ、そうだったんですか」
神薙の気持ちを無下にしてしまった。けれど、加具土にも譲れないものはある。けれど、神薙の気持ちはありがたかった。加具土は神薙に顔を向け、礼を言った。
「ありがとうございます」
「いや。余計なお世話だったかな」
「そんな事はないです。ただ、これは私の気持ちの問題ですから。初めてもらった仕事ですし、中途半端なことはできないと思ったんです」
「・・・そうか。気持ちはわかるよ。初めての仕事は特別なものだ。誰にとってもね」
神薙が頷く。
「はい。ですから、神薙さんの気持ちだけ受け取っておきます」
「わかった。じゃぁ、改めて。よろしく頼むよ」
「はい」
加具土は力強く頷いた。
神薙の夕餉を置き、カンナの間を出た加具土は、食堂へ向かった。
その途中、廊下で加具土はいさなと会った。
「いさなさん」
加具土が駆け寄れば、いさなが微笑み、名を呼んだ。
「加具土さん」
「あの、水守さんは大丈夫でしたか?」
「えぇ。あの後、石榴さんが来て二人で話していましたよ。仕事に戻ってきた水守は泣いた後がありましたが、すっきりした顔をしていました。仲直りできたとも言ってましたよ」
「それはよかった」
石榴さんからも報告があるかと思うが、吉報であってよかったと加具土は思った。
「そ、そういえば加具土さんは緑野さんと一緒に仕事をしていたんですよね」
どこかそわそわした様子で、突然いさなが聞いてきた。頬が若干赤い。
その様子を不思議そうに見ながら、加具土は答えた。
「はい。色々教えてもらいました」
すると、いさなが期待を込めたような眼差しで尋ねてきた。
「仕事中、何か話しましたか?好きな食べ物とか、す、好きな女性はどんな方かとか」
加具土は首を振った。
「いいえ。初めての仕事でしたし、こちらから話しかけることはしませんでした」
「そ、そうですよね。私としたことが。あぁ、さっきの言葉は気にしないでください」
視線を泳がせ、焦った様子のいさなを見て、加具土はもしかしたらと口を開いた。
「いさなさんは、緑野さんのことが好きなんですか?」
「えぇ!??な、なんでわかったんですか!?」
驚くいさなに加具土は目を瞬かせる。
「顔も赤いですし、いつもと様子が違いました。それに緑野さんを気にしていたようですから、おそらくそうかなと」
感じたままを伝えると、いさなは肩をがくりと落とした。
「私、わかりやすかったでしょうか・・・」
「そんなことはないですよ、た、多分」
あからさまにしょげるいさなに、加具土は言葉をかけたが、自信のなさが見えるものになってしまった。
「あの、食事にしませんか。ここで立っているのもなんですし・・・」
加具土が促せば、いさなは顔を上げ、苦笑を浮かべた。
「そうですね」
夕食の献立は、大根とにんじん、油揚げの煮物、ふきのとうとえびの天ぷら、たけのこ御飯(粟と稗を合わせたもの)、わかめと豆腐の味噌汁、みたらし団子、茶だった。
向かい合わせに座り、食事を進めていると、ぽつりといさなが口を開いた。
「私が緑野さんに会ったのは、ここに来てから一年もたっていないときです。給仕係に配属されてしばらく経った頃、ある日、酔ったお客様にからまれてしまいまして。穏便にすまそうとしたんですが、聞いてくれず、しまいには湯呑みに入っていたお茶をかけられそうになって・・・」
「え!大丈夫だったんですか?」
「えぇ」
いさなが頷く。そして、何かを思い出したのか、遠くに目をやった。
「そのとき、かばってくれたのが緑野さんだったんです。私の代わりにお茶をかぶってくれて」
「そうだったんですか」
「手拭いをもって謝ったら、少し驚いたというか、意外な顔をして、『大変な目に遭っている時に助けるのが仲間だ。謝る必要はない』と言ってくれたんです。その言葉に私が驚いて、同時にこんなこと何でもないという彼の態度に見惚れてしまったんです」
「緑野さんらしいですね」
半日だけだが、緑野の人となりは加具土にもわかった。
仲間だと本気で言っていることも、気にしていない態度も本当なのだろう。
それが、いさなが緑野を好きになった理由なのだろう。
「緑野さんは、自分のことより他人のことを考える人ですよね。なかなかできることではないと思います。いさなさんは見る目がありますね」
加具土が褒めると、いさなは照れたように笑った。