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第百七十二幕 新しい仕事、新しい仲間

翌日、朝礼で集まった加具土ら従業員の皆に、菫青(きんせい)は言った。

「私はこれから二週間、ここに泊まっている十二司の太熊たちに、十二司の仕事のやり方、礼儀を教えるつもりだ。何かあったら、春蘭と大旦那に聞いて欲しい。二週間の予定は二人が把握している。私が必要な時は出るつもりだが、それ以外は太熊たちの部屋に缶詰だからそのつもりでいてほしい」

突然告げられた従業員たちは、最初こそざわついていたが、春蘭と葛から今日の予定について説明されると、徐々にざわめきは収まり、静かに話を聞き始めた。


 朝礼が終わり、皆がそれぞれの場所へ散っていく。加具土は、まず神薙の朝餉を用意するため、厨へ向かった。

 厨では、すでに準備が始まっていた。重藤(しげどう)の声が飛び、野菜を切る音、食器が重なり合う音、魚や肉を焼く匂い、米の炊ける匂いなど、目と耳が忙しなく行き来する。

 宿泊者の朝餉の準備のしている中を、加具土は縫うように進みながら、他の若い厨係に指示を出している重藤のそばへ寄った。

「料理長!」

声を張り上げれば、重藤が振り返った。

「おはようございます!神薙さんの朝餉はありますか!」

重藤は豪快な笑みを浮かべ、親指で台の上にのった急須と湯呑みを指さした。

「おはよう!作ってあるぞ!もっていけ!」

「ありがとうございます!」

加具土はいくつも重ねられた盆の一つを手に取り、急須と湯呑みをのせると、厨を出て、カンナの間へ足を進めた。


「おはようございます」

襖を開けると、神薙はすでに起きていた。しかし、その表情は青ざめ、今にも泣きそうな顔だった。

「よ、よかった!助けてくれ!」

「ど、どうしました!?」

「か、厠に連れて行ってくれ!」

「・・は、はい!」

理由を聞くのはまず置いておき、加具土は急いで神薙に手を貸し、厠へ案内した。



「ありがとう。おかげで助かったよ・・・。痛くて一人じゃ立ち上がれなかったからね」

すっきりとした顔をした神薙を片手で支えながら、加具土は尋ねた。

「ずっと我慢していたんですか?」

「いや、朝起きた時に厠へ行こうと思って立ち上がろうとしたら痛いのなんの。今にも漏れそうになっていたところに君がきてくれたから、ほんとによかった」

「・・・それはよかったです」

自分が来ていなければどうなっていたか、ちょっと想像するのが怖かった。

心底安堵の表情を浮かべる神薙に、加具土はぎこちない笑みを浮かべた。

「でも、しばらく痛むなら一人で厠にはなかなか行けませんよね。千鳥先生に頼んで尿瓶を用意してもらいますか?」

加具土は、活杙と仕事をしたとき、寝たきりの老人や若者に会ったことがある。彼らの場合、厠へ行く体力もなく、部屋に尿瓶や使わない桶などを用意して厠へ行かなくともいいようにしていた。

「え、いや。でも・・・」

躊躇う神薙に加具土ははっきりと言った。

「困るのは神薙さんです」

ついで、優しく言った。

「それに病人なんですから、気にしなくていいんですよ」

恥ずかしいと思っているのかもしれないが、実際我慢してどうしようもなくなって恥ずかしい思いをするのは神薙だ。

「・・・そ、そうか。分かった」

加具土の言葉に納得したのか、神薙は頷いた。


神薙を布団に戻し、加具土は畳の上に置きっぱなしになっていた朝餉を持ち上げ、枕元に置いた。

「これが朝餉です。といっても、昨日と同じものだと思いますが」

「あぁ」

「尿瓶のことは、千鳥先生に伝えておきます」

「分かった。ありがとう」

「私は他の仕事があるので、ここに来るのは昼餉の時だと思います。・・・そういえば、神薙さんってお風呂入りました?」

ふと思い立ち、加具土が問いかける。

「いや。昨日はそのまま寝たんだ。疲れていたし、千鳥先生にも早く寝ろとせっつかれていたから」

「お風呂は入れなくても、体を拭くぐらいはしたほうがいいですね。昼餉の後にでもやりましょうか」

「え」

なぜか神薙が目を丸くし、固まった。

何か変な事を言っただろうか。加具土が内心首を傾げていると、神薙は顔を赤らめ、こほんと咳払いをした。

「き、君が拭いてくれるのかい?」

「えぇ。そのつもりですけど」

「な、なら、誰か別の人に変えてもらっていいかな。できれば男の人がいいんだが」

――別の人。雷ならいいだろうか。

他の従業員では忙しいだろうし、医術師である雷なら、神薙も安心だろう。

「分かりました。もう一人の医術師の雷先生で構いませんか?」

「あぁ、いいよ」

幾分ほっとした顔で神薙は頷く。

「では、雷先生に伝えておきます。それから昼餉の時にまたこちらに伺います」

「うん」

加具土は神薙に頭を下げ、カンナの間を出た。



 帳場を担当する従業員に千鳥が泊まっている部屋はどこかと尋ねると、『向日葵の間』にいると答えた。

 『向日葵の間』は一人部屋で構成された一歩堂にあった。

板張りの南側の廊下を歩き、しばらく行くと、一歩堂と達筆な字で書かれた看板が上部に掲げられた場所に出る。そこは、一人部屋が五宝堂同様二十あり、それぞれ部屋には名前があった。

 ちなみに、北側にある離れには十人部屋が四つ構成され、十塚(とつか)堂と呼ばれており、東側の二人部屋は二王(におう)堂と名がつけられ、同じく二十の部屋がある。そして、五宝堂は西側にあった。

 『向日葵の間』は、数えて五番目にあった。


 いぶし銀を背景に、狐の親子が戯れる襖絵を前にして、加具土は口を開いた。

「千鳥先生、加具土です。起きておられますか?」

声をかけ、しばらく待ったが、何の返答もない。もしかしてまだ寝ているのだろうか。

どうしよう。勝手に開けて入ってもいいものだろうか。

そういえば、神薙の時は挨拶をしただけでそのまま開けてしまった。

結果的に緊急事態だったからよかったものの、今度は気をつけなければ。加具土は気を引き締める。

 だが、このまま待っていても埒が開かない。加具土は怒られる(かもしれない)覚悟を決めて、襖を開けようと手をかけた。その時――。

「あいつならまだ寝ているぞ」

声のした方に顔を向ければ、雷が向かいの襖の前に立っていた。その頭には痛々しそうな瘤ができている。

「朝餉の時間だというのに起きてこないから、部屋に入って起こそうとしたら、寝ぼけながら殴られた。全く、寝起きの悪い・・・」

雷は苦虫を噛みつぶした顔をした。

「しばらくは起きないだろう。まぁ、昼餉までに起きてこなければ叩き起こすまでだが。あぁ、神薙のことは私が診るから気にするな。私の患者でもあるしな。・・・考えると、この事も計算に入れて私を弟子にしたのかとも思う」

独りごちる雷を見ながら、加具土は寝起きの悪さで活杙を思い出した。寝ぼけて殴るまではいかないが、いくら揺すぶっても大声を出しても起きてくれないのは困ったものだった。

 だが、医術師なら患者が待っているだろうし、寝坊でもしたら目も当てられない。

千鳥が起きないのは、神薙の手術が終わったことと、雷がいるから安心して寝ているのだろうか。かつて、ヨミと自分がいることで安心して寝ていられると活杙が言っていたように。

『それは絶対に違う』

なぜか角杙とヨミの声が加具土の頭に響いた。


「あの、雷先生、神薙さんのお世話をお願いします。お風呂に入っていないので、体を拭いてもらってもいいですか」

「あぁ、わかった。やっておこう。」

「それから、一人で厠に行くのは大変そうなので、尿瓶を用意してもらってもいいですか?」

「尿瓶・・・。そうか。そうだな。しばらくは痛みがあるだろう。あまり辛そうだったら、痛み止めを処方する。尿瓶も用意しよう」

「ありがとうございます」

力強い雷の返答に安心し、加具土は礼を言う。不意に、雷の頭に腫れた瘤が目に入り、加具土は聞いてみた。

「瘤、大丈夫ですか?薬草使います?」

「ん?あぁ、平気だ。薬草はあるから自分で治す」

痛みはさほどないのか、表情は眉を寄せたりと辛そうではない。そこまでひどくないのか。

「そ、そうですか。分かりました。では、後はお願いします」

平気だと言っているのなら大丈夫かと、加具土は雷に後を任せ、千鳥の部屋の前から去り、菫青の部屋へ向かった。


 

二階へ上がり、菫青の部屋へ入れば、加具土と(見た目が)同じ年頃――十代の少年がいた。

 赤紫色の髪と瞳をもった少年は、加具土を見ると、にかりと歯を見せて笑った。

「おう、お前が加具土か!おれは石榴(ざくろ)。よろしくな!」

この人が――。

帳簿の整理を教えてくれる人だ。加具土は緊張を覚えながらも頭を下げた。

「はい。今日はよろしくお願いします」

「こっちこそよろしく!じゃぁ、説明するな!」

そういって、石榴は文机が置かれた部屋のさらに奥の部屋の襖を開けた。


 そこは、書棚に書物がぎっしりと敷き詰められた部屋だった。

障子もないため光も入らず、襖を開け放ち、隣の文机の部屋から漏れる日の光が当たっているものの、かなり薄暗い。まるで、書物に囲まれているようだった。

 

「ちょっと待ってろ。今、明かりをつけるから」

石榴が隅に置かれた行灯に手をかけ、火をつける。

 薄暗かった部屋は明るくなり、書物の背表紙が一瞬浮かび上がる。

よくよく見れば、書棚ごとにも見出しがつき、背表紙にも見出しと同じ名前が書かれている。

 活杙の部屋にも書物はあったが、部屋を埋め尽くすほどではなかった。

背表紙をざっと見れば、宿泊者の名簿、消耗品や備品、食料などの帳簿など、宿屋では重要なものばかりで、年数を重ねていけば増えていくものばかりだった。

「すごい量ですね」

「この雲母荘ができて、ざっと二十年くらい経つからな。創設時からの帳簿とか名簿とかも残ってる。あと、右側の書棚は写しのための書物だ。大半は何も書かれていない白紙のものだ」

「写しをするんですか?」

一冊だけで十分な気もするが。

そう思っていると、石榴は重々しく頷いた。

「火事や地震――あってほしくはねぇけど何かがあった時のためだ。ある程度まとめてやっているが、俺だけじゃ手が回らない。若旦那様もやってくれるが忙しいし。加具土が来てくれてよかったよ」

石榴は、写し用の書棚から白紙の書物を、帳簿や名簿が敷き詰められた書棚からいくつかの帳簿と名簿を手に取り、笑った。

 菫青がすんなりと加具土をこの仕事に任命したのは、写しの作業の人手が欲しかったのだ。加具土は納得した。

「頑張ります」

字を書くことを苦ではない。ただ、その分量の多さが気になるが。

一人何冊と決まっているのだろうか。午前中だけの仕事だとあまり捗らない気もする。

「まぁ、あまり気張らなくていい。写しは急ぎじゃねぇから。それに午後には別の仕事があるだろ?少しずつ、一歩ずつやっていこうぜ」

石榴は加具土を慮る言葉を口にし、急がなくていいと微笑んだ。


「じゃ、さっそくやってもらうな」

石榴は隣の部屋へいき、そこにある文机の上に手に持った写しの書物と帳簿を置き、隅に置かれた柳筥(やないばこ)の蓋を開け、硯、墨、筆、文鎮を取り出した。それらを書物と帳簿同様文机に置く。

「これが写しに使うやつだ。終わったら、その箱に入れてしまっておいてくれ」

「はい」

「俺はさっきの部屋で見出しをつくってるから。何かあったら遠慮無く声をかけてくれ」

「わかりました」

加具土がしっかり頷くと、石榴は「これ以上増えたらどうするかな。若旦那様に相談するか」と呟きながら、書物に覆われた隣の部屋へ入っていった。

 

加具土は写し用の初めの一面を広げ、文鎮で押さえた。その右隣には原本である帳簿の一面を広げる。

 二年前の宿泊者の名前が、流れるような文字でびっしりと書かれていた。

(よし!)

気合いを入れ、加具土は墨を擦り、筆を手に取った。



カンッ、カンッ、カンッ。

甲高い音が雲母荘の周囲に響く。時を告げる鐘の音だ。

雲母荘では、朝餉の時間である五ツ半(午前九時)、昼餉の時間である牛の刻(午後十二時)、夕餉の時間である酉の刻(午後六時)に半鐘が鳴る。

 昨日の夕餉の鐘に気づけなかったのは、加具土自身が集中し、気持ちに余裕がなかったからなのか。

ともかく、今日は鐘の音が聞こえ、落ち着いて仕事ができたように思う。

 区切りのいいところで筆を止めた加具土に石榴の声がかかった。


「牛の刻だ。昼餉にしようぜ。と、その前にどのくらい進んだか見てもいいか?」

「はい」

加具土は筆を置き、文鎮を取り、写しの書物(すぐには乾いていないので、汚れないように一面一面に半紙を挟んでいた)を石榴に渡した。

石榴はそれを開くことなく、縦方向――挟み、飛び出した半紙が見える位置―から書物を見た。

「すごいな!半分もいったのか!」

石榴が目を見開く。写しの書物の約半分が飛び出した半紙で埋まっていた。

 最初の一面をそっと開き、石榴はそこに書かれている文字をじっと見る。

「うん。見やすいし、綺麗だ。あ、でも念のため、誤字脱字がないかは見る。それがあったらまた直してもらうからそのつもりでいてくれ」

「分かりました」

間違えないよう注意して書いたが、万が一ということもある。間違えていては元も子もない。

加具土は頷いた。


 石榴は写しを閉じると、加具土が使っていた文机に置いた。

「さ、昼餉にしよう。硯とか筆とか片付けてくれるか?」

「はい」

加具土は、筆入れに筆を、墨壺に残った墨を入れ、それらと硯、文鎮を柳筥(やないばこ)へ戻す。石榴はすでに片付けを終えていたらしい。奥の部屋はすでに行灯の火が消えていた。

加具土が柳筥を部屋の隅に置いたのを見ると、石榴は頷いた。

「よし、行くか!」

「昼餉は食堂ですか?」

屋台で食べる者もいるので、加具土は一応聞いてみた。

「おう!屋台もいいが、食堂は頼めば大盛りにしてくるからな!それにおかずや野菜も多いし、食べ応えは屋台より何倍もある!最近はもっぱら食堂だな!」

「そうなんですか・・・」

跳ねるように階段を降りる石榴の背中を見ながら、加具土は返す。先ほどの言葉と跳ねるような動作が少し水守に似ているような気がしたが、気のせいだろうか。



昨日の事を思い返しながら、階段を降りていたその時、加具土は思い出した。

あっと声が出る。

忘れていた。神薙の昼餉を取りにいかなければ。

「どうした?」

階段を降りた柘榴が不思議そうな顔をして二段上にいる加具土を振り仰いだ。

「柘榴さん、先に行っていてください。私、やることを思い出しました」

「やること?」

「はい。失礼します」

きっと神薙は昼餉を待っているだろう。あの飲み物だけで足りるとは思えない。お腹を空かせて待っているかもしれない。

加具土は柘榴に一礼する。

「あ、おい!」

柘榴に呼び止められた気がしたが、急ぎの用だ。かまってはいられない。

加具土は足早に厨へ向かった。


厨から神薙の昼餉を受け取り、加具土はカンナの間の前にいた。

「神薙さん、加具土です」

声をかければ、張りのある神薙の声が聞こえた。

「どうぞ」

襖を開け、部屋に入れば、寝間着を衣に着替え、さっぱりとした様子で布団の上にいる神薙がいた。

「昼餉をお持ちしました」

盆の上にある急須と湯呑みを持ち上げれば、神薙は頷き、枕元を顎で示す。

「ありがとう。そこに置いといてくれ」

「はい」

加具土枕元へ昼餉を置く。そこで気が付いた。朝餉の急須と湯呑みがないことに。

「あの、朝餉はどうしました?私、置いていった記憶があるんですが」

「あぁ、飲み終わったあと、雷先生が持っていってくれたんだ。ついでだからといって」

「そうだったんですか」

それは申し訳ないことをした。後で礼を言わなければ。

ふと、目線を横に向ければ、文机の上に薬包みが十三包置かれていた。

「これ、痛み止めですか?」

「うん。雷先生が二週間分持ってきてくれた。雷先生には痛みが出た時に飲めと言われている。朝餉の後に飲んで、おかげで痛みが治まったよ」

「それはよかったですね」

神薙は嬉しそうに笑った。


「厠にはどうにか行けそうだけど、念のため尿瓶は持ってきてくれた。体も拭いてもらったから、気分もすっきりしたよ。一週間後くらいには風呂に入れるようになるだろうと言われたし、この調子なら後の一週間は溜まった仕事ができるかな」

痛みが治まり、気が大きくなったのか、神薙は饒舌だった。加具土は苦笑する。

「千鳥先生の許可が出れば、だと思いますけど」

診断をするのは千鳥だ。彼女がいいと言わなければ神薙は仕事ができないだろう。

「では、また夕餉の時に来ます」

「うん。頼むね」

「はい」

加具土は返事を返し、カンナの間を出た。


 襖を閉じ、振り返ったその時、乳白色の壁にもたれるようにして、石榴が立っていた。

「石榴さん、食堂に行かなかったんですか?」

軽く目を見開き、加具土は石榴に駆け寄った。すると、石榴は唇を尖らせ、不満そうな顔をした。

「せっかくできた仲間を置いて飯食いにいけるかよ」

まるで拗ねた子供のような物言いに、加具土は目を瞬かせる。

待っていてくれたらしい。

新しくはいった加具土を放って、一人で昼餉を食べるのが気まずかったのだろうか。

どんな理由にせよ、待っていてくれたのは石榴の優しさゆえだろう。

「・・・石榴さんは優しいですね」

「な、なんだよそりゃ」

加具土の言葉が思いがけなかったのか、石榴がひどく狼狽える。

その狼狽えように、これ以上は言わないほうがいいだろうと察した加具土は首を横に振った。

「いえ、ありがとうございます。では、食堂に行きましょう」

加具土は石榴とともに食堂へ向かった。


昼餉の献立は、たけのことにんじんの煮物、しじみ汁、桜餅、菜の花のお浸し、(さわら)の西京漬け、粟と稗の御飯、茶だった。

 甘味は必ずつくのだろうか。そうそう続けて甘味は食べてこなかった加具土は、昨日に続けて甘味が献立に入ることにどこか戸惑いを感じながら、桜餅を皿に盛る。

 仕事が変わり、立ち仕事が減ったから、甘味はあまり食べないほうがいいかもしれない。

そんな事を思いながら、桜餅を見ている自分に(説得力ないな)と苦笑してしまった。


 食堂は夜と雰囲気が変わり、障子からはさんさんと日の光が差し込み、明るい。

よくよく見れば、障子には透かしがはいっており、草木や花が描かれていた。

 夜と違って従業員の姿も多く、卓が埋まりそうな勢いだった。

石榴と加具土は、時機よく空いた一つの卓に向かい合わせに座った。

 石榴の盆には、煮物とお浸し、御飯が大盛り、鰆が三つ、桜餅が二つ、皿に重ねられていた。加具土はあっけにとられた。

「・・・すごい量ですね」

「いやぁ、これくらいないと足りなくてさ」

「あまり動きませんけど・・・」

「そうなんだが、頭を使うからかな。腹が減って夕餉まで持たないんだ」

「なるほど」

加具土は、はははっと笑う石榴を見る。

それだけ食べても太らない石榴を羨ましいと感じながら、加具土は箸を手に取った。


「・・・なぁ、加具土」

全て食べ終え、後は桜餅だけとなり、それに手を出そうとした加具土は、すでに食べ終えた石榴に話しかけられ、手を引っ込めた。

「はい」

「誰かを好きになったことってあるか?」

加具土は思わず固まった。会ってそんなに経っていないというのに、恋愛事の相談、しかも男性からという初めて尽くしの事に頭が追いついてなかった。

「・・・好きっていうのは、恋愛でという意味ですか?」

それ以外ないのかもしれないが、頭の回っていない加具土は聞き返すほかなかった。

「おう」

神妙な顔で石榴は頷く。

これはきちんと答えなければいけないと直感した加具土は、口を開いた。

「ありません」

「・・・そ、そうか」

はっきりと口にすれば、石榴がほんの少し困ったように、けれど納得したように呟く。

「石榴さんは好きな人がいるんですか?」

尋ねてくるということは、そういう事なのだと思い、加具土が聞いた。

「あ、あぁ。まぁな」

頬を少し赤らめながら、石榴が答える。

「何か悩みでも?」

「っ、なんで分かった!?」

石榴が肩を跳ねさせ、目を大きく見開いて身を乗り出した。

「・・・好きな人がいて、誰かに相談するくらいだから何か悩みがあるのかなと思っただけですけど」

「そ、そうなのか」

落ち着いたのか石榴が身を引く。

「それでどのような悩みなんですか?・・・私は誰かを好きになったことがないので、具体的に答えられないかもしれませんが、話を聞くことはできます。口にするだけでも石榴さんの気持ちが軽くなるなら、どうぞ、おっしゃってください」

「お、おう」

仕事ではしっかりとしている石榴が、躊躇うように迷うように返事を返す。

 恋愛というのはそれほどまでに人を変えるのかと、加具土は少し驚いた。


「子供の頃からの――いわゆる幼馴染なんだけどさ。顔を合わせれば、口喧嘩みたいになっちまって。なかなか素直になれないんだよな。会うたび、今度は素直になろうと思って口を開くんだけど、出てくるのは皮肉だったり、からかう言葉ばっかりで。そんなもんだから、告白なんて遙か彼方なんだよ。まずは、あいつに対して素直になりたいし、優しくしたい」

「・・・つまり、その方の事が好きだから、素直になれず優しくなれない。どうやったら素直になって優しくできるかということですか?」

「そう、その通り!」

石榴がばっと身を乗り出す。その目は期待で満ちていた。加具土は呻いた。

「う~ん。素直になれないなら、文を書くとか。文章のほうが頭が整理されて言葉ではなかなか言えないことも言えると聞いたことがあります」

絞り出して考えたことは、文を書く、だった。すると、石榴の顔色が目に見えて暗くなる。

「あいつは字も読めないし、書けないんだ・・・」

「そ、それは失礼しました・・・」

しまった。自分が字を読め、書けるからといって、この国の全ての人はそうではない。

石榴の好きな人が彼と同じように字も読め、書けると思い込んでしまった。


「それなら、その方の好きな花や衣、装飾品などを送って言葉にしてみては?」

「・・・そんなことしたら、あいつ気味悪がって受け取らないと思う」

即答だった。

普段、どんな風に話をしているのやら。

加具土は途方にくれた。


「・・・これ以上は私には。やっぱり石榴さんがその方に対して素直な気持ちを口に出すことが大事だと思います。大して力になれなくて申し訳ありません」

頭を下げれば、石榴は慌てるように言った。

「加具土が謝ることじゃないって!やっぱり俺自身がどうにかしなきゃいけないんだ。改めて気づけただけでもよかったよ。それに話を聞いてもらえたから、少しすっきりした。ありがとう」

顔を上げれば、晴れ晴れとした表情の石榴がいた。


 昼餉を終え(話を終えた後の桜餅はなぜか甘さを感じなかった)、加具土と石榴は食堂を出た。

「午後は、緑野のところだろ?あいつ、あんまり表情が変わらないけど、良い奴だから」

「友達なんですか?」

「おう。ここに来て初めてできた友達だ」

にかりと石榴は笑った。


「あら、水上(みなかみ)の坊ちゃんじゃない」

すると、やけに甲高い水守の声がした。顔を向ければ、廊下の向かい側に――加具土とは逆の食堂へ行く方向に体を向けて――水守といさなの姿があった。

 水守の視線は石榴を向いていた。

まるで嘲るような水守の言い方に違和感を覚えながら、加具土は二人に軽く頭を下げる。いさなが同じように軽く頭を下げた。

「その言い方はやめろ。勘当した身で、坊ちゃんも何もないだろうが」

「でも本当のことでしょう?水上家の四男坊さん」

「・・・・・」

水守の言葉に石榴が眉を寄せて押し黙った。


不穏な空気が漂うなか、いさなが口を開いた。

「水守、いい加減にして。石榴さんを困らせて楽しいの?」

「えぇ、楽しいわよ」

「水守・・・」

即答する水守にいさなが絶句する。水守は足音を荒くたて、石榴に近づいた。

加具土からは、苦々しい表情を浮かべた水守の顔が見えた。

「私はあんたに期待してた。四男坊だろうと、格は下がっていても、貴族は貴族。私たちの暮らしを良くしてくれるよう、王宮で働いてくれるって。金と自分のことしか考えていないあなたの兄上達より、あなたは私たちの事を――水無瀬(みなせ)郷のみんなと対等に話して、接していたじゃない!どうして、官僚の道を諦めたの!どうして、私たちの期待を裏切るような真似をしたの!」

「・・・・・」

唇を引き結び、石榴は何も言わない。

何か言うのを待っているかのような表情を浮かべていた水守だったが、諦めたように小さく息をついた。

「いさな、行くわよ」

有無を言わさない口調をいさなに向け、食堂へ向けて歩き出そうとする。その時、石榴が口を開いた。

「勝手に期待したのはそっちだろ」

「何ですって?」

水守が振り向き、眼光鋭く睨み付ける。石榴は振り返り、水守に向き合った。

「俺が兄上達より少しまともだからって、お前等や国のことを考える官僚になるって決めつけた。俺の気持ちも考えずに。貴族だからって、勝手に人の人生を決めてくれるなよ」

水守は目を見開き、顔色を紙のように白くさせたかと思うと、石榴に背を向け、廊下を駆けていった。

「水守さん!」

いさなが水守を追う。石榴は水守といさなの背を見つめながら、動かなかった。


「ははっ。素直に言ったらこのざまだ」

石榴は唇を歪ませる。その目は今にも涙が零れそうだった。

加具土は気づく。石榴が想っている人物が水守だということに。

「石榴さん・・・」

「・・・分かっていた。期待されていることは。だから、俺はみんなに――あいつに恥じないように、大っ嫌いな座学も勉強して、面倒くさい剣術も習って官僚になろうとした。――けど、兄上達は違った」

「違う?」

「兄上達は、王宮にいる貴族連中に賄賂を与えて官僚になろうとした。普通ならそれはあり得ないことだ。官僚の多くは、座学と剣術の試験がいくつもあってそれに合格すればなれるものだから。けれど、兄上達は官僚になった」

「お金の力で」

加具土が繋げれば、石榴は頷く。

「それを知った俺は、自分のやっている事は何なのだろうと思った。金の力で出世する兄達にもそれを黙認する両親、賄賂を当たり前のようにもらっているこの国の貴族に失望もした。俺は、貴族であることが嫌になった」

石榴は、はっと嘲るように笑う。

「耳障りのいい言葉だ。結局、水守の言うように俺は逃げ出した。試験を受けて不合格になるのならまだいい。それすらせずに最初から諦めた。兄からも両親からも貴族という身分からも逃げだし、ここにいる」

石榴の思いは分かった。だが、それを言う相手は間違っている。

「石榴さん、あなたの気持ちは分かりました。でも、それは私ではなく、水守さんに言ってあげてください」

石榴が加具土へ顔を向ける。

「だが、あれだけ言ったんだ。あいつが聞くかどうか・・・」

「ですが、このままでいいんですか?水守さんを――大事な人を傷つけたまま、ここで働くつもりですか?」

「・・・・・・」

「それでもいいなら構いません。ただ、それを選ぶなら、私はあなたを仲間とは思いません。私の知る石榴さんは、仕事の時はしっかり者で、新しく入った同僚にも世話を焼いてくれて、好きな人の話になるときは少し抜けてしまう、そんな優しい人です」

石榴の目が見開かれた。

「あなたは貴族に失望し、それでも人を嫌いになることなく、一からちゃんと働いている。最初から持っている身分を捨てて、別の人生を歩もうとする勇気がある。それはあなたの力です。恥ずべきことではありません」

加具土は続けた。

「過去は変えられません。でも、それを背負い、生き続けているあなたはもっと自分を誇っていい。どうか自分を卑下しないで」

加具土は息を吐き、石榴を真っ直ぐに見た。

「まだ一緒に仕事をして間もない私が分かるんです。小さい頃から一緒だった水守さんなら、あなたの事をもっとよく分かっているのではないのですか」

石榴の瞳が揺れる。加具土は微笑む。

「大丈夫。水守さんもあなたと同じように優しい人ですから。だから、――行きなさい。行って、話して、謝って、繋ぎとめてきなさい。それはあなたにしかできないことでしょう?」

最後は年下に言うような言葉遣いになってしまった。(まぁ、実際年下なのだが)

だが、これで動いてくれなければ加具土には何もできない。後は、石榴次第だ。

「・・・ありがとう。加具土」

一拍置いて口を開いた石榴は、目に光が宿り、決意のこもった表情をしていた。

「水守のところに行ってくる。午後の仕事、頑張れよ」

唇に弧を描く石榴に、加具土は笑顔で頷いた。

「はい。吉報をお待ちしています」


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