表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
146/303

第百四十六幕 竜胆 


 ヨミは、少女が共同浴場に入ったのを見届けると、同僚である女性に幼子用の新しい衣を見繕ってもらい、浴場へと届けることと、汚れた少女の衣を洗ってくれるように頼んだ。

 目を丸くする同僚に、世話役ができたと伝えると、心得たというように頷いた。馬鹿息子のもろもろは伝えていないというのに、自分の想いが見透かされているようで少し気恥ずかしかった。

 

(風呂の後は食事だな・・・)

どのような経緯であれ、家族と引き離された事実は変わらない。捨てられたと思っているかもしれない。そんな心理状態で食べ物など喉が通らないと思うが、それでも少し食べてもらわなければならない。万が一、倒れでもしたら、この屋敷では使い捨てにされる。

 ヨミは少女の食事を用意しようと、厨へ向かった。


「――それじゃ、頼む」

料理人に少女の食事を頼んでから、ヨミは再び浴場へと足を向けた。

 もう上がっているだろうか。

そんな事を思いながら、浴場の前に立つ。

赤い暖簾がかかった入り口が女性専用であることを示しているが、そこにまだ少女の姿なかった。

(まぁ、そんなに時間は経っていないからな・・・)

一人頷き、壁に寄りかかる。

幼いといっても、女だ。母や姉と同じように風呂が長い可能性もある。

ヨミは、家族で旅をしていた頃、宿の浴場の前で父と共に待っていた事を思い出していた。

優しい記憶が、鈍い痛みを伴って棘のようにヨミの胸に突き刺さる。

 いつぶりだろうか。家族のことを思い出すのは。

あの女に買われて以降、自分の事で頭が一杯でそんな余裕さえなかった。

今も最悪な主のもとにいるが、自分の体を酷使しないという点ではまだましな方だった。

 ヨミを買った主は奴隷を多く買っているが、そのほとんどは掃除、洗濯などの家事や、移動の足である馬の世話などの労働をさせるためで、『夜の仕事』をさせることはなかった。

 あの女と比べれば良心的ともいえるが、人の親としてはろくでもない部類に入るだろう。


(それにしても、なかなか上がってこないな・・・)

暖簾が揺れる気配も、近づいてくる足音すらない。

「まさか・・・」

自棄になり、自ら命を絶っているなんてことは――。

ヨミは暖簾を睨みつけた。

――ない、とは言い切れない。

ヨミはダッと駆け出し、暖簾をくぐると、一目散に浴場へ向かった。

「っ、おい!生きているか!!」

息がつまるような熱気がヨミの顔に突き刺さる。そこは、脱衣所だった。

その熱気を振り払うように頭を振ったヨミの目に飛び込んできたのは、今まさに着替えようとしていた少女の姿だった。空色の澄んだ目を真ん丸に見開き、彼女はヨミを見ていた。

「・・・・・・」

ヨミは勢いよくぐるりと後ろを向いた。

「悪いっ!浴場の前で待ってるっ!!」

入ってきた時の同等の速さで、ヨミは浴場を跡にした。

――生きていた。よかった。

そう思いながらも、勘違いと自身の行動に穴があったら入りたい衝動にかられた。

ヨミは額に手を当て、項垂れた。

(これじゃ、変態だ。絶対嫌われる・・・)

嫌われるように仕向けたのは自分だが、こんな形で嫌われるのだろうと思うと、少々、いやかなり情けなかった。


ぺたぺたと小さな足音が聞こえ、ヨミは顔を上げた。

そこには、新しい衣に着替えた少女が立っていた。表情はない。

だが、それでも傷ついていることに変わりはないだろう。

嫌われることで彼女の意思を生きる方向に向けさせようとしたが、さすがにこれは謝るべきだと思った。

「あーー、さっきは悪かった」

再度、謝る。

「お前に何かあったんじゃないかと思って、心配した・・・」

しかし、応えはない。口を引き結び、少女は何も言わなかった。

「・・・・・」

「・・・・・」

二人の間に何とも言えない空気が辺りを包む。ヨミは、その空気を払拭するように立ち上がった。

「飯にしよう。お前のを用意してある」

そう言って促せば、少女は黙ってついてきた。


五人が座れば一杯になってしまう小部屋には、膳に置かれた少女の食事があった。

粟と稗が混じった粥、葉物が入った味噌汁、南瓜の煮物。それらが湯気をたてている。

ヨミが昼に食べた物と同じだった。

「ほら、お前の食事だ」

だが、少女は動かない。

「腹減ってるだろ?ほら、食えよ」

しかし、まるで耳が聞こえなくなったかのように少女は反応しない。

先ほど下手に出たのが悪かったのか、食事をしてしまえば奴隷になった今の状況を認めることになるのが嫌なのか。少女は頑なに動こうとしなかった。

ヨミは大きく息をついた。

「・・・いい加減にしろよ」

低く這うような声を出せば、少女の体がびくりと跳ねた。

「腹が減って倒れても、ここじゃ介抱なんてしてくれない。これ幸いと別のところに売られるか、あの馬鹿息子の玩具にされるかのどちらかだ。お前はそれでもいいのかよ」

「・・・・・・」

「おいっ!!」

答えない少女に焦れ、ヨミはその肩を掴み、無理やりこちらを振り向かせた。

その顔を見た瞬間、ヨミは思わず息を呑んだ。

少女は、青玉のような目からぼろぼろと涙を零しながら、強く唇を引き結んでいた。

声もなく涙を流す少女に、ヨミは小さく息を吐く。

 ――両親に愛されて育ったのだろう。でなければ、こんな頑なにならないはずだ。

目が九泉の人間とは違うから、父と母のどちらかが葦原の出なのかもしれない。

九泉の人間と比べられ、嫌な思いも味わっただろう。しかし、どんなに貧しくとも、嫌な環境にあっても彼女にとってはそこが居るべき場所であり、幸せを感じられる場所だったはずだ。

――それをあの馬鹿息子が壊した。

一張羅いっちょうらを汚したという理由が本当かどうかはわからない。だが、あいつの事だ。あることないこと口にし、脅すくらいはしそうだ。

この家は、この辺りでも指折りの名家だ。下手に刺激すれば、仕事先にまで嘘とも真ともつかない風評が広がり、仕事を失うこともある。ヨミはそれを何度か見てきた。

少女の服装はけっして裕福とはいえなかった。仕事をなくせば、家族が路頭に迷う。

もしかしたら、少女の両親も仕事を失うことを恐れて、泣く泣く手放したのかもしれない。


 ヨミは少女の肩に優しく手を置いた。

嫌われるよう仕向けることで、少女に生きる意志を持たそうとしたが、風呂での一件もあり、あまり意味がなくなった。

 それに、目の前で涙を流した少女を見て、少しだけ見えない壁が取り払われたようにヨミには感じられた。

これなら言葉が届くかもしれない

 ヨミは賭けた。

「なぁ、泣いてもいい。怒ってもいい。だが、自棄やけにはなるな。お前が何も食べず倒れても、あの馬鹿の思う壺だ。一矢報いたいと思うなら、あいつが悔しがるような真っ当な人間になってみせろ。親の威光を笠に着て、やりたい放題のろくでもない奴には絶対になるな」

そう口にしながら、ヨミは心の中で自嘲する。

自分も真っ当な人間とはいえない。

だが、まだ幼い彼女には自分のように腐り、諦めるのでなく、真っ当に生きてほしいと思う。

涙を零しながら鼻をすする少女の頭をヨミは撫でた。

 少女は振り払うことなく、されるがままだった。


しばらくして、少女が引き結んだ唇をそっと開いた。

「・・・お父さんとお母さんは、わたしをすてたの」

舌足らずな言い方だったが、口にした言葉は絶望の色を帯びていた。

「わたしはみんなとちがうから、だからお父さんとお母さんはわたしをすてたの・・・」

「・・・どういうことだ?」

意味が分からず問えば、少女はつたないながらも説明をしてくれた。

 少女の両親は彼女の本当の両親ではないこと、育ての親や他の兄弟達は皆目が青白いのに、自分だけ違う事を。

「そうか・・・」


少女の言葉からは、彼女が他の皆と違うから捨てられたという想いが強い。

彼女の両親が何を思って彼女を手放したのかは、二人にしかわからない。少女の言う通りかもしれないし、ヨミが考えていた事かもしれない。はたまた、別の思惑があってのことかもしれない。


「お前は父ちゃんと母ちゃんが憎いか?嫌いになったか?」

少女は一瞬口ごもる。

「・・・わからない」

「嫌いとも好きともいえないか?」

言い方を変えて尋ねれば、少女は小さく頷いた。


ヨミは、少女の髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。

「俺にもお前の父ちゃん、母ちゃんのことは分からん。どうして手放したのか、それは直接聞いてみないとな」

「・・・・・」

不思議そうにヨミを見る少女に、ヨミは笑った。

「ここで一生籠の鳥ってわけじゃない。市や街中にだって出る。その時、お前が『間違って』お前の家に行っても誰も気にしない。・・・本当に知りたいなら、そういう方法で聞くこともありだろう。お前が本当にそれを望むならな。そうしたいなら、お前はここで飯を食うのを躊躇ってる場合じゃないだろう。体力をつけなけりゃ、家にもいけねえぞ?」

「どうして・・・」

「ん?」

「どうしてそこまでしてくれるの?わたしのこと、きらいなんじゃないの?」

日向川に落とすと脅したことが、さっきまでのヨミの行動と言動と一致しないのだろう。

少女が不思議がるのも無理はなかった。

ヨミはポリポリと決まり悪げに頬をかく。

「・・・別に嫌いじゃねえよ。ただ、ああしなけりゃお前は生きようとしないと思ったからそうしたまでだ。気を悪くしたなら悪かった」

「・・・・・」

少女は目を見開いたままヨミを凝視する。

その真っ直ぐな眼差しに居心地の悪さを感じ、ヨミは逃げるように視線を外した。

「ほら、飯が冷めちまうぞ」

話はここで終わりとばかりに、ヨミは少女の肩を軽く叩き、膳の前に促した。

少女はこくりと頷くと、膳に向かい、その前に膝を折って座った。

箸に手をつけるかと思いきや、少女はくるりとヨミの方を振り向いた。

「・・・竜胆りんどう

花の名が少女の口から漏れ、ヨミは目を瞬かせた。

「わたしの名前は竜胆っていうの」


「・・・竜胆」

名を教えてくれたことに、ヨミの胸に温かいものが広がる。

「そうか。よろしくな、竜胆」

微笑めば、少女――竜胆は口元を綻ばせ、小さく頷いたのだった。


こうして、竜胆はヨミの世話役として働くことになった。

といってもまだ幼いので、できるものから順に教えていった。

 竜胆は幼いが、頭の良い子供だった。

細々としたものは、一週間もあれば覚えてしまった。これにはヨミも舌を巻き、あの馬鹿息子にやらなくてよかったと本気で思ったほどだ。

 自分の仕事を覚えた竜胆は、ヨミの、文字通り世話をするようになった。

ヨミが過呼吸や貧血になれば付き添い、馬鹿息子が面倒くさいという理由で押しつけてきた帳簿を捌いている時に休憩と称して茶菓子を用意し、夜遅くまで仕事をしているヨミを無理矢理布団に入れるといったこともあった。

 まるで兄妹きょうだいのようなその様子に、ほかの奴隷たちも微笑まし気に見守っていた。

 

立場が奴隷ということ事を除けば、彼らの日常は満ち足りた、幸せなものだった。

だが、それも長くは続かなかった。



二年の月日が経過したある日のこと、仕事で部屋に籠もっていたヨミは、いつもなら休憩と称して茶を持ってくる竜胆の姿が見当たらないことに気がついた。

同僚達に聞いてみるが、皆、首を横に振るばかりだった。


「あぁ、あいつなら売ったぞ」

仕事でなければ口も聞きたくもなかったが、一応念のためにと息子にも聞いてみた。

そして、思ってもみなかった一言を告げられた。

「どういうことだ!?」

あまりの衝撃に敬語も忘れ、素で接するヨミを咎めることもなく、息子は面倒くさそうに口を開いた。

「だから、売ったんだよ。あいつ、背も伸びて一気に女らしくなったからな。叔父貴が息子の世話役にさせるって喜んでたぞ」

その言葉に、ヨミはぞわりと鳥肌がたった。

叔父の息子なら一度だけ顔を見たことがある。

 年の頃は十代後半と若いが、まるで脂肪の塊のような巨漢だった。目はまるで爬虫類のように平坦で、温度がない。常に何か食べていないと気が済まないようで、飴玉などの甘味を、従兄弟とはいえ余所の家であるにも関わらず平気で口にしていた。

かなりの好色で、男だろうと女だろうと見目のいい者には手を出す。

彼のお眼鏡に叶った同僚達も声をかけられ、熱心に口説かれていたし、ヨミ自身もねっとりとした視線を浴びせられたことを思い出した。

口説かれもしたが、自分は馬鹿息子――かぶとの従者だと強調し、丁重に断りもした。


――そんな奴の元へ竜胆は売られた。

ヨミは震えの走る拳をきつく握る。

わかっていたはずだ。奴隷である以上、自分の体は自分のものではない。金を出して買った所有者のものだ。

 わかっていたのに、自分のそばに置いていたことに安心、――いや、胡座あぐらをかいていたのだ。己も奴隷だというのに、自分のそばにいれば竜胆の一生は守られると妙な自信を抱いていた。何という傲慢か。

ヨミは、今までの自分をぶん殴りたい衝動にかられた。

 兜は興味もないといいたげに、耳の穴に小指を入れ、耳掃除をしていた。


ヨミは大きく息を吐き、気持ちを落ち着かせるように吐き出した。感情だけで突っ走っても何にもならない。

「・・・彼女はまだ十歳です。兎々羅(ととら)様の世話役を務められるとは思いませんが」

「あぁ?そんなことはねぇだろう。あと五年すればいい女になると思うぜ。頭もいいし、器量もいいからな」

ほんの二年前まではそんなこと言いもしなかったくせに。

兜を睨みつけながら、ヨミは冷静に言葉を紡いだ。

「頭がいいと言っても、所詮は子供です。礼儀もなにもなっていません。まだ早いのではないでしょうか」

兜が呆れるような視線を向ける。

「お前が何言っても、もう決まったことだ。金は貰ったし、今更買い戻すことなんてできやしない。諦めろ」

突き放すような言い方に、ヨミは腸が煮えくりかえる。兜の襟首を掴んで揺さぶりたかったが、それをしたところで竜胆が帰ってくるわけではない。

奥歯をきつく噛みしめ、衝動を押し殺しながらヨミは頷いた。

「・・・・わかりました」


ヨミは兜に背を向け、部屋を出た。その足で、自分の部屋へ向かう。

 兜の言うとおり、連れ戻すことはできないだろう。たとえ、竜胆を無理矢理連れ出したとして、その先に待っているのは容赦ない制裁だ。奴隷の生活に耐えきれず、逃げ出した者達が主人の用心棒(彼らも奴隷だ)の手によって連れ戻され、死なない程度に痛めつけられる場面をヨミは目にしたことがある。

奴隷は商品だ。一人でも欠ければ、生活に支障が出る。だから主となった者は、血眼になって逃げ出した奴隷を探すのだ。


これから起こる竜胆の将来を考えれば、なりふり構わず連れ出して、二人で逃げることが正解だろう。だが、感情のみで走るには、ヨミは現実を知りすぎていた。そして、竜胆を抱えたまま、逃げ切れるという自信もなかった。

自身の情けなさに反吐が出そうだった。


襖を開け、部屋に入ったヨミは文机の引き出しへ手を伸ばした。その中には、文用の和紙が置いてあった。その和紙は、仕事用に使う和紙を探していた時、竜胆がきれいだと口にしたものだった。

薄桃色に銀泊をまぶした高価なもので、仕事用では派手だとヨミは首を振った。

 結局、文用の和紙は別の物になったが、竜胆はそれが気に入ったらしく、ヨミが声をかけるまでそれを眺めていた。それを見かねた店の主人が、少し質は落ちるが同じ物を安く売っていると言い、勧めてきた。

 値は、半値だった。

竜胆を喜ばせてやりたいという兄心から、ヨミはそれを買った。竜胆はそれを知って、たいそう喜んだ。

 竜胆の笑顔を瞼の裏に描きながら、ヨミは和紙を取り出す。

竜胆を連れ戻す根性も、逃げ出す勇気もない自分ができること。

それは、文で励ましと別れの言葉を竜胆に告げることだった。

 



それから幾日が経った頃のことだった。

「・・・ヨミ」

仕事で缶詰になっていたヨミが茶でも飲もうと厨へ向かおうとした時、背中から声がかかった。

振り返れば、同僚のかじかが立っていた。

「どうした?」

振り返り尋ねれば、鰍は今にも泣きそうな表情を浮かべる。

「鰍・・・?」

首を傾げ、名を呼べば、鰍は小さく息を吐くと、意を決した顔でヨミを見た。

「ヨミ、落ち着いて聞いてほしいの」

「あ、あぁ」

鰍の気迫にヨミはただ頷く。一体何があったというのか。



「・・・竜胆が亡くなったわ」

形の良い唇から出たのは、信じられない言葉だった。

「は?」

一瞬、自分の耳がおかしくなったのかと思った。ヨミは、鰍の顔を凝視する。

「おい、冗談なら・・」

「冗談じゃないわ」

かぶせ気味に言葉を連ねる鰍の顔は張りつめていた。

ためらうようにぐっと唇を引き結んでから、鰍は口を開いた。

茴香ういきょう様の付添いで、今さっき兎々羅様の家へ行ったの。そしたら、竜胆の姿が見えないことに気付いて・・・。聞いてみたら、一昨日の夜亡くなったって・・・」

「嘘だっ!!」

信じられず、ヨミは鰍の肩を強く掴む。

「嘘じゃないわっ!お墓も見てきたっ!」

目に涙を湛え、鰍は叫んだ。

「っ、家の裏にある庭に、小さなっ・・・!」

嗚咽を堪えるように俯く鰍の様子から、それが真実なのだと突きつけられる。

ヨミは呆然とし、鰍の肩から手を離した。

 鰍には、竜胆が初めてこの家に来た時に新しい衣を用意してくれるよう頼んだことから、それ以来、なにかと竜胆の面倒をみてくれるようになった。

男であるヨミでは行き届かないところもみてくれ、まるで姉のように竜胆に接していた。

 そんな鰍が嘘でも冗談でも、竜胆が死んだなどというわけがない。


「理由は?どうして死んだんだ?」

口の中がからからに乾く。

信じない。信じたくはない。

思っていることとは裏腹に、ヨミの口はまるで他人事のように竜胆が死んだ理由について尋ねていた。

 鰍が首を横に振る。

「ごめん、なさいっ・・・。お墓を見た後、頭が真っ白になって。聞いてないの・・・」

体を震わせ、謝る鰍の肩に、ヨミは優しく手を置いた。

「・・・そうか。わかった。教えてくれてありがとな」

ヨミは手を離し、自室へと向かう。涙声で自分を呼ぶ鰍の声が聞こえた気がしたが、気にしている余裕はなかった。

――やるべき事は決まっていた。



自室へ戻ったヨミは、山と積まれている書類や帳簿を持てるだけ持つと、兜の自室へ向けて歩き出した。

 つまらなそうな顔で貝合わせをしているか、気に入りの奴隷とお楽しみの最中か。

どちらにせよ、ヨミの腹は決まっていた。


「失礼しまーす」

両手がふさがっているので、足で襖を開けるという行儀の悪い方法で、兜の自室の襖を開ける。

「きゃぁっ!」

「おいっ!!」

次の瞬間、女の悲鳴と兜の怒りをはらんだ声がヨミの耳を貫いた。

視線を向ければ、兜と奴隷の女が一つの布団に入っていた。どうやらお楽しみの最中だったらしい。

「すいません、兜様。ちょっと用事ができたので、これ、やっておいてください。ただ判子を押すだけなので」

二人には目もくれず、ヨミは奥にある文机に山のような書類と帳簿を置く。

「な、なんだと!?ヨミ、貴様、俺に仕事を押し付ける気か!」

目を白黒させた後、目を吊り上げる兜に、ヨミはにこりと音をたてて笑みを浮かべてみせた。

「押し付けるなんてとんでもない。これはあなたの判子がなければお父上に渡すことができないんですよ?跡継ぎになるお方がそれくらいできないなんてことありませんよね?」


やりたい放題、傍若無人な兜も父親を出されると弱いことをヨミは知っていた。彼の父親であり、ヨミの主である男――鮫牙こうがは息子に甘いが、仕事に関しては鬼のように厳しかった。兜は父親の目を盗んでヨミに仕事を押し付けているが、それを知らない鮫牙ではない。ヨミが仕事を終えると、それの倍以上の仕事を鮫牙は兜にやらせていた。

「ぐっ!」

案の定、兜は声を詰まらせ、顔を青ざめさせる。

「では、よろしくお願いします」

念を押すように言うと、ヨミは兜の返事も聞かず、部屋を出ていった。

後で覚えてろよという捨て台詞を吐かれた気がしたが、ヨミの知ったことではない。

事実、あの書類と帳簿の内容を見るのは、本来なら兜の仕事なのだ。この二年、ヨミは補佐というよりは、通常兜が行う仕事をやらされていた。

 

 兜の自室を退出し、ヨミは屋敷から出ると、離れにある厩へ向かった。

「おや、ヨミじゃないか。どうした?」

そこにいたのは、厩番をしている正覚しょうかくだった。

この屋敷で一番の古株で、誰にでも気さくで親切なため、同僚の奴隷にも評判がよく、鮫牙の父の代からいるためか、鮫牙ら家族も正覚に一目置いている。

「正覚、さざなみを借りてもいいか?」

漣は、この家で飼っている馬の中でも二番目に足の速い馬だった。黒く豊かなたてがみが特徴で、穏やかな気性の雄の馬だった。

「おう、仕事か。鮫牙様に頼まれたか、それとも兜様に押しつけられたか?」

正覚は歯の抜けた口を開け、にかりと笑った。

「まぁ、そんなところだ」

実際はそのどちらでもない。正覚に嘘をつくのは心苦しいが、今動かなければ、自分は一生後悔するだろう。


ヨミは、漣のもとへ向かう。

そこには、優しい目をした黒馬がいた。そっと頬を撫でると、漣はどこか嬉しそうにすり寄った。

「どこに行く?」

「兎々羅のところだ」

兎々羅の名を口にすれば、正覚が眉を寄せた。

「・・・そうか。気をつけろよ」

不安と心配が入り交じった表情を浮かべる正覚にヨミは頷いた。正覚は、ヨミが兎々羅に目をつけられていることを知っている。

「あぁ、わかってる」

わかっているが、竜胆の死の理由を知っているのは兎々羅だろう。目をかけられていようが、口説かれようが真相を知らなければ。

 心中で覚悟を決めつつ、ヨミは漣に、くらくつわあぶみをつけ、馬屋から出す。


外に出る。

天井には、まるで星々のように、所狭しと並ぶ火輪石が夕日色に輝いていた。

九泉は葦原と違い、太陽も月もない。その代わりに、朝には夕日色に輝く火輪石かりんいしと呼ばれる石が天井で光り、夜はつくよ石と呼ばれる石が青い光を放つ。そして足下に光る苔が白く光るのだ。

漣の背に乗り、ヨミは正覚を見下ろした。

「じゃ、行ってくる」

「あぁ、わかった。気をつけていけよ」

正覚の目にはヨミを案じる色が濃く出ていた。優しい老爺を騙すことに再び心苦しさを感じながら、ヨミは頷いた。

 自分に祖父はいないが、いるとしたら、きっとこんな感覚なのだろう。

血の繋がった家族はすでにない。だが、竜胆や鰍、正覚をヨミは家族のように思っていた。


 鰍や正覚を心配させないために、ヨミはもう一つ心に決めた。

竜胆の死の理由を知り、絶対にここへ戻ってこようと。

「行くぞ、漣」

ヨミは、漣の脇腹を軽く締め、歩くように促す。ヨミの合図に漣は的確に反応し、歩き出した。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ