第百三十四幕 ヨミ
活杙の看病のおかげで、数日で加具土の体力は回復した。
家の中を自由に歩き回れるほどにまで回復した頃、加具土は、活杙に自身の火の性質を変えられる方法を尋ねた。
「お願いです。教えてください。私の性質を変える方法を」
向かい合わせに座る活杙に向かって、加具土は訴えた。
活杙は神妙な顔で加具土を見る。
「変えるといっても、火そのものを変えることはできないわ。それは、あなたの魂の力でもあるから。その火が消えるということは、あなたの死を意味する」
「そんな・・・。じゃぁ、どうすれば・・・」
途方に暮れる加具土に、活杙は続けた。
「火そのものを変えることはできなくても、傷つけるというその一点を変えればいいわ。例えば、あなたの火に触れれば『傷が癒える』というようなね」
「そんなことができるんですか?」
「私達は神だもの。その言霊は強い力を持つ。発する言葉に強い意志を込めれば、できないことはないわ。ただ・・・」
活杙は、一度言葉を切る。
「魂の力を微量とはいえ変えるということは、とてつもない痛みが伴うわ。おそらく、相当な時間がかかるでしょう。代償として、何かを失くす可能性もある。危険な事に変わりはないわ。・・・いつ終わるかわからないその作業をあなたは続けられる?」
心配そうに微かに眉をよせ、活杙は加具土を見つめた。
「・・・・・・・」
加具土は、失った右腕に触れる。この右腕のように、また何かを失くすのかもしれない。けれど、それでも。
――思い出す。火に巻かれ、泣き叫ぶ人を、動物を、妖を。
それを消すことすらできず、ただ見ていることしかできなかった自分を。
――あんな思いはもう二度としたくない。
「やります。もう二度と誰かを傷つけたくないから」
「・・・・そう」
強く告げれば、活杙は小さく息をついた。何を言っても聞かないだろうという意思の強さをみてついたものか、加具土の意思に感じ入ったものなのかは分からなかった。
「わかったわ。準備をするから少し待っていて」
活杙は立ち上がり、部屋を出て行った。
しばらくして、活杙は部屋に戻ってきた。その手には火のついていない松明が握られている。
「儀式は、ここから少し離れた洞窟でやるわ。ついてきて」
活杙の背中を追い、加具土は家を出た。
家の前は、加具土が数日前に倒れていた荒野が広がっていたが、裏口は、緑の木々が生い茂る森だった。その森の入り口で、活杙が一端止まる。
「少し待っていて。この森に結界を張るから」
そう言うと、活杙は右の掌を森に向けた。
『この地は何者にも害されず、何物にも侵されない。何者にも支配されず、何物にも損なわれることはない』
刹那、森の周囲に青白い透明の膜が張られる。活杙は息をつくと、加具土を振り返った。
「これで大丈夫。あなたが無意識に力を使っても、この森は燃えないわ」
加具土は目を見開く。これなら、儀式をしている間、火がついてしまわないか不安に思わなくて済む。
「ありがとうございます・・・!」
にこりと笑った活杙は、先を促した。
「さぁ、森の中に入るわよ。洞窟までは、かなり距離があるわ。足場が悪いところもあるから注意してね」
「はい」
加具土は力強く頷き、先導する活杙についていった。
目的地である洞窟は、活杙は言っていた通り、かなり遠い場所にあった。
初めは、平坦な道を進んでいたが、しばらくして、獣道らしい藪に覆われた道を通り始めた。その道が途切れたと思えば、澄みきった水がちろちろと流れる浅瀬を渡り、渡り終えれば、切り立った崖に張り巡らされた蔓を頼りに細い山道を歩いた。山道を抜け終えると、丈は低いが、鋭い笹の葉が茂っているために足元がよく見えない道なき道を進んだ。
その先を抜け、ようやく象牙色の岩に覆われた洞窟が見えた。
洞窟の入り口は、加具土の身長をゆうに超える高さがあった。一歩足を踏み入れれば、水の滴る音が聞こえ、踏みしめた地面は湿気で濡れていた。
活杙が松明の火を灯す。熱気が加具土の頬に当たった。
「かなり湿っているけれど、ここは聖域なの。あなたに力を貸してくれるわ」
「はい・・・」
「儀式はこの先で行うわ。ぬかるんでいるから気を付けて進んでね」
「わかりました」
足元に気を付け、活杙の灯す松明の火を目にしながら、加具土は歩を進めた。
歩き始めてしばらく経った頃、一つの大きな空間に出た。
松明の灯りでも届かないほど奥は広く、その天井は、刃のように尖った石の先端がいくつもせり出しており、そこから水が垂れている。足元は土ではなく、ごつごつとした岩に変わっており、天井から滴る水が岩に当たって軽やかな音をたてていた。
その中央には、人が五人ほど座れそうな、滑らかで平らな岩が鎮座していた。
活杙は、そこへ足をかけ、登ると、端のほうに松明を置いた。何かの術がかけられているのか、松明の火は弱まることなく、赤々と岩と活杙を照らしている。
活杙が膝を折り座った向かい側に、加具土も座る。
活杙の張りつめた表情が松明の光に照らされ、加具土にも緊張が走る。自然と背筋が伸びた。
「今から言霊を教えるわ。どんな火にするかはあなたが決めなさい」
加具土は神妙な顔で頷き、頭を下げた。
「色々とありがとうございます」
顔を上げれば、活杙は表情を変えることなく首を振った。
「まだよ。大変なのは、これからだわ」
活杙の口にした通り、大変なのはこの後だった。
魂の力を変える言霊を活杙から教わった加具土は、自身の火の性質を『浄化、癒しの火』に変えることに決めた。
しかし、言霊を発するたびに、生爪を一枚一枚剥されるような、全身の皮膚を一枚一枚剥ぎ取られるような、耐えがたい痛みに襲われた。
あまりの痛さに最初は気絶することも多かった。けれど、やめようとは思わなかった。
加具土が、不安にも恐怖にも縛られることなく生きるために必要だったからだ。
活杙は心配し、共にいてくれたが、彼女がいると頼ってしまいそうになり、大丈夫だと言って、一人で行うことを選んだ。
それに、痛みで泣き叫び、涙でぐしゃぐしゃの顔を見られるのは恥ずかしく、それを見られないで済むと思うと少しほっとした。
家から洞窟までは遠いので、加具土は自身の性質が変わる時まで、洞窟で過ごすことにした。比較的乾いた岩場で寝床をつくり、食事は、森にある木の実や川にいる魚を食べようと思っていたが、活杙は駄目だと首を振り、食事くらいはこっちで用意すると、わざわざ遠い道のりを歩き、朝食と夕食を洞窟の前に置いていってくれた。
活杙に感謝しつつ、痛みに耐えながら、加具土は儀式をやり続けた。
――それから一年の月日が過ぎた。
「加具土!これから暁月村に薬を届けに行ってくるわ!家のこと、お願いね!」
「はーい!」
暁月村は、活杙のお得意様だ。森や山に生えている薬草を薬にし、村に住む人々に配っている。薬を配る代わりに、活杙は村人から細々とした日用品や食物を分けてもらっていた。また、医術師としても活動しており、無料で診察や赤子の取り上げをすることもあった。
物干しから取り込んだ洗濯物を畳んでいた手を止め、返事をすれば、ガタガタと戸を開けて、活杙が出かけていったのが分かった。
「・・・さて」
洗濯物を畳み終えた加具土は、何をしようか考える。そういえば、薪用の木がたりなくなっていた。森に行って補充をしなければ。
一人頷き、加具土は森へ行く準備をするために納屋へ向かった。鍬や鋤、斧などの農具のなかに、橇を見つけ、引っ張り出す。木の束をまとめて運ぶには便利なのだ。
それから、木を束ねるための麻の紐を首にかけ、準備を終える。橇を外に出し、納屋の戸を閉めた。
「よし!」
日が暮れないうちに出かけよう。加具土は、空を見る。
雲一つない快晴だが、森の中では木々が生い茂っていて、空がほとんど見えない。気づけば夕暮れということもある。
橇を引っ張り、加具土は森の中へ入っていった。
森の中は、緑の濃い匂いが漂っていた。空は見えにくいが、木々の合間から日の光が差しこんでいるため、比較的明るい。ヒヨドリがピーヨと鳴く声や、ピピピ、チュイチュイと鳴くミソサザイの声が聞こえ、にぎやかだった。日差しは当たらないが、ぽかぽかと温かい陽気だった。
(もう春なんだ・・・)
深く呼吸をしながら、加具土は橇を引っ張る。辺りを見回し、残った右の目で、薪になる木がないか探し始めた。
儀式を行い、加具土の火は、無事浄化の力を持った。しかし、代償はあった。左目が見えなくなってしまったのだ。
片目だけ残っただけましなのかもしれないが、視界は狭まる。最初の頃は距離感が分からずに、食器を掴めず、戸にぶつかることも多かった。今は慣れ、両目があった頃と同じように動くことができる。けれど、見える範囲が限られるので、熊や狼などの野生動物、崖などの危険な場所には余計に注意しなければならなかった。また、薪用の木や薬草を探すときには、顔を何度も動かし、右目を皿のようにして周りを見なければならない。
それが不便といえば不便だった。
加具土は、薪となる木を探す。冬に落ちた枯枝が残っていないかと、足元を見るが、一向に見当たらない。
倒木があれば楽なのだが、もしなければ、細い枝をいくつも集めるか、木を倒さなければならない。
木を倒すには斧がいり、人手も必要だが、加具土にはそのどちらもない。片腕で、斧も持たない彼女がどうやって木を倒すのかと言えば、自身の火を使うのだ。
浄化の力をもった加具土の火は、物に燃え移っても消し炭になることはなくなった。加具土が強く望めばできないこともない。だが、そうすることはしなかった。
加具土が火を使うのは、主に薪の木を切る時だけだ。
火は切り倒したい木だけを焼き切った。そして、切株となった木は、数日も経たないうちに小さな芽を出し、一カ月もすれば、小さな若木が切株の部分に生えた。
木の異常な成長速度に加具土が驚いていると、おそらく浄化の火の名残が木の育成を助けているのだろうと、活杙は話してくれた。
「助かるわ。行商してる旦那が帰ってくるまでは、村で薪を分けてもらっていたの」
活杙には夫がいた。名を角杙と言い、自分で育てた苗木を葦原の各地に赴き、売る仕事をしている。何日かに一遍は、近況の手紙を送ってくれるそうだ。
活杙でも木を割り、薪をつくることはできるが、男手がないため、木を倒すことはできない。村でも薪は貴重で、少ないなかから分けてもらうのに心苦しさを感じていたが、加具土のおかげで助かったと活杙は笑った。
役に立っていることに嬉しさを感じながら、加具土は余所者である自分がここにいていいのか迷っていた。
片腕と片目しか使えない生活にも慣れた。もうこれ以上世話になるのは申し訳がたたない。そう思って、『ここを出ていく。今まで世話になった』と切り出せば、活杙は目を瞬かせた。
「え?別にここにいていいのよ?あなたはもう家族みないなものなんだから」
「でも・・・。旦那さんと二人で暮らしている家にお邪魔しているのは迷惑ではないでしょうか」
すると、活杙は口をぽかんと開け、まじまじと加具土を見た。すると、体を折り曲げ、身をよじるようにして笑い出した。
「あははははっ!!あなた、そんなことを考えていたの?」
「あ、はい・・・」
笑われてしまい、戸惑いながらも頷けば、活杙は目に浮かんだ涙を指先で拭いながら、加具土に言った。
「気にしなくていいのに。私としては大歓迎よ。話し相手ができて楽しいもの。困る理由はないわ」
「でも、旦那さんは・・・」
自分の留守中に知らない人間がいたら驚くのではないだろうか。そう思っていると、活杙は明るい声で告げた。
「あぁ。角杙のことなら気にしなくていいわ。手紙にあなたの事を書いたから。一緒に暮らしていいかって聞いたら、おれの承諾がなくてもそのつもりだろうって」
「・・・・・・」
それは、加具土が『ここにいてもいい』と言われていることに等しかった。
何とも言えない顔をしていると、活杙が一転して真剣な表情を浮かべた。
「あなたに帰る場所があるなら、無理にとはいわないけれど。でも、私も角杙もあなたを歓迎しているわ。・・・あなたはここにいていいのよ」
そう言って、加具土の肩に手を置いた。労わるように肩を優しく撫でられ、加具土は、思わずきつく目を閉じていた。
無意識とはいえ母を殺し、父を、多くの人間を、動物を、妖を傷つけた。そして、もうこれ以上、誰も傷つけないために一人になり、旅を始めた。
たとえ、火の性質が変わっても、自分は一生独りだと思っていた。『ここにいていい』と言ってくれる人がいるとは思わなかった。
(私は・・・)
嬉しかった。父に自分の子ではないと否定され、姉弟の輪から外され、多くの者を傷つけた。そのことが、まるで生きてはいけないと告げられているようで苦しく、辛かった。けれど、生まれた以上生きたいと、反発するようにここまで歩いてきた。
だが、加具土は気づく。本当は誰かに『ここにいていい』と言ってもらいたかったことを。生きていてもいいのだと言ってもらいたかったことを。
「ふっ・・・」
閉じた瞼から涙がぽろぽろと溢れ出す。左腕で拭うが、止まらない。
「ひっ、くっ、うっ・・・!!」
しゃくりあげながらも、涙を止めようと奮闘する。しかし、止まる気配はなく、ただ衣に涙が浸み込み、冷たく濡れただけだった。
その時、ふわり、と甘く優しい香りが加具土の鼻をくすぐった。
(これ、金木犀・・・)
この香りを纏っている人物は、一人しかいない。活杙だ。
腕の上から顔を上げれば、活杙が加具土を抱きしめていた。
「よく頑張ったわね、加具土。いい子、いい子」
そう言って、活杙は、加具土の頭をまるで幼子にするかのように撫でた。
一端、止まっていた涙が再び溢れる。ぼろぼろと音をたてるようにそれは流れ、活杙の衣に浸み込んでいった。
その仕草が、言葉が、まるで母にほめられたようで、加具土の胸はいっぱいになった。
実の母を殺した自分に、活杙を母に重ねて見ることはいけないことなのかもしれない。
けれど、今だけは許して欲しい。
加具土は、左の指先で活杙の衣の裾を掴む。
――このぬくもりを、かけられた言葉を。
ただ黙って突き放すことは、今の加具土にはできなかった。
ひとしきり泣いた後、加具土は、一晩考えさせてほしいと活杙に告げた。
そして、月明かりの射しこむ己の部屋で、敷物の上に正座をし、悶々としながら、考えに考えた。
結果、活杙の家に留まることを決意した。
活杙と別れ、再び一人になった時のことを考えると、胸に穴が空くようだったし、何より、誰かと一緒にいるという心地よさが加具土を離さなかった。要は、寂しいと感じたのだ。
だが、ここにいると決めた以上、自分の過去―母を殺したこと、父や姉弟から見捨てられたこと―を話さなければならないと思った。けれど、怖かった。
話して、同じように見捨てられたら。親しみのもてる温かい目から冷たい目に変わってしまったら。そう思うと、震えるほど恐ろしかった。
最終的にここに留まる決意はしたが、過去を話すことは保留にした。いつか言えるときに言おう。そう思った。
胸の中に、引き攣れたような痛みを感じながら、加具土は朝を迎えた。
翌朝、あれだけ渋っていたのに、一晩で切り替わってしまった自分の考えに申し訳なさを感じながら、ここに留まることを恐る恐る告げると、活杙が抱き着いてきた。
「よかった!これからもよろしくね!」
「・・・はい」
まるで自分の事のように嬉しそうに笑う活杙に、加具土は、表情を綻ばせて笑った。胸の痛みを感じながら。
こうして、加具土は家族として、活杙の家で暮らすことになった。
「う~ん、ないなぁ・・・」
下草を覗き込み、藪や茂みが密集した場所まで足を運ぶが、薪になりそうな木は見つからなかった。こうなったら、木を切るしかないか。加具土がそう思った時だった。
ガサガサッ。
何かが茂みを分け入るような音が聞こえた。日陰に生えた、青々と茂る草が木の間から揺れるのが見える。
「・・・・っ!」
熊か、狼か。はたまた狐か。
音のした方に右目を集中させる。なにが来てもいいように、加具土は身構えた。
だが、加具土の予想に反し、現れたのは、自身と年が同じくらいの一人の少年だった。
顔は俯いていてよく分からない。ただ、華奢な体つきから零れる荒い吐息はかなり低い。
射干玉色の髪を長く伸ばし、首筋の辺りを紅の結い紐で括っている。衣は白かったが、ところどころ土か何かで茶色に汚れていた。
「え・・・」
今まで森の中で人間にあったことはなかったため、加具土はひどく驚いた。そのため、彼の様子が常と違うことに気付くのが遅れた。
少年は、ふらりと体を揺らしたかと思うと、そのまま横向きに倒れ込んだ。
「わっ!」
頭から倒れ込む体勢だったため、加具土は慌てて少年に駆け寄った。
「大丈夫!?」
声をかけるか、少年は目を閉じたまま動かなかった。首筋に手を当て、脈を確かめる。
確実に打っている脈に、加具土は安堵の息を吐いた。
全体に目をやれば、衣から出ている手や足は傷だらけで、顔にも切り傷がついていた。それに、異様に肌が白い。褐色の自分の肌はともかく、村の子らでもここまで白くはない。まるで病人か、一度も日の光を浴びていないような色だった。
一瞬だけ、村の子供が迷い込んだのかと思ったが、着ている衣が上等だ。そっと触れてみれば、柔らかく、肌触りがいい。暁月村の祝言に活杙と訪れた際、花嫁の衣装に使われていた絹を思い起こさせる感触だ。この辺りの村の子供が簡単に身に着けられるものではない。
傷はそう深くはないように見えた。だが、このまま消毒もせず放置しておけば、化膿して病を引き起こす可能性がある。
幸い、薬草は残っている。このくらいの傷なら足りないということはないだろう。
加具土は、左腕で意識のない少年を持ち上げると、引っ張ってきた橇に乗せた。
乗せるまでに、少年の体が腕から滑り落ちたり、橇に上手く乗せられなかったりと四苦八苦したが、どうにか乗せることができた。終えることには、加具土は汗にまみれ、荒く息を吐いていた。
だが、これで終わりではない。森の奥でないとはいえ、ここから家までは大分ある。どうにか日暮れまでに着けるといいが。
かくして、薪用の木ではなく、少年を拾ってしまった加具土は、少年の体を橇に括り付けて動かないようにし、引っ張る紐を肩に食い込ませながら、歩を進めた。
少年を乗せた橇を引っ張りながら、家に着いたのは、空に夕焼けが迫る頃だった。
「加具土、いったいどこに行ってたの!?」
おそらく外の様子を窺っていたのだろう、村から帰っていた活杙が駆け寄ってきた。
「心配かけてごめんなさい。薪を取りにいこうとしたら、この子に会ったの。そしたら、急に倒れて・・・」
活杙に謝りながら、橇にくくりつけた少年に視線を向ける。遅くなった理由がわかったのだろう。活杙はそれ以上何も言わず、少年から紐を外すと、抱き上げた。
「この子の治療は私がするから、あなたは橇を片付けて、汗を流してきなさい」
「え、でも・・・」
二人でやった方が早いのでは。そう思い、躊躇うが、活杙は「もう」とでもいうように目を怒らせた。
「泥も草もついた衣で患者に触れるなんて、余計に傷を悪化させるわ。さ、さっぱりして着替えなさい。後は私がやるから」
厳しく医術師としての言葉をかけた後、活杙は、ほっとした表情を浮かべ、加具土に諭すように言った。子を思う母の言葉に、加具土は頷く。
「うん・・・」
家に向かう活杙の背を見つめながら、加具土は橇を納屋にしまうと、同じように家の中に入った。少年のことを気にかけながら、着替えの衣を手に取り、湯殿へ向かった。
さっぱりとして戻った加具土は、少年と活杙がいるだろう居間へ足を向けた。
居間に足を踏み入れると、行灯に照らされた部屋の中央に、手足に包帯を巻かれ、抹茶色の衣に着替えさせられた少年が布団をかけられ、眠っていた。括られていた髪はほどかれ、まるで黒い川のように敷物の上に流れている。結い紐は少年の頭の上に置かれていた。
加具土から見て右側に、膝をついて活杙が座っていた。その瞳は、異変を見逃すまいとしっかりと眠っている少年に向けられている。
「活杙さん」
小声で声をかければ、活杙が気づいて顔を上げた。
「戻ったのね」
「はい」
頷き、活杙のそばに寄ると、加具土は、ぴくりともしない少年の顔を覘き込んだ。
「彼の具合いはどうですか?」
「切り傷は浅いものだったわ。ただ、体中に打撲の跡がたくさんあったわ。大きな痣もあったし、かなりの人数に殴られたみたいね」
「そんな・・・」
自分と同じ年くらいの少年が、どうして大勢の人間に殴られなければならないのだろう。それは、いったいどんな状況なのだろう。
加具土は胸が締め付けられた。
「おそらく、この子は『九泉』の子だわ」
「九泉?」
聞き慣れない単語に加具土は首を傾げる。
「この葦原にある地下の国のことよ。入り口はどこにでもあるらしいけれど、出口は九泉の人の案内なしには辿り着けないらしいわ。彼らは、暗闇でも光る石と苔の下で暮らし、石造りのそれはすばらしい家々に住んでいて、空や陽の光を知らず、青く輝く石と白く輝く苔の光しか知らないとか」
そんな国があるとは知らなかった。長く生きていても知らないものはあるのだと加具土は思った。
「でも、どうして、この子がその『九泉』の出身だとわかったんですか?」
見た目だけでは、国の出身など分からない。着ている衣は高級そうだったが、それくらいだ。
「倒れたってきいて、頭の様子も気になってね。一応、眼球の方をみたんだけど。虹彩、目の色がね、きれいな星の色をしていたの。九泉の人達は星の、青白い色の瞳をしているって聞いたことがあるから。それだろうって」
「へぇ。活杙さんは物知りですね」
感嘆したように言えば、活杙はいたずらが見つかった子供のように、舌をぺろりと出した。
「全部、角杙の受け売りなんだけどね。何回か九泉の人に会ったことがあるって言っていたから」
「そうなんですか・・・」
旅をしていたといっても、加具土は人との接触を避け、隠れるように移動していた。今のような状態になっていれば、角杙のように見知らぬ誰かと出会うことができていたかもしれない。
「う・・・・」
そんな感傷めいたことを考えていると、少年が呻き声を上げた。
目が覚めたのだろうか。
顔を覘き込み、様子を窺う。すると、少年の目がうっすらと開いた。焦点を合わせるためか何度か瞬きをし始める。しばらくして、意識がはっきりしてきたのか、少年の目に光が入り、瞼がしっかりと上がった。
活杙が言った、星色――青白い色の瞳が姿を現す。濃くも淡くもないその色は、行灯の光を受け、金色に輝いて見えた。
「きれい・・・」
思わず口走る。はっとした時には、少年が目を細め、じっと加具土を見ていた。
見透かされそうなその瞳の力強さに、加具土がぐっと唇を結んでいると、活杙が少年に優しく声をかけた。
「気が付いたのね。大丈夫?痛いところはない?」
少年の目線が活杙に向く。視線が逸れたことに、加具土は安堵の息を吐いた。
少年は包帯が巻かれた右腕を持ち上げると、確かめるように何度も手を握っては緩め、握っては緩めることを繰り返す。
「・・・あぁ。問題ない」
その言い方は、低音のせいもあったが、子供らしくないものだった。
「私は活杙。この子は加具土よ。あなたが倒れていたのをここまで運んでくれたの」
活杙が名を告げ、加具土を紹介する。
すると、再び少年の視線が加具土の方を向いた。加具土の肩がぴくりと跳ねる。
「こ、こんにちは・・・」
目が覚めてよかったね、傷は大丈夫?などの言葉が頭の中を巡っていたが、口にでたのはありふれた挨拶だった。脈絡のない言葉を吐いてしまい、思わず加具土の耳が熱くなる。
「あら、緊張してるの?まぁ、綺麗な顔をしているから分からないでもないけど。ふふっ、加具土も女の子なのね」
「い、活杙さん!」
確かに、少年の顔は整っていて美しいが、加具土が気になっているのは、彼の目だった。
その青白く、透明な瞳に見据えられれば、活杙にも話していない過去や、それを隠して生きている自分の汚さを見抜かれそうで怖かった。
そんな気持ちを押し殺し、からかうような表情を見せる活杙を加具土は軽く睨む。
「怖い顔しないの。せっかくのかわいい顔が台無しよ?」
「活杙さんっ!」
気にする風もなく、むしろ冗長するような雰囲気に、思わず加具土は声を荒げた。無性に顔が熱い。
「はいはい。まぁ、からかうのはこの辺にして」
楽しげな雰囲気からがらりと変わり、活杙は真剣な眼差しを少年に向けた。
「あなたの名前を聞いてもいいかしら?」
少年は、活杙と加具土の会話を聞いていても表情ひとつ変えなかった。まるで、自分の取り巻く状況を見極めているかのようだった。
「ヨミ。俺の名前はヨミだ」
細面の女性的な顔立ちからは、あまり想像できない低い声が、少年――ヨミの口から零れた。