第百三十七幕 市にて
湯船で泣きじゃくったせいか、少しのぼせてしまった。
「お水、飲んできます。先に行っていてください」
寝巻の衣に着替えた後、そう活杙に伝える。今頃、角杙とヨミが夕餉の準備をしているだろう。
「あら、もう敬語?」
髪を下ろした活杙が加具土をからかう。
「うっ。も、もう少し時間をください」
さすがにすぐに敬語は抜けない。軽く頭を下げると、加具土は水を飲みに厨へ向かった。
厨には、誰もいなかった。竈の火は消えており、ただ、その上に置かれた鍋からは、まだ湯気がたっていた。
加具土は、裏口近くに置かれた水甕から柄杓で水を掬い、水を飲む。
冷たく、甘い水が喉を通り過ぎ、加具土は息をついた。頬の火照りも若干和らいだように感じる。
ザリ。
草履を擦るような音が聞こえ、振り返れば、土間に下り、草履を履くヨミの姿があった。
「あ・・・」
「・・・・」
ヨミは加具土のそばを通り過ぎ、棚の上に手を伸ばす。そこには、竹筒に入った箸があり、ヨミはそのいくつかを手に取ると、また草履を脱ぎ、居間へ上がった。
何と話しかけていいか分からず、加具土がその背を見つめていると、ヨミが不意に振り返った。
「上がったのか」
「う、うん」
そう言われ、加具土は思わず頷いた。
「そうか。おっさんが待ってる。早く来いよ」
おっさんとは、角杙のことだろうか。言い方はともかく、だいぶ打ち解けたようだ。口調も堅いものから、砕けたものに変わっている。
言いたいことは言い終えたのか、ヨミは厨を後にしようとする。
「待って、ヨミ!」
活杙も角杙もいない。今がちょうどいい機会なのかもしれない。加具土には聞きたいことがあった。
呼び止めれば、ヨミは振り返り、立ち止まった。そのまま歩き出してしまうかもしれないと思ったが、話を聞く意思はあるようだ。
加具土は、その青白い瞳を見据えた。
「・・・まだ、死にたいと思ってる?」
岩場に手を伸ばしたことで生きようと考え直したとは思っている。けれど、直接、彼の口から聞かなければ安心できなかった。
ヨミが一度瞬きする。その瞳からは何を考えているのかは分からなかった。
ややあって、ヨミは口を開いた。
「―――お前に見透かされて、おっさんには謝られて・・・。・・・なんだか気が抜けた。もう、死のうなんて思わねえよ」
――死のうなんて思わない。その言葉に、加具土は安堵の息を吐いた。
だが、角杙に謝られたとは一体どういうことだろうか。
「・・・・よかった。けど、謝るって?」
気になり、尋ねる。しかし、ヨミは首を振った。
「いや、何でもない。・・・飯が冷める。早く来い」
言葉を濁し、ヨミは箸を持って歩き出した。向かう先は奥の部屋のようだ。
「う、うん」
答える気はないらしい。言いたくないなら無理に聞こうとは思わなかった。
ヨミの背を加具土は追った。
板ばりの部屋には、向い合せに四つの膳が並べられていた。その膳の上には小鉢や皿が置かれていた。その膳の一つに角杙が座り、その向かいには活杙が座っていた。
「お、来たか」
角杙が視線を上げて、二人を見る。
ヨミは、空いた膳に箸を置き、次に活杙、角杙の順に箸を手渡すと、自分の箸を持ち、角杙の隣に座った。
「お待たせしてすいません」
加具土は活杙の隣の、空いていた膳に座った。
「さ、みんな揃ったし、食べましょうか」
活杙の言葉に、三人は頷き、箸を手に取り、食べ始めた。
膳の上を見れば、主食と様々な副菜がのっていた。
丸くついた粟餅、鰊の塩漬け、ぜんまいの煮物、里芋の味噌和え。
「春ねぇ・・・」
ぜんまいの煮物がのった皿を持ちながら、活杙がしみじみと呟いた。
「ん、うまい」
口に含んでいるのか、くぐもった声で賛美の声を上げたのは、意外にもヨミだった。彼の膳には、鰊の塩漬けがのった皿だけが空になっていた。
「お前、本当に好きだったんだな。それ」
角杙が目を丸くして、空になった皿を見つめる。加具土も思わずそれを見つめた。活杙もぜんまいを箸で摘まんだまま、固まっている。
三人の様子に気が付いたヨミは、そっぽを向き、口をもぐもぐと動かした。その耳は、桜が蕾を膨らませたようにほんのりと赤く染まっていた。
ヨミの飛び降り事件から一月が過ぎた。
ヨミは、初めて会った時の態度とは打って変わり、明るく社交的になった。口調は荒いが、面倒見は良く、なんだかんだと言いながら、家の仕事を手伝っている。その様子に、驚いた加具土だが、これが素なのだろうと気付いてからは、だんだんと慣れていった。
ある日、加具土は、活杙とヨミと共に、暁月村にやってきていた。
お産の近い村の娘の様子を診るためと、日々に必要な日用品を買うためだった。ヨミは荷物持ちのための人数合わせだ。
娘の様子を診終わり、加具土と活杙、ヨミは市を訪れた。
市には、色鮮やかな多くの衣、櫛や紅、髪飾りなどの装身具、造りのしっかりとした桶や行灯、食欲をそそる魚の干物や筍などの山の幸、瑞々しい果物が所狭しと並べられた店が軒を連ね、訪れた人々や旅人の目を楽しませていた。軒の下では、活きのいい声を上げながら、品物を勧める店の人間の姿があった。
「さ、何から見ましょうか?」
うきうきと楽しげな様子で活杙が加具土に視線を向けた。
「おい、買う物が決まってるんじゃないのかよ」
活杙の言葉に、ヨミが呆れた声を出した。
「決まってないわよ。色々見て回って、買いたい物を探すの。いい気分転換になるわ」
今にも鼻歌を歌いそうな雰囲気を醸し出しながら、活杙は笑みを浮かべる。
すると、ヨミはがくりと肩を落とし、深々と息を吐いた。
「・・・おっさんが行かなかったのはこういう理由か」
出かける前に、活杙は角杙も誘ったのだが、「おれはいい。苗木の様子を見なきゃいけないからな」と断られたのだ。それも本当だったのだろうが、買い物の付き添いを遠慮したかったのかもしれない。加具土も活杙と何度か出かけているが、必ずといっていいほど市の店を全て覗いていた。そのため、帰る時間が遅くなり、家に戻る頃には日が沈んでいることもあった。要するに、活杙の買い物は長いのだ。
「なにがっかりしているのよ。お小遣いもあげたんだから、団子でも何でも食べていいし、好きな物を買っていいのよ?」
その台詞に、ヨミはぐっと言葉に詰まったような顔をした。
団子という言葉の通り、店の中には茶店もあった。香ばしい餅や甘い饅頭の香り、抹茶の豊かな香りが加具土の鼻に届く。普段食べることのないそれらを想像し、思わず喉が鳴った。
「・・・わかったよ。じゃあ、買い物が終わったら、あの茶店に集まるってことでいいか?」
ヨミは、赤い暖簾をかけた茶店を親指で指す。
「あら、一緒に見ないの?」
「悪いが、付き合うつもりはねえよ。女同士で仲よくやりな」
活杙の誘いの言葉をさらりと断ると、ヨミは手をひらひらと振って、人ごみの中に消えた。
「のりが悪いわねぇ」
ヨミの背を見送りながら、活杙が呟く。加具土が活杙とヨミの背中を交互に見ていると、活杙は、ふふっと小さく笑い、加具土を見た。
「ま、いいわ。女同士楽しくやりましょ」
「・・・はい」
返事を返せば、活杙が加具土の額をちょんとつついた。
額に手を触れ、首を傾げれば、活杙が口元を上げる。
「敬語」
「あ・・・」
活杙に指摘され、声を上げる。意識しなければ、まだ敬語が抜けないようだ。
「・・・うん」
加具土は、小さく頷いた。
ヨミと別れた加具土と活杙は、櫛や紅、髪飾りを扱う店を見ていた。
「あら、これなんてどう?」
活杙は、桔梗の花を模した髪飾りを加具土に見せた。それは瑪瑙で作られており、美しい赤褐色をしていた。
「綺麗だね」
加具土が感想を述べれば、活杙はにこりと笑い、ふくよかな体型の女店主に声をかけた。
「すいません。これを一つください」
「えぇ!?」
まさか買うとは思わず加具土は驚き、大きな声を上げてしまった。
「え、なに?これ、嫌いだった?」
髪飾りを買おうと、懐から財布を取り出した活杙が不思議そうな顔をする。
「素敵だよ!でも、欲しいものなら自分で買うから!お、お母さんが買わなくても!」
活杙を母と呼ぶことに気恥ずかしさを感じながらも必死に言い募れば、活杙は「そう・・・」と納得したように頷く。
「じゃぁ、はい」
活杙は桔梗の髪飾りを加具土に渡した。
掌に美しい瑪瑙の髪飾りがのる。それは日の光に輝き、さらにきらびやかさを増した。
「・・・こんな綺麗なもの、私の髪に合うかな」
夕日のような朱い髪だが、特段手入れをしているわけではない。これを挿しても、見劣りしてしまうのではないか。そんな事が頭を過った。
「なら、挿してみちゃどうだい?」
女店主が結い紐と鏡まで取り出し、加具土に勧めた。
「あら、いいじゃない。加具土、やってみたら?」
活杙にも勧められ、「じゃぁ、ちょっとだけ・・・」と呟き、一度、活杙に髪飾りを渡す。そして、左手を使い、長い髪を輪っかにした結い紐で結び、髷にした。活杙が心得たように髪飾りを渡す。加具土は、頭部の髪と毛先を挟むようにして桔梗の髪飾りを挿した。
「ほう、こりゃいいね」
女店主が鏡を加具土に向けながら、感嘆の声を上げた。
「やっぱり髪を上げると、大人っぽくなるわね。髪飾りと髪の色も合っているし。素敵よ、加具土」
活杙が微笑みながら、ぽんと肩を叩く。
鏡に映った加具土の姿は、髪を上げているためか、見た目をいくつか上に見せていた。
挿した赤褐色の桔梗の髪飾りが朱色の髪と混じり、落ち着いた雰囲気を醸し出している。
「・・・・・」
自分の見た目はともかく、髪飾りと自分の髪色の相性の良さに、加具土はじっと鏡を見つめる。この髪飾りが欲しいと素直に思えた。
「あの、この髪飾り、いくらですか?」
気づけば、女店主に髪飾りの値段を聞いていた。
加具土は、買ったばかりの桔梗の髪飾りを挿し、さっそく市を歩いていた。
女店主は気前よく応じ、結い紐と合わせた値段で買っていいと言ってくれた。そのため、いくらか安い値で買うことができた。
髪飾りを買えたことが嬉しく、加具土は知らず鼻歌を歌っていた。
足元がふわふわと浮き上がり、目に映る全てのものがきらきらと輝いて見える。
「ふふ。ご機嫌ね」
それに気が付いたのか、活杙が嬉しそうに笑った。
「うん!」
加具土は跳ねるような気持ちを隠すことなく、大きく頷いた。その時、目の前をよく見ていなかったせいで、前を来た人物の肩に大きくぶつかってしまった。
「あ、ごめんなさい!」
慌てて謝れば、ほのかな甘い香りが加具土の鼻をくすぐった。柑橘系に似た澄んだ甘い匂いだった。
「大丈夫よ。気にしないで」
ぶつかった相手は、涼やかな声の女性だった。澄んだ川のような群青の髪を水晶でできた髪飾りで束ね、細い眉にすっきりとした顔立ちをしていた。切れ長の瞳の色は、温かな胡桃色で、肌は月のように白く、唇には薄く赤い紅を差している。衣は、その髪の色に合わせるかのように、薄い青―み空色―をしていた。
彼女の白い手には、文と紫色のかわいらしい花を咲かせた菫が握られていた。
ふわりと笑った女性は、何事もなかったかのように加具土の横をすり抜けていく。
「綺麗な人・・・」
女性の背中が人ごみのなかに消えていくのを見つめながら、加具土は夢心地に呟いていた。
よくよく見れば、行きかう人々のなかに、加具土と(見た目が)同じかそれより上の娘達が鮮やかな衣で着飾り、化粧を施した顔で、文と花を手にして歩いているのが目に映った。
「ねぇ、お母さん。女の子たちがみんな着飾っているけど、何かあるの?」
不思議に思い、斜め前を歩く活杙に尋ねれば、活杙が加具土に視線を向け、それから着飾った娘達を見た。
「あぁ、もうそんな時期なのね」
「そんな時期?」
言葉を反芻すれば、活杙が目を瞬かせ、次いで合点したように頷いた。
「そうね。あなたは知らなかったわよね。あの子達は、『月花祭り』の子達よ」
「月花祭り?」
聞き慣れない言葉に、加具土は首を捻る。
活杙の説明によると、『月花祭り』とは、この暁月村の行事の一つだという。
十代後半から二十代前半の村の男女が着飾り、意中の相手に恋文を送る。文には、花が添えられ、その月の満月の夜、送った女は花を髪に挿し、送った男は帯に花を挟む。文を送られた相手は、その花を目印にして、文を書いた相手を探し、返事を返す。同じ気持ちであったなら、自分の想いと真名を名乗って、相手に愛情と信頼を示すのだ。
そして、晴れて、二人は恋人同士になる。
逆に、送られた方にその気が無い場合は、『あなたの片割れ月が見つかりますように』と返すという。
恋文の最初には、こう書く習わしだ。
『私の心は片割れ月のように半分にかけてしまっています。望月のように満たすことができるのは、あなたしかおりません』
「へぇ・・・」
そんな行事があったとは知らなかった。感慨深げに呟いた加具土は、ふとある事が頭を過った。
「でも、祭りに参加する人はたくさんいるんでしょう?花を目印にするって言ってたけれど、花の種類が被ったりしないの?」
この時期なら春の花だろうが、種類は限られる。大人数なら被ってしまい、同じ花を挿してしまいそうだが。
すると、活杙が笑いながら首を振った。
「それはないわ。この花を用意するのは、櫛名田という名の国津神なの。人の縁を結ぶことや恋の話が大好きな子でね。花を育てるのが仕事なのだけど、この村の風習を知って、半ば趣味で祭りの日に花をあげているの。春夏秋冬の花をね」
春夏秋冬の花。それなら被ることもない。神だというのなら、その力で、季節の違う花々を出しているのだろう。
「それなら、大丈夫だね。それにしても、きっとすごいんだろうなぁ。月の下で花を挿した人達が集まるのは」
満月の下で、想いを伝えたいと行動する男女が、様々な花を頭や帯に挿している。その様は幻想的で、風情もあるだろう。
加具土がうっとりとしながらその様を思い描いていると、活杙が苦笑した。
「そうね。圧巻だけれど、みんな目が怖いわよ。相手の返事によっては、自分の人生が変わるんだもの」
「そ、そうなんだ・・・」
活杙の言葉に、目を血走らせながら、想いを伝える相手を見る彼らを想像してしまい、加具土は思わず顔を引き攣らせた。
そういえば、相手には自分の想いと真名を告げると言っていた。
真名とは何だろう。かつて、兄も言っていた。加具土は自分の本当の名前ではないと。
「ねぇ、お母さん」
「なに?」
「真名ってなに?名前だよね?」
活杙なら知っているかもしれないと尋ねれば、驚いたように活杙は目を大きく見開いた。
しかし、それも一瞬のことで、すぐに納得したような表情を浮かべた。
「そうね。あなたは・・・」
心得たように頷くと、活杙は口を開いた。
「真名っていうのはね、魂の名前よ。親や養い親が生まれた子につける名前なの。人に名乗るときの名前とは違う特別な名前」
「特別・・・」
加具土が鸚鵡返しに呟けば、活杙が言葉を返した。
「そう。真名を教えるということは、自身の魂を相手に委ね、預けるという意味もあるの。それほどの信頼と愛情を捧げたいと思う相手に会って初めて名乗る。親友、好敵手に教える人もいるけれど、多くは生涯を共に歩みたいと思う人に教えることが多いわ。だから月花祭りでは、自分の想いを伝えた後、真名を名乗るの」
「・・・・・・」
真名の意味は分かった。でも、自分にはそれがない。与えられる前に、その機会さえ失ってしまった。
「私には、ない・・・」
だが、それも仕方ない。しかし、親友ができても、大切な人ができても、真名を教えられないのは寂しいし、相手にも申し訳ないと思った。
「そんな顔をしないの」
突然、活杙が加具土の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。目線を上に上げれば、角杙が微苦笑を浮かべていた。
「私と角杙であなたの真名を考えてあげるわ。だから、そんな悲しい顔しないで」
「えっ」
まさかそんな事を言われるとは思わなかった。固まっていると、活杙は加具土の頭から手を離し、腰に手を当て、片眉を上げてみせた。
「あら、私達が考えるのは嫌?」
加具土はぶんぶんと首を横に振った。
嬉しかった。自分で買った髪飾り以上に。ずっと、真名がないまま生きると思っていたから。
「そんなことない!すごく、すごく嬉しいよ!ありがとう!」
嬉しすぎて涙が出そうだ。瞳を潤ませながら礼を言うと、活杙は微笑んだ。
「うんといいのを考えてあげるわ。楽しみに待っててね」
「うん!」
加具土は大きく頷いた。
市に並ぶ店を一通り見て回った加具土と活杙は、ヨミと待ち合わせている茶店へ向かった。
赤い暖簾をかけた店の前には、外でも食べられるように、横に長い木の腰掛けをいくつか置いていた。そこには、親子連れや数人の娘達が団子や茶に舌鼓を打っていた。
ヨミが待っているかもしれないと思ったが、そこに射干玉色の髪は見当たらなかった。
「あら、いないわね」
「そうだね・・・」
買い物が長引いているのだろうか。ヨミの別れ際の言葉からして、あまり時間をかけないと思っていたが、意外だった。
「ま、いいわ。待ち合わせ場所はここだもの。団子でも食べながら待っていましょ」
活杙は近くにあった腰掛けに座る。加具土も隣に腰を下ろした。
「すいません」
活杙は、他の客の注文を取り終えた店の女に声をかける。山吹色の衣を翻しながら、女がやってきた。
「はい」
「ここでおすすめのものはありますか?」
「みたらし、あんこ、草餅、ごま団子。色々ありますが」
女の言葉に活杙は頷く。
「じゃぁ、私はみたらしにするわ。あなたはどうする?」
そして、加具土の方を向いた。
みたらし、あんこ、草餅、ごま団子。
色々な団子の種類に、加具土は一瞬迷う。その時、茶店から油とごまの香ばしい匂いが漂ってきた。
匂いに釣られ、加具土の心は決まった。
「・・・えっと、ごま団子で」
そう言うと、活杙は女の方に顔を向けた。
「それじゃぁ、みたらしとごま団子を一つ。それから抹茶を二つください」
「かしこまりました。しばらくお待ちください」
女は頭を下げると、茶店の中へ入っていった。
やがて、店の女が、みたらしとごま団子、そして二つの湯呑を漆塗の盆にのせて持ってきた。
腰掛けの上に盆が置かれると、活杙が勘定を払った。
「どうぞ、ごゆっくり」
女が柔らかい口調で言葉をかけ、再び店の中へ入っていく。
後に残ったのは、盆の上にある、作りたてなのか湯気の立つ団子に、桜色の湯呑のなかに浮かぶ、鮮やかな緑色をした抹茶だった。
「さ、食べましょ」
そう言い、活杙は竹の串に刺さったみたらし団子を手に取る。それはいい具合に焦げ目がつき、醤油色のたれがたっぷりとかかっていた。
「うん」
加具土も頷き、竹の楊枝を手に取る。そして、鼠色の皿の上にのった黄金色のごま団子にそれを向けた。
団子を食べ、抹茶も飲み終えた頃、ヨミが姿を現した。その顔はひどく疲れていた。
首元でくくった髪がほつれかかり、お気に入りの白の衣も、草履を履いた足も土埃で汚れていた。
別れた時と違うヨミの姿に、加具土は面食らった。
「ヨミ、どうしたの!?」
腰掛から立ち上がり、ヨミに駆け寄る。どこか虚ろな表情をしていたヨミは、加具土を目にすると、「あぁ」と返事ともつかない言葉を口にすると、ぽつりと呟いた。
「・・・・死ぬかと思った」
二人と別れた後、ヨミは市に立つ店を見て回っていたという。
中には、様々な美しい鳥達を籠に入れて売る、鳥売りの店があった。
チュイチュイ、と鈴の音のようなかわいらしい声で鳴く目白を見ていると、「あの!」と背後から勢いよく話しかけられた。
振り返れば、薄桜色の衣を着た、瑠璃色の瞳の娘が立っていた。栗色の髪を高く結い上げ、山査子の白い花と赤い実を模した豪勢な髪飾りを着けている。その手には文があり、桃色の撫子が握られていた。
「なにか・・・?」
そう問えば、娘は頬を山林檎のように赤く染めると、「これを・・・!!」と言って、文と花をヨミに押し付け、立ち去ってしまったのだ。
「あ、おい!」
訳が分からず、呆然としているヨミに、鳥売りの店主が声をかけてきた。
「よかったねえ、兄さん」
「何がだ」
訝しげな視線を送ると、ところどころ抜けた歯を見せながら、店主がにやりと笑った。
「それは、あの娘の恋文だ。ちゃんと読んで、次の満月になったら返事を返してやるんだな」
「恋文っ!?」
ヨミは、手の中にある文と撫子、そして娘が去って行った方向を交互に見た後、店主に顔を向けた。
「今、初めて会ったんだぞ!?」
「お前さんをどこかで見ていたんじゃないのかい?それで好きになって文を送った。そんなところだろう」
得心したように頷く店主に、ヨミは信じられないという表情を浮かべた。
「くそっ!」
ヨミは娘が去った方向へ駆け出した。渡されても困る。早く返さなくては。
娘が来ていた薄桜色の衣を目印にして、ヨミは市の中を走る。
しかし、しばらく走りまわったが、見つからない。あの目立つ髪飾りなら見落としはしないだろうに。
荒い息を整え、目を皿のようにして娘を探す。
その時だった。
「ヨミさまぁ――!!」
頭に響くような甲高い声がいくつもしたかと思うと、背後で砂埃を巻き上げながら、数十人の娘達がヨミに向かって真っすぐに駆けてくる。皆、髪を結い上げ、鮮やかな衣で着飾っていた。
「いっ!?」
大きく目を見開き、驚きともつかない声を上げたヨミは、慌てて店の中に入った。
そこは、多種多様な衣を扱う店だった。
目の覚めるような赤の衣や、黒の衣を下地に、豪華絢爛な金と銀の糸を合わせた衣。様々な衣が一つの巻物になって、棚の上に重ねられている。その影に隠れ、やり過ごそうとしたヨミだったが、娘達の目は鋭かった。隠れたヨミをすかさず見つけ、文と花を渡そうと袖の袂に無理やり入れてくる。
冗談じゃない!
娘達からほうほうの体で逃げ出したヨミは店を跡にしたが、今度は別の方向から別の娘達が現れた。
今度は隠れられそうな店はなく、ヨミは娘達から逃れようと一目散に駆け出した。
それを何度も何度も繰り返し、娘達が諦め、市を去った頃、ヨミはどうにか待ち合わせの茶店に辿り着いたのだった。
「た、大変だったんだね」
ヨミの身に起こった災難に、加具土は労いの言葉をかけた。同時に、数十人の娘達が駆けてくる様を想像し、口元を引き攣らせる。
「ヨミと村を歩くたび、若い娘達からの視線がすごいって角杙から聞いていたけれど、本当だったのね」
「え、そうなの!?」
それは知らなかった。
ヨミと一緒に村に行くことがほとんどないため、そんな事になっているとは露ほども思わなかった。思わず隣に座る活杙を見る。
盆を挟み、同じ腰掛けに座るヨミは、頼んだ草餅を頬張りながら、切実な口調で呟いた。
「今度生まれ変わったら、地味で平凡な顔に生まれたい・・・」
美麗な顔立ちに生まれなかった男子が聞けば、怒り狂うだろう台詞だった。
だが、ヨミが蒙った災難を鑑みれば、分からなくもない。
加具土は苦笑するしかなかった。
「あれ?」
ふと、ヨミの袂を見れば、桃色の撫子がくたりとしながら頭を覗かせていた。
「ヨミ、その撫子・・・」
文をもらった娘からのものだろうか。指させば、もぐもぐと口を動かしながら、ヨミは顔を思い切り顰めた。草餅を飲み込み、湯呑に入った茶を飲み干すと、袂から撫子と文を取り出す。
「追いかけられて忘れてた。返さねえと」
「あら、だめよ」
「あ?」
活杙の言葉に、ヨミの顔が凄味を増した。
「それはその子の気持ちが入った大切なものよ。ちゃんと読んで、次の満月の夜に返事をしなさい。断るにしてもちゃんと断ること。断るなら、『あなたの片割れ月が見つかりますように』って答えるのよ。あ、あとその花は持っていくこと。文をくれた子の目印になるからね」
「何で次の満月の夜なんだ?今でもいいじゃねえか」
言外に面倒臭いと顔にだし、ヨミが訝しげに眉を上げる。活杙は窘めるような声を上げた。
「あなたは、『月花祭り』の主役の一人なの」
「月花祭りぃ?」
「この村の行事の一つなんだって」
加具土は、活杙から聞いた『月花祭り』についてヨミに説明する。すると、ヨミは、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「なんで、こっちの奴らはそんなしち面倒臭いことをするんだよ。言いたきゃ、こんなまどろっこしい事なんてせずに直接言やあいいじゃねぇか」
「九泉では違うの?」
『こっちの奴ら』と言ったので、加具土は、彼の故郷である九泉では違うのかと素直に疑問に思った。
「あぁ。九泉では、こんな行事はない。好きなら好きって直接言う。想いが同じなら、結証石っていう石を互いに送る風習はあるが。ん?俺、お前に九泉の生まれだって言ったっけ?」
首を傾げ、こちらを見るヨミに、加具土は少し慌てた。そういえば、ヨミが心を許してから、彼自身についてくわしく聞いてはいなかった。死にたいと口にした理由も、生い立ちも、今、彼が生きているのなら聞かなくてもいいのではないかと思っていたからだ。
「あ、えっと。お母さんから、もしかしたら九泉の出身かもしれないって聞かされてたから」
手をぱたぱたと振り、理由をいえば、ヨミは特段気にした様子もなく頷いた。
「活杙の言う通り、俺は九泉の出身だよ。こんな花と文を送る雅な風習なんぞない」
雅という言葉に嫌味さを覗かせながら、ヨミは文と撫子をぽんぽんと片手で軽く叩く。
「そうだとしても、ここにいる以上、こっちの風習に従ってもらうわよ。逃げ出しでもしたら、肩身の狭い想いをするのはあなたなんだから」
諭すように言う活杙に、ヨミはチッと舌打ちをした。
「たくっ。女って言うのはなんでこう。男を自分の所有物とでも思ってんのか。中身なんぞろくに見ないで、見た目だけで騒ぎやがって・・・」
ぼやきのようだったが、加具土は、目を細め遠くを見るヨミの瞳に、怒りのようなものを見たような気がした。
「・・・でも、その撫子と文をあげた人には、ちゃんと伝えた方がいいと思うよ。だって、たった一人で渡しにきたんでしょう?その勇気と誠意には、男とか女とかじゃなくて、人としてきちんと答えないといけないと思うの」
撫子の娘は、ヨミを追いかけてきた多くの娘達とは違う。加具土がじっとヨミを見れば、根負けしたように、ヨミは小さく息を吐いた。
「分かったよ。逃げやしない。だから、そんな顔で見るなよ」
撫子と文を袂に戻すヨミに、加具土はほっと安堵の息を零した。知らず、力が入っていたことに気付く。
もし、自分が撫子の娘だったら、それがいいものであれ、望まないものであれ、返事を知りたいと思うだろう。それを想像したら、ヨミの気持ちも分からなくもないが、加具土は撫子の娘の気持ちを尊重させたいと思った。
話は一通り済んだ。
だが、強い口調で加具土が言葉を発したためか、どこか重さのある空気が周囲を包んでいた。
「さて。見て回ったし、帰りましょうか。角杙が首を長くして待っているわ」
その空気を払拭するかのように、活杙は腰掛けから立ち上がり、衣の裾を直しながら、二人に声をかけた。
加具土に異論はなかった。
「うん」
「おう」
頷けば、ヨミも返事を返す。
三人は連れだって、市を跡にした。
「お前、それ、どうした?」
家へと向かう帰り道、不意にヨミが声をかけてきた。
「それ?」
首を傾げながらヨミを見れば、ヨミは加具土の頭を指さした。
「なんか髪にくっついてる」
くっついている?
頭に手をやれば、固い物に手が当たった。
「あ」
それが自分で買った桔梗の髪飾りだと気が付いた。分かった途端、思わず、吹き出してしまう。
「ふふっ!くっついてるって・・・!」
確かにその通りだが。あまりに直球な物言いに、加具土は笑いが止まらなかった。
「なんだよ。そこまで笑わなくていいだろ」
「ご、ごめんね」
拗ねたような口調で言うヨミに、加具土は笑いを含ませた声で謝る。
「別にいいけどよ・・・」
気にしていないと口にするヨミだが、このままだとそっぽを向かれてしまうかもしれない。
そう思った加具土は、桔梗の髪飾りを外し、ヨミに見せた。
「くっついてたのは、これだよ」
「へぇ・・・。花の形してるのか」
珍しいと思ったのか、ヨミは、歩きながらじっくりと髪飾りを見つめる。
「気に入ったから買ったの」
そういうと、ヨミは髪飾りと加具土とを交互に見やった。ややあって、右手を差し出してきた。
「それ、ちょっと貸してくれないか」
「う、うん。いいけど・・・」
何をするつもりだろうか。髪飾りを手渡せば、ヨミはそれをしっかりと持った。
「加具土、俺の前に背を向けて立て」
「え?」
目を瞬かせれば、いいから、と肩を掴まれ、ヨミの前に背を向けて立つ格好になった。
「・・・動くなよ」
そう言われ、何をするのか聞くひまもなく、ヨミは加具土の髪に触れた。しゅるりと結い紐がほどかれ、ぱさりと後頭部で上げていた髪が落ちる。
しばらくヨミの手で後頭部の髪を引っ張られ、ついで、何かを挿したような感触を加具土は感じた。
「よし、終わった」
ヨミが離れる気配がし、振り返れば満足そうなヨミの顔が目に入った。
「うん、こっちの方がいいな」
一人頷くヨミに訳が分からず、加具土は活杙を見る。すると、活杙は穏やかに微笑んだ。
「さっきもよかったけれど。今のも素敵よ」
「え・・・」
素敵とは一体どういうことか。
「こっち、いらっしゃい」
活杙は戸惑う加具土の手を引き、そばに清流を湛える小さな河原へと足を向けた。
鏡のような水面が覗ける場所に加具土を立たせ、活杙は隣に立つ。
「ほら、見て」
活杙に促され、加具土は水面に視線を向けた。
「・・・・・!」
その水面に映っていたのは、夕日色の髪を下ろした自分の姿だった。後頭部には、桔梗の髪飾りが静かに寄り添っている。髪を上げた時はどこか鋭さがあった表情が、髪を下ろした今は柔らかなものに変わっていた。
「せっかく綺麗な色してるんだ。もったいないだろ」
弾かれたように振り返れば、ヨミがしてやったりと言った表情を浮かべていた。
「・・・あ、ありがとう!」
自分の髪を褒めてくれたこと、自分でも知らない自分を見つけてくれたこと。
意外なヨミの一面を見ながら、心臓がどくんどくんと脈打つのを加具土は感じていた。