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第百四十九幕 幸せ

棘の刺すような、重々しい空気が辺りを包む。

答えないカガチにこうはさらに言い募った。

「・・・おかしいと思っていた。兎々羅様が仕置きをした後、お前が遺体を始末する。それが当たり前になっていたが。お前、殺す振りをして奴隷たちを逃がしているな」

(え――!)

狗の言葉にヨミは目を丸くし、彼らの言葉がさらによく聞こえるよう、肩を井戸に擦りつける。

 カガチが息を吐く。それは、どこか笑いを含んだものだった。

「冗談もほどほどにしてちょうだい。第一、ワタシがそんな事をして何の得があるっていうの?」

呆れさえ滲ませるカガチだったが、狗の声音は真剣だった

「得があろうがなかろうが、俺には関係ない。俺は兎々羅様の指示で裏切者がいないか確かめているだけだ」

「そ。仕事熱心なのはいいけど、他をあたるのね」

疑念を隠さない狗とは裏腹に、カガチは気にする素振りも見せず、飄々とした態度を崩さない。

「じゃ、ワタシはあの子を埋めなきゃいけないから、もう行くわね」

狗の態度を意に介すことなく、カガチが歩き出す音がヨミの耳に響く。


「竜胆か」

その言葉にカガチの足音が一瞬止まった。

「無気力で、兎々羅様に従順だったお前が目に見えて変わったのは、あの娘がきてからだ。そんなに大事だったか。生まれてきたかもしれない我が子と重ねて見るほどに」

「・・・だまれ」

カガチが低く唸る。その声には怒気がこもっていた。

 カガチの昔を知っているらしい狗に、二人は旧知の仲なのだろうかとヨミは頭の片隅で思う。

しかし、それ以上にヨミは気を揉んでいた。カガチの言葉に先ほどの余裕が全く感じられないからだ。

 自分が生きていることがバレてしまうのではないか。

内心はらはらしながら、ヨミは二人の様子を窺う。

「・・・菖蒲も気の毒に。お前を愛したばかりに許嫁に殺された。お前が愛さなければ、許嫁と結婚し、母となって幸せに生きていたかもしれないのに」

「だまれ!そんな事はオレが一番よくわかってんだよっ!!」

狗の言葉に被せるようにカガチは叫ぶ。常に柔らかかった口調は、感情的で荒々しいものに変わり、今にも泣き出しそうな雰囲気があった。

「たとえ、その罪悪感で誰かを救おうと所詮は自己満足。菖蒲や竜胆が許してくれるはずもない」

カガチに動じることなく、狗は淡々と言い放つ。その言葉に思うところがあったのか、カガチが息を呑む音が聞こえた。

「あのガキを逃がしたところで、お前の罪が消えるわけでもない。カガチ、兎々羅様にあのガキを差し出してくれるなら、今までやってきたことは不問にしてやる。かつての同業のよしみだ。お前を裏切者として始末するのは心苦しい」

「・・・だから、ワタシはそんな事してないって言ってるでしょ!それに、ワタシはあの子を殺した!差し出すなんてできるわけないでしょうが!!」

やはり、狗はカガチの昔の仲間だったのだ。だが、今も昔も同僚のカガチを簡単に始末などできるのだろうか。

カガチが自分を殺していないことを狗は見抜いているようにヨミには感じられた。

カガチは必死に否定しているが、その言葉を狗がどのくらい信用しているのか分からない。

嫌な予感が拭えず、ヨミは息を詰める。


狗がふうっと息を吐く。

「カガチ、お前に一ついい事を教えてやろう」

感情の読めない狗の声音に、ヨミは背筋が寒くなった。

「お前は、嘘をつく時、瞬きを何度もする癖がある」

「・・・・っ!!」

次の瞬間、ヒュンっと何かを切り裂くような音がヨミの耳を打った。

「ガッ!!」

同時に、カガチの苦しげな声と物が倒れるような大きな音が周囲に響く。

ヨミは目を見開いた。

(何だ――!?何があった!?)

顔を出して確かめたいと思っても、狗に見つかれば今までの事が全て水の泡になる。

(頼むから、何事もないでくれよ!)

祈るような気持ちで、ヨミは空いた左手をぎゅっと握り込んだ。


しばらくして、狗が口を開いた。

「全く、お前の演技はたいしたもんだよ。さすが手練手管で男女関係なく落としただけのことはある」

「褒めても何もでないわよ」

カガチを称賛する狗に、ごふっという耳障りな咳をたて、カガチは返した。

「さて、あいつはどこだ?素直に答えれば楽にしてやる」

(カガチ――!!)

通常の状態ならまず聞かないカガチの異常な咳と、狗の『楽にしてやる』という言葉に、ヨミの頭は彼が陥っているであろう最悪な状況――命の危機――を叩き出した。

(――大丈夫か?大丈夫だよな!)

自分に言い聞かせるように、ヨミは井戸を挟んだ向こう側にいるカガチの無事を願う。

同時に、自身の命を救うために狗に自分の事を告げるのではないかという恐怖も頭の片隅にあった。

自分の命がかかっているのだ。見も知らぬ――たとえ、竜胆から話を聞いていたとしても――会ったばかりの他人を、文字通り命を捨ててまで助ける義理はない。

 ヨミは、狗に知られることを覚悟した。

だが、カガチの言葉はヨミの想像していたものとは違っていた。

「・・・さっきも言ったでしょう。ワタシがあの子を殺したのよ」

それは、ヨミがここにいなければ信じてしまうほど、迫真に満ち満ちていた。

「――死にぞこないが。最後の意地か」

これ以上攻めても意味がないと諦めたのか、狗が心底呆れたように吐き捨てた。

(なんで・・・)

見えはしないが、危機的状況であるにも関わらず、カガチはヨミを守った。

殺さず、バレないようにヨミを逃がす。

そこまではまだ分かる。だが、今にも、――おそらく死にそうな状況で、どうして庇うような真似をしたのだろう。自分を差し出せば、もしかしたら助かるかもしれないのに。

(それでも、俺を助けてくれた・・・)

 ヨミは、カガチの行動を疑問に思いながら、彼を信じ切れなかった自分を恥じた。



ピンと空気が張り詰めるなか、ヨミの耳はどこか釈然としない狗の声を拾った。

「・・・なぜ、こんな事をした。兎々羅の命に従っていれば長く生きていられただろうに」

ふふっとカガチが笑う気配がした。

「馬鹿ね。あんな色狂いに従順に従って生きてたって、そんなの生きながら死んでいるようなものよ。・・・あんたはこれからも兎々羅の命で誰かを殺す。そんな人生でいいの?」

しばらくして、狗は言った。

「・・・陰間になったあの日から、俺の人生は地に落ちた。だが、ただ落ちるのはごめんだ。泥水をすすろうが、手を血で染めようが、俺は生きる。生き続ける。そのために、俺はここにいる」

――生きるためだけに、良心すら捨てるのか。ヨミには理解できなかったが、これが狗の在り方なのだろう。その言葉には他者の言葉すらはね除ける強さがあった。

カガチが疲れたように大きく息を吐く。

「本当に馬鹿ね。落ちたとしても這い上がればよかったのに。さらに落ちるなんてホント馬鹿」

その声音には、悲痛さが満ちていた。


「同業のよしみと、お前の意地に免じて、あのガキの事は捨て置いてやる。・・・じゃあな、戦友。よい旅を」

狗が存外柔らかな声音で呟く。

餞別の別れのような言葉は、ヨミが頭に描いた最悪な状況が現実であることを示していた。

 血の気が引き、腹の底から悪寒がこみ上げてきた。

狗の足音らしき、ザリザリという草履が地面を擦る音が遠くなり、やがて何の音も聞こえなくなった。



「・・・もう大丈夫よ。出ていらっしゃい」

カガチの穏やかな声に導かれ、ヨミは恐る恐る井戸の裏から顔を出す。

そこには、首から血を流し、倒れたカガチの姿があった。

一瞬だったのだろう。

顔や衣など幾重にも飛び散り、受けた傷の深さが窺えた。赤黒い血がつくよ石で照らされ、紫に見える様は異様だった。

「・・・・っ!!」

ヨミは叫び出しそうになるのを堪え、たたらを踏みながら、カガチの元へ走る。

崩れるように座り込むと、血がどくどくと溢れる首筋に手を当てる。だが、血は止まらない。

「くそっ、くそっ!!」

思わず悪態が口を出る。

カガチは命を懸けて自分を助けてくれたというのに、自分は結局縮こまって震えていただけだった。しかも、助けようとしてくれたカガチを一瞬とはいえ、疑った。

激しい後悔と自己嫌悪がヨミを襲う。

「・・・あぁ、忘れてた」

ぽつりとカガチが言う。

「手紙、血で汚してないといいんだけど」

そう言って、懐から竜胆の文を取り出す。

「馬鹿か!今は自分の心配をしろよ!!」

空いた手で文を掴み叫べば、カガチは優しい笑みを浮かべた。

「――ありがとう。だけど、ワタシのことは気にしないで。さっさと逃げなさい」

「あんたを置いていけるわけないだろ!!」

「何のためにワタシがこんなことをやったと思うの。ワタシのやったこと、全部無駄にするつもり?」

強い眼差しでヨミの目を見据えるカガチに対し、言葉に詰まったヨミは思わず顔を伏せる。そして、絞り出すように告げた。

「――ごめん。俺はあんたを疑った。命を懸けて助けようとしてくれたあんたを」

カガチを見れば、先を促すようにヨミを静かな眼差しで見据えていた。

その顔はとても優しげで、死に直面している人間の顔には見えなかった。けれど、止血を試みている右手からは、ヨミの命の源である血液がまるで滝のように流れ出している。

 その血の熱さから、もう時間がないのだとヨミは気づく。

「声しか聞こえなくても、あんたがやばいのは分かってた。だから、俺をあいつに差し出して自分だけ助かるんじゃないかって思った。・・・ごめん。あんたの覚悟を俺は甘く見てた。・・・竜胆が慕った人なのにな」

自嘲気味に呟けば、カガチは柔らかな表情を浮かべた。

「一日も経ってない、話を聞いているとはいえ、深く知らない人間を心から信用するのは難しいわ。気にしなくていいのよ。それに、こうなるのは覚悟の上だったもの。あんたに会わなくても、いずれこうなっていたでしょう」

だから気にしなくていいと再度口にするカガチに、ヨミはぐっと唇を引き結ぶ。そうしなければ、目から涙がこぼれ落ちそうだった。

「さぁ、早く逃げなさい。狗が見逃してくれたとはいえ、いつまで持つか分からないわ」

促すカガチに、けれどヨミは動けなかった。

母、姉、竜胆。

彼女らをヨミは見送ることができなかった。選択肢のなかった彼女らとは違い、カガチに対してはどちらも選ぶことができる。三人に対する罪滅ぼしかもしれないが、見送りたいとヨミは思った。

動かないヨミに焦れたのか、カガチが焦りを含んだ声を上げる。

「何をしてるの。早く行きなさい」

「いやだ」

まるで幼子のように言葉を紡ぐヨミに驚いたのか、カガチは目を丸くする。

「あんたが眠ったら行くから。・・・だから、ここにいさせて」

懇願するように言えば、カガチは目元を和らげる。それは、子を思う親のような表情だった。

「・・・あんたは優しい子ね」

穏やかな声音に、了承してくれたのかとヨミはカガチを見る。

「その優しさを大切にしなさい。そして、それを誰かに返してあげるの。そうすれば、きっと今までよりも素敵な人生が始まるわ。・・・今までのあんたはワタシが殺した。あんたはもう鮫牙の奴隷でも兜の従者でもない。ただのヨミ。ここから、新しい人生を始めなさい」

狗に対して言った、『ヨミを殺した』というあの言葉が真に迫っていたのは、そういう意味があったからなのだと気がつく。

すると、カガチは、緩慢そうに起き上がった。

「おいっ」

ヨミが慌ててカガチの背を支えると、カガチは力の入っていないだらりとした右手を持ち上げ、どこから出たのかと思うほどの強い力でヨミの肩を押した。

 あまりの強さに、ヨミは思わず尻餅をつく。


「――行け!!お前は生きろっ!!」


目に強い光を宿しながら、ヨミの背を蹴飛ばすようにカガチが叫んだ。

 呆然とヨミはカガチを見つめる。

鋭ささえ感じられる表情で、もう戻ってくるなという雰囲気を醸し出すカガチに、ヨミはこれ以上そばにいることはできないと悟った。

奥歯に力を込め、ぐっと涙をこらえたヨミは、後ろ髪をひかれる思いで身を翻し、駆け出した。


後ろは振り返らなかった。――振り向くことはできなかった。




「――その後、俺は漣を帰して、あてどなく彷徨った。・・・母や姉、竜胆、カガチ。俺が守りたかった人や助けてくれた人はみんな死んじまう。俺のせいで。俺がいなければ生きていたかもしれないのに。そんな事を思いながら、俺は彷徨い続けた。姉やカガチがかけてくれた言葉さえ無視して。怪我も放置して、飯を食うことも、寝ることもなく。ただただ、自分の死を待っていた。その後のことはあまり覚えていない。気がついたらお前らの家で寝ていた」

ヨミが自嘲気味に笑う。

「これで俺の話は終わりだ。な、つまんなかっただろ?」

加具土は首を勢いよく横に振る。

 

ヨミが経験した事はヨミにしか本当の意味でわからないだろう。

けれど、彼が感じた悲しみ、痛み、恐怖が、死を選ぼうとしたヨミの思いが加具土の胸に突き刺さる。

 同時に、絶望を、地獄を経験してなお、ヨミが優しさを失わず、生きる意思を捨てなかったことが加具土には嬉しかった。


「――ありがとう、話してくれて。ありがとう。生きてくれて」

加具土は、手を伸ばし、湧き上がる心とともにヨミを抱きしめた。

「あなたが生きてくれて、私、嬉しいよ」

にこりと微笑み、ヨミを抱きしめる腕に力を込める。胸元に耳を当てれば、ヨミの心臓の音が聞こえた。どくどくと脈打つそれは力強く、今彼がここにいることを強く感じさせた。

 ヨミの体は強張っていたが、やがて、加具土が離すつもりはないと気づき、受け入れたのか諦めたのかは分からないが、ゆるゆると体の力を抜き始めた。

 ヨミが小さく息をつくのを、加具土は頭の上で感じ取った。

「・・・お前も物好きだよな。張り倒したっていいくらいのことはやってるんだが」

「それはもちろん怒ってるよ。反省してね」

少し強めの口調で言えば、ヨミは素直に「あぁ」と頷いた。


加具土は腕の力を抜き、ヨミを解放すると拳一個分の距離を取って離れた。

 決まり悪げに後頭部をがしがしと掻くヨミを見ながら、加具土は思う。

自分ができる事は何だろう。

優しくも愚かで、愛おしい。そして、大切な人に置いていかれてばかりの彼にできることは。

「あ」

加具土は小さく声を上げる。

声を上げた加具土を訝しんだのか、ヨミが加具土を見た。

――忘れていた。自分が何者であるのか。

加具土は額に手を当て、項垂れた。

なぜ、すぐ思いつかなかったのだろう。人として暮らしていて感覚が鈍っていたのか。

だが、思い出したなら善は急げだ。これなら、ヨミも喜んでくれるはず。


ぱっと顔を上げ、加具土はヨミを見る。そして、勢いよくこう告げた。

「ヨミ、私はあなたを置いていったりしないから!」

「・・・は」

目を丸くし、固まるヨミを気にすることなく、加具土は笑みを浮かべて言い放った。

「あなたが大人になっても、ずっと一緒にいてあげる!ほら、私は神様だし、病気も怪我もしないから!一緒に成長することはできないけれど、ヨミが年をとっておじいさんになっても、私はずっとここにいるから!」

力強く宣言する加具土に対し、ヨミは固まったまま動かない。

いきなりだっただろうか。だが、自分にできることを考えると、これが最良のように加具土には思えた。

すると、思わずと言った風にヨミが吹き出し、喉の奥でくつくつと笑い出した。

「・・・それはありがたいな」

「でしょう!」

我ながらいい考えだと自画自賛していると、ヨミは面白がるような表情で加具土を見た。

「ずっと一緒にいるなんて初めて言われたぜ。まるで求婚の言葉みたいだな」

「え」

――きゅうこん。求婚。誰と誰が。

その意味に気がついた瞬間、加具土の顔がじわじわと熱くなる。

「ち、違うよ!私は家族として言ってるの!」

勘違いされては困る。

必死の形相で言い募るが、ヨミはからかう雰囲気を隠そうとはしなかった。

「わかってる、わかってる」

ヨミが本気でないと分かっていても、加具土は安心できなかった。

「本当だから!求婚なんかじゃないから!」

加具土は左手を上下にばたばたと動かし、力強く否定する。

「はいはい」

視線を明後日の方向に向け、おざなりに返事をするヨミに加具土はさらに声を張り上げた。

「だから違うの――!!」



 

ヨミの誤解を解いたあと、加具土は薪を乗せた橇をヨミとともに引き、家へと向かう道を歩いていた。

 森の木々の間から見える空の色は、入った直後は淡い水色だったが、橙のような夕焼け色に変わっており、東の空はすでに夕闇に沈んでいる。

明るい緑色の葉を茂らせた木々は陰に隠れ、黒く染まり、おどろおどろしい雰囲気を醸し出していた。烏らしき鳥が黒い点のように夕焼け空を飛んでいる。


ヨミが橇に繋がれた紐を持ちながら、前進しているその後ろで、加具土は薪の束が転げ落ちないように支えていた。そのとき、活杙(いくぐい)が言っていたことを加具土はふと思い出した。


「・・・そういえば、九泉の家って石造りじゃないんだね」

「あ?あぁ、そうだな。こことそう変わらねぇよ」

「ふ~ん」

加具土が応えを返せば、今度はヨミが聞いてきた。

「石造りってのはどこからきたんだ?」

「お母さんが言ってたの。お父さんからの受け売りだっていってたけど」

角杙(つぬぐい)の?」

「うん。九泉の人に何回か会ったことがあるって言ってたよ。お父さんが嘘をつくとは思えないし。担がれたのかな」

九泉の人を悪く言いたくなかったが、自然と言葉が口をついて出る。

「あー、まぁ、そうかもな。九泉の人間のなかには、ここの人間を下に見ることもあるからな。逆もあるが」

「そうなんだ・・・」

かつて旅をしていたとはいえ、人との交流を避けていた加具土は九泉という地下に住む人々がいることを知らなかった。まして、地上の人々と交流しているなど。

地上の人々が身分や貧富の差で互いをはかり、争いになることは多々あるが、地下と地上という住む場所でも互いに奢り、見下すことはあるのだとヨミの言葉でようやく知った。

「長く生きてても、知らないことばかりだなぁ」

思わずぽつりと呟くと、ヨミが口を開いた。

「当たり前だろ。同じ場所にずっといれば、情報だってそうそう新しいのは入ってこない。ほかの町や都の様子だってそうだ。まぁ、でもその場所へ行ったってがせも多いが。大事なのは、いくつも情報を集めて精査して、信憑性の高い情報を得ることだ。噂話ってのも大概ばかにできないものだったりするからな。特に商品を売るのは、少しでも高く買ってもらうために色々と苦労した」

苦労したといった割に、話をするヨミの表情はどこか楽しそうだった。昔、家族で旅をしていたことを思い出したのだろうか。

「ヨミは旅をしたい?」

加具土の言葉にヨミは足を止め、振り返る。その目には戸惑いが見えた。

「・・・そう見えたか?」

「見えたというか。話をしてた時のヨミの顔が楽しそうだったから」

「そうか・・・」

ヨミがなんとも言えない表情で小さく頷く。

どんなに辛く、苦しい事があっても、その中にあった小さな幸せはヨミの胸に根付いているのだろう。闇の中に瞬く光のように。

ただ、素直に頷けないのは、家族や守りたかった人、救ってくれた人を次々に失ったから。

生きていることが、罪悪感または重荷のようにヨミにのしかかっているのかもしれない。

けれど、そんな生き方は苦しいだけだと加具土は思った。

「してみたら?好きなんでしょ?」

そう尋ねれば、ヨミは渋い顔をした。

「できるかよ。旅したっていっても、親の後をついてただけだぜ?」

「じゃあ、今より大きくなって、腕っ節もよくなったらいいんじゃない?」

「お前、何でそうまでして勧めるんだ?」

訝しげに目を向けるヨミに、加具土はおずおずと言った。

「・・・だって、ヨミには幸せになったほしいから。好きなことをして、生きていてよかったって思ってほしいから。勝手かもしれないけど」

ヨミが小さく息をつく。

「勝手だな」

「・・・ごめん」

やはり勝手だった。分かってはいたが、本人に言われると、やはり傷つく。

加具土は謝ったが、ヨミは加具土を見ることなく背を向け、再び歩き出した。加具土は慌てて後を追い、落ちそうになる薪を支える。

 その後、森を抜けるまでヨミは一言も口をきかなかった。


森を抜けると、目の前には自分達の住む家が目に映った。

明かりがそこかしこから漏れ、暖かそうな光が家を包んでいるように加具土には見えた。

空はすでに闇に染まり、一番星が銀色に輝いている。

「やっとついたね」

「・・・あぁ」

返事を返してくれたことで、機嫌が直ったのだろうと察した加具土は心持ち声を明るくさせ、言った。

「早く帰ろう。お父さんとお母さんが待ってるよ」

少しでも早く家に着こうと橇を後ろから押そうとした加具土の耳に、真剣なヨミの声が響いた。

「加具土」

「ん?」

加具土は顔を上げるが、ヨミは振り返らない。

「ヨミ?」

どうしたのだろう。内心首を傾げていると、ヨミはやおら息を吐いた。

「・・・お前が真面目に俺の幸せを願わなくたっていいんだ。俺は、まあまあこの生活が気に入っているからな」

「それって・・・」

意味を問えば、ヨミは「あ――!!」と苛ただし気に声を発した。

思わずびくりと肩を揺らすと、ヨミが勢いよく振り返る。

「角杙と活杙、お前がいて。けっこう幸せだって思ってるんだよ。何回も言わすな!」

「・・・・・・」

加具土は言葉がでなかった。ただただ目を丸くし、決まり悪げなヨミを見つめることしかできない。

――よかった。

最初に浮かんだのは、安堵で、次に浮かんだのは嬉しさだった。

「・・・うん、うん!」

加具土は唇をぐっと引き結び、大きく頷いた。

浮かびそうになる涙を零さないようにしながら、加具土は何度も何度も頷いた。


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