第百三十一幕 鈿女
「殺せっ!!」
「その女を殺せぇっ!!」
透き通った青空の下、憎しみと恨みの声を上げ、群衆が叫ぶ。
しばらくして、彼らの前に、一人の女が現れた。
その恰好は、服というより、服のきれをいくつも貼り付けたような布を被っているかのようで、それが広がらないよう腰に締めているものは、帯でなく麻縄だ。
女の髪は櫛も通していないほど荒れ、頬はこけ、手足は骸骨のように痩せていた。目は虚ろで、足取りもふらふらとおぼつかない。
女が現れたことで、群衆の声はさらに大きくなった。
そこへ、いかめしい銀の鎧を纏った二人の男が現れる。男の一人が女を膝まづかせ、もう一人は女の横に立った。
すると、豪奢な服を身にまとった妙齢の女が現れた。彼女が何事かを口にすると、群衆がさらに声を上げる。
「殺せ、殺せ、殺せ、殺せ!!」
「血染めの巫子を殺せ!!」
「我らを戦に巻き込んだその女を殺せ!!」
「あの人を返して!!」
「あの子を返せ!!」
(――あぁ)
群衆たちの怒号を聞きながら、女――鈿女は細々と息を吐いた。
(これで終わる。全てが――)
横に立つ鎧の男の手には、よく研がれ、磨かれた斧が握られていた。
(もう誰も殺さなくていい。無理に笑顔をつくらなくていい。――もう苦しまなくていい)
怒り、憎しみ、悲しみの声が雨のように降り注ぐ。それを発する群衆の顔は、憎悪と悲哀で歪んでいた。
そのなかに見知った顔が覗くのが見え、鈿女は目を開く。
(――皐月)
それは、十歳ほどの幼い少女だった。皐月は、薄汚れた橙の袷の裾から伸びた両足を大きく開け、今にも飛び出さんばかりの様相だった。
顔を顰め、今にも泣き出しそうな顔で、鈿女の方を睨みつけるように見つめている。
自分をひどく慕っていた彼女は、早く大きくなって共に戦うのだと息巻いていた。皐月の人生を台無しにしてしまいかねないと危惧していたが、もうそれを心配する必要はない。彼女は彼女自身の人生を生きることができるのだ。
(皐月、泣かないで。悲しまなくていいの。私は、もう十分生きたから)
満たされた気持ちで目を閉じようとしたその時、皐月の横に立っている人物を目にして、鈿女は驚愕した。声を上げそうになるのを寸でのところで耐える。
(どうしてっ!?なぜ、ここにっ!!)
その人物は鼠色の布を被っており、その容貌は判然としない。だが、その背格好と、山から吹き降ろす夏の風に似た、力強く澄んだ氣は間違えようもない。
(蒼月・・・!)
更沂の人間であり、猿田彦である彼が、いくら顔は知られてないといえ、敵国のど真ん中にいるなど正気の沙汰ではない。それに、鈿女は、この国――故郷である辰都のために戦い、死ぬと告げ、更沂に来てほしいという彼の誘いを断った。
蒼月がここにいる意味などないはず。
(どうしてここに来たの?)
故郷のために殉じる愚かな女を笑いにきたのか。多くの人間を殺した大罪人を見下しにきたのか。
――いや。彼がそんな事をするはずがない。
敵国の、しかも更沂だけでなく多くの人間を手にかけた女を迎え入れようとする人間を鈿女は他に知らない。お人よしで甘い人間。そんな事ではいつか誰かに騙されてしまうだろう。
そんな彼の性質を鼻で笑いながら、けれど、心の奥底で、彼なら赦してくれるかもしれないと期待をし、そして、自分を赦してもいいのではないかという想いを抱いた。
怖かった。自分は赦されてはならない。だが、蒼月と接していると、巫子としてでも、罪人としてでもない、だたの女になってしまう。・・・普通の娘として生きたいと願ってしまう。
――満たされている。もう十分生きた。そう思っているのに、心の奥が疼き、叫ぶ。
生きたい、と。
自身の犯した罪に苛まれながら生きる人生は、苦しいばかりのものになると分かっているのに、それでも生きたいと思ってしまう。
(――あぁ、そうか)
蒼月の姿を目にし、鈿女は自分の奥底に眠る本当の感情に気が付いた。
目の奥が熱い。唇を噛み締め、鈿女は涙が溢れそうになるのを必死に堪える。
(私は、――死にたくないのか)
知りたくなかった。気づきたくなかった。今、この瞬間に。
兵士の一人が鈿女の頭を下げさせる。ぱたぱたと、瞼にたまった涙が音をたてて地面に落ちた。
鈿女の横に立った兵士が斧を振り下ろす。
ヒュンッ。
その風圧を感じた刹那、鈿女の意識は闇に沈んだ。