第百六十八幕 適材適所
葎、千鳥と別れ、加具土は寝間着を洗うため、井戸へ向かった。
そこへ向かう道すがら、大浴場に続く渡り廊下に二人の従業員が掃除をしているのが目に映った。
目を凝らせば、それは加具土の手伝いを断った男女の従業員だった。
二人は話すこともなく、黙々と雑巾で板張りの廊下を拭いている。
彼らは厨房係だったはずだ。なぜ、あそこで掃除をしているんだろう。
渡り廊下を横目に見ながら、加具土は不思議に思った。もしかして、葎が菫青に言ったのだろうか。だが、断られたことは言ったが、彼らの名を告げてはいない。
彼らが自分から口にしたのか、菫青に何かを言われ、口を開いたのか。
しばし考えてから、加具土は心の中で首を振る。
考えてもしょうがない。今は寝間着を洗わなければ。それから葎に聞いても遅くはないだろう。
自身を納得させ、緩めていた足を動かし、渡り廊下を横切った時、二人の女性従業員が向かい側から歩いてくるのが目に入る。話に夢中らしく加具土に気づいている様子はない。互いの顔を見ながら口を動かし続けていた。
「いさな、知ってる?厨房係の佐奈と豪太、外されて、掃除係になったそうよ」
透き通った水色の髪を二つに結んだ従業員が、栗色の髪を肩まで伸ばした従業員に言った。水色の髪の女性は、心底せいせいしたというような表情を浮かべていた。
「え?どうして?」
不思議そうな顔で、栗色の髪の女性――いさな――は尋ねる。二つ結びの女性はふんっと鼻を鳴らした。
「ここに外科の先生が来ているのは知ってるでしょ。その手伝いを嘘をついて断ったからだそうよ」
「まぁ。それはいけないわね」
「その通りよ。患者さんの命にも関わるんだから」
うんうんと女性が頷く。
「水守はよく言っていたわね。あの二人はいつか問題を起こすだろうって」
「そうよ。従兄弟だかなんだか知らないけど常に一緒だし、何かにつけては私たち給仕の人間を見下すし、よくやってるって自分達で言う割には適当だもの。いつか何かやらかすんじゃないかって思っていたわ」
「予想が当たったわね」
「ちっとも嬉しくないけどね」
女性―水守―が肩をすくめてみせた。
「でも、よかったわ。若旦那様だって手を焼いていたもの。あの自分にも他人にも厳しい若旦那様がため息をついて口をつぐむなんて相当だわ。あの二人のご実家がこの雲母荘の後援者の一人だから仕方なかったのかもしれないけれど」
いさなが安心したように息をついた。
「後援者を募っていた大旦那様の手前もあったから余計じゃない?ずいぶん悩んでいたようだし。でも今回の件で口を出せたから、ある意味よかったんじゃないかしら。人の命がかかっていたんだもの。そのままお咎めなしっていうわけにはいかないし、大旦那様も分かってくれたみたいよ」
「お二人はずっと掃除係なのかしら?」
「若旦那様が言うには、真面目にやっていれば厨房係に戻すっていう話よ。また戻って同じ事をしなきゃいいけど!!」
後半の台詞を、まるで渡り廊下にいる彼らに聞こえるほどの大声で水守が言った。
「水守、少し声を落としたら?聞こえてしまうわよ」
いさなが少し声を潜め、水守を宥めるように言った。だが、水守は意に介さず大声を出し続けた。
「聞こえるように言っているのよ!わたし、影でこそこそ言うのは性に合わないの!」
そう言って、渡り廊下にいる佐奈と豪太に届けとばかりに声を張り上げた。
「佐奈、豪太!何か言いたいことがあればわたしに直接言いにきなさい!受けて立つわよ!」
その声に驚き、思わず加具土は足を止め、二人をまじまじと見つめてしまう。水守の声は廊下を反響し、波打ち、消えていった。
すると、水守が加具土に気づき、石のように固まり、いさなもその様子に気がついたのか、水守の視線の先に顔を向けた。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
水守、いさな、加具土の周囲になんとも言えない空気が漂った。
このままでは二人は動かない。
そう感じた加具土は自分から動いた。
頭を小さく下げ、水守といさなの脇を通り過ぎる。
「ねぇ、そこのあなた!」
すると、水守が加具土に向かって声を上げた。
振り向くと、水守が若干緊張した面持ちで加具土を見つめていた。
何を言われるのだろうかと加具土が体を固くさせていると、ややあって水守が口を開いた。
「・・・それ、洗いにいくの?」
「え、あ、はい・・・」
寝間着を指さした水守の言葉に少し驚きながら、加具土は頷いた。
「私たちもご一緒していいかしら。お手伝いしたいの。ね、水守」
いさなが微笑みながら加具土に言い、隣にいる水守を見やる。
「そ、そう!手伝いたいの!」
水守が焦りを含んだ声を上げながら、勢いよく胸の前で両の拳を握った。
どうして手伝いたいのか、理由を聞きたいとも思ったが、二人のせっかくの好意を無碍にするも憚られ、加具土は「・・・それでは、お願いします」と頭を下げるだけに留めた。
加具土、水守、いさなは、大盥と皂莢の実が入った袋を用意し、洗い場として使ってある井戸へと足を進めた。
その井戸は、雲母荘の裏手にあった。草履に履き替え、三人は、落下防止のため木の蓋をした井戸へ歩き出す。
「あの、大丈夫ですか?他の仕事があったんじゃないですか?」
二人の好意に甘えて承諾したが、水守といさなも他の仕事があったのではないかと思いたった。
他の仕事を後回しにして自分を手伝おうとしているなら申し訳ない。
「大丈夫よ。やらなければいけない仕事はあらかた終わらせたから」
水守が当たり前だというような顔できっぱりと言い切る。先ほどの、どこか必死な表情で加具土を手伝うと言っていた様子はない。どちらが彼女の素顔だろうと思ってしまったが、しっかり者なところも、必死なところもどちらも彼女なのだろう。
「えぇ。水守の言うとおり、あらかた終わってしまったから、他の方を手伝おうと思って周囲を歩いていたんです」
水守の言葉を補足するかのように、いさなが続ける。
「そうなんですか・・・」
とりあえず、他の仕事を後回しにしているわけではないようなので、ほっとする。
「さぁ、洗うわよ!」
大盥を置き、衣の袖をめくりながら水守は勢い込む。
加具土が二枚の寝間着を大盥の中に入れたとき、皀莢の実の入った洗い袋を持ったいさなが「あら」と声を上げた。
「赤い染みが多いですね。かなりあちこちに点在しています」
いさなの言葉に一枚寝間着を広げて見れば、確かに胸元や腕回りに赤い染みがいくつもついていた。これは、洗っても目立ちそうだ。受け取るときによく見えればよかった。
自分の失態に若干沈んでいると、水守の「あーー」という声が聞こえた。
「これは、ちょっとまずいわね。たぶん、洗っても残るわ」
眉を顰める水守に、加具土の肩身はさらに狭くなる。
「手術用に使っていたので、血がついてしまったと思うんです。すみません。よく見ればよかった」
加具土の言葉に水守が納得したように頷く。
「なるほど、血ね。だとしたら、また寝間着に使うことはできないわ。洗って掃除用の衣に使うか、綺麗な部分を切り取って縫い合わせて雑巾にするか、捨てるしかないわね」
「捨てるのはもったいないですし、一枚は掃除用の衣に、もう一枚は切り取って縫い合わせましょうか」
いさなが三つの提案の内、二つを採用する。
「それもそうね」
水守が頷いた。加具土も「そうですね」と声を上げる。
「それじゃ、改めて!洗うわよ~!」
「えぇ」
「はい!」
水守の声かけに、いさなと加具土は返事を返した。
ごしっ、ごしっ、ごしっ。
井戸の水を大盥に入れ、寝間着を水に浸した後、皀莢の実の入った洗い袋で水守、いさな、加具土は、力を込めて寝間着を洗う。
水と洗い袋で血の染みは多少落ちたが、やはり目立つ。水守の言うとおり、寝間着には使えないだろうことが改めて感じられた。
「ねぇ、どうしてあなたがここに来たのか聞いてもいい?」
寝間着を洗いながら、水守が加具土に尋ねた。
「え・・・」
突然理由を問われ、加具土は戸惑った。すると、水守は困ったように微笑んだ。
「そんな不安そうな顔をしないで。ただ、片手で片目の不自由なあなたがどうして雲母荘に来たのか知りたいと思ったの」
それは、なぜそんなお前がここにいるのかと責めているようにも聞こえたが、純粋に聞きたがっているようにも聞こえた。
言葉に詰まっていると、水守が片手を上げ、軽く振った。
「勘違いしないで。適材適所ってあるでしょ?片手で片目が不自由のあなたが私たちと同じ事をするのは私たちより倍動かなくちゃいけないわ。それはあなたも大変だし、私たちも大変になる。なら、片手でできる仕事を選ぶとか、あまり時間がかかっても問題ない―例えば、お客様が入り終わった後の浴場の掃除とか―を選べばいいんじゃない?そういうことを若旦那様にも言ったらいいんじゃないかしら。仕事の采配をしているのは若旦那様だけれど、何かできるかできないかわかるのは、あなたなんだから」
「・・・・・・」
そういう考えもあるのかと加具土は納得する。
確かに与えられた仕事を懸命にこなす事も大事だが、できる、できないことを自分で見定めることも大事だ。
夢中になれるものを探したい、少し囓ったからやれるだろうと安易に考えた加具土も悪かった。
辞めればいいと簡単に考えていたが、水守の提案にも一理ある。もう少しここにいてもいいのではないかと加具土は思った。
しばらく洗い続けていると、目立っていた赤い染みがとれた。といっても、うっすらと見えており、確実に取れたとは言いがたいが、掃除用の衣や雑巾ならば十分といえた。
「よしっ、これくらいで大丈夫でしょう!あとは、干すだけね!」
水守の言葉を合図に、二枚の寝間着を水で洗い流す。
そして、三人は立てかけてある物干し竿に衣を干し、固定してある木の柱――竿の先端がちょうどはまるくぼみがあった――に引っかける。
二枚の衣はふわふわと風に揺れ、気持ちよさそうに吹かれていた。
「これで乾くまで置いておきましょう」
「そうね。雨も降らなさそうだし。今日中には乾くでしょう」
加具土が空を見上げれば、空は雲もない快晴だった。薄青い空がどこまでも高く、まぶしい。
確かによく乾きそうだ。
「あの、ありがとうございました」
水守といさな、二人の方に体を向け、加具土は頭を下げた。
「別に礼なんていいわよ。佐奈と豪太をぎゃふんとさせる切っ掛けをつくってくれたんだし。礼ならこっちがいいたいくらいよ」
水守が若干顔を赤くしながら、顔を背ける。それはどこか照れているように見えた。
「水守がこう言っていることですし。お礼なんていいんですよ。困った時はお互い様ですし、同じ雲母荘で働いている仲じゃないですか」
水守を見て少し笑いを堪えながら、いさなが当たり前だという風に言う。
二人の言葉に、加具土は胸の奥が温かくなった。
この雲母荘で、仕事を増やした厄介者だと思われていると考えていたが、水守といさなからはそんな負の感情は一切しない。邪魔者ではなく、雲母荘の一員として加具土を見てくれている。
やはり、辞めるのは早計だったかもしれない。加具土は改めて思った。
そして、それを思わせてくれた水守といさなに加具土は心を込めて礼を言った。
「いえ、それでも――ありがとうございます」
二人には、寝間着を一緒に洗ってくれた礼にしか聞こえないだろうが、加具土にとってはここでの自分の在り方を考えさせ、ここにいてもいいという安心感を得させてくれた礼も入っていた。
二枚の寝間着のどちらを掃除をするときに使う衣にするか、雑巾にするかは乾いてから決めることにした。その間、水守といさなは働く場を探しに再び宿の中へ戻っていった。
加具土も同じように宿に戻ったが、その足は若旦那――菫青の部屋へ向かっていた。
菫青の部屋は、雲母荘の二階にあった。といっても、そこで寝起きしているわけではない。若旦那の仕事は多岐に渡るため、それ専用の個室を用意してあるのだ。
従業員の仕事の采配、宿泊客や予約客の名簿、消耗品や備品、食料などの帳簿の管理、または団体客の予定の把握など。また、宿泊客からの苦情にも対応する。
菫青は毎日、宿泊客、厨、授業員の様子を見るため、個室を使うことは少ないが、時間が空けば、その部屋で事務作業をする。
菫青と話をしたいがどこにいるのかを葎に聞くと、二階の部屋だと教えてくれた。
加具土は礼をいい、階段を上がった。
ぎしぎしと音をたてる年期の入った階段を上りきると、そこは広々とした廊下と大部屋があるきりだった。襖は全て開け放たれ、ぎゅうぎゅう詰めに押し込めば五十人、余裕をもって入れれば三十人が入れそうな大部屋だった。
障子は開け放たれ、外からの景色が垣間見えた。降り注ぐ太陽の下で爛々と輝く緑の山、その麓には黄色い菜の花が群生して咲き誇っている。
部屋から入ってくるのは冷たく凍えるような冬の風ではなく、緑の匂いを纏う、包み込むような温かな風だった。
(もう春なんだ・・・)
家族に(一方的に)別れを告げ、暁月村を出たときは、まだ空気も風も冷たかった。
あれから一月は経っているが、まるで何年も経ったかのように感じるのは、村を出て新しい暮らしになじもうと必死にやっていたからだろうか。
(いけない!ぼーっとしている場合じゃなかった!)
加具土は慌てて首を振り、意識を今立っている場所に戻した。
階段を上がってすぐの廊下や大部屋も毎日掃除をしているため、埃が舞うことはなく綺麗なものだ。ただ、この二階に宿泊客を泊めることは滅多にないと、来た当初、案内をしてくれた大旦那――葛が言った。葛は、眼鏡をかけた、六十代ほどの細身の男だった。
「どうして使わないんですか?こんなに立派で広いのに」
不思議に思って尋ねれば、葛は細い目をさらに細め、寂しそうな顔で笑った。
「・・・僕には娘が二人いてね。長女は元気に働いて若女将をしている。さっき紹介したね」
「はい」
若女将――春蘭――は、豊かな黒髪を頭の上に上げた三十代後半の女性だった。加具土を見ると、胡桃色の瞳を嬉しそうに細め、明瞭で朗らかな声で「雲母荘へようこそ」と迎えてくれた。
「もう一人は、桜というんだが、若い頃に病気で亡くなってね。・・・そう、君と同じ年頃にね。舞を舞うのが好きで、調子のいい時にはよく舞を踊っていた」
そう言って葛は、大部屋を懐かしそうに見つめた。まるでそこに娘の桜がいるかのように。
「・・・桜さんはよくここで踊っていたんですか?」
「あぁ、そうだよ。家族にしか見せていなかったんだけどね。ある日、桜が言ったんだ。ここで、お客さんに舞を見せたいと。その頃には、もう歩くのも精一杯で寝ていることがほとんどだった。僕は必死になって止めたが、桜は踊りたいと繰り返した。私が顔を見せるたび、踊りたいと言い続けて。その鬼気迫りように私がとうとう折れた」
葛の声が涙混じりになる。
今にも倒れそうな娘が舞を踊ったらどうなるか。気力を果たして死んでしまうかもしれない。そう思えばこそ葛も必死だったのだろう。けれど、娘の思いに諦めざるおえなかった。
「そして、ここで踊ったんですね」
「・・・あぁ」
葛が頷く。加具土は大部屋を見つめた。
春の温かな日差しが差し込み、どこからか雀の鳴き声が聞こえる。
穏やかな時間が流れていた。
「私も桜さんの舞、見てみたかったです」
父親を折れさせるほどの気迫を向けた彼女だ。きっと舞もすばらしいものだったに違いない。その事があって、この部屋は宿泊のために使われていないのだろう。
「ありがとう」
瞳を潤ませ、葛は微笑んだ。
娘を想う葛の姿に、加具土は父と母――角杙と活杙を思い出した。
何も言わずに出ていった加具土を二人は心配しているだろうか。
けれど、あの時は離れなければならないと強く思っていた。そうしなければ、家族を不幸にしてしまうと。しかし、生きているか死んでいるかも分からない加具土を想って生きることはひどく辛いことではないだろうか。不安と希望に揺れながら、日々生きることを加具土は彼らに課してしまったのではないか。
「大旦那様・・・、聞いてもいいですか?」
「なんだい?」
「もし・・・、もし、娘さんが『私がそばにいるとみんなが不幸になってしまうから離れて暮らす』と言ったら、大旦那様はどう思いますか?」
葛が目を瞬かせる。
「・・・それはまた、突拍子もないね」
苦笑する葛の反応は当然のものだった。それでも加具土は聞かずにおれなかった。
父親としての彼がどう言葉を返すか知りたかった。
「すいません。でも、答えてもらえませんか」
答えてほしい。念じるように見つめれば、葛は顎を手に当て、考え込む仕草をした。
「そうだね・・・。まずは説得するかな」
「説得・・・」
「うん。不幸になってしまうと言っていたけれど、不幸や不運は誰にでも起こるものだ。それをたった一人の人間がそばにいるからという不確定な理由で離れて暮らす理由にはならないと思うよ。少なくとも僕は一緒に暮らしたいね」
「では、もし、確実に起こるとしたらどうしますか?回りで争いが起こったり、誰かが病気になったり、怪我をしたりしたら。それが何度も続いたりしたら」
加具土は思い出す。
村が燃えていたあの日の事や強制的に働かされている家族を見た時を。
村の人達や家族を助けられたのは、夕霧や白雨、花衣や朧が動いてくれたからだ。彼らがいなければ、自分は何もできず、小闇の言うままに傀儡になっていただろう。
また、似たような事が起こったなら、どうなるか分からない。そうなれば加具土は自分を許せないだろう。
「・・・・それは君の事なのかい?」
葛は細い目を開き、加具土に尋ねた。その瞳の色は春蘭と同じ胡桃色をしていた。
「・・・・!」
言い当てられ、加具土は驚く。息を呑み、見上げれば、葛は静かな眼差しを加具土に向けていた。
「話としては突拍子もないが、君の目が真剣だったからね。その、『そばにいるとみんなが不幸になってしまう』というのは、君のことかと思ってね」
宿の大旦那をしているからか、それとも葛自身の性格か、よく人を見ていると加具土は思った。普通、尋ねられたからと言って、言った当事者がそうだとは思わないだろう。
荒唐無稽だと笑われるか、頭の片隅に追いやるか。どちらにしろ真面目に取り合ってはもらえない。
「・・・笑わないんですね」
「職業柄、人をよく見るからね。本気かそうでないかはだいたい分かる」
「そうだったとしても信じるのは別です」
話している相手が真剣だったとしても、その内容を信じるか信じないかは聞いた本人に委ねられる。根拠も曖昧な――加具土にとって、根拠はありすぎるほどあるが――話を信じようとする葛はよほどのお人好しなのだろう。
「信じるか信じないかは、君が決めることじゃない。少なくとも僕の経験と勘が、君が嘘をついていないと判断した」
「本当だと信じてくれたなら、あなたはどう思いますか。怖くありませんか。恐ろしく思いませんか」
自分の娘が、あるいはそれに近しい娘が不幸や不運を呼び込むことを。
そう口にして加具土は気づいた。
家族に不幸や不運が起これば、自分を許せないと思っていたが、それだけではなく、家族が自分を怖がり、あるいは否定するような言葉を口にするのが恐ろしいのだと。
家族に存在を否定される恐怖。その事が加具土の胸の奥に棘のように刺さっていることに気がついたのだ。
すると、葛は顎に手を当て、何かを考えるように目を泳がせた後、加具土を見た。
「今にも泣きそうな子を前にして、恐ろしいと思う方が無理だな」
「え・・・」
目を瞬かせる加具土に、葛は柔らかい表情を向ける。
「加具土。さっきも言ったが、不幸や不運は誰にでも起こる。災害も事故も病だって、いつ起こるか分からないものだ。それを防ぐ手立てももちろんあるが、起こってしまった以上は悲しいことに変えられない。けれど、起こったことに絶望して蹲るか、這い上がって立ち上がるかは決められる。僕は、怖がって立ちすくむよりも、今目の前にいる君を助けたいと思うよ」
それは、親が子を思う、優しい眼差しだった。その目に、加具土は角杙と活杙を思い出す。
「きっと、君の家族もそう思っているんじゃないかな」
葛の言葉に加具土は唇を噛み締め、俯いた。涙が零れそうになるのを必死に耐える。
活杙や角杙、胡蝶やヨミの幸せを加具土は願い、村を出た。けれど、それは逃げでもあったのかもしれない。呪いについて話すことなく、自分で考え決めた。それは、家族を守るためだった。けれど、彼らを信じて話そうとは考えなかった。
自分がいることで、村や家族の誰かが不幸や不運に見舞われるのは辛く苦しい。その気持ちもあったが、親愛を向けてくれる彼らに憎しみや恐れの目で見られたくはないという気持ちも心の底にあったのだ。
きっと、正直に話せば角杙と活杙もいていいと言ってくれるだろう。そういう人達だ。
でも、そうだとしても、きっと加具土はいられない。訪れるかもしれない不運や不幸を恐れながら、家族とともに生きることに耐えられないだろう。
葛の気持ちは嬉しかった。
けれど、加具土は呪いとともに家族と生きることはできない。そこまで強くはない。
「・・・ありがとうございます」
葛の言ったように家族が自分の事を想っていてくれたなら、それだけで加具土は救われる。
(・・・・・文を書こう)
居場所は書けないが、自分が皆の元を離れた理由――伊耶那美の呪いのことを書こう。
せめて、自分が元気だということを知らせよう。それが自分を怖がらず、娘のように育ててくれた二人にできる恩返しだと加具土は思った。
加具土は廊下を歩き、奥にある菫青の部屋へ向かった。
襖には、墨汁で描かれた雀が、同じく墨汁で描かれた激流逆巻く水の上を飛んでいるという絵が描かれていた。
人々に憩いの場を提供する宿屋にはあまりそぐわない絵のように加具土には感じられた。
「若旦那様、加具土です」
襖の前で声をかければ、『入れ』と菫青の声が襖の向こうから聞こえた。
「失礼します」
襖を開け、部屋に入れば、菫青は文机に座り、二つの帳簿と顔を付き合わせていた。
加具土は、菫青に向かい合うように正座をした。
「あの、お話があるのですが」
「なんだ」
帳簿から目を離さず、菫青が答える。
「・・・仕事を変えてもらいたいのです」
すると、菫青がちらりと加具土を見た。咎めているかのようなその視線に口の中が乾くのを感じながら、加具土は必死に言葉を連ねた。
「も、もちろん、『カンナの間』のお客様のお世話はきちんとします。ただ、給仕の仕事を別の仕事に変えてもらいたいのです。そうずれば、私の補佐をしていた方は自分の仕事ができますし、私は私の速度で仕事を行うことができます。いきなりのことで申し訳ありません。ですが、ここで仕事を続けていくためにもお願いします」
加具土は頭を下げた。
菫青は小さく息を吐くと、帳簿から顔を上げ、加具土を真っ直ぐに見つめた。
「では、何ができる?」
その声音には、そう口にするからには何かできることがあるのだろう?という圧力に似たものを感じた。
加具土は唇を湿らせ、膝の上に置いた左拳に力を入れると、口を開いた。
「字が読めて、書けます」
この葦原の大部分の民は字が読めず、書けない。
貴族や多少豊かな民は親から教わるか、教師をつけて学ぶこともあるという。
字を扱う職業につくか、医術師のような学舎に入るか。そうでなければ、字を学ぶ機会はない。多くの民は、田や畑を耕すことが仕事であり、字が読めなくても生きていくことができるからだ。
加具土の場合は、母である活杙が医術師であったため、読み書きを教えてもらっていたこともあり、文字を読む機会も多かった。
ちなみに、義理の妹の胡蝶は、次期村長の立場から祖父に習っていたらしく、読み書きができた。
文字が読め、書けるということは、葦原のどの国であっても重宝されていた。
菫青はしばらく考え込むように空を睨んだ。
「・・・では、帳簿の整理を頼もう」
やがて、ぽつりと菫青が言った。
「あ、ありがとうございます!」
加具土は勢いよく頭を下げた。
まさか、すんなりと許可が降りるとは思わなかった。驚きながらも喜びが胸に広がった。
「帳簿の整理は、お前のほかに石榴という者がいる。くわしい事は石榴に聞け。これは午前中にやってもらおう。『カンナの間』のお客様――神薙様の世話は、合間合間でいい。食事の用意が主になるだろう。石榴には伝えておく。・・・午後は宿泊を終えたお客様の部屋と浴場の掃除だ。掃除の仕方は、緑野が知っている。分からないところは緑野に聞け。石榴と緑野は、年はお前と同じで若いが、よく働くし、気がきく。気兼ねなく聞け」
「はい、分かりました」
加具土は大きく頷いた。
こうして、菫青の采配で加具土は給仕係から外れ、事務と掃除の仕事を兼任することになった。