第百四十八幕 脱出
「少しは落ち着いた?」
カガチに言われ、ヨミはごしごしと目を擦った。
牢屋のなかで、知り合いとも言いづらい人間に泣く姿を見られたのは恥ずかしいが、気持ちはすっきりした。
「あぁ」
竜胆からの文を懐に入れ頷けば、カガチはにこりと笑みを浮かべた。
「そう、よかったわ。それで、ここを抜ける算段なんだけど」
そう言って、カガチは腰帯から鞭を引き抜く。
「ん~と、流れとしては、あんたを気持ちよくさせて狂わせた上で、情報を引き出そうとしたけど、あんたの口が堅くて失敗して、思わず殺しちゃったっていう体にするからそのつもりで」
「え、は、はぁ」
笑顔でとんでもない事を言ってくるカガチに軽く引きながら、ヨミは頷く。
それよりも、人殺しという言葉は禁忌だったんじゃないだろうか。芝居だからいいのだろうか。そう思いながら、ヨミの目はカガチの手にする鞭に釘づけだった。
(というか、鞭をどうするつもりなんだ・・・)
戦戦恐々とするヨミに構わずカガチは続けた。
「とりあえず、本気で殴ったり傷つけたりするから覚悟してね」
「えっ!?」
何となくそんな気はしていたが、直接言われると、恐怖が倍増する。
じりじりと、笑みを浮かべながら近づいてくるカガチを見て、(この人、加虐趣味でもあるんじゃないだろうか)と思ったのは秘密だ。
カガチの本気の拳と蹴り、そして鞭の攻撃(カガチ曰く愛)に一瞬意識が遠のきかけたが、どうにか耐えたヨミは、カガチの言われた通り、衣をはだけさせ、首を自分の帯で縛る。竜胆からの手紙は、カガチに預けることにした。
少しの動作で体の節々が焼けるように痛い。全て終わるころには、息が上がっていた。
「・・・これでいいか」
「えぇ、上等よ」
カガチは満足そうに頷き、鞭を振り下ろすと、ヨミの血を周囲に散らばせた。
「これであいつらを騙しとおせるのか?」
「行灯の明かりの下なら、これで十分。あとはワタシの迫真の演技が物をいうわね」
「・・・できるのか?」
もし、気づかれればヨミもカガチもただでは済まない。
すると、カガチは不敵な笑みを浮かべてみせた。
「ねぇ、人を納得させる演技をするにはどうすればいいと思う?」
「・・・・?」
答えが分からず、ヨミはカガチの顔を見つめることしかできない。
「それはね、自分を騙すことよ」
カガチは幼い子供に諭すような口調で告げる。
「だます・・・?」
首を傾げれば、カガチは人差し指を自分の唇に当てた。
「自分でそうだと本気で思うこと。これが一番重要よ。どこかで後ろめたさを感じながら演じれば、綻びが生まれるわ。大事なのは、自分を信じることよ。客を相手にする時も、いつだってワタシは本気でやってきた」
カガチの力強い口調には、陰間としての自負が垣間見えた。そんなカガチを見て、ヨミは少し驚く。生きるためとはいえ、春を鬻ぐ行為をヨミは嫌悪していた。だから、誇りさえ垣間見えるようなカガチが不思議でならなかった。
「・・・あんたは自分のやってきた仕事を恥じていないんだな」
思わずそう呟けば、カガチは首を傾げてみせた。
「恥じる必要なんてあるの?」
「・・・・・」
言外に不思議でならないという顔をするカガチに、ヨミは何も言えない。
「昔のワタシがあって、今のワタシがある。それに、その仕事をしていたから、本気で惚れた女に出会えた。彼女との時間は、ワタシにとってかけがえのない思い出よ。逆に陰間をしていないで、彼女に出会わない人生なんてそれこそ考えられないわ」
惚れた女について話をするカガチは実に生き生きとしていた。惚気ともとられかねないが、相手が亡くなっているため、どこか切なさを感じさせる。
すると、カガチは苦く笑った。
「・・・なんて、偉そうに言ったけれど、こんな風に思えるようになったのも竜胆のおかげよ。あの子に会う前のワタシは、何もかもがどうでもよかった。兎々羅の言うことを聞くただの人形。それがワタシだった」
カガチが何かを思い出すように目を細める。
「一生懸命なあの子に、この家の作法や文字を教えているうちに、だんだん親心みたいなものが芽生えてきてね。そのうち、自分の過去も話すようになって。その時に竜胆に言われたのよ。亡くなっても、ずっと想っているなんて素敵だって。きっと彼女も嬉しいだろうって」
竜胆は、育ての親に売られた。
彼女がヨミの世話役となって一年が経った日のこと、仕事の帰りにヨミは竜胆とかつての彼女の家の近くを通りかかった。
何気なく、足を向ければ、そこには竜胆の事を忘れ、生活をしている育ての親とその子供たちの姿があった。
その様子を遠目に見ながら、竜胆は「よかった」と笑っていたが、ヨミは知っていた。
夕餉を取り終えた後、井戸のそばで竜胆が声を押し殺して泣いているのを。
竜胆は、カガチが、好いた女を――その命が失われていてもなお想っていることが羨ましかったのではないだろうか。
「年端もいかない子が何を言っているんだって思ったけれど。あの子の境遇を聞いて、少し考え直したわ」
「・・・・・」
「それにあんまり塞いでいると、菖蒲に怒られるもの。私をそんな不幸な女にしたいのかって」
その言葉にヨミは苦笑する。これは、完全に惚気だ。
「・・・ごちそうさん」
そう言えば、カガチは目を瞬かせる。
「あら、そんなつもりはなかったんだけど」
頬に手を当てる姿は異様に様になっていた。
「・・・そういえば、あの豚蛙――兎々羅は目が覚めたのか?」
ヨミが兎々羅を殴ってどのくらい経ったのだろう。もし、目が覚めているのなら、自分の事を亥達に言うかもしれない。
目をつけられていたとはいえ、容赦なく殴ったのだ。よほどの好き者でない限り、擁護などしないはず、むしろ怒り狂うだろう。
ヨミの事を聞いて、亥達が戻ってきたら、この計画も意味がなくなってしまう。
「まだ目は覚めていないけれど。どうして?」
カガチが首を傾げて聞いてきた。
「実は――」
ヨミは、自分が彼の従兄弟である兜の従者であり、その父である鮫牙の奴隷であること。兎々羅に目をつけられていたことを話した。
「なるほどね・・・。じゃ、さっさとやっちゃいましょうか。うつ伏せになってちょうだい」
カガチは深く頷いてから、問題はないというように動き出し、ヨミに指示を出した。
「え・・・」
目を瞠るヨミにカガチは言った。
「亥達が騒ぎ出す前に、あんたを『殺してしまった』っていうことにすれば問題ないわ。さぁ、早く。長引けばこっちが不利になる」
真剣な目でヨミを見据えるカガチに、ヨミは頷いた。
「・・・わかった」
ごちゃごちゃ考えても仕方がない。
自分が今できることは、うまく立ち回る事。そして、カガチを信じることだ。
ヨミはうつ伏せになり、カガチは三人を呼びに行った。
――どうか、兎々羅が目覚めていませんように。亥達にばれませんように。
心臓がばくばくと脈打つ。
(落ち着け、落ち着け)
心の中で念じながら、ヨミは耳をそばだてた。
しばらくして、階段を降りる足音が聞こえ、カガチが三人を連れて牢屋へ入ってくるのがわかった。
「おいおい、どういうことだよ!あんな啖呵切っておいて失敗しただぁ!?なめてんのかっ!!」
亥は予想通りカガチに食らいつく。
彼の言葉から兎々羅は目覚めておらず、ヨミの事も聞いていないことが分かり、懸念していたことが一つ消えて、ほっとする。
「しょうがないじゃない。これでもけっこう粘ったのよ。でも、この子、予想以上に手強くてね~」
しょうがないわよね、と言う風にカガチが息を吐く音がする。
堂に入った演技っぷりだ。詐欺師にでもなれるんじゃないかと、思考が明後日の方向に傾く。
「・・・確かに、死んでいるな」
「あぁ・・・」
確認するかのように鴟鴞がいう。それに狗が同意した。
帯を首に絞めたのがよかったのか、それとも行灯の明かりのせいか。脈も確認せず納得する二人に、ヨミは心の中で安堵の息を吐いた。
残るは亥だ。カガチに反発していたから、説得させるのは骨が折れるかもしれない。
死んだフリをしながら、いつかバレるのではないかと冷や汗が出る。
「信用できるか!確かめてやる!!」
案の定、噛みつくように叫んだ亥は、ヨミの首を締め付けている帯を掴む。帯が浮き上がり、ヨミはぎょっとしながら慌てて力を抜いた。
――気づかれませんように。
今まで神に祈ったことはなかった。実際実在している彼らに、人間一人一人を救う力などないことは分かっていたからだ。ただ、それでも何かに祈らずにはいられなかった。
心臓が今にも飛び出しそうなほど脈打つ。緊張のためか、胃まで痛くなってきた。
ヨミは、息を殺しながら、亥の行動を窺っていた。その時、カガチの静かな声が響いた。
「確かめてもいいけど、ぐちゃぐちゃよ。その子の顔」
「なに?」
強張ったような亥の声に、カガチが何てことはないという風に告げた。
「ちょっと、力が入り過ぎてね。骨は見えてるし、鼻も目もどこにあったか分からないくらい潰れているから。それでもいいなら構わないけれど」
その言葉に、亥が唾を飲み込む音が聞こえた。
しばらくして、何の前触れもなく、浮き上がった帯が床に落とされ、力を抜いていたヨミは思い切り床に顔を叩きつけられる。
土でできた冷たい床の感触と頬に感じる鈍い痛みに、ヨミはあやうく声を上げるところだった。
「そんなにぐしゃぐしゃなら、こいつの始末、お前だけでどうにかしろ!ガキなんだ!一人で運べるだろ!!」
吐き捨てる亥に、カガチは是の声を上げる。
「えぇ、そのつもりよ」
ザリザリと足音を響かせ、亥はヨミから離れていく。
「兎々羅様が目覚めたら、報告しろよ!!だが、何を言われようとお前の責任だからな!!」
「言われなくてもわかってるわよ」
駄目押しとばかりに言い放つ亥とは対照的に、カガチは飄々としたものだった。
「鴟鴞、狗、行くぞ!!」
亥は、鴟鴞と狗に声をかけ、苛立ちを隠そうともしない荒々しい音をたてて、階段を上がっていった。
「・・・もういいわよ」
三人の足音が消え、キンと耳が痛くなるような静寂が続いた後、ゆっくりとカガチが息を吐き、ヨミに声をかけた。
「いてて・・・」
頬をさすりながら、ヨミは立ち上がる。衣を整え、首を絞めていた帯を外し、腰に締めた。
「さ、行くわよ」
すると、牢屋を出てカガチは壁へ向かう。
「どこに行くんだ?そっちは壁だぞ」
カガチはヨミに答えず、壁に手を触れる。すると、襖のように壁が動き、目の前に黒い空間が現れた。
「・・・・・」
隠し扉のような絡繰りに、ヨミは言葉も出なかった。
「ここから出るわよ」
そう言い、カガチは黒い空間へ足を踏み出す。
「・・・どこに通じてるんだ?」
漆黒の闇に鳥肌が立つのを感じ、ヨミは喉を鳴らしながら、尋ねる。
「外よ。この道は、水が枯れて使えなくなった古井戸に通じているの。一応、避難用のために作られたんだけどね。今は、まぁ、仕置きのし過ぎで命を落とした奴隷の遺体を運ぶのに使っているわ。他の奴隷の目につかないようにね」
「・・・・・・」
『遺体を運ぶ』。
その言葉にうすら寒さを感じたヨミは、思わず押し黙る。
ヨミが黙った理由を察したのだろう。カガチが続けた。
「仕置きは私達も参加させられるけれど、だいたいは兎々羅ね。自分の気に入りの奴隷に色目を使っただの、自分の好きな物に毒を混ぜただの、証拠もないものばかり」
「あんたも、やったのか?」
狗が半殺しにさせたと言っていたのを思い出す。一拍置いて、カガチが口を開いた。
「・・・えぇ、やったわ。言ったでしょう。ワタシは兎々羅の人形だったと」
どこか投げやり気味に答えながら、カガチは歩き出す。
「ワタシの事はともかく。この場所のことは道すがら話すわ。ついてきて」
臆することなく歩き出すカガチの後を、戸惑いながらもヨミは歩き出す。
道幅は狭く、人一人が通るのもやっとの狭さだった。
光も差さない闇のなか、ヨミは目を凝らしながら、カガチの背を追う。
「・・・あの牢屋はね、今は奴隷の仕置き部屋だけど、昔は病人の部屋だったの。病人といっても心の病なんだけど。名前は憧虎といってね。外に出せば暴れるから、ここに閉じ込めて世話をしていたの。今歩いているこの場所は、火事があった時にその病人が逃げ出せるようにつくったものなのよ」
座敷牢のようなものか。ヨミは心の中で推測する。
「だが、ここに避難用の道があるってことは、その病人は奴隷じゃないだろ」
「えぇ、そうよ」
カガチは頷くような仕草をし、さらに続けた。
「今から十一年前、あの場所は、兎々羅の弟、憧虎の部屋だった。・・・弟ということにはなっているけれど、憧虎は兎々羅の祖父と母の間にできた子供でね」
生々しい話に、ヨミは闇のなかで眉を顰めた。
「でも、兎々羅はを兄として憧虎を大切にしていたわ。身の回りの世話を買って出ていたりしていて。仲睦まじい兄弟だった」
カガチが一端、言葉を句切る。
「でも、ある日、事件が起きた。彼には、三つ上の婚約者がいたの。名は、燕璃。彼は彼女を本当に愛していた。でも、兎々羅は見てしまった。憧虎が彼女を寝取るところを」
カガチの言葉にヨミは目を剥いた。
「ちょっと待て!十一年前っていったら、兎々羅は十にもなっていない!その憧虎って奴だって同じだ!それでもって、兎々羅の相手を寝取ったって?どんだけませてるんだよ!」
しかも心の病を患っているというのに。
信じられないと吐き捨てるヨミに、カガチがため息を吐いた。
「血筋ということかしらね。兎々羅の祖父は、かなりの好き者でね。十代のときに、三十代の女奴隷と関係を持っていたっていうから」
血は争えないということか。そんな血なんぞ溝に捨ててほしかった。
ヨミが渋面を浮かべていると、カガチはさらに思いもかけないことを口にした。
「・・・だけど、兎々羅は許した。大事な弟と愛する婚約者が幸せならと、自ら身を引いたのよ」
それを聞き、ヨミは目を見開く。思わず「はぁ!?」と大声を出しそうになり、慌てて口を噤んだ。
一拍置き、落ち着いたところでヨミは口を開いた。
「・・・今じゃ信じられないな。ガキの頃の方が大人じゃねぇか」
尋常でないほどの好色で、往生際の悪いあの男の子供の頃とはとても思えなかった。
「色々あったけれど、しばらくは穏やかな日々が続いたわ。そんなとき、決定的な出来事が起きた」
カガチの背中が強張ったようにヨミには見えた。醸し出される雰囲気も堅く感じる。
闇のなか、黴臭い道に歩を進めつつ、ヨミはカガチが口を開くのを待った。
「・・・兎々羅が二人を殺したのよ。飲み物に毒を混ぜて」
あまりに静かな声音に、ヨミは「なぜ」と口を挟むのが躊躇われた。
「憧虎は心の病など患っていなかった。祖父と母の子である自分をおぞましい目で見る家族や奴隷たちを騙してやろうと、狂人の振りをしていたの。そうとは知らず、甲斐甲斐しく世話をする兄を憧虎は嘲笑った。そして、婚約者も。真面目で優しすぎる兎々羅はおもしろみがないといってね」
弟と婚約者の幸せのため、自分の想いを封じ込め、あげくの果てに二人に否定される。
兎々羅の心情はいかばかりだっただろうか。ヨミは、幼い兎々羅の心の内を思った。
「自分の存在を否定された兎々羅は二人を憎悪し、飲み物に毒を混ぜて殺した。あんたが死んだ振りをしたあの場所でね」
「・・・・・」
そう言われ、ヨミは内心複雑だった。
「そのことを知った両親は、憧虎と婚約者を事故で死んだことにして、その死の真相をもみ消した。それ以来、兎々羅はまるきり人が変わったようになった。家族のように接していた奴隷たちを物のように扱い、見目が良ければ、嫌がっている奴隷に構わず手を出すようになった」
弟と婚約者を自らの手で殺したことで、兎々羅は心を壊し、今の兎々羅が出来上がったのか。亥達が兎々羅を気にかけているのは、子供の頃の彼を知っているからなのかもしれない。どこかで、昔に戻ってくれないかと期待しているのではないだろうか。
しかし、だからといって、ヨミは竜胆を殺したことを許すつもりはなかった。
「過去にどんな事があったとしても、俺はあいつを許すつもりはない」
「その通りよ」
カガチが即答する。
「どんなに辛く、傷ついた過去があったにせよ、他人を傷つけるなんてもってのほかよ。命を奪うというならなおさらね」
「あぁ・・・」
ヨミは頷く。
ふいに、光すらない闇のなかに、青い光が足元から射しこんだ。
カガチは安堵するように、ふうっと息を吐いた。
「あぁ、もうすぐ出口ね」
その言葉に足元を見、青い光の先を辿れば、人ひとりがやっと入れるような穴があいていた。
「あの穴を潜れば、井戸の底よ。そこに縄がぶら下がっているから、それを使って登るの」
「けっこう重労働だな」
自分達がこれから登ることと、遺体の運び場になっていることを思いながら、ヨミは言葉を連ねる。
「穢れたものを目にさらしたくないっていうのが、この家の人間の信条なのよ。・・・やっているのは、身内だっていうのにね」
呆れ果て、どこか怒りすら感じ取れる口調でカガチが言った。
カガチが穴に入り、井戸へ潜り込む。ヨミも後に続いた。
穴を抜けると、青い光が目を刺し、ヨミは思わず目を瞬かせた。大分闇に慣れていたらしい。決して強くはないつくよ石の光が、火輪石のように眩しく感じた。
目を慣らせば、青い光に照らされ、石造りでできた井戸の壁と長く垂れ下がった縄が見えた。
「先にワタシが登るから。そしたら、縄を垂らすわ」
「わかった」
ヨミは頷いた。
慣れたように縄を使って先に登ったカガチは、ものの数分で井戸の縁に手をかけ、外へ出た。しばらくして、カガチが井戸から顔を出し、ヨミに縄を垂らした。
「いいわよ」
「あぁ」
ヨミは使い古された縄を両手でしっかり持つと、井戸の壁に足をかけ、登り始めた。
「ぐっ・・・!」
石造りのため、多少凹凸はあるが、足を十分に引っかけられるほどの隙間はない。登るたびに足が壁から外れそうになるのを、ヨミは渾身の力でもって耐えた。
「よく頑張ったわね。あとは任せて」
壁の中ほどまできた時、カガチが縄をぐいっと持ち上げた。
驚き、縄を掴んだ手が緩みそうになるのを、ヨミは慌てて持ち直す。
カガチは、細見の見た目と裏腹な力強さでヨミを引き上げる。
そして、井戸の縁にヨミが近づくと、カガチは身を乗り出し、ヨミの襟首に手をかけ、引っ張り出した。
「うぉっ」
その勢いの良さに目を丸くしながらヨミは縁から這い出ると、地面に足をつけた。
そこは、一面に白く輝く苔が生え、その光をぼんやりと受けて、様々な花が咲き誇っていた。
菫、ナズナ、蒲公英、母子草、野薊、春紫苑、はこべ、シャガ、勿忘草、カラスノエンドウ、二輪草、カタクリ、二人静。
そんな花々の隣にひっそりと佇むように、こぶし大の白い石が置かれていた。
妙な違和を感じ、ヨミは呟く。
「あの石・・・」
そう口にした瞬間、カガチが言った。
「あれは、竜胆の墓よ」
「・・・・っ!」
弾かれたようにふり仰ぎ、カガチを見れば、凪いだ眼差しで墓である小さな石を見つめていた。
「ワタシが作ったの。奴隷の墓は、こことは別にあるんだけれど。あんな殺風景なところに埋めるのも寂しいだろうと思って、ここに作ったのよ」
「そう、か・・・」
ヨミは石を見る。あれが鰍の言っていた墓なのだ。ヨミは歩を進め、小さな墓の前に立った。そして、こう垂れる。
(――守れなくてごめん。手紙、ありがとう。嬉しかった)
胸の奥はじくじくと痛み、竜胆を想うと涙が出そうになる。
だが、沈んでばかりもいられない。自分には、漣をあの家に帰す仕事がある。
頭を上げ、ヨミはもう一度竜胆の墓を見つめ、目に焼き付けた。
ヨミは、そばに佇むカガチを振り返った。
「――ありがとう」
礼を言えば、カガチが驚いたように目を見開いた。
「竜胆の墓を作ってくれて。俺を助けてくれて」
すると、カガチは目を細め、苦笑を返した。
「礼なんていいのよ。ただの罪滅ぼしなんだから」
そう言い、カガチはヨミに向かって何かを投げた。受け止めると、それはヨミの草履だった。
「さ、早くここを出たほうがいいわ。騙しとおせたとはいえ、用心するに越したことはないもの」
カガチを見れば、自分の草履を履いているところだった。ヨミも慌てて草履を履く。
「こっちよ」
「あ、あぁ」
草履を履き終えたヨミは、前を行くカガチの後を追った。
その時だった。
カガチの足がぴたりと止まる。
「どうした?」
「しっ!」
声を上げれば、カガチが鋭い声音で制した。耳を凝らせば、前方から草履を擦る足音が聞こえる。
「井戸の裏に隠れて!早くっ!」
カガチに言われた通り、ヨミは井戸へ向かい、その裏にしゃがみこむ。
足音は徐々に大きくなり、ふいに止まった。
「あら、狗。どうしたの、こんなところで」
カガチの言葉で、足音の主が三つ編みの男――狗だと分かる。
(まさか、ばれたのか!?)
呼吸の音が聞こえないように口に手を当てながら、ヨミの心臓が早鐘のように脈打つ。
「・・・最近、多いよな。お前が死体を始末するの」
やがて、狗が口を開く。その声音は、訝しげな色に溢れていた。
「それがどうかしたの?ワタシが全部肩代わりしてあげてるんだから、感謝してもらってもいいくらいだわ」
不審さを隠そうともしない狗を気にする様子もなく、カガチが言う。
すると、一拍置き、狗が尋ねた。
「・・・なぁ、カガチ。お前、本当に死体を始末してるのか?」
『本当に』という言葉を強調したその言葉は、重々しく疑心の念に満ちていた。