表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
135/303

第百三十五幕 涙

ヨミが目を覚ましてから、数週間が経った。

切り傷や、体についた打撲や痣も薄くなり、包帯が取れるのも時間の問題だろうと活杙いくぐいが言った。

よかったと加具土は喜ぶが、ヨミはにこりともしなかった。

九泉という、知らない国の出身ということもあり興味が湧いた加具土は、ヨミに積極的に話しかけるが、ヨミの返事は「あぁ」や「べつに」という気のないものだった。

ヨミの表情は目が覚めた当初と変わらず堅く、加具土や活杙に対して、なかなか心を開いてはくれなかった。

色々あったのだろうと考え、たとえ心を開いてくれなくても変わらずに接しようと加具土は活杙と言い合った。

それから数日が経った。

ヨミの傷は完全に癒え、家の中を自由に歩き回れるようになった。だが、落ちた体力はそう簡単に回復しない。活杙は、ヨミの体力を回復させるために家の周りを歩くことを勧めた。やがて、それに慣れてきたのを見た活杙は、今度は森や山道を歩くことを勧めた。


ヨミが森や山道を歩く際は、加具土が同行することになった。それだけでは何なので、薬草の見分け方や森や山道を歩く時の注意なども教えることにもなった。

「それじゃぁ、森に入るよ」

振り返り、後ろに佇むヨミに伝える。ヨミは加具土を一瞥すると、「あぁ」と答え、それきり黙ってしまった。

 分かってはいたが、少し寂しい。加具土は、ヨミに気付かれないように小さく息を吐くと、森へ向かって歩き出した。


「あっ、忍冬すいかずら。この花の茎や葉は毒消しになるし、熱を下げたり、おしっこを出やすくするの。あっちは母子草ははこぐさ。咳や痰を止めたりするわ」

森に入って、さっそく薬草のもとになる二つの花を見つけ、ヨミに教える。しかし、ヨミは加具土のそばに寄ることも、その花を見ることもせず、ただ、明後日の方向を眺めているだけだった。

「・・・・・・」

興味はないらしい。だが、これから森や山道を散策するなら、野生動物や危険な道などを知ってもらわなければならない。怪我をされても困る。

「ねぇ、ヨミ!ねぇってば!ねぇっ!!」

何度も声を投げかけると、ヨミは眉を寄せ、面倒臭そうに加具土の方を見た。

「これから森や山に入る時の注意を教えるからね!こっちを向かなくてもいいからちゃんと聞いて!怪我したら大変なんだよ!」

ヨミは、じっと加具土を見ていたが、やがて、小さく頷いた。


 加具土はヨミに説明をしながら森を抜け、山道に入った。

鬱蒼と木々が生い茂り、その根が張り出している細く狭い道を登る。

だいたいの説明をし、しばらくすると、話題も尽きてしまった。

加具土は黙々と歩くしかなかった。

濃い緑の匂いが鼻をくすぐり、鶯の鳴く軽やかな声がする。それから、ヨミが後ろからついてくる草履の足音が耳に響いていた。

 しばらく山道を登っていると、ゴウゴウという激しい水音が、鶯の声もヨミの足音も掻き消した。登り終えた先にあったのは、巨大な滝だった。岩壁から迸る凄まじい水流のしぶきが加具土の顔にかかる。

「あれは、『暴れ滝』。雨の多い水無月の頃になると、滝壺の水が氾濫して、山の木を押し流してしまうこともあるの。だから、水無月の頃は来ない方がいいわ」

衣の裾で顔を拭いながら、振り返ったが、そこにヨミの姿はなかった。

「え!?」

驚き、周囲を見回すが、ヨミはどこにもいない。

「ヨミ!ヨミ!!どこにいるの!?」

登ってきた山道を下り、少し開けた場所に出た。

(一体どこに――!!)

そこには隧道すいどうのように薄暗く、円形状に木々に覆われた二つの道があった。

 ひとつは森へと通じる道、もう一つは、暴れ滝の滝壺に繋がる道だった。

(まさか――!!)

半ば勘だったが、加具土は滝壺に繋がる道へ向かう。

しばらくすると、山道に登り終えたときに聞いたものよりも、少し弱いザァザァという水の音が聞こえてきた。

やがて、道が開ける。すると、白いしぶきを上げながら落ちる滝が見えた。その澄んだ滝の水に吸い込まれるように滝壺があり、空を映した青く美しい水を湛えている。また、水しぶきが岩壁に生えた苔や羊歯シダ類に滴り、雫を生んでいた。

 滝壺の周囲は、ごつごつとした岩肌に覆われ、その淵にヨミの姿があった。まるで、飛び込みそうな勢いで滝壺を覗き込んでいるヨミに、加具土の顔は青くなる。

「ヨミ!!」

ヨミが加具土を振り返る。しかし、その星色の目は加具土を見ているようで見ていない。

 嫌な予感がし、加具土は駆け出した。

起伏のある岩場のため、走りにくい。息を荒げながら、ヨミのもとへ走る。

あと三歩ほどで辿り着くと思った刹那、ヨミは身を乗り出した。その手が岩場の淵から離れる。

「――――!!」


以前見た滝壺までの長さは、この森にある杉の木と同じほどの高さだった。

杉の木は、見上げれば首が痛くなるほどの長さで、その高さから落ちたらただでは済まない。滝壺にも岩壁がせり出しており、掠っただけでも大怪我だ。

 ヨミの上半身が宙を舞う。白い衣の裾が翻った。

「ぐっ!!」

間一髪で、ヨミの左腕の衣を掴んだ加具土は、歯を食いしばって、自分も落ちないよう、体を岩場に擦りつけた。こういう時、右腕がないのは辛い。

「ヨミ、うごかないで・・・」

左腕だけで、人の全体重を支えるのは思ったより辛かった。言葉を絞り出すのにも細心の注意を払わなければならない。

 左手に力を込める。引っ張り上げようとするが、片腕だけではうまく力が入らない。このままでは、落ちてしまう。

「う、あぁっ!!」

声を上げ、どうにかヨミの右腕が岩場に届くくらいの距離まで持ち上げることができた。

「ヨミ、うで、のばして・・・!!はやく!おちちゃう!!」

必死に言い募るが、ヨミは動こうとしなかった。

「ヨミッ!!」

声が掠れる。持ち上げる左腕も痺れてきた。柔い衣を握りしめているため、いつ破れるか分からない。嫌な汗が掌からにじみ出る。

「・・・離せ」

その時、静かな声がヨミの口から漏れた。

「もう疲れた。離せ」

ヨミは首を捻り、加具土のほうを見ていた。その目は、全てを投げ捨て、諦めるような目をしていた。

助けたいと思っているのに、それを溝に捨てるようなヨミの態度に、沸々と怒りが込み上げてくる。声を荒げることのできる状況ではないため、自然、低く抑えた声になった。

「離せって何?死んでもいいっていうの?」

「あぁ」

淡々とヨミは答えた。そこに生きようとする意思は見えなかった。

「いやだ」

加具土はきっぱりと言い切った。

「あなたの事情なんて知らない。それに、犯罪者になりたくないもの」

自身の事は一端棚に置き、ヨミの死にたいという想いを逸らすために飄々と言い放つ。

しかし、表に出す表情とは裏腹に、加具土の頭はぐるぐると渦を巻き、焦りを覚えていた。

「罪悪感を持つ必要はない。死は俺にとっての救いだ」

そう言って、ヨミは加具土と向き合うように身体を反転させ、右腕を伸ばし、加具土の腕に爪をたてた。

「―――!!」

鈍い痛みに、一瞬手を緩めそうになるが、慌てて加具土は力を込める。

 後少し恐れければ、確実に落ちていたというのに、ヨミの目は変わらない。表情も動かなかった。

その様子に加具土の中で何かが弾けた。

「嘘つき!!本当は生きたいくせに!!」

そう。本当に死にたければ、誰もいないところでやればいいのだ。だが、ヨミは加具土の目の前で落ちた。

「死にたいなら、どうして私の目の前で落ちたの!?本当は生きたいからじゃないの!?止めてもらいたかったからじゃないの!!?」

どんな事情があれ、自ら死を選ぶなど、辛くとも生にしがみついていた加具土からすれば、許せるものではなかった。

 一瞬、驚いたように、ヨミの目が見開かれる。それは、加具土が初めて見る彼の表情だった。

しかし、それをなかったことにするかのように、すぐに仮面のような表情に戻る。それと反比例するかのように、加具土にたてる爪の力が強くなった。その痛みに耐えながら、加具土は離すまいと、さらに左手に力を込めた。

「だったら、最後まで足掻こうよ!!あなたが生きて、怒る人なんていないんだから!!もし、あなたが死んだら、私は悲しい!!!」

瞼の奥が熱い。加具土は込み上げてくる涙をこらえ、言った。

ヨミがどうして死を選ぼうとするのかは分からない。よほどの辛いことがあったのだろう。神殺し――母殺しをした自分が生きているのに対し、命を絶とうとするヨミがいる。それは、ひどく矛盾していた。

「あなたはここにいていいんだよっ!!生きてていいんだよっ!!!」

加具土は、ヨミにかつての自分を重ねていた。活杙の言葉がなければ、自分もヨミと同じようになっていたかもしれない。

 ヨミに生きる意志を取り戻させると同時に、自分に言い聞かせるように、加具土はありったけの想いを込めて叫んだ。

 

「ヨミ、お願い!!登って!!」

もう、手の感覚がほとんどない。加具土は必死の形相で叫ぶ。

 いくら言葉をかけようとも、ヨミの意思が生きるほうに傾いてくれなければ意味がない。

――生きてほしい。死なないでほしい。

祈るように。縋るように。ぶつけるように。加具土はヨミを見つめる。

それが通じたかのように、青白い瞳が、一瞬、さざなみのように揺れた。


――だめなのか。

瞳は揺らしたが、一向にヨミが動く気配がない。わずかに加具土の心に影が差す。

 その時、ヨミの右手がおずおずと岩場に向かった。

(よかった――!)

加具土の胸に、安堵と喜びが広がる。

 

しかし、それもつかの間だった。衣がヨミの重さに耐えきれず、ビリビリと音をたてて破れ始めたのだ。

衣は間髪入れずに端まで破れ、加具土が持つ切れ端だけを残して、ヨミが落ちる。

「――!!」

加具土は声にならない悲鳴を上げた。

「とっ!!」

刹那。灰色の衣に包まれた見知らぬ腕がヨミを掴んだ。その腕の持ち主は、蒲公英の花の色をした、明るい髪色の男だった。

「こ、のっ!!」

岩場の淵から上半身を乗り出し、男は苦しげな声を上げて、ヨミを持ち上げる。その腰には、縄が巻かれ、その縄は大きな岩に縛られ、固定されていた。

 加具土は茫然と男を見ていたが、ハッと我に返り、痺れる左腕に力を込めると、男の腰に腕を回し、ヨミを掴む男の体を引っ張った。



「はぁ、はぁっ、はぁっ」

ざぁざぁという水音とともに、二人分の荒い息が岩場に響く。

 無事、ヨミを岩場に引き上げたのは、日が沈みかけた頃だった。赤金あかがね色の夕日は木々から端を覗かせるのみで、すでに東の空には青黒い夕闇が迫っていた。

「・・・大丈夫か?」

少年のような高めの声で声をかけられ、息を整えて顔を上げれば、男の小麦色の瞳と目があった。

 灰色という暗めな色の衣を身に着けているせいか、髪と目の色が余計に映えて見える。

「は、はい・・・」

さっきの声はこの人だろうか。声は十代の少年のような高めの声だが、見た目は成人した男性のそれだ。その落差にヨミの時以上に戸惑っていると、男がにこりと微笑んだ。

「よかった。そっちは・・・、大丈夫そうだな」

加具土に微笑んだ後、黙ったまま、岩場に座り込んでいるヨミの方を向いた男は、安堵の息を吐く。

「さて」

男はそう言って、腰に巻いた縄をほどいた。

「日が暮れる前に帰らないと。活杙いくぐいが心配しているぞ」

そう言いながら、立ち上がり、縄をくるくると巻きながら、岩に固定していた結び目を外す。

 男は縄を巻きなおすと、岩場の奥に放られた麻袋に入れた。

「えっ、どうして活杙さんのことを?」

知り合いだろうか。加具土が首を傾げていると、男は振り返った。背中に流した蒲公英色の髪が揺れる。

「あぁ。そういえば名乗ってなかったな。おれは角杙つぬぐいという。君たちのことは活杙から手紙で聞いている」

「あなたが・・・!」

驚きつつも、加具土は頭を下げた。

「あの、助けてくださってありがとうございました!あなたがいなかったら、どうなっていたか!」

角杙がいなければ、今頃ヨミは滝壺に真っ逆さまだっただろう。思い出すだけで、青ざめ、背筋が凍る。

「いや、君が彼を離さなかったおかげだ。それに、引っ張り上げるのも君に手伝ってもらってしまっていたからな。礼を言うのはおれの方だろう」

顔を上げれば、静かな眼差しで角杙が加具土を見る。

「いえ、そんな・・・」

逆に気遣われ、加具土は戸惑う。思わず、目線が下に下がり、左手にヨミの白い衣の切れ端を握っていることに気付いた。もう、これを持っていても意味はないと、加具土は切れ端を捨てようとするが、がっちりと握り込んだ拳は容易に開いてくれない。

「あ、あれ?どうして?」

右手があれば、右の指でこじ開けることもできるが、加具土にそれはできない。開け、開けと念じるように左の拳を見つめ、動かそうとするがいつまで経っても指が開かない。

「う~」

唇を引き結び、拳を睨みつめる。それでも開かないので、刺激を与えて開こうと、岩に向かって振り下ろそうとするが、それを角杙に止められた。

「待った。そんな乱暴に扱うもんじゃない。君の大切な手だろう」

角杙は、振り上げられたその手を下ろすと、加具土と向かい合い、握りしめた左手に触れ、ゆっくりと開かせていく。

角杙の手は日だまりのように温かく、自分の手がいかに冷えているかを感じさせた。

「はい、開いた」

静かに角杙の手が離れていく。

左手は無事に開き、衣の切れ端が風に乗って、森のどこかへ飛んでいった。

ずいぶん強く握りしめていたためか、掌に爪の跡が生々しく残っていた。


「さぁ、家に帰ろう。活杙が待ってる」

角杙が加具土の肩を優しく叩いた。

「・・・はい」

加具土は頷く。

「ヨミ、君もだ」

角杙が、滝の方を見つめ、動かないヨミにも声をかける。ヨミはピクリと肩を動かしたかと思うと、ゆっくりと振り向いた。その星色の瞳は虚ろなものではなくなっていたが、戸惑いと困惑が見て取れた。



暗くなる前に森を出るという角杙の言葉通りにはいかなかった。

森を抜け、活杙と暮らす家に帰ってきたのは、完全に日が沈み、一番星が輝く時だった。

煙が昇る茅葺屋根の家の前で、提灯の灯りが行ったり来たりしている。活杙いくぐいだと加具土が気付いた時、角杙が叫んだ。

「戻ったぞ!!」

角杙の声に、提灯に照らされた、活杙の不安そうな顔が一気に華やぐ。

「よかった!!いつまでも帰ってこないから心配したのよ!!」

活杙は提灯を地面に置き、勢いよく駆け寄ると、加具土とヨミを抱きしめた。

金木犀のほのかな甘い香りと、温かなぬくもりが加具土を包んだ。

――帰ってこられたのだ。無事に。ヨミと一緒に。

ヨミが助かったことは素直によかったといえたが、加具土の緊張は、なかなか解けなかった。けれど、家に着き、活杙の顔を見たことで、それがほろほろと溶けていくのを感じた。

――あぁ、よかった。本当に、よかった・・・。

無事にヨミを助けられたこと。

家に帰れたこと。

安堵と恐怖、そして、時折頭をもたげる、今もなお話していない自身の過去。それに対する罪悪感。

様々な感情が胸に迫り、加具土の目に、涙となって溢れ出す。

「ふっ、うっ・・・!」

「どうしたの、加具土?どこか痛いの?」

急に泣き出したことに驚いたのか、活杙が心配そうに声をかける。

 返事をしようと口を開くが、名を呼ばれたことで、加具土の涙腺は決壊した。

「うあぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

星の瞬く夜空に、加具土の泣き声が響いていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ