第百六十七幕 凪
加具土は旅に出た。
生きるために、そして自分が夢中になれるものを探すために。
まず、加具土は南に向かい、凪と呼ばれる国へ向かった。
凪は、温泉が湧き出る土地が多いことで有名だった。温泉や温泉の力を利用した、卵や野菜といった食べ物、凪でしか見られない間欠泉という風景を目当てに葦原全土から人が訪れる。そういう土地柄のせいか、宿屋が圧倒的に多かった。
加具土が最初に思い描いたのは、給仕の仕事だった。三日間ほどではあったが、だいたいの流れは覚えている。やっている内に夢中になり、天職とも呼べるものになるかもしれないと思ったからだ。
「・・・すごい」
加具土はあっけにとられていた。
凪の首都――風理――は、統治する王の膝元でもあり、温泉宿がひしめきあう場所でもあった。禮甫のように族長でなく、王が統治する国は、国の面積が大きく古く歴史があることを意味する。凪以外では、牙蘭がそうだった。
地元の人間よりも他の国の人間が多いのではないかと思うほど市のたつ大通りは人が多く――馬車に相乗りさせてもらった旅芸人一座(面をつけて踊りを披露する一座で、名を黄龍座といった)の団長が話してくれたところによると、西から牙蘭、北は六花の裕福な人々が観光にくるらしい――かなりの数いた。それは、お互いの体と体が触れ合うほどの近さで、加具土は一歩進むことに多大な労力を要した。
店には多くの客がすし詰め状態で並び、それ以上に客を呼び込もうと、店主やあるいは店の者らが大きな声で叫んでいる。
人の波をかき分け、店の脇へ体を寄せ、加具土はようやく一息つくことができた。
何かを焼く香ばしい匂いが鼻をくすぐり、同時に、温泉の独特の匂いも漂ってくる。何かを蒸しているらしく白い湯気が上がっているのが遠目に見えた。
暁月村とも禮甫とも違う景色に加具土は、しばし呆然とする。だが、すぐに我に返り、表情を引き締めた。自分はここに仕事を探してきたのだ。遊びにきたわけではない。
加具土は、目についた紺色の暖簾がかかっている宿屋へ足を踏み入れた。
玄関先には宿の名前が書かれた看板が提げられており、そこにはこう書かれていた。
――『雲母荘』と。
どうにかやれるだろうと考えた加具土だったが、けれど現実は甘くなかった。
まず、加具土が雇われた宿は風車亭より敷地が大きく、客を迎え入れる数も圧倒的に多かった。給仕に掃除、帳場の仕事など、一人一人が全てを完璧にこなせなければ、回っていかない。
片手と片目であることは、やはり仕事を行う上で差し障りがあった。
雇ってくれた大旦那は加具土を不憫に思ったか、あるいは人手が足りないから誰でもいいからほしいと思ったのかは分からないが、加具土を雇い、補助をしてくれる人間をつけてくれた。けれど、あまりの忙しさに補助をしてくれる人間も加具土につきっきりにはなれない。
自然と加具土の仕事は遅くなり、他の従業員の仕事を増やす結果になった。
――やはり、トワの補助と風車亭くらいの規模でなければ難しいらしい。完全に加具土の選択間違いだった。雇ってくれた大旦那には悪いが、試用期間の一週間が経ったら辞めよう。
そう心に決め、仕事をこなしていたある日、給仕をしていた客の男が、腹を押さえ苦しみ初め、倒れてしまった。
大旦那が医術師を呼び、医術師は男に薬を飲ませたが、一向に男の症状はよくならない。
加具土は担当していた客ということもあり、男の布団を用意したり、医術師の食事を部屋に運んだりとせわしなく働いていた。その間にも宿泊客は絶え間なく訪れていたが、加具土に手伝いに入るよう声がかかることはなかった。
無心で彼らの世話をしていた加具土は、男の部屋の前に甘い花の匂いを纏わせ、煙管を口にくわえた女が立っているのを見る。女の足下には、薬売りが使うような三、四段ある背負い箱――薬籠が置かれていた。
「あの、何かご用でしょうか?」
声をかけるが、女は加具土をちらりと横目で見たが、すぐに視線を前方に戻してしまった。
「あの・・・」
女が宿泊客なら対応しなければならないが、女は加具土に用向きを伝える気はないらしい。
困った。・・・どうしよう。
加具土が困惑し、他の従業員が誰かを呼んでこようかと思案していると、女は煙管筒に煙管をしまい、懐に収めると、そばに置いた薬籠を持ち上げ、突然部屋の襖を開け、入ってしまった。
「えっ!」
驚いて後を追うと、案の定目を丸くした若い医術師がおり、その奥に脂汗を浮かべながら布団の上で寝かせられている男がいた。
「だ、誰だ、お前!」
薬籠を畳の上に置いた女は、医術師の言葉にも無言を通し、奥で寝ている男の布団をはぐと、その脇腹へ手を当てた。
「いっ!!」
痛そうに顔を顰める男に、女は何かを見定めるかのように脇腹を見つめる。
「おい!勝手に何をやってる!」
あっけにとられていた医術師が我に返り、女に向かって叫んだ。
「こりゃぁ、盲腸炎だよ。手術をしなきゃこの患者はよくならないよ」
「なんだと!?素人がそんな勝手なこと!」
顔を赤くし、憤慨する医術師に女はどこ吹く風だった。女は医術師に告げた。
「あたしの名は千鳥。外科の千鳥といえば名が通っているだろう」
「お、お前が!」
医術師が驚いたように声を上げる。
――外科の千鳥。その名は加具土にも覚えがあった。
外科は、薬で治療する内科とは違い、手術を行い、患部を治す。
手術は、患者の体内を切り開き、病気の原因となるものを取り除く危険な方法だ。
それゆえに、内科とはまた違う高度な技術が必要になる。体を切り開くなど鬼の所業だといって、治療を拒む者も中にはいるが、治療方法が増えれば救える患者も増えると考える人々が外科の医術師として勉学と実技に励み、外科の医術師は年々増えてきているという。
暁月村にはいなかったが、隣村に一人いて、内科の医術師では病状を把握できても治療できなかったものが、その医術師のおかげでできたと聞いたことがあった。
外科の医術師のなかでも、腕がよく天才と噂されていたのが千鳥という名の医術師だった。流しの医術師で、金持ちには多額の治療費を請求するが、貧しい者からは無料、あるいはそれ相応の治療費を請求する、庶民の味方だと。そのせいか、庶民には大人気だが金持ち相手には不評だという噂だった。
(この人が――)
鮮やかな鬱金色の髪に、銀色の瞳。衣は赤と緑の格子模様で、帯は白という一見すると医術師には見えない出で立ちだった。だが、男を診ていた時も医術師に名を名乗った時も嘘を言っているようには見えなかった。
「事態は一刻を争う。華陀はあるかい?ちょうど切らしてしまってね」
華陀とは、麻酔薬だ。それを飲めば手術で感じる痛みをなくすことができる。また、量を調節すれば、局部の痛みを取り除き、患者の痛みが和らぐため、内科の医術師も使うことがあった。
「あ、あんたが外科の千鳥だという証拠はあるのか!」
一刻を争うというのに、医術師は女が千鳥だと認めはしなかった。女――千鳥は鋭い眼差しを医術師に向ける。
「そんな押し問答なんかしてる暇はないんだよ!あんたも医者の端くれなら、今目の前の患者を助けることに集中しな!」
「ぐっ・・・」
千鳥の一喝に医術師の男は呻きながら唇を引き結ぶ。一拍おいて、医術師は黒塗りの薬箱から一つのつつみを取り出し、千鳥に手渡す。
「これが華陀だ」
「ありがとう」
礼を言い、千鳥が受け取る。そして、男の体を起こすと、つつみを取り出し、華陀を口に含ませ、水を飲ませた。
ゆっくりと男を布団に寝かせると、千鳥は薬籠の引き出しを開けた。そこには、皮膚を切開する時に使う小刀、切る時と皮膚の組織を剥がすときに使う剪刀、そのほか、鑷子、鉗子、針、糸、持針器、鉤、開創器等、手術で使う道具が入っていた。千鳥は引き出しごと持ち上げ、引き抜くと、畳の上に置く。
「すまないが、娘さん。湯を沸かしてもらえるかい?それから洗ったばかりで使っていない衣が欲しいんだが、どこにあるか分かるかい?」
加具土は、千鳥が手術道具の消毒をしたがっていることと、衛生面のために新しい衣を欲していることに気づいた。
「新しい衣なら、この宿の寝間着があります。いくつか見繕って持ってきます。それから沸かした湯は壺に入れて持ってくるように頼んできます。手の消毒も必要でしょうから、湯を多めに用意しましょう。それから焼酎も」
そう言えば、千鳥が目を丸くし、感心したように加具土を見た。
「ずいぶん手慣れているね。医術関係の仕事でもしていたのかい?」
加具土は微笑み、頷いた。
「・・・母と一緒に産婆の手伝いを。それに小さな怪我の治療はしたことがありますから」
千鳥は納得したように頷く。
「なるほどねぇ。こいつよりよっぽど頼りになりそうだよ」
親指で医術師を指し、千鳥はにこりと満面の笑みを浮かべた。
「なんだと!?」
医術師が聞き捨てならないという風に気色ばむと、千鳥が冷めた視線を向けた。
「侮られたと感じるほどの誇りがあるなら、手伝ってもらうよ。娘さん、寝間着はあたしとこいつの分をもってきてくれるかい?」
「わっ、私もやるのか!?」
寝耳に水といった様子の医術師に千鳥は淡々と告げた。
「手術は時間との勝負だ。二人いるならその分時間を縮められる。指示はあたしが出すから、あんたはその通りにやってくれればいい」
「そ、そんな・・・」
狼狽える医術師を千鳥は睨み付けた。
「内科が専門だろうと外科も学ぶだろう。この男を助けられるのはあたしとあんたしかいないんだ。覚悟を決めな!!」
凄む千鳥に観念したのか、医術師は諦めたように呟いた。
「わ、わかった・・・」
そのやりとりを目の端に移しながら、加具土は部屋を出た。
加具土は、厨にいる誰かに状況を説明して、湯を沸かし、壺に入れてもらおうと考えた。
厨に入れば、そこは別の意味で戦場と化していた。
とんとん、ざくざくと野菜を切る音、料理の名を叫ぶ声、従業員に注意を促す料理長の怒号、鍋や竈から立ち上る湯気、肉を炒めた時や魚を焼いた時の香ばしい匂い、炊きたての米の匂いなど、耳と鼻と目がせわしなく行き来する、そんな状態だった。
これでは湯を沸かしてくれとおいそれと頼めない。誰かに頼んでその間に寝間着を取りに行こうと思っていたが、これでは難しそうだ。
加具土は厨を見回す。
この五日で、宿の内情はだいたい把握していた。厨の面々は、その仕事上、一斉に休憩を取れない。そのため、時間をずらして何人かが外で休憩をとっているのだ。
加具土は慌ただしい厨の中を抜けて、開け放たれた裏口へ向かった。
そこは、大きな楠が一本立っている広い中庭だった。楠の下には、長さのある木の腰掛けがあり、二人の従業員が木陰で休んでいた。
楽しげに話をしているのを遮るのは心苦しいが、人の命がかかっている。急がなければ。
加具土は、彼らの元へ駆けていった。
しかし、話を聞いてくれた女と男、二人の従業員は眉を顰め、首を横に振るだけだった。
「わたし、今手が離せないの。やるなら一人でやって」
「おれも。今大事なところなんだ」
にべもなく断る二人に加具土は目を細めた。
「・・・今は休憩中のはず。お二人とも忙しそうには見えませんが」
だからこそ加具土は二人に声をかけたのだ。すると、あからさまに二人は嫌そうな顔をする。
「休憩は終わりよ。頼むなら他に言って」
「そうそう。休憩は終わり。あー、忙しい忙しい」
女の従業員は手をひらひらと振り、男の従業員も加具土を無視してさっさと裏口へ向かい、厨へ向かってしまった。
(どうすれば・・・)
困り果てた加具土だったが、ふと閃いた。
(そうだ!)
加具土はこの宿の温泉が源泉掛け流しであるということを思い出した。岩の割れ目から流れる源泉は非常に熱いが、宿泊客には好評だった。
源泉ならわざわざ沸かさなくても熱湯だ。成分など色々あるが、一時の消毒用になら十分使える。
善は急げだ。さっそく大浴場へ行こう。
加具土は厨を通ると、使っていない壺を拝借し、大浴場へ向かった。
「おや、加具土じゃないか。壺なんぞ持ってどうした?」
大浴場へ向かう渡り廊下を歩いていると、顎に白い髭を生やした老爺が話しかけてきた。
老爺の手には雑巾と水を入れた桶が握られている。
「葎さん」
加具土は、自分が担当していた客が倒れた原因が体の中にあること、手術でそれを治さなければ命に関わること、千鳥という医術師が手術をしてくれること、自分はその準備をしていることを話した。
「本当は壺がもう一個欲しかったんですけど。私の手じゃ一個が限界で。手伝ってくれる人に声をかけたんですけど、断られてしまって・・・」
「断られたぁ!?」
声を上げる葎に加具土は頷く。葎は困ったように顎をさすった。
「う~む。昨今ここに働く連中は増えているが、まさか分かった上で断るとは。質が落ちてきたか・・・。菫青に話をした方がいいかもしれんな」
菫青とは、この宿――雲母荘の若旦那だ。加具土を雇ってくれたのは菫青の義理の父親である大旦那で、若旦那は加具土の仕事の采配や補助の人間を決めてくれていた。
葎はここで働いて長いのだろう。その件は葎に任せることにして、今は湯を集めなければ。
「葎さん、私、急いでいるので」
「おう。済まなかったな。なら、わしも手伝おう。湯はわしが持っていくから、お前さんは寝間着と焼酎を運びなさい」
「え、いいんですか?掃除の途中だったんでしょう?」
加具土は葎の手にある桶と雑巾を見る。
「なに、緊急というわけではない。今はお前さんがやろうとしている事のほうが大事だ」
「あ、ありがとうございます」
壺を葎に手渡し、加具土は千鳥達がいる部屋の名を口にした。
「医術師さん達がいるのは『カンナの間』です。よろしくお願いします」
「おう」
葎が壺を抱え、大浴場へ向かう。その背を見送りながら、加具土も寝間着を置いてある大部屋へ向かった。
女性と男性用の寝間着を腕に引っかけ、手には消毒用の縄でくくられた焼酎の瓶――ひと息ついたらしい厨の様子に料理長にもらいたいと尋ねたら、快く一瓶譲ってくれた――
を持ち、加具土は千鳥達のいる『カンナの間』へ足早に歩く。
赤、黄色、白、紫の鬱金香が黄金色の川の流れのなかに佇む情景を描いた襖の前で加具土は止まった。
「千鳥さん、寝間着と焼酎をもってきました」
声をかけると、襖が開き、長い髪を手拭いで隠すようにまとめ、口元を布で覆った千鳥が現れた。
「あぁ、ありがとう。助かったよ」
千鳥は寝間着と焼酎を加具土の手から受け取る。加具土が部屋の中を覗けば、寝かされた男のそばに湯気がもうもうとなった二つの壺あり、その中に浸かるように手術道具が入っていた。その壺と男を挟んだ形で、若い医術師も手拭いを被って髪を隠し、口元を布で覆っている。
部屋の障子は全て締め切られ、温かな春の光が障子ごしから透けて見える。
それでも音は聞こえた。
風が吹き、周囲に植えられているらしい木々が葉を擦らせ、さわさわと音を鳴らし、木の枝か、あるいは地面にでもいるのか雀の鳴き声が響く。
これから手術をするとは思えないほど穏やかな音だった。
「あの、他に手伝うことはありますか?」
布の間から千鳥が加具土を見る。
「・・・そうだね。手術をしている最中に人が入ってきたら汚染されちまうからね。もし誰かが尋ねてきても、説得でも何でもして襖の前に留め置いてくれるかい?」
――汚染。体を開くということは、危険な行為だ。消毒はきちんとするが、絶対安全とは言い切れない。もし、清潔な衣に着替えていない者が入ってくれば、体内に菌が入り、患者をさらに危険な状態にしてしまう。
活杙は外科が専門ではなかったが、加具土にその手の専門書を読ませてくれた。
活杙曰く、たとえ使うことがなくても、知ること、学ぶことは良いことだ。いつか役に立つ日もあるかもしれない、と。
それが今現実のものとなっている。
加具土は、心の中で母に感謝しながら、千鳥の頼みを受け入れた。
「わかりました。たとえ誰が来てもここを通したりはしません」
加具土が『カンナの間』で正座をして手術が終わるのを待っていると、しばらくして人相の悪い五、六人の男達が現れ、部屋の前で立ち止まった。
男の一人が襖を開けようとするのを加具土は立ち上がり、割って入る。
「何か御用でしょうか?」
鋭い目つきを向ければ、強面の男は口角を上げ、おもしろそうな表情を浮かべ、加具土を見た。
「お嬢ちゃん、俺達はこの部屋にいる奴に用があるんだ。どいてくんな」
「そういうわけにはいきません。この部屋では手術を行っているんです。あなた方を入れるわけにはいきません」
すると、男達は一斉に笑い声を上げた。
「手術だぁ?あいつの腹痛ってのはそこまで大げさだったかねぇ」
「こりゃいい」
「頭、そんなのあいつお得意の嘘に決まってますぜ」
「まぁ、あいつは嘘をつくのが得意だからな」
頭と呼ばれた強面の男は頷き、さらに襖に手をかけようとする。
「だめです!その人は嘘が得意だったかもしれませんが、今回のは嘘じゃありません!」
頭の手を掴み、加具土は力を込めた。だが、片手だけでは力がうまく入らない。案の定、振り払われた。彼らの内の一人が言う。
「かわいそうに。お嬢ちゃんもあいつの嘘に騙されてるんだよ。俺達も何度騙されたことか」
「だめ!!」
加具土は頭の腕を体全体で掴み、止めようとする。
「邪魔だ!」
いよいよ堪忍袋の尾が切れたのか、頭が加具土の体を突き飛ばす。
加具土は背中をしたたかに打った。
急いで起き上がるが、その手は襖にかけられる。
間に合わないと思ったその時、低いが歯切れのいい声が響いた。
「お待ちください」
その声の方に顔を向けると、そこには葎と、色白に面長の顔の銀色の長い髪を首筋でくくった四十代の男がいた。男は、菫青だった。
「開けるのは、手術が終わってからです」
有無を言わさない声音で告げる菫青に、頭はにやついた笑みを浮かべる。
「若旦那であるあんたもあいつの嘘を信じるのか?」
「あいつというのがどなたか存じませんが、私の宿にお泊まりになった以上、大切なお客様です。そのお客様をみすみす命の危機にさらすつもりはありません。それにその嘘とやらを信じている者がいるのです」
菫青はそう言って座り込んだままの加具土を見やると、再び頭へ顔を向けた。
「彼女を信じないということは、この宿と私を信用していないということでしょう。太熊、あなた方十二司に部屋を提供しているのは、先代の言葉があるからです。横暴が過ぎれば私はあなた達を叩き出す。わかっていますね」
やわらかな口調ではあったが、発せられる空気は厳しく冷たい。
それに気づいていないのか、それとも気づいていて無視をしているのかわからないが、男の一人がへらへらと笑いながら頭に言った。
「頭、こんなひょろひょろな奴のことなん「だまれ!」
だが、最後まで言うことなく、頭――太熊に強く一喝される。目を丸くする男達に頭は言った。
「こいつを甘く見るな。本気になればおれ達はおろか、十二司は潰される」
太熊は襖から手を離した。それを見て菫青は音をたてるようににこりと笑う。
「ありがとうございます。では、協力してくれた皆様には心のこもったおもてなしをさせていただきます。さ、こちらへどうぞ」
菫青は片手を広げ、太熊達を促した。
「行くぞ!」
太熊が声を上げ、男達を引き連れて行く。男達の顔は不満で、しぶしぶといった様子で太熊の後についていく。
彼らが菫青の後についていく様子を加具土が座り込んだまま見つめていると、ふいに菫青が立ち止まり、加具土の方を振り返った。
「加具土」
男達に向けていた空気はなりを潜めていたが、声音は強い。
何を言われるだろうか。
加具土は緊張しながら返事を返した。
「はい!」
菫青は加具土の目を真っ直ぐに見た後、口を開いた。
「最後まできちんとお客様を世話するように」
それは従業員として当然の言葉であったが、加具土には、菫青が自分を信頼して任せてくれたのだと感じた。
「はい!!」
力強く返事を返せば、菫青は小さく頷き、今度こそ振り返らず、太熊たちを連れて行ってしまった。
「大丈夫かい?」
葎がこちらに寄ってきて手をさしのべる。
「大丈夫です。ちょっと背中を打っただけですから」
加具土は片腕を支えに、足の筋肉をつかって立ち上がり、葎と向かい合った。
「葎さんこそありがとうございます。若旦那様を呼んでくださって。・・・私だけじゃ止められなかった」
千鳥に豪語した手前、情けない。だが、本当に助かった。
「なに、この宿のもろもろを知り、采配して動くのが若旦那の仕事だ。胸をどーんと張って頼ればいい」
片目をつぶり、茶目っ気たっぷりに言う葎に加具土は思わず笑ってしまう。
その時ふと、加具土は気になった。
宿の若旦那である菫青を、太熊はなぜあんなに恐れていたのか。それに十二司とはなんなのか。
「葎さん、聞いてもいいですか?」
「なんだ?」
「十二司ってなんです?それに太熊って人はなぜ若旦那を怖がっていたんでしょう?」
すると、葎は微笑みを浮かべ、『カンナの間』の襖を見つめた。
「この『カンナの間』にいる客は、十二司の一人さ。十二司というのは、この国の裏社会に住む者達が創った組織のことさ。ほかにも色々あるが、十二司が一番規模も大きく、属している人間も多い」
葎はさらに続けた。
「裏社会の人間というと、ならず者、犯罪をおかして表の人間に危害を加える人間を思い浮かべるだろうが、十二司は違う。昔、十二人の侠客が行き場のない孤児や表の社会に居場所のない者、仕事にあぶれた者、貧しい者たちを集めて、住む場所や仕事を提供して働き手を育てたのさ。侠客達はみなすでに鬼籍に入っていているが、その意思を継いだ人間が引き継いでいる。太熊もその内の一人だ。悪い奴じゃないんだが、感情で動くところがあってな。騒動もたびたびだ」
葎が苦笑いを浮かべる。
「そんな組織があるんですね。知らなかった・・・」
感心しながら、加具土は納得する。
太熊たちが引き連れていた男達もその十二司なのだろう。がたいも良く、顔も強面で、態度も粗野。口調も荒く、ならず者のように見えたが、皆それぞれに事情を抱えているのだ。
葎の言葉がなければ、体が大きく怖いだけの男達と思っていただろう。
「菫青さんを怖がっていたのはどうしてですか?」
すると、葎は笑い声を上げた。
「ははは。あいつは、十二司を創設した侠客の一人、公英の息子だ。今は落ち着いてすました顔をしているが、数年前までは、よく回る頭とよく動く口で、太熊や他の者たちのやり方に口を出して、甘さがあれば厳しく指摘し、横暴があれば論理で叩き潰していたからな。しかも、この周辺にはびこっていた悪徳事業を潰して回っていたくらいだ。まぁ、若くしてその頭の良さを国に変われ、宮中に召し上げられて、ついにはこの国の――凪の政で行う事業にまで手を出すことができるようになった」
加具土は目を見開く。宮中に召し上げられるなど簡単なことではない。
「それはすごいですね!」
感嘆する加具土だったが、ここで疑問が生まれた。
「あれ、でも今はここで働いていますよね?辞めてしまったんですか?」
すると、葎は唇を引き結び、なんとも言えない顔をした。そして、疲れたように小さく息を吐いた。
「・・・あまり大きな声では言えないが、この国の上層部は今でも腐っとる。貴族、領主といった家臣ばかりでなく、この国の王もな。賄賂は日常茶飯事、資金洗浄も当たり前。金はあるが、民に還元しようとは露ほども思っていない。豊かな者は豊かで、貧しい者は貧しいばかりだ」
厳しい表情を浮かべながら、葎は続けた。
「それを知った菫青は不正を正そうと動いた。わしは止めた。一人でやっても潰されるだけだとな」
「葎さんも宮中にいたんですか?」
菫青を止めたという言葉といい、宮中の内部にくわしいことといい、加具土は葎が菫青と同じように宮中内に属していたのではないかと思い、聞いた。
葎は何かを振り払うように手を振った。
「いたはいたが、たいした事はしていない。ただの資料係さ。片隅に追いやられて、黴やほこりの生えた資料をずーっと見ていただけだ」
それでも十分すごいと思うが。加具土は葎を見る。
「菫青さ、――若旦那はそれでどうなったんですか?」
「王に奏上し、結果、口封じされそうになった」
「え!?」
王も家臣も腐っているとはいっていたが、だからといって問答無用で一人の人間の命を奪うのはあまりに乱暴だ。しかも、菫青に落ち度はない。むしろ国を良い方向に導こうとしているというのに。
葎が肩をすくめた。
「王や家臣にとっては、賄賂や資金洗浄ができる環境のほうが都合がいいのさ。正しい事をする人間は目障りなだけ、そういう人間に感化されて王や家臣に刃向かう連中をなくすという意味もあるのさ。甘い汁を吸うのは自分達だとな」
「そんな、ひどい・・・」
禮甫も豊かな場所と貧しい場所があるが、治める族長は良心的な人だった。周りの人間は一枚岩ではないと言っていたが。治める人間は、その国の民を慈しみ、守り、暮らしやすいように社会を整える役割を担っているのではないのか。これではまるで駒のような扱いだ。
加具土は苦々しく思いながら、それを振り払い、話を先に進めた。
「でも、無事でよかったです。葎さんが助けたんですか?」
葎が頷く。
「嫌な予感がして菫青を探していたら、王族が使う緊急用の水路に繋がった扉が開いていてな。降りてみたら、兵士二人が気絶した菫青を水路に投げ込むところに出くわした」
「え!それってあぶなかったんじゃ・・・」
「兵士もまさか人が来ると思わなかったんだろう。わしもびっくりしたが、あっちも口をあんぐり開けて驚いていた。その隙をついてわしは水路に飛び込み、沈んだ菫青を探した」
「水路に・・・。大変でしたね」
気絶した人間を支え、泳ぎ続けるのは並大抵の体力ではできない。下手をすれば二人とも沈んでいたかもしれない。
葎が重々しく頷いた。
「あぁ。水は飲むは、足がつりそうになるは、さんざんだった。だが、どうにか菫青を引き上げ、流れに乗りながら、川に出てな。偶然流れてきた流木に引っかかってどうにか助かった。もう十年以上前のことだ。宮中の人間もわし等が生きているとは思ってないだろうな」
「その後はどうしたんですか?」
「ここの大旦那に助けられたのさ。その恩もあって、菫青は大旦那の娘さんと結婚して若旦那になった」
「・・・すごい人生ですね」
加具土は菫青と葎の壮絶な経験に胸が詰まった。
「この国に生まれた者は、成長して思い知る。小さな村や町を治めている長や、大きな町を治める領主が自分達を顧みず、税を必要以上に搾取し、贅沢をしていることを。それに嫌気がさして他の国に行くか、それとも抗うか、はたまた諦め、黙々と従うか」
市のたつ大通りを見ただけでは分からなかった、この凪という国の闇を加具土は感じた。
凪の有り様を説明する葎に、加具土は聞いた。
「葎さんはどっちなんですか?」
「ん?」
「他の国に出てはいないし、抗っているわけでもない。でも、諦めて黙々と従っている風にも見えないから」
すると葎は目を大きく見開き、加具土を見ると、いきなり大きな笑い声を上げた。
「はははははっ!」
そんなにおかしな事を言っただろうか。不思議に思いながら、葎を見つめていると、「いや、すまない」と葎は謝った。
「よく見ているなと思っただけだ。お前さんがおかしくて笑ったわけじゃない」
「はぁ」
加具土は頷く。葎は髭を生やした顎を触りながら、言葉を続けた。
「わしはこの国が好きだからな。生まれた故郷でもあるし、この国を実質支えているのは、わしらのような高い身分を持たない連中だ。上が腐っていようと、頭を働かせて、少しでも暮らし向きを良くしようと奮闘している奴らを捨ててどこかへ行こうとは思わない。それに、いつまでもこのままにしてはおけんからな。次の代、その次の代までこんな形では、いつかこの国は破滅する」
「・・・何か考えがあるんですか?」
人々を集めて声を上げるのか、それとも領主や貴族の家を襲って反乱を起こすのか。
だが、それでは犠牲者が出るだろう。それに、王が不正を良しとしている以上、国の長年培ってきた体質を変えるのは難しいだろう。だが、だからといって王や家臣の命を奪っても、それは悪くなった実を取っただけで、根まで枯らしたわけではない。――犠牲者が出ることも、不正を許す王や家臣の命が奪われるのも加具土は嫌だが。
人の心は移り変わる。不正の中心にいた王と家臣がいなくなってとしても、同じ事を行う者がいないとは限らない。
王や家臣を失脚させ、その後の凪をどういう方向に向けていくのか。賄賂や資金洗浄といった事を二度とさせないための法も考えなければいけない。
そういった事をまとめ、納得させ、発信できる資質の持ち主が立たなければ、凪は変わらない。そして、その持ち主を支えてくれる人間の存在も不可欠だ。時に叱咤し、時に手綱を引ける度量の持ち主が。
そこまで思い浮かべた加具土は、心の中で首を振る。
加具土が頭に浮かべるくらいだ。葎だってその辺りのことは考えているだろう。
犠牲者が出ようと、王と家臣の命を奪うことも辞さないと凪の民が考えれば、加具土には止められるかどうか分からない。所詮加具土はよそ者だ。
「お前が気にやまなくてもいい」
葎は苦笑を浮かべながら加具土の肩を叩くと、一転して真剣な表情をつくった。
「これはわしらの問題だ。わしらがやらなければならないことだ」
それは、加具土だろうと他の国の誰だろうと手伝ってもらうつもりはないということだろう。確かに、凪のことは凪に住む葎たちがどうにかしなければ意味が無い。
「・・・はい」
加具土は頷いた。
すると、スパンと軽快な音をたてて襖が開き、寝間着である抹茶色の衣を自身の衣の上に重ねた千鳥が姿を現した。
千鳥が加具土を見て目を細めた。
「終わったよ。ありがとうね」
「いえ・・・」
加具土は首を横に振った。止められたのは若旦那――菫青が来てくれたからだ。
部屋の奥を覗けば、治療を終えた男は布団をかけられ眠っており、そのそばにはぐったりとした様子で若い医術師の男が座り込んでいた。
「あ、寝間着を洗います」
自分にできることは二人の片付けだろう。加具土は千鳥に片手を差し出した。同時に奥にいる医術師にも声をかけた。
「寝間着を洗いますから、すいませんが持ってきてもらっていいですか?」
手術が終わったとはいえ、部屋の中に入るのはよくないだろうと思ったのだ。
だが、医術師の反応はない。
千鳥が首を捻り、だんまりの医術師に言った。
「なに、ぼさっとしてんだい。とっとと動きな」
そう言うと、千鳥は寝間着をさっと寝間着を脱ぎ、加具土に渡した。
「悪いけどやってもらっていいかい?」
「はい。構いません」
加具土は寝間着を受け取る。千鳥の横から医術師の様子を窺うが、やはり反応はない。
「まったく・・・」
千鳥がため息を吐きながら、医術師の元へ向かうと彼に断りを入れることなく、寝間着をはいだ。医術師は言葉もなくされるがままだ。
医術師の体がぐらりと横に傾き、畳の上に倒れる。医術師の瞼は閉じられ、こころなしか顔が青ざめているように見えた。
「だ、大丈夫ですかね?」
千鳥から手渡された医術師の寝間着を受け取りながら、加具土は不安げに尋ねた。
「あぁ、慣れないことをして気絶しちまったんだろう。血が苦手といっていたからね。手術の最中に倒れなかった分、よくやったと思うよ」
千鳥が医術師を評価しながら、心配はないという風に言う。
血が苦手というのは、外科で働くには致命傷だろう。だから、この若い医術師は内科なのだろうか。
そう思いながら、加具土は座りこんだまま倒れた医術師を見やった。